原題は『Snaring the other Tiger』
大分前に読んだ本だが、良い機会なのであらすじを紹介しておく。
オーストラリアは第25軍司令官であったマレーの虎山下奉文の首を欲した。しかしこれはマッカーサーに奪われた。そこに現れたのが、山下の下で近衛師団長として戦っていた西村琢磨であった。罪状はパリットスロンでの捕虜虐殺事件。オーストラリアの新聞は彼を、山下の「首席補佐官」、「一番の腹心」と書いて、その不足感を埋め合わせようとした。もう一匹の虎(the other Tiger)である。しかし著者は二・二六事件まで遡り、二人が対立的関係にあったことまできちんと調査している。西村は第25軍の他の二人の師団長、松井太久郎、牟田口廉也と同期であったが、二人がそれぞれ支那派遣軍総参謀長、ビルマの軍司令官に栄転したのに対し、彼だけが予備役に編入された。第25軍参謀だった辻政信は、その著作の中で近衛師団と西村を酷評している。その辻も山下に「こすい男」と書かれているが。
パリットスロンでは100名以上のオーストラリア軍捕虜が殺害された。生き残ったハックニーは、その後改めて日本軍の捕虜となり、終戦間際に、同じチャンギーにいた一人の英国人に自分の体験を伝えた。その人物こそシリル・ワイルド少佐であった。ハックニーに拠れば、虐殺は、自動車で通りかかった高位の軍人が何事か指示を出して、立ち去った後に行われたという。戦後、日本の戦犯捜査を任されたワイルドは、この事件を重視した。山下に接見する機会を得た彼は、この事件について訪ねた。山下は、この事件を知らなかったが、そのようなことを実行した人間を強く非難するといい、事件は、当時その辺りに居た近衛師団が起こした可能性が高いと指摘した。そして師団長だった西村の名前を日本語で書き、かれを取り調べることに同意した。山下の話を聞いたワイルドは、ハックニーの見た高位の軍人が西村である可能性が高いとする意見を書いた。しかしワイルドはその後、余りの仕事量から、事件をオーストラリア当局に預けた。オーストラリアの調査チームが、チャンギーにいる西村の写真を手に入れ、本国に送ったのは1946年2月のことであった。この写真をハックニーが確認すれば、この事件は解決する。彼らはそう信じて疑わなかった。しかし写真を見せられたハックニーは当惑した。彼が見たのは「背の低いずんぐりとした」軍人であった。しかし西村は、当時の日本人の水準では長身で、また太ってもいなかった。
「ハックニー中尉は西村を確認できなかった」
この連絡がシンガポールの調査当局に届くのと相前後して、もう一つの悪い知らせが舞い込んだ。ワイルド少佐の乗った飛行機が香港で墜落したのだ。日本語に堪能で、山下・パーシヴァル会談では通訳を務めたワイルドは、捕虜生活を通して、その日本語能力を駆使して多くの同僚を救ったことで知られる。日本側も彼を「眠らない背の高い男」と呼んで一目置いていた。
その後、西村はシンガポールでの華僑虐殺の被告として裁判を受けた。ワイルドはこの事件で、当時第25軍参謀であった杉田一次が、重要な役割を果たしていたことを突き止めていた。山下・パーシヴァル会談で日本側の通訳を務めた杉田は、ワイルドの復讐リストの上から2番目に位置する人物であった。逮捕されチャンギーに移送された杉田は、英軍の日本軍俘虜に対する待遇の酷さに抗議して自決を試みるが、一命を取り止めてしまう。しかし彼はワイルドの死で、この事件から開放された。結局西村以下、裁判を受けた7人の中に参謀の姿は無かった。5人の判事のうち4人までは、西村は死刑と主張したが、最も若い1人の判事が無期を主張して抵抗した。英国の裁判では、死刑を言い渡すときは判事全員の一致が必要とされたため、結局西村は無期徒刑となり、チャンギーに送り返された。そして彼はそのままそこで、釈放を待つはずだった。
続く
ソ連や中国共産党が戦犯を処刑しなかったなどという話は、綜合的に見れば寝言以外の何物でもないわけだが、それはそれとして、今回は別の話。三日目は日曜日で休廷であった。山形少佐はほかの収監者とともに、朝食をすませた直後、やってきた護衛兵に連行される。少佐としては、その後の裁判の打ち合わせでもあろうかと思っていたらしい、元気に出かけていった。夕刻になって、収監者たちが並んで便所に連れて行かれるときであった。二列縦隊になり、まさに行進しようとしたとき、玄関前の広場にとまっていた一台の囚人自動車の中から
