近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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香月清司中将について語ってみる。香月中将の名前が歴史上大きくクローズアップされるのは、次の二回だと思う。

<宇垣内閣の陸相候補に>
昭和12年1月、宇垣一成に組閣の大命が下ると、陸軍の一部幕僚はこれに対し猛烈な反対運動を展開した。彼らに押された時の陸軍大臣寺内寿一は、自ら宇垣の元に赴き、
「陸軍三長官協議の結果、第一候補杉山元、第二候補中村孝太郎、第三候補香月清司にそれぞれ打診しましたが、いずれにも断られました。陸軍としてはもう他に推挙すべき人がいません」
と語った。ちなみに杉山は三長官の一である教育総監、中村は杉山の下の教育総監部本部長、香月は近衛師団長であった。宇垣は旧部下の朝鮮軍司令官小磯国昭に電話をするなど、なおも抵抗を続けたが、宮中のバックアップも得られず、1月29日、涙を飲んで大命を拝辞した。このとき宇垣の腹心の林弥三吉中将が、陸軍を激しく攻撃する声明文を発表している。
さて香月であるが、かりそめとはいえ、陸相候補に名前が挙がるのは、凡百の中将ではなかった証左だろう。

<支那駐屯軍司令官に>
昭和12年の7月に北平でおこった日支両軍の衝突は、意外に難しい事態となった。渦中の支那駐屯軍司令官田代皖一郎は7月16日に死去(脳溢血)し、後任に当時教総本部長であった香月が任ぜられた。東京で不拡大方針を与えられた彼が、途中朝鮮の小磯などから強硬論を吹き込まれ、天津に着いたときには一撃論者になっていたというのは、”定説”となっている。当時駐屯軍司令部で、参謀長橋本群と二人だけの不拡大派であった池田純久は、香月をメッキの不拡大主義者と書き、前任の田代が生きていれば、事変はあんなことにはならなかったのにと悔やんでいる。7月26日の広安門事件の後、香月と池田の間で次のような会話が交わされた。

「池田君まだ決心はつかぬか」
「司令官何の決心ですか、不拡大方針は既定の通りですが」
「いや拡大に対する君の決心さ。これだけ軍隊が恥辱を受ければ、世話はないよ。ここらで一ぺん支那軍を叩いて反省を促そう」
「軍司令官閣下、私は決心がつきかねます」
「いいよ。僕が責任を負う。やろう。今迄よく我慢した。さぞ辛かったろう。これからしっかりやってくれ」

こうして北支戡定作戦は発動した。この後北支那方面軍が編成されると、支那駐屯軍は第一軍に改組され、香月はそのまま第一軍司令官となった。

通史的な本に載っている話としては大体こんなところではないだろうか。しかし私的には、ここから先の話の方が面白かったりする。

先の小園安名大佐のエントリで名前だけ触れた佐藤裕雄大佐について、書く気があるうちに書いておくことにする。やはり佐藤大佐のエピソードで有名なのは終戦時の話だろう(世間一般はそもそもこの人の存在自体知らないという突っ込みはこの際断固無視する)。当時軍事課高級課員であった高山信武は『参謀本部作戦課』の中で次のように書いている。

” 大本営中堅幕僚の間では、以上のような継戦思想が圧倒的多数を占めたが、一部には慎重論者、和平受諾論者もないではなかった。
 「継戦の気持はわからないではないが、いったい世界の列強を相手にし、しかも原爆をも使用された現在、戦局の見通しをどう考えるのだ。徒らに戦禍を拡大し、再起の力を失うだけではないか。本土上陸に際し、敵に一大打撃を与える事があるいは可能かもしれないが、米英軍のみならず、ソ連も北部日本に侵攻してくるであろう。遅れれば遅れる程、態勢はわれにとって、不利になるであろうことは眼にみえている。まして、陛下のご意向は明白である。陛下のご聖断が下った以上、大御心に従うのが、われわれ軍人の本分ではないか」
 「太平洋の孤島や、大陸の奥地で玉砕したわが陸海軍の各部隊、および一部民間人の犠牲者に対しては、まことに同情に堪えない。しかし、敵は不法にも原爆を行使して、わが本土に対し無差別爆撃を加えている。敵が本土上陸を企図するならば、恐らくは徹底した砲爆撃により、わが交通、通信等の機能を完全に破壊したうえ、陸兵を揚陸せしめるであろう。これ以上戦争を続行することは、徒らに禍害を累加するのみだ。行ぎがかりに捉われてはならぬ。南方あるいは大陸各地の戦死者の霊も、恐らく妻子親族の住む日本本土を、これ以上破壊されることを好まないであろう。今こそ冷静に和平を考えるべきだ。それこそ大本営の最高の責務ではないか
 右のような、冷静な和平論は、激昂した大多数の継戦論の前には極めて微力であり、卑怯者のそしりをうけるに過ぎなかった。”

