近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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日本に亡命してきた孫文は中華革命党を結成した。しかしその、孫文個人に忠誠を誓わせる規約に反発した黄興らが離脱。黄興は渡米した。離脱組は後に欧事研究会を結成する。

一方第二革命を圧殺した袁世凱は、宋教仁暗殺の関係者を口封じに次々殺し、大総統選挙法を制定すると、正式に大総統に就任、国民党を解散させた。更に国会を解散させ、国務院を廃止すると、総統府に政事堂と統率弁事処を設け、自ら政治と軍事を総攬した。そして革命には参加しなかったものの要注意人物である雲南都督蔡鍔、湖北都督黎元洪を呼び寄せ、警戒した。

日本はというと、袁で治まっているのだからそれでいいという現状維持派と、欧米の影響の強い袁を打倒して日本の権益を確保せよという反袁派が入り乱れており、袁打倒を標榜する勢力も孫文ら南方勢力に肩入れする一派や、北方の宗社党に肩入れする一派で混沌としていた。ちなみに北一輝はこのころ譚人鳳を連れて大隈重信と会談するなどしている。当時大隈の秘書をしていた永井柳太郎との関係このときから始まる。

第二革命の最中、兗州、漢口、南京で日本人が北軍により暴行殺害される事件が相次ぎ、対支強硬論が沸騰。外務政務局長阿部守太郎が刺殺された。犯人の一人は自決、もう一人も逮捕され、共謀したとして岩田愛之助も自首してきた。岩田の背後には内田良平ら大陸積極進出派の右翼勢力がいた。そんな中フランツフェルディナンドの暗殺から第一次世界大戦が勃発。これを好機と見た大隈内閣加藤高明外相は、懸案事項を一気に片付けようと、いわゆる対支二十一か条要求を袁世凱に突きつけた。これを受けて支那世論は排日一色となり、同時に反袁気分も高まった。結局袁は日本の最後通牒を受けて、これを飲むが、この最後通牒は袁の要請を受けてのものとの説もある。とにかく5月9日は国恥記念日となった。

日本との交渉が妥結すると、袁の帝位を望む動きは加速した。民国4年8月、陽度らによって籌安会が結成され、参政院が国体変更の請願書を提出、段芝貴らが全国請願連合会を結成した。12月11日、参政院が袁を皇帝に推挙、翌日彼はこれを承け即位を宣言、元号を洪憲とした。

袁の即位宣言から約10日後、かねてより梁啓超と帝制反対について密談を重ねていた蔡鍔が雲南に入り、雲南省の独立を通電、唐継尭、李烈鈞と護国軍を組織し、挙兵した。

この帝制にはアメリカ人顧問グッドノーや英国公使ジョーダンも賛成であった。しかし日本政府はこれに賛同せず、袁側の必死の工作も実らず、帝制延期勧告を突きつけてきた。

しかし何より袁にとって痛かったのは、段祺瑞、馮国璋の二大宿将がこの帝制に消極的であったことであった。陸軍総長であった段は、統率弁事処の設置によって自らの権力がそがれたことを不快として隠棲し、袁とは疎遠になっていた。一方の馮国璋の方にも、梁啓超が接触しており、護国軍に同情的であるとされた。この二人のサボタージュを前に、袁の護国軍討伐はうまくいかず、結局民国5年3月22日、袁は帝制の取り消しを発表した。

国務総理に就いた段祺瑞は、護国軍との和平にあたる一方で、袁を退位させ自ら大総統に就任すべく、運動を始めた。馮国璋も、張勲らを誘って南京会議を開き、八ヵ条の和平条件を提案して、護国軍との交渉の主導権を握ろうと策動した。しかし二人の跡目争いの決着がつく前に、袁世凱は急死してしまう。結局約法通り黎元洪が後任の大総統に就任、段、馮も渋々それを承認した。

北が袁の帝制を承けて執筆を開始した支那革命外史は、帝制崩壊後の4月に完成した。




1911(明治44)年12月、北はすず子と結婚した。北29歳、すず子28歳、勿論自由恋愛の末であった。

3月10日袁世凱の臨時大総統就任と同時に、南京の参議院で制定された臨時約法五十六条が公布された。これこそが宋教仁が袁の力を抑えるために作り上げた法であった。かつて宋は孫文の元で内務総長に就任することが決まっていた。しかしこれは参議院の強烈な反対で反故となり、法制院総裁に収まったという経緯があった。それにも関わらず、総長大公使などの任命に参議院の承認が必要とするという同法案を起草しつつあることに訝った北が尋ねると、宋答えて曰く「統一後今日の形成を以ってせば袁或いは大総統たるべし。吾党議会によりて彼を拘束すべきのみ」。彼の遠謀や思うべしである。