「山形参謀、銃殺!」
というすさまじい絶叫が聞こえた。聞きおぼえのある声であった。自動車はそのまま遠ざかって行く。一同は便所に入って用を足しながら語り合い、”車の隙間からわれわれの隊列を認めた山形少佐が、自分にくだされた判決と処刑のことを私どもに伝えようとした血の絶叫だ”という結論に達したという。どこでどのように処刑されたのか、その後、山形少佐の姿を見た者はだれもいない。
岩川隆『孤島の土となるとも』 第七章 ソ連裁判ーハバロフスク裁判より
肩から縄をぶら下げた参謀という人種は、特に我が帝国陸軍を語る上では欠くべからざる人々である。時には指揮官以上の役割を果たすことともあった。しかし戦後に行われた戦犯裁判では、意外に影が薄い。特に刑死者は少ない。綿密に調べたわけではないが、陸軍に於いて、参謀時代の責任を問われて処刑された人は10人いないんじゃないだろうか?今、わかる範囲でいうと
- 平野少佐・・・第147師団参謀。終戦の日8月15日に起こった英国搭乗員処刑の罪で香港にて銃殺。
- 馬杉中佐・・・第46師団参謀。チャンギーで絞首刑。
- 甲村中佐・・・独混第57旅団参謀。パレンバンに降下した挺進第2聯隊長。モロタイで銃殺。
- 上原中佐・・・遺書に依れば藤兵団参謀長。藤兵団というのは第39師団(通称・藤)ではなく、バタンガスで暴れまわった藤重大佐(後に少将)の偽装兵団を指す。マニラで聯隊長共々絞首刑。
- 田沢中佐・・・チャンギーで絞首刑。遺書に「参謀として働き」とある。
- 鏑木少将・・・第34軍参謀長時代に起こった漢口での米軍搭乗員殺害事件の責任者として上海で絞首刑。この事件では軍命令で、部下に殺害を命じた憲兵分隊長が、「全責任を負」うと書いて自決したが、結局軍参謀長の他に、実行者の憲兵准尉らが絞首刑となった(軍司令官佐野中将は戦中に病死)。鏑木少将は次のような遺書を残している。
漢口米軍俘虜惨虐事件に就ては当時呂武集団参謀長たりし小官の不注意の為予期外の事態を惹起し聖戦の意義に汚点を印し軍の名誉を損じ加ふるに多数の将兵に重刑者を出すに至りし段真に申し訳なくて謹で御詫び申上候。殊に上官の命令の儘行動し重刑に処せられたる下士官兵の上を思へば断腸の至りに御座候。本日公判にて死刑の宣告を受くるに臨み謹て御詫び申上且つ従前の御懇情を深謝仕候。
これだけである。
大佐にとっての痛恨事は、部下から死刑囚を出したことであった。熊本出身の少尉は、捕虜にしたフィリピン人を殺害したという罪で、カンルバン収容所で絞首刑となった。命令したのは尾家大佐であった。
巣鴨に移送された後、尾家は「私は部下の責任をとってやれなかった」と同房の人に述懐している。絞首刑台にのぼる前、少尉は刑場にはりめぐらされた金網にしがみつき、はなれた房にいる隊長よ聞け、とばかりに絶叫した。
「隊長殿ッ、助けてください。私は隊長殿の命令にしたがったまでではないですか。どうして私が死刑にならないといけないんですが。なぜです、なぜなんですか!お願いですッ。助けて!隊長殿、助けてください」
彼は、恥も外聞もなく泣いて叫び、金網から手をはなそうとしなかった。
五人の兵隊が彼をかかえこんで、網にからみついた指をとこうとしたがとけず、指を切断して死刑階段をのぼらせたといわれている。
尾家は、そのことをわきまえている。
そういって尾家は刑場へ向かうバスへ乗った。刑場への途上、隣に座った花山は尾家が居眠りをしているのに気付き驚いた。「まさか」、あるいは陸軍大佐としての名利を得んがための擬態ではないか、そう思って軽くゆすったが、彼はゆれるに任せて寝息を立てている。バスが刑場に近付いたので、今度ははっきりと揺すぶって起こした。「死することは帰するがごとしですなあ」
刑場の手前で、差し出された教誨師の手を固く握り返し、尾家大佐はしっかりとした足取りで刑場に入っていった。巣鴨で唯一の銃殺刑であった。「ねむられていましたね」
「はあ」
彼は、自分でも意外だったというように、あいまいにうなずいて、それから念仏をとなえはじめていた。
巣鴨の初代教誨師花山信勝が主人公。これは色々な事情が重なってのことだが、花山師という人は、決して人気のある(評判の良い)人ではない。”巣鴨の父”という呼び名は師ではなく、二代目教誨師の田嶋隆純師に冠される。しかし著者・小林氏の花山師を見つめる視線はあくまで暖かい。氏の著作『逃亡』は以前紹介したが、暖かさに通じるものがある。