上記意見を述べた人物こそが、当時戦備課長の要職にあった佐藤大佐であった。

佐藤裕雄は仙台幼年学校から陸士(35期)へ進み、野砲兵科トップとして恩賜の銀時計を戴いた。その後砲工学校高等科も優等で卒業し、員外学生として東京帝大で電気学を修めた。陸大は出ていないが、それを補って余りある学歴である。中央幼年学校時代の次のようなエピソードが残っている。ある日曜日の外出時に雨が降った。佐藤は同じ山形の二人とともに傘を差して帰って、営倉に入れられたという(将校生徒は傘などさしてはいけないのだ!)。一体どうして傘など差したのかというと、日曜下宿に来合わせていた同郷の先輩で陸大教官をしていた石原とかいう人が、「雨が降ったら傘を差して帰れ」とけしかけたからだそうだ。

そんな彼も若いころは革新運動に関与していた。立場的には所謂清軍派(まあ橋欣一派)に分類され、小桜会の名簿にも名前がある。十月事件の後、どちらが情報を漏らしたかで、橋本、大川一派と西田税が対立したことがあった。結局橋本と西田の直接対決で白黒つけることになったが、約束の日、西田は偕行社に現れなかった。そこで末松太平中尉が呼びに行かされたが、そのとき一緒に西田宅まで付いてきたのが佐藤と天野勇中尉であった。佐藤にとって西田は中幼時代の指導生徒であった。そういう関係からも佐藤はくどいほど出席を勧めたが、結局西田は腰を上げなかった。その後はそれほど目立った動きもないようなので、だんだんに技術軍人としての本分に立ち返ったと見るべきだろうか。

大東亜戦争では、南方軍参謀としてパレンバン油田の占領に活躍した。そして昭和18年3月、物動を担当する陸軍省戦備課長に補された。部下課員には塚本清彦少佐もいた。細川護貞の昭和19年6月10日の日記に次の記述がある。

”要するに塚本少佐は佐藤戦備課長等と共に、八月に決戦あることを予期し準備中なるを以て、今東条が変わることは好もしからず、従って東条はそのままとし乍ら、東条の自由にならぬ内閣を作らん意図なりと。”

要するにこのころの佐藤大佐、塚本少佐の考えは一撃和平論であろう。戦争末期には全軍に蔓延したこの考えも、この頃ではまだ少数派であった。戦備課長として、日本の真の国力を把握していた佐藤ならではであろう。同じく細川日記6月18日。

”二時、佐藤大佐、松田氏と共に来る。話は極めて婉曲なりしも、先づ塚本少佐がサイパンへ転任を命ぜられたること(東条内閣打倒を計画せりとの疑いを以て、懲罰の意味を以てサイパンに転任せしめられたりと高村氏談)・・・・”

東条内閣をそのままにしておくことを望んでいた塚本が、倒閣運動をやったという疑惑で転任させられた。この塚本少佐のサイパン転任は、東条の”陰湿な人事”の代表例として語られることが多い。少佐とかつ子夫人との間の車問答も有名。塚本はパラオから軍司令官小畑英良と共に海軍機でグアムに入り、そこで玉砕した。しかし彼が戦死したときには既に東京の東条は桂冠していた。おかげを持ってか?佐藤は戦備課長の職に留まった。もちろん彼の才能が余人に変え難いというのもあったが。戦争末期、近衛が特使としてソ連に行くという話が出たとき、陸軍側の随員として同期の松谷誠と共に名前が挙がっていることからみて、相変わらず終戦派からは一定の信頼を得ていたようだ。松谷ほどはっきりと終戦工作にコミットしていたわけではないと思うが(松谷についてはまた別エントリで書くつもり)。