3月30日唐紹儀内閣が発足し、宋は農林総長に任命された。唐内閣の最初の仕事は英米仏独の4カ国に日露を加えた6カ国からの借款を取り決めることであった。これを聞いた北は猛然と反対の意を宋に伝えた。宋は北京に飛んで借款無用論を主張し、世論も借款無用に傾いた。北と宋は以前にも、孫文と日本の間で結ばれた秘密借款を潰したことがあった。この混乱で唐は辞任し、後任に陸微祥が就任した。

8月、旧同盟会を中心に国民党が結成され理事長に孫文、理事に黄興、宋教仁、王寵恵らが就任した。袁派の黎元洪らは共和党を結成し、これに対抗した。翌1913(民国2)年2月、初めての総選挙が行われ、衆参両院で国民党が圧勝した。宋の目論見は的中した。袁は妥協的な孫よりこの若き不屈の革命家を恐れた。そしてお得意の手に出る。

民国2年3月20日午後10時、上海北の停車場に銃声が響いた。北京に向かうため汽車を待ちながら、黄興、于右任らと談笑していた宋教仁が倒れた。2日後の朝、32歳の若き革命家は逝った。北は痛憤して言う。「ああ天人倶に許さざるの此大悪業よ。・・・彼は滝の如く滴る血潮を抑えて于右任君の首を抱き遺言して曰く。南北統一は余の素志なり。諸友必ず小故を以って相争ひ国家を誤ること勿れと。一宋の死は革党の脳髄を砕きたる者なりき。黄は棺を抱き腸を絞りて泣けり。譚は後れ来たりて獅子吼したり。天下騒然

宋の葬儀は盛大な国民党葬となった。棺を担ぐ中心には北の姿があった。沿道で見送る北夫人の前で、葬列は5分間歩みを止めた。生前の北と宋の関係に敬意を表したものであろう。

陳其美の捜査で下手人武士英は袁世凱の腹心趙秉鈞総理の命を受けた内務部秘書洪述祖のとつながっていたことが明らかになった。しかし北は独自の見解を持った。袁は従犯にすぎず、真の主犯は革命の同志陳其美であり、其の後ろで糸を引いたのが孫文だというのだ。彼に言わせれば、外国からの借款を拒んだ宋は、選挙によって絶対多数を取った余勢を駆って大総統選挙に臨み、そこで黎元洪を推し、自分はその下で黎を傀儡として縦横に腕を振るうつもりだったという。袁・孫を排したこの計画が、両陣営を刺激し、暗殺につながったと信じる北は「一の従犯袁は北京より弔電を致せり。他の大いなる其れは最も大なる花輪を送れり。悲しめる黄は唯進退に迷ひ、怒れる譚は武力解決の外なしとしたり」と怒る。

確かに宋と孫は行き方を異にしていたが、革命への志では変わるところはなかった。この北の考えは黄興すら受け入れられず、面会を謝絶される。いよいよ怒った北は、宋暗殺の”真相”を暴露しようとして遂に、向こう3年間の退清命令を受ける。民国2年4月、北は追憶とともに悄然と中国を去った。「満洲馬賊運動より帰りし彼(宋)の始めて来訪せし7年前のこと。刑吏追尾され、時に一飯の食を分かちし窮時のこと。・・・武昌都督府の瑠璃窓に震ふ砲声を聞きつつ宿志遂行の欣快に寝物語せし抱寝のこと。砲弾落下の中を漕ぎて蒼白の顔を見合わせながら弾丸は中らずと豪語せし若さのこと。同時声を合わせて生きていたかと相抱きし南京城外の嬉しかりしこと。横死の前日議論を上下して相争いし後悔のこと。白きベッドに横たわりし死顔のこと。主犯者が空涙を浮かべつつ是れ宋先生の親友なりとして未知の弔者に不肖を事々しく紹介せし挙動の不審千万なりしこと。黄興于右任君等の腸を絞るが如き泣声の耳を離れざりしこと。そうろうとして棺車を引きし思い無量の長途なること。霊前に別を告げんとして至るや、讐を報ずるの日を待てと思うと共にハラハラと落涙せし昨日のこと」。北が想い出すのは宋のことばかりである。