花山は真宗本願寺派宗林寺に生まれた。四高から東京帝大文学部印度哲学科に進み、更に大学院も出ている。その後帝大講師、助教授を経て、教誨師への就任要請を受けたときは教授となっていた。あいだに欧州を巡ったりもしており、語学力やキリスト教への理解もあった。根っからの学究であり、その学究臭さにあまり有り難味を感じないと思っていた被告もいた。しかしそれを言うなら田嶋師もソルボンヌ大学で文学博士を取得した現職大学教授である。
乱暴に言えば花山の説教は「安心して死になさい」というものだ。そして著者が示すように、師の説教で心安らかに処刑された人は何人もいる。ただやはり戦犯達は、基本的に自分たちに罪があるとは思っていないため、こういう説教の仕方は受けが悪い。心の安らぎを得た被告は結局処刑されてしまうわけだから、師への悪評だけが後に残る。この姿勢は特に、当時巣鴨で大きな影響力を持っていた岡田資中将と相容れなかった。
マスコミの問題もあった。巣鴨を一歩出ればマスコミが彼を取り巻く。そして彼の言葉の一部だけを取り上げて醜い記事を書く。これが廻りまわって巣鴨の住人に知れる。教誨師を辞めた後、本を出版し、これがベストセラーとなった。またアメリカに講演に行き人気を博した。こういったことも、残された人々からすれば面白いはずはない。何より後任の田嶋隆純という人が、花山と違いすぎた。
教誨師への就任依頼を受けたとき、田嶋はとても自分には務まらないと断ろうとした。しかしそれでは困るという若い米軍中尉に負け、一度試験的に講話をすることを引き受けた。
被告たちを前にした田嶋は、思わず次のように語りながら涙を流した。「シャット・アップ(黙れ)!!」
まるで飼犬を叱るような鋭い声。ハッと私は胸を突かれた。
一瞬しーんと静まった階上に、カラコロと下駄の音が聞こえ出した。十数人でもあろうか。頭上に近づき、次でカタヽとすぐ傍の階段を降りて来る。
一人、また一人、―降り口で会釈の目礼をかわすどの顔も、堅く結んで白蝋のように蒼白く透きとおっている。
田嶋隆純『わがいのち果てる日に』より
絶対に「懺悔しなさい」とは言わない。文字通り被告と共に苦しみ共に泣く田嶋の姿勢と比べれば、花山の態度はどこか一段上から見下ろすようなものに感じられる。また田嶋は就任と同時に熱心な助命嘆願運動を開始したが、これも花山はやらなかったことだ。この助命嘆願運動に対して、巣鴨の死刑囚を代表し岡田中将から田嶋に礼状が贈られているが、その中で岡田は、前任花山が助命嘆願に不熱心だったことを書いている。岡田の『毒箭』には更に、花山時代に自分宛に出されていたものが、田嶋師に代わってからやっと手元に届いたというようなことまで書かれている。仮に之が事実だとしても、花山が差し止めていたというようなことは無いと思うが、岡田の花山への感情を現している。「私は仏の慈悲に溢れて、その熱情を皆様にお伝えし得るが如き者ではありません。私のできることといえば、たゞ皆様と共に仏道を修業させて戴く、それ以外に何のお役にも立ち得ない人間であります」
「若し皆さんに罪ありとするならば、その罪は私達も亦共に負うべきものです」
「わがいのち果てる日に」の大部分は死刑囚の遺書で占められ、”わがいのち”の”わが”というのは彼等自身を指しているが、田嶋自身巣鴨で脳溢血で倒れ、それが元で昭和三十二年に亡くなっている。ちなみに花山は平成まで長命した。
この話はだらだら続く可能性有り

- 原田伴彦『日本史の人物像9 剣客列伝』筑摩書房
登場人物は塚原卜伝、上泉信綱、伊藤一刀斎、東郷重位、柳生十兵衛、宮本武蔵etc.私は幕末の千葉周作、斎藤弥九郎、男谷精一郎、桃井春蔵の話に惹かれて購入。 - 橋本昌樹『田原坂 西南役連作』中央公論社
著者は橋本虎之助中将の息。西南の役は『翔ぶが如く』くらいでしか知らないし、中々読み易そうだったので購入。 - 今西栄造『昭和陸軍派閥抗争史 101人の政治的軍人』伝統と現代社
大分前に読んでいる本だし、格別読み直したいとも思わなかったが、安かったのでつい捕獲。 - 桑島節郎『満州武装移民』教育社
- フォン・メレンティン『ドイツ戦車軍団 上下』朝日ソノラマ
- ジェームズ・テーラー『ナチス第三帝国事典』三交社