そして終戦。冒頭の話に繋がるわけだが、継戦派であり、One of The クーデター首謀者sの井田(岩田)正孝は、『雄誥』で次のように書いている。8月12日のことである。
” 十三・〇〇、荒尾課長、竹下、稲葉両中佐の三名は、若松陸軍次官に会って、兵力使用計画の大綱を説明し、次官の承認を要請した。人事局長、兵務局長も呼び出されて説明続行中に、後から入室してきた佐藤戦備課長が計画に反対を表明したため、次官は一応賛否を保留し、俄かに白々しい雰囲気を呈したが、折しも大臣が戻られたので、次官は今までの経過を報告するため大臣室に入った。
 その頃、予め竹下中佐から連絡を受けた面々が逐次次官室に集合し来り、直接大臣に意見具申する方がよいと衆議一決、全員大臣室に入ったので、改めて竹下中佐から計画大綱を説明して、大臣決裁をお願ひすることになった。しかし事は極めて重大であるから、閣議に出席する直前の大臣としては、十分検討する時間もなく、決裁を保留せざるを得なかった。しかし実行部隊の東部軍と近衛師団に対して予告を与へることについては、準備に時間を要するので、最終的に大臣の承認を取りつけた。大臣は次官に所要の指示を与へ終ると、急遽閣議の席へと向はれた。かくて、東部軍と近衛師団に対して、正式の極秘準備命令が下達されたのである。
 この席に居合はせた者は、次官、人事局長、兵務局長、軍事課長、戦備課長、軍務課の山田大佐、竹下、椎崎両中佐、畑中少佐、軍事課の稲葉、井田、島貫各中佐、飯尾少佐、参本二課の原中佐、次官秘書官広瀬中佐等であったが、畑中少佐が突如大声で戦備課長を指差しながら、「軍内部にパドリオ通謀者が居る」と叫び、これを受けて竹下中佐が「そのやうな者には即刻人事的措置を加へて頂きたい」と発言した。これに対して大臣は、非常の折柄、相互不信は禁物であるとたしなめられた。”

ところがである。この後梅津参謀総長の反対で兵力使用の前提条件が崩れた。意気消沈する竹下中佐の下へ、黒崎貞明と共にやってきた佐藤は、一度や二度の失敗で諦めるのは早すぎると激励したという。14日の午前8時のことであった。どういうつもりでこういうことを言ったのか、その真意は分からないが、それを傍らで聞いていた畑中健二は日付変わった深夜、近衛師団長森赳将軍を殺害している。その後阿南陸相が自決し、それを見届けた井田は陸軍省に戻ってこれまでの顛末を若松次官以下に報告した。そのときも佐藤は、井田の手を握り「井田君、俺を誘ってくれたら、一緒に行ったのに、なぜ誘ってくれなかったのか」と言ったという。行くというのは陸相官邸なのか近衛師団なのか分からないが、井田はパドリオ扱いした人からそのようなことを言われ、複雑な忘れがたい印象を受けたという。

佐藤が少数の終戦派の筆頭なら、荒尾興功こそがもう一方の旗頭であろう。荒尾の心底というのも分かりにくく、それ自体昭和史の謎といえるが、二人は仙台幼年学校以来の同期であった。最後非常に長くなるが荒尾の手記を引用して、この散漫なるエントリの締めにしたいと思う。