さて宋が死に北が去った後、袁世凱は国会の承認を得ずに、日英独仏露の5カ国と2500万ポンドの借款を結び、それを使って革命派の切り崩しにかかった。怒った国民党が反袁運動を始めると、待ってましたとばかりに袁は国民党出身の三都督李烈鈞(江西)、柏文蔚(安徽)、胡漢民(広東)を罷免した。

民国2年7月12日、まず江西の李烈鈞が独立を宣言した。第二革命の始まりである。7月15日黄興の指導の下に江蘇都督程徳全が、18日広東の陳烱明がそれぞれ決起し、安徽の柏文蔚、福建の許崇智、上海の陳其美らも続いた。日本からも李烈鈞の要請で山中峯太郎が参加した。しかし北はこれを冷笑的に見ていた。実際たいした準備もなく始まったこの決起は2ヶ月足らずで制圧され、孫文以下革命派は続々と日本に亡命してきた。山中も、江西奥地に取り残された林虎を助けるために偽の林虎になって帰国した。

東京の北の元にも多くの亡命客が訪れるようになった。譚人鳳は息子夫妻を連れてやってきた。若き張群も親しく往来した一人であった。張は北の二弟晶作について日本語を学び、一旦帰国すると妻を連れて再来日した。そして自らは陸士に入校し、妻は長崎の女学校に入れた。譚の息子弐式の妻が長崎において男児を生んだ。弐式が後に殺されると、譚はこの遺児を北夫妻に託した。これが北大輝である。数奇な運命をたどった大輝は終戦後の8月19日、奇しくも義父の命日に上海で病死した。その遺骨は5年後の昭和25年、張群の胸に抱かれて故国へ帰るのであるが、これはまた別の話。





日本にいた革命諸派は、日露戦争に刺激を受けて、大同団結した。それが中国革命同盟会である。内訳を見ると、孫逸仙の興中会、宋教仁・黄興の華興会、蔡元培の光復会であり、変法派の康有為らは参加しなかった。北の加盟と同時期、「革命方略」が孫逸仙、黄興らの手によって完成した。同盟会に入った北は、内田良平の黒龍会とも関わりを持つようになった。翌明治40年夏、北は張継に連れられて来訪した宋教仁と会う。同年の二人は肝胆相照らす仲となった。ちなみにこの頃多くの若者が日本の陸士に留学しているが、これはトルコ革命にヒントを得た宋教仁が同志を説き勧めたことによると伝えられている。

この頃の北は貧乏のどん底であった。共に沈没するのを恐れた弟吉は、北と離れて暮らすようになった。北は萱野の紹介で黒沢次郎の食客となった。どこへ行っても主人面をするこの人物は、11歳年長の黒沢を「お父さん」と呼びながらも、どちらが主人かわからぬ態度でこの家に住み着いてしまった。それだけでなく、黒沢の所蔵品を勝手に売りさばいたりしていた。しかし二人の交情は北が処刑されるまで変わることはなかった。

大陸においては、孫逸仙、黄興らによる運動が次々に失敗していた。孫逸仙四天王の汪兆銘は摂政王を暗殺しようとして失敗し投獄された。黄興、胡漢民らによって革命化された広東新軍の蜂起も、偶発事件から計画が狂い失敗に終わった。黄興指導の下両広総督衙門を襲撃した黄花岡事件も多くの犠牲者を出しただけであった。一方、清朝も西大后が死に袁世凱が一旦引っ込み、力を弱めていた。

明治43年、北は幸徳秋水との関係より、大逆事件に連座して取調べを受ける。宋教仁は革命準備のため帰国した。帰国前、内田、北らと会談した宋は「挙兵の際には電報を打つから、極力援助を願う」と助力を依頼してきた。内田はこれを快諾。