これが一番高かった。Wikiよりは役立つだろうと期待。 - ヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最期の12日間』岩波書店
類似本が何冊かあったが、一番新しいこれを選んだ。 - 清瀬一郎『秘録東京裁判』中公文庫
- 笹川良一『巣鴨日記』中央公論社
- 小宮山登『畑俊六 巣鴨日記 米内内閣崩潰の真因』日本文化連合会
今ちょうど戦犯裁判について色々読み直しているのでその流れで購入。 - 『文藝春秋臨時増刊 三代特ダネ読本』
巻頭グラビアはふんどし姿の乃木大将。朴烈・金子文子の写真も。 - 『特集文藝春秋 日本陸海軍の総決算』
陸海将軍の座談会など収録。 - 『中央公論 歴史と人物 昭和四十五年』
福田恒存「乃木将軍は軍神か愚将か」など収録。 - 『中央公論 歴史と人物 昭和四十六年九月』
- 『中央公論 歴史と人物 昭和五十三年五月』
特集日本海軍事件秘史。花井清「秋山真之と花井卓蔵の激論」、船坂弘「遠藤中佐の決意と最期」など収録。 - 『中央公論 増刊歴史と人物 秘録太平洋戦争 昭和五十七年』
川島威伸「鈴木敬司大佐の活躍」、山下實六「川口支隊長の精神鑑定」、春山和典「”軍神”南郷兄弟の生と死」、黛治夫「戦艦無用思想を批判する」、服部雄三「五原の捨石」、朝枝繁春「大本営参謀の極秘終戦指導方策(案)」など収録。 - 『諸君! 昭和五十八年九月』
田中正明「”南京虐殺”の松井石根の陣中日誌」など収録。 - 『中央公論 歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い 昭和六十年』
参謀本部の各課の在籍者がその課の業務と活動を綴っているのが面白い。 - 『中央公論 歴史と人物 日本陸海軍の戦歴 昭和六十一年』
特集・関東軍四十年の風雪、林三郎「戦時下の陸軍中央部」など収録。

光市事件の影響で鵜沢総明の伝記を読んだが、これが瓢箪から駒。鵜沢博士といえば相沢三郎の弁護に立ち、東京裁判では弁護団長を務めた人。これだけを見たらちょっと皇道がかったお爺くらいに思えるが、どうしてどうして。その弁護士人生は中々味がある。
鵜沢は幼名を惣市をいったが、惣市が12歳のとき、父が無実の罪で入獄した。しかし惣市の父は、決して罪を認めず、過酷な未決囚の生活に耐え、3年半後に無実で出獄した。この辺りの話は、『寄生木』の小笠原善平の父親とそっくりであるが、当時はよくあった話なのだろうか。惣市は父の入獄のお陰で進学を諦め、高小を卒業すると母校の先生になった。しかしその才能を惜しんだ校長の斡旋で、太田和斎という人の塾に通えるようになった。
父が出獄すると、惣市は東京に遊学に出た。このとき弁護士になりたいと父に言ったら、父は「弁護士になるなら、無実の罪で監獄に入っている者の心で、法律を修めるがよい」と言って、許可してくれた。東京遊学1年で一高にパスすると、病気で1年延期するもこれを卒業し東京帝大独法に進んだ。このとき名前を総明に改めている。また一高在学中に植村正久に出会い、クリスチャンになっている。
卒業後、帝大の恩師レンホルム教授の法律事務所で働き始めるが、自分の保証人でもあり、父の弁護人でもあった長谷川深造(長谷川時雨の父)が東京市参事会員の涜職事件に関与したため、独立してこれの弁護に当たった。このときの弁護は「非公吏論」というもので、この弁論を聞いた星亨は「本当の弁護論だ」といって賞賛した。
その後も日比谷焼討ち事件、幸徳秋水の大逆事件、岩下清周事件、朝鮮総督暗殺未遂事件、京都ブタ箱事件、虎ノ門事件、北九州事件、松島遊廓事件、佐郷屋留雄事件、帝人事件、尾崎行雄の不敬事件など多くの事件で弁護人を務めた。
衆議院議員としては政友会に属し、原敬や西園寺公望の信頼厚かった。しかし、朝鮮に関する制令はすべて法律案によらず緊急勅令で律しようとする勅令三二四号には烈火のごとく怒った。原との対談ではこれを千古の悪法と断じ、六法全書を机に叩きつけて議論したため、六法の綴じが割れてばらばらになったという。新米の癖に党議に逆らうものは除名してしまえと院外団が殺気立ったが、朝鮮人の人権の根本に関する問題であるとして断固反対を貫いた。穂積陳重これを聞いて鵜沢に次のような手紙を出している。
貴兄は固く法律家の節操を守り 毅然として不動 ついに堂々たる大政党をして反省せしむるに至り 学者の面目を全うせられ候趣
小生はこれを聞いて欣然雀躍致候事にござ候