「佐藤と私は、仙幼校以来の親友であり、彼は東大を、私は陸大を卒業したが、外国(ソ連・ポーランド)においても、南方総軍においても、はたまた、陸軍省においても、勤務を共にし、憂国の情においては、共通する感情がありました。
 互に相許し、生涯信頼を裏切ったことのない仲です。私は昭和十七年四月、南方総軍の作戦主任参謀から、大本営船舶課長に赴任して参りました。その職責上、先ず『主として船舶輸送の見地より戦力の推移』を観察するの必要を感じ、船舶課高級参謀三吉義隆(仙幼23期)、船舶課参謀嬉野通軌、海軍軍令部作戦課参謀一名、及び当時召集中の慶応義塾大学武村忠雄助教授の合同作業で、同年初夏の候一応の研究を終りました。右研究の結論として『船舶輸送を以て作戦を行いつつ、近代戦に必要なる戦略物資を輸送し得る限界は、昭和十九年晩秋の候』との判断に到達した次第です。私は嬉野参謀を伴い、時の参謀総長杉山元帥に『目下の戦況は、花々しく見えますが、昭和十九年末頃までに、光栄ある戦争の終結を求めて頂き度い』旨意見を開陳しました。当時の戦争指導班にも、強くこれを要望しましたが、昭和十七年頃では私としては船舶の建造、護衛の強化、自衛装備(電波兵器、音波兵器を含む)の強化、木造船の徴用および運用等に力を入れる外なかったのです。船舶関係のことは、爾来各方面の支持と協カとを得ましたが、・・・・・
 佐藤は、南方総軍の第三課参謀から昭和十八年三月陸軍省戦備課長に抜擢され、陸軍の大台所を預る重責に任じました。私は昭和二十年四月、図らずも、陸軍省軍事課長に任ぜられ、佐藤と共に、阿南大臣を補佐する立揚となったわけです。日本の戦争遂行に関する物的戦力の認識は、阿南陸軍大臣も、佐藤も、私も、同一であったと確信します。かくして昭和二十年初夏の頃までは、次期本土決戦に国の総力を結集して余す所なく、力を振り絞って、敵に一大打撃を与えて、光栄ある戦争終結を求める為、私と佐藤は、陸軍次官を長として戦力の増強、就中航空装備の充実に、真剣な努力を重ねたものでした。このことは阿南大臣のお考にも一致しておりました。ソ連を通ずる和平工作の件は、箱根に疎開しているソ連大使館への出入り情報を憲兵から承知し、密に、之を推察していましたが・・・・・。戦況非なるその頃は、和平は禁句であり、またソ連を通ずる和平工作も、閣議外では、極秘であり陸軍次官にすら漏らされていませんでした。
 六月、私は大臣に随行して、長野、新潟地区を視察した際、大臣は『ソ連は信用出来るのか』の切り出しでお話があった。私は『ソ連の近世の外交は、力の背景が前提となっている。彼は、今、日本が熟柿となる時機を待っているのでなかろうか。仮令日ソ不可侵条約が有効期間中でも、連合軍の日本上陸の進発の時機か、上陸成功の報に接せば、ソ連の満州侵略は必至である。ベルリン進撃の現況から察すると、早まることはあっても遅れることは無いと思う』と所懐を述べて、ソ連との外交を手掛けられた松岡(前)外務大臣との会談をお奨めした。この視察の直後、松岡さんの秘書と相計って、陸軍大臣と松岡さんの市ヶ谷会談を実現した次第です。
 阿南大臣は、政治家として、何とか終戦に持って行かねばならぬと考えておられたと思う。然し大臣就任後、終始烈々たる気味で、戦機を捕え、敵に一大打撃を与えて、名誉ある講和、少くとも国体を護持せんとする強い信念であったことは「阿南伝」にも記載せられている。これは多くの人々が認めている阿南大臣の心情である。この大臣を補佐する佐藤課長と、私との立場を、世上俗に、和平派と、抗戦派と称するものがある。八月十日午前、阿南大臣が陸軍省、参謀本部の幕僚たちを集めて訓示した。この後、陸軍次官の前で、興奮して議論する若い幕僚に対し、佐藤が『和平のことも冷静に考えねばならん』と諭したことが、簡単に和平派と目されたのではあるまいか。八月十三日夜、佐藤は私の室に来て『お上のポツダム宣言受諾に関する御決意は、固く変わらない旨の確な情報』を伝えてきた。
 その頃和平派と抗戦派とか称し、互いに殺気立っていた。和平を選ぶも、抗戦を説くのも、皆、国を思う所以であり、共に自己の生命を賭けていたからである。佐藤は、大臣や私が継戦を主張するものは、私心や、面子でなく、大命を奉じて、国家百年の運命を開かんとする考えくらい、百も承知していた。従ってこの避け得ざる『最終決定は上御一人にある』ことは、両人の間では、生死一如の如き強い共通の信頼感があったわけで、厳しく且つ誤解、風説の飛びかう中で、俗称和平派の大物課長が、抗戦派の若手の主脳と、何のためらいも、何のこだわりもなく話合えた次第である。結論的に申せば、事態の認識は、阿南大臣も、佐藤も、私も同じであった。
 阿南大臣は、国体護持のため、大命を奉じて本土決戦に、日本の運命を開かんとし、死中に活を求むる所以と信じておられた。若し八月十二日の連合国の回答が、国体護持を認めたならば、事態は、和平に一変したであろう。然し八月十四日の御前会議で『国体の護持に確信あり』との御言葉が、最終決定を告げたものであります。
 尚佐藤は、終戦後の軽佻浮薄の世情に対し、ポツダム宣言受諾の責任もありとし、少しでもこれを救わんものと、昭和二十三年の終戦記念日に、カトリック教に入門し、物心両面に亘り、多大の奉仕を傾けました。昭和四十三年、ローマ法王庁より、大聖グレゴリオ勲章を贈られ、また彼の葬儀の際、彼の力で入門し、信仰の世界に入られた多くの人々が参会せられました」(『山紫に水清き 仙台陸軍幼年学校史』)