譚人鳳は長江革命の主唱者であり、同盟会中部総会を結成して、武漢の新軍の革命化に努めていた。1911年10月9日、蜂起のために密造中の爆弾が爆発したため、官憲は革命派の根拠を襲い、武器弾薬、党員名簿を押収した。追い詰められた革命派は、翌10日、武昌城内において蜂起。これが辛亥革命の第一革命である。湖広総督、第八鎮統制官は身をもって脱出した。しかしこのとき武昌には孫逸仙は勿論、黄興、宋教仁、譚人鳳といった指導的人物がいなかった。困った蔡済民ら下士官は、自分も襲われると思って逃げ回る第二十一混成協統領官黎元洪を説得して統領に押した。

宋からの電報を受けた内田は、直ちに客分であった北を上海に派遣した。上海に着いた北は「漢口きてくれ」という宋の置手紙を見て、すぐ漢口に急行した。漢口には黄興、譚人鳳らも既に着いており、革命軍は武漢を完全に制圧していた。黎元洪が湖北都督になったが、北は譚人鳳に総統として黎の上に立つ事を望んだ。しかし譚は尻込み。宋教仁もまた黄興に臨時軍政府を組織する必要性を説いたが、黄は一戦して功を建てた後にすべしと首肯せず。二人とも分かっていないと、北と宋は嘆きあった。

この兵変に驚いた清朝は仕方なく袁世凱を湖広総督に任じた。しかし袁は勿体をつけて中々腰を上げず、ここぞとばかりに次々と要求を突きつけた。内閣総理大臣に任ぜられた彼は、表むき再三之を固辞する通電をなしながら入京、市民の大歓迎を受けて、総理大臣に就任した。

武漢において黎元洪と馮国璋との攻防が続く間に湖南を先駆とした殆どすべての各省が独立を宣言。上海も陳其美の手によって落ちた。11月16日、各省の代表が会議し、臨時政府の首都を武昌に、黎元洪を大都督とすることを決定した。12月2日、張勲の固守していた南京が落ちると、改めて南京を首都とし、大総統選挙を孫逸仙帰国まで遷延し、代わりに大元帥をたてて大総統の職務を代行させることとなった。この大元帥というネーミングは北によるもので、北は黄興を大元帥にしようとしたが、またしても彼は尻込みし、結局黎元洪が大元帥、黄興が副元帥となった。

年末孫逸仙が帰国すると、大総統選挙が行われた。17票中16票が孫に投じられた。譚人鳳だけは黄興が止めるのも聞かず黄興に投票した。北はこの国際的で現実主義的な年上の革命家が大嫌いであった。「憐れむべし偉大なる故友(宋教仁)は其擁立せんとするもの(黄興)の変心によりて一切の計画を破壊せられ独り南京諸将軍の手に残されたり」と書いている。しかしその宋も、張継の説得によって南京を出て孫の政府に参加した。孫と結ぶことについて北に諒解を求める宋に対し、北は呉越同舟だなと皮肉って、宋を怒らせている。

一方で清朝と革命政府の間では12月5日より英国公使の仲介による停戦が続いていた。袁世凱は唐紹儀を代表として送り、上海において革命軍代表伍廷芳との間で和睦会談を行わせる一方、主戦派の勇将馮国璋を禁衛軍総統として前線より引き戻し、代わりに策士段祺瑞を第一軍総統として革命軍にあたらせた。袁は当初立憲君主制を考えていた。革命軍派は当然共和制を求めた。しかし一方で革命派は、清朝打倒と共和制実現の暁には袁を大総統にという好餌で袁を引き込もうとした。この会談は協和に反対する馮国璋、段祺瑞、段芝貴、張勲、曹錕ら主戦論者によって一旦は破談となり、袁もまた皇室に対し多額の軍資金を要求したが、これはポーズであった。両派の間で合意がなった。袁は共和制に強硬に反対する宗社党の良弼を暗殺し、それとともに先頃強硬に共和制に反対していた47将が連名で共和の実行を上奏した。こうして2月12日遂に清朝は滅亡した。2月14日臨時大総統孫逸仙は辞任し、3月10日孫の推薦を受けた袁世凱が臨時大総統に、黎元洪が副総統に選ばれた。しかし袁は南京で就任することを要求する革命派に応ぜず北京に居座った。
大正年間における民間の革新勢力について触れるが、その前に、その中心人物たる北一輝の半生を軽く見ておく。