人物註
塚本清彦:43期。戦死して中佐進級。
山田成利:38期。兵備課長(終戦時)。
竹下正彦:42期。軍務課内務班長(同上)。父は竹下平作中将。姉は阿南夫人。戦後自衛隊に入り陸将。
井田正孝:45期。軍務局課員(同上)。男爵井田磐楠の養嗣子。戦後は生家の岩田に復姓。電通映画社常務。著書あり。
椎崎二郎:45期。軍務局課員(同上)。畑中と共に自決。
原四郎:44期。大本営参謀(同上)。戦後自衛隊に入り空将補。著書あり。
稲葉正夫:42期。軍事課予算班長(同上)。戦後防衛庁戦史編纂官。編著書あり。
島貫重節:45期。軍事課編成班長(同上)。戦後自衛隊に入り陸将。著書あり。三人の兄と弟も陸軍軍人。
瀬島龍三中佐経歴
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel04/sejima.html
昭7・7 陸士卒(44期)
7・10 任歩兵少尉・歩兵第35聯隊附
9・10 任歩兵中尉
10・1 歩兵学校通信学生
10・12 第9師団通信隊附
11・8 陸士予科生徒隊附
11・12 陸大入
12・11 任歩兵大尉
13・12 陸大卒(51期恩賜)
14・1 第4師団参謀
14・5 第5軍参謀
14・11・22 参本部員
14・12・27 兼大本営参謀
16・10 任少佐
19・8 兼軍令部員
20・2 兼聨合艦隊参謀
20・3・1 任中佐
20・7・1 関東軍参謀
31・8 シベリアより復員

こういうブログやってるんで一応取り上げます。が、僕はあんまり興味無いんですよ。保阪氏なんか熱心に追いかけておられますけど。陸大首席ったって毎年1人は出るわけですし、大本営参謀もたくさんいます。連合艦隊参謀を兼任した例だって島村矩康大佐など何人もいますし。戦後の活躍と長命が利いてるんでしょうかね。ちなみに、陸大は首席でしたが、陸士は2番でした。彼を抑えたのは騎兵科の原四郎中佐でした。原中佐は陸大は瀬島中佐の一期後で、やはり首席です。
妻は二・二六事件の松尾伝蔵大佐の娘で、松尾新一中佐は義兄だか義弟になります。この松尾ー岡田(啓介)ルートも、瀬島氏を大物化する要因の一つではないかと思います。
戦後、草場辰巳中将、松村知勝少将とともに、東京裁判の証人としてソ連から一時東京に連行されましたが、このとき草場中将は、ソ連側の隙をついて服毒自殺を遂げています。草場中将の自殺は、大陸鉄道司令官として、多くの在満邦人が殺されたことの責任を感じてのことと言われています。瀬島中佐は証言を終えると、ソ連に連れ戻され、他の高級将校と同じく昭和31年まで抑留されました。
以下は毎日新聞コラム「記者の目」より転載

◇軍命に背いた決断を本に--師団長の文掲載し警鐘

 第二次世界大戦で「最悪の戦い」と呼ばれたインパール作戦(1944年)に従軍し、生還した旧日本陸軍「烈」部隊中隊長、中野誠司さん=香川県三木町=がこの夏、89歳で亡くなった。戦後「鯨・烈山砲戦友会」会長として戦病死した部下らの慰霊に努めた中野さん。私は高松支局勤務だった今年4月、戦友会が編さんした本「鎮魂」の取材で知り合い、その追悼の念の深さと、戦争への怒りの強さに打たれた。また一人、戦争の実相を伝える語り部を失った今、もっと話を聞きたかったと痛切に感じている。