北輝次郎は明治16年佐渡に生まれた。軍人でいえば永田鉄山と同学年になる。生家は酒屋で父慶太郎は町長を務めていた。輝次郎には吉、晶作の二人の弟があり、兄弟みな学校の成績はよかったが、輝次郎だけはひ弱なところがあり、吉などはこの兄を、弱虫と馬鹿にしたところがあった。父も叔父の本間一松も自由民権が好きで、尾崎紅葉が佐渡に来るのを、尾崎行雄が来ると勘違いして、芸者を動員して迎えに行ったというエピソードもある。そういう環境で育っただけに、輝次郎も政治や思想に早くから興味を持ち、18歳で佐渡新聞に国体論についての連載を持った。一緒に寝ている二弟晶作が、兄が布団の中でブツブツ言うのを聞いていると、それが数日後の佐渡新聞に載った。しかしこの内容が不穏当ということで、連載は中止された。同郷の山本悌二郎(後の農林大臣、有田八郎の実兄)は、このころの輝次郎と会った印象を人に、「あの青年は恐ろしい。話を聞いていると何か魅入られるようで気味が悪かった」と語っている。山本は16歳も年上である。後に魔王と呼ばれるカリスマ性はこのころから抜群で、佐渡新聞の社長も主筆も、すっかりこの青年のファンであった。

23歳のとき、早稲田に入った吉の後を追うように上京、自らも早稲田の聴講生となった。そして翌年『国体論及び純正社会主義』を脱稿。発売禁止を恐れながら自費で出版したこの大著は、非常な反響を巻き起こした。吉は当時を振り返って「一日にして雷名を馳せた。バイロンがチャイルド・ハロルドを公にして"I awoke one morning, and found myself famous"といった概があった」と述べている。感激した河上肇は病床の輝次郎を態々訪ねた。矢野竜渓は「北輝次郎とは仮の名で、幸徳あたりの執筆ではないか、二十幾歳でこれだけの書をまとめあげる人はいないはずだ」というような内容の手紙を送ってきた。しかしやがて恐れていた発禁処分が下る。発禁と聞いた堺利彦が、私達の手で売りさばいてやろうと言ってきたので、百部だけ1円の値段で引き渡したが、手違いからこの金は北の元に届かなかった。「それから僕は主義者をますますきらいになった」とは、病気の兄に代わって本の処分を行っていた吉の述懐である。その後、分冊にして売り出したが、肝心の国体論の部分を出すことが出来ず、兄弟の生活はますます苦しかった。堺や幸徳の世話になりながら、早稲田に通っていた二弟晶作を、明治大学に転校させたりしている。

このころ晶作のフランス語の家庭教師をしていたのが大杉栄である。大杉は軍人を父に持ち、自らも名古屋幼年学校を出ている。叔父は日露戦争の万宝山でドカ負けを喰らった山田保永中将、山田の息子で憲兵司令官などを務めた山田良之助中将(5期)は従兄弟と、生粋の軍人家系であった。以上余談。

平民新聞にもう一つ馴染みきれなかった輝次郎に革命評論社の誘いがかかる。同人としては宮崎寅蔵、萱野長知、清藤幸七郎、平山周らがいた。弟を偵察に出した輝次郎は、その報告を聞いて心を動かされる。明治39年11月3日、遂に彼は革命評論社を訪れた。迎えた人々はこれを大歓迎し、宮崎などは輝次郎が小用に行くとき、態々便所の扉を開けてくれるというような待遇であった。鬱屈とした日々を送っていた輝次郎にとって、中国革命という新たに開かれた世界は魅力的であった。彼はまもなく革命評論社同人となり、中国革命同盟会に入会した。
田中の同期、山梨半造。彼もまた、兄貴分田中の後を追っての政界入りを望んでおり、政友会と政友本党の間を長い間ウロチョロしていた。頭脳綿密な上に政治も金も大好きの彼は、「英国式の二大政党を樹立するのだ」と政本合同に奔走していたが、遂に本党を見捨てたらしく、お土産持参での政友会入りを画策した。しかしそれがマスコミにばれた。政友本党も、党を撹乱したとして山半を糾弾する。

陸相宇垣は日記に、”世間が言うように、田中が山半の黒幕としているのなら、彼も案外知恵の無い人である”と書き、また”先輩が後輩の尻拭いをするのは当たり前だが、最近は後輩が先輩の尻拭いばかりしている”と嘆いた。同じころ、貴族院の大井成元が、”売名か本気か軍部攻撃か訳のわからぬ”陸軍大臣文官論をぶって、宇垣をいらつかせている。宇垣はこの先輩に対し”お前のような馬鹿は話にならぬ”という態度で反論を加えた。

しかしそんな宇垣を更に激昂させる演説が、与党憲政会の中野正剛によって行われた。機密費に関しての田中以下当時の陸軍省幹部に対する弾劾演説である。それではこの機密費問題とはどのようなものか?

発端はくだらない事件からである。大臣官房附の二等主計三瓶俊治が収賄の容疑で憲兵隊の取調べを受けた。そこで余罪を厳しく追及された三瓶は、陸軍省から機密費の一部である公債を持ち出したことを自供した。驚いた憲兵隊は、すぐに高級副官松木直亮に報告。ことの重大さから、取調べは中止され、三瓶は免官処分を受けただけで釈放された。ところが、これを嗅ぎ付けた一団があった。

在郷将官で構成される恢弘会という団体があった。会長は無派閥の一戸兵衛であったが、その下に立花小一郎福田雅太郎町田経宇、井戸川辰三、石光真臣といった反田中の将官がいた。さらに彼らの手先として小山秋作という大佐がいた。この小山が三瓶に接触してきた。何故か?

当時田中には一つの疑惑があった。彼は政友会総裁に就任するとき、多額の政治資金を手土産とした(当時の噂では300万円)。その金は神戸の高利貸し乾新兵衛から借りたものであったが、高利貸しの乾が無担保でそんな大金を貸すわけがない。田中は、公債を担保にその大金を借りたというのである。

三瓶の公債持ち出しを聞いて、恢弘会の面々はピンときた。田中が担保に差し出したという公債は、この陸軍省の機密費で購入した公債ではないか。小山に問い詰められて遂に三瓶は、機密費が陸相以下の個人名義でいくつかの口座に預金されていること、その金で公債も買われたこと、そして田中が担保に差し出したとされる公債は恐らくこの公債に違いないという推測まで喋った。

彼等に強要されて遂に三瓶は告発に踏み切った。被告は田中義一と山梨半造である。
・大正9年8月、告発人が陸軍省官房附となった当時、官房の金庫には800万円以上の預金証書があり、その名義は大臣田中義一、次官山梨半造、軍務局長菅野尚一、高級副官松木直亮となっていた。
・前期預金は逐次無記名国庫公債に切り換えられ、その購買には遠藤主計と告発人があたった。
・定期預金公及び公債には正規の帳簿を使わず、小さい手簿に記載するのみで、その手簿は松木が管理していた。
・山梨の後任尾野実信には、一切秘密にされた。
・菅野の後任畑英太郎名義の預金は無し。
・定期の利子は松木が個人名義で預金し、私用しており、彼はこれを「別途保管」と読んでいた。
・公債などは、告発人が松木より一寸持って来いと命ぜられて持参することもあったが、如何に処置されたかはまったく不明。

告発の内容は大体こんな感じであった。

菅野、松木はともに長州であり、は会津で宇垣の腹心。尾野は福岡で、上原系の人物であった。付け加えるなら、このとき軍事課長であったのが、佐賀の真崎甚三郎であり、彼はこの機密費の扱いに関して意見して、軍事課長を辞めさせられたといわれている。

同時に三瓶は覚書を発表。これには、問題の機密費はシベリア出兵の時の軍事費からくすねたものであり、第十四師団が押収した1千万ルーブル相当の金塊も、当時大臣であった山梨がどこかへ運び去ったということが書かれていた。これなどは単なる主計の三瓶が知りうる内容ではなく、実際は恢弘会の面々が書いたものである。

更に彼は変装して居場所を転々としながら、「国家のために真実を語って欲しい」と、遠藤主計正に公開状を送った。その中で目を引くのは、故児島惣次郎次官が、死の間際まで「秘密が三瓶の口から漏れたらわれわれは一大事だ」と語っていたという話だ。