 中野さんは36(昭和11)年に徴兵され、翌年に士官候補生になり、その後は中国戦線を転戦した。「鯨」は日中戦争の部隊、その後インパール作戦のために編成した部隊が「烈」だ。いずれも山砲(砲兵)部隊は四国出身者が中心だった。中野さんは中尉として弾薬補給を担当する中隊を指揮した。食糧や弾丸の補給が無いままビルマ(ミャンマー)の高地からインドに突入し、参加兵10万人のうち7万人以上が戦病死したとされる無謀な戦いだった。

 中野さんの中隊で小隊長だった同戦友会元事務局長の香川弘文さん(84)=同県多度津町=は「他人を助けられる状況ではなく、中野さんも病気や飢えで動けなくなった部下を見捨てざるを得ないことがあったようだ。だがその時のことは60年以上の付き合いで一言も口にされなかった」。中野さんは自宅で毎日、直接の部下247柱の位牌(いはい)「中野隊所属陣没将兵之霊」に手を合わせていたという。

 「鎮魂」は中野さんの思いが結実した本だ。A4判約220ページ。ビルマ戦線の「烈」山砲部隊戦病死者1276人の名簿に加え、兄を亡くした遺族の手記などを載せた。手記には、兄の最期を戦友に問うと「むごくて話せません。ご了解下さい」という手紙が届いたとの逸話が記されている。

 しかし、何より強く印象に残るのは、部下を全滅から救うため死刑覚悟で独断で部隊を撤退させた烈師団長、佐藤幸徳中将の話だ。44年4月、インド北東部での戦闘は雨期に入って食糧や弾丸の補給も無く、ビルマ方面軍に何度も撤退を打診したが拒絶され、同6月に独断で退却。その際、同方面軍参謀長に激烈な軍部批判の電報を打った。

 「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇(ちゅうちょ)したりとて、軍規を楯(たて)にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」

 防衛庁防衛研究所によると、旧陸軍は佐藤中将を軍法違反に問おうとしたが、惨状の責任が上層部に及ぶことを恐れて中将を予備役に編入、事実を隠匿した。

 「鎮魂」の裏表紙に、戦友会の綱領「われらは戦争の実相と平和の意義を次代に継承する それが苛烈(かれつ)な戦場から生き残った者の使命だから」が大書してある。軍の無責任な作戦で20代の命を無駄にし、自分が生き残るために同僚や部下を見捨てざるを得なかった。そんな無念が戦後60年を過ぎても彼らを突き動かしたのだろう。64年生まれで戦争を知らない私の胸にも、迫るものがある。「戦死者を弔うために靖国神社にお参りに行く団体」としか考えていなかった戦友会への認識を改めた。

 香川さんは「師団長の文書を載せることが中野さんの願いだった。『この本を出さんと死ねん』と話していた」と教えてくれた。中野さんは猛暑の8月6日、ビルマでの戦病死者を追悼する香川県内のパゴダ(仏塔)に、自宅に祭っていた位牌と「鎮魂」を自ら奉納に行き、その3日後に亡くなった。位牌は長年の線香の煙で黒光りし、中野さんの執念を伝えるようだ。

 高松市の山中に、戦友会会員が建てた烈師団長を悼む碑がある。多くの会員が「師団長が軍命に背いて撤退を命令してくれたから私たちは生還できた」と話す。碑の前に立ち、中野さんに問いかけてみた。「戦友が動けなくなった中、どんな思いで撤退したのですか」「師団長の文書を載せた真意は」。多少の遠慮もあって心の底の思いを聞けないままだったことを、今更のように後悔した。

 記者としてできるのは、体験者から取材し、記事として残すことだけだ。それも一日も早く。そうしなければ、貴重な事実が歴史の闇に埋もれてしまう。中野さんの死に接し、その思いを新たにした。

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20061006ddm004070075000c.html