恢弘会は立花、石光らの連名で田中処分の意見書を陸相に提出。前述中野が弾劾に使った情報は、これらから得たものであった。

しかし宇垣は、”今日の憲政会の態度は何のザマだ。戦うなら正々堂々来い。本能寺の敵に対して陸軍を巻き添えにせんとする態度は卑劣である”と激怒。翌日、若槻礼次郎に詰め寄った。若槻は驚いて、院内総務を参集し、会議の結果、会内不統一を宇垣に陳謝し、幹部以下を厳戒に処したことを告げた。中野も田中武雄を介して「町田経宇に誤られて失体を来たしたり」陳謝、宇垣も一応それを諒とした。

翌々日、宇垣は町田を呼びつけ、中野の演説や三瓶の告発を支援したかと問い詰めた。町田は極力これを否定したが、宇垣はその裏に彼らの活動の機微を察知したという。日記に”在郷者間清掃の機運は来たり”と書いている。更に数日後、今度は立花と会見し、中野に陸軍攻撃の材料を与えたかと詰問した。立花は、単に石光より意見書を受け取り一読したが無価値なものであるので、放擲していただけで、決して術策を弄したりはしていないと、責任を石光になすりつけた。

政友会を攻撃するつもりだった憲政会は、宇垣の思わぬ怒りを買い、その矛先は一気に鈍らせた。在郷の将官たちも、満身に精力溢れたるこの当時の宇垣には太刀打ちできなかった。宇垣がここまで怒ったのは、田中や山梨を助けるためではなく、この問題が陸軍に及び、その権威を傷つけるからであった。しかし勿論、宇垣自身次官として田中に仕えており、機密費に全くノータッチという訳ではないわけで、その辺のこともあるだろう。逆切れというか気迫勝ちである。

そんな中、告発人の三瓶が「懺悔録」を発表し、告発の内容はすべて嘘であると言い出し、世間を驚かせた。しかし彼は、内容は嘘であるが、告発は取り下げないとして、本門寺に逃げ込んだ。

中野の演説に怒った政友会が中野攻撃に持ち出したのが、後に中野自決の一因とされることもある「中野露探疑惑」である。しかしこれはあまりに荒唐無稽で、査問委員会も、”中野がロシアより金銭を収受して赤化宣伝をなしたという証拠はない”と完全に否定している。

検察では石田検事が精力的にこの事件について捜査していた。そんな折も折、松島遊郭事件と朴烈事件が起き、議会の関心はそちらへ移っていった。松島遊郭事件は、松島遊郭移転にあたって憲政会の箕浦勝人が多額の金銭を収受したというものであり、これも石田検事が担当した。

ところがその石田検事が、大正15年10月30日、東海道線蒲田大森間の線路で怪死した。当然捜査は他の検事に引き継がれ、結果、箕浦は無罪となり、田中の件も証拠不十分で不起訴となった。石田検事の死についてはこれを殺しと見る向きもあるようだが、どんなものか。

検察の最終意見は
・確かに山梨らの個人名義の口座はあるが、それらをよく調べてみると、次官、局長などの異動の時期と名義の変更の時期が一致しており、個人名義なれど個人の預金には非ず、官吏としてこれを保管しておること明白である。
・告発人が無いといっていた尾野、畑名義の口座もちゃんとあった。
・シベリア出兵の金塊に関しても証拠無し。
・告発人は田中が公債を担保に乾より金を借りたというが、調べてみてもそのような具体的証拠は無く、却って、田中乾間の折衝にあたり、田中を謝礼不払いの件で告発した佐藤繁吉、菅沼広助によれば、田中が乾より百数十万円を引き出したとき、公債を担保にするようなことは無かった。

と、このような感じであった。要するに、機密費を個人名義の預金にするというやり方は、代々陸軍省がやってきた手法であり、格別田中だけを問題にするにはあたらないということである(宇垣名義の口座も勿論あった)。

ちなみに田中が乾から借金するとき、保証人となったのは久原房之助であるとする説もある。いや無担保であるという人(殖田俊吉)もいるが、これは当の乾が、田中を見込んで貸したが無担保ではないとインタビューに答えている。いずれにせよ、当時の田中を知る人の一致した田中評は、彼が金銭に非常に清潔であったという点である。また無理をしなくてもかなりの金が自然に集まってきたともいう。

今も昔も政治家は表に出せない金が必要である。ただ田中の場合、借りた相手が有名な高利貸しであったことが、問題をより一層スキャンダラスなものにしたのではないだろうか。陸軍時代の機密費の使い途はともかく、政治資金に公債を流用したという点は恐らく白であろう。大体、多額の公債など持っているなら、態々目立つ乾からなど借りるのはおかしいだろう。ちなみに上原の腹心で恢弘会メンバーでもある井戸川は、田中を批判する牧野信顕に対して、「いやあれは陸軍が昔からやってきたことで」と言っている。反田中にして床次政権誕生を夢見て暗躍していたというこの将軍ですら、この態度なのである。機密費というのはやはり、派閥を問わず触れられたくない部分なのだろう。



本稿は宇垣日記、田崎末松『評伝田中義一』他を参考にした。



大正13年3月、宇垣陸相の元に、内野辰次郎(1期)から一通の手紙が届いた。要約すると

”先ごろ突然妙なお願いをしたこと、定めし驚かれたことでしょう。このたびは更に立ち入って小生の意見を開陳したいと思います。陸軍は元来非常に宣伝が下手で、宣伝機関さえ持ち合わせず、そのため、軍事の素人である尾崎犬養の輩に好き放題言われっぱなしです。しかし之に満足に反論することすらできません。小生は之を、ひとえに議会に軍人出身の議員が少ないことに起因すると考えます。軍は仙波(太郎)が通った通ったと喜んでいますが、彼一人ではどうにもなりません。もっと軍をあげて将軍連を議会に送り込む努力をすべきです。やる気のある将軍達もいることはいます。しかし、運動費に考えが及ぶと、みな鬱屈として出馬を取りやめざるを得ないしだいです。聞くところによれば、堀内(文次郎)、蜷川(?蟻川五郎作か)外一、二の将軍がこのたびの選挙に立候補を考えているとか。陸相は今こそ機密費を善用し、これらの将軍を議会に送り込む努力をすべきです。”

内野は蛮勇をもって知られる人物で、第七師団長を最後に現役を退いた予備役中将である。宇垣とは同期にあたる。彼が書くように、このころ陸軍出身の衆議院議員は、岐阜から出た仙波太郎や、奈良から出た津野田是重くらいのものであった。この手紙、このころの世相や軍人を取り巻く情況を現していてなかなか面白いと思う。

ちなみに先般のお願いというのは、内野自身の選挙費用の借用だったようだ。彼自身清浦内閣解散による今度の総選挙に出馬する意思を、このころほぼ固めており、そのために運動費として、五千から一万ほど欲しいと、宇垣に訴えていた。宇垣が出したかどうかは知らないが、内野はこの選挙で勝利し、以後4回連続で当選した。この選挙では外に、長岡外史町野武馬が当選した。

一方で、三顧の礼でもって政党入りした軍人もいる。田中義一である。三浦観樹の斡旋で、清浦超然内閣に反抗する形でできた護憲三派の連携は、横田千之助の急逝を契機に崩れ始めた。政友会総裁高橋是清は引退を決意。後任に田中を望んだ。第一次山本内閣のとき、陸海軍の予算配分において、田中が「軍艦には艦齢があるから海軍が先じゃ」と自ら譲歩したことや、高橋が参謀本部廃止論をぶち上げたときに、激昂することなく黙ってそれを聞いていた態度から、高橋は田中を”一介の武弁にあらず”と非常に高く評価していた。

4月3日、高橋は加藤首相に対し、農商務大臣辞任と政界引退を伝え、同時に田中を総裁として迎えることも明らかにした。4月9日、田中依願予備役。14日、第5代立憲政友会総裁就任。

加藤内閣は新総裁の入閣を強く求め、宇垣などを使って運動したが、田中はこれを拒否し、代わりに野田、岡崎が入閣した。総裁となった田中は、革新倶楽部、中正倶楽部との合併を成立させる。犬養は合併と同時に田中らの制止を振り切って政界を引退、内閣は犬養の後任に、憲政会の安達謙蔵をもって充てた。いよいよ憲政会政友会の亀裂は大きくなる。

7月31日、遂に加藤内閣は閣内不一致を理由に総辞職、大命は再び加藤に降り、憲政会の単独政権となった。政友会は床次の政友本党との合併を画策するが、本党側の内部事情で流れた。後に本党は憲政会に接近、之をきっかけに分裂した。

ひとまず党勢拡大に成功した田中総裁であったが、大正15年の第51議会において、晴天の霹靂ともいうべき爆弾が破裂する。
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