以上引用終わり。以下雑談。
佐藤幸徳という人は、僅かに引用された日記などを読む限り、異常に自負心が強く、完全に自己を正当化して何ら疑わない(信念が強いとも言える)、ある種の軍人の典型例と言える。こういう人は方向を間違えるとやばいが、この場合は、この強さが良い方に出たと言えるだろう。ディマプールに突っ込んでいたらと言う人もいるが、それは南海支隊にポートモレスビーに突っ込んでいたらと言うのと同じで、結局更に酷いことになっていた可能性大である。
それにしても当時の緬甸方面軍に集まった面子は凄い。佐藤に牟田口廉也田中新一花谷正桜井徳太郎片倉衷、そして辻政信。これは河辺正三では完全に力不足。抑えきれるわけがない。

 

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北京から満洲へ逃げ帰る張作霖の列車は、京奉線のクロス地点に於いて爆破されたが、このとき起爆スイッチを押したのは東宮自身であったとの説もある。もとより河本、東宮の行為は許されざるものである。しかし一方において、張作霖の苛斂誅求もこれまた揺るがし難い事実だ。また東宮が熱心に進めた満蒙開拓移民も、多くの原住民から土地を奪い、彼らを不幸にした。しかし終戦後の日本移民の凄絶なる運命は、一体誰に一義的責任があるのか?そもそも8万人もの農民が死に追いやられることについて、NHKなどどう思っているのだろうか?戦争にはよくある事とでも言うつもりだろうか?戦争犯罪というものに勝った側負けた側の区別があるのだろうか?何でもかんでも人のせいにしない態度は結構だが、ここまで来ると何らかの意図をもってやってるのかと疑いたくもなる。



さて張作霖爆殺事件の後、東宮は岡山の歩兵第十聯隊の中隊長に転任となった。聯隊長は小畑敏四郎であった。小畑は東宮を深く愛したが、東宮もまたこの陸軍きっての切れ者聯隊長を深く尊敬した。当時東宮は河本の後を追って予備役となるつもりであったが、小畑は自分に一任しろといってこれを止めた。小畑はこのとき、永田岡村らと河本の処分に反対する運動を続けていた。結局彼ら二葉会の運動の甲斐なく河本は予備役となったが、東宮は現役に残れることになった。当時の東宮を知る人はこう語っている。
「東宮さんは実に立派な完璧な中隊長であった。全身全霊、これ至誠の人といっても過言ではない。日ならずして聯隊内の将校下士官は、東宮さんの人柄に打たれた。東宮さんは熱血、純情の人であったが、誰に対しても謙抑で親しみ易い、素朴な村の長老といったタイプで、威張るとか法螺を吹くとか、自己の手柄話などはしない。つねに春風駘蕩たる人柄だが、一歩公務となれば峻烈極まりない」
このころ既に東宮は、武装移民の計画を抱いており、予備となったらその活動に打つ込むつもりで、聯隊の将校にも語っていた。
当時は非常な不況であった。彼はまた非常に人情に厚く、兵隊の家庭が困っていないかを熱心に調べた。そして貧農の子弟がいると呼んで話を聞き、ボロボロと涙を流した。父母が病気だなどという話を聞くと、堪らなくなるのか、財布の金を全部出し、断る兵隊に無理やり握らせる。なので、中隊付きの曹長がよほど気を付けていないと、東宮の給料袋は空になってしまう。満蒙移民の背景にはこういった世相もあったということも、少しは頭に入れておいて良いのではないか。

支那事変が勃発すると、東宮は特設師団の大隊長として出征した。柳川平助率いる第十軍の一員として杭州湾上陸を果たした彼は、11月14日、浙江省平湖県の草原で、左胸に被弾した。もはや助からないことを自覚した東宮は、部下にノートと鉛筆を出させ、

うれしさや 秋晴れの野に 部下と共

という辞世の句を認め絶命した。享年45歳。死後歩兵大佐に昇進した。

余談ではあるが、東宮に先立つこと2ヶ月、これまた特色ある隊付将校、杉本五郎も戦死している。彼もまた、死してなお影響を後世に与え続けた人物であった。


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北一輝といえば、ずっと気になっていながらなかなか情報が集まらないのが、北西田の裁判で判士長を務めた吉田悳中将。生まれは東京だが、本籍は石原と同じ庄内。

北西田処刑という陸軍当局の方針に対し、死刑の要件を満たしていないと真っ向から反対し、藤室良輔らと対立した人物。

後に最後の騎兵監として、多くの反対を押し切って騎兵の機械化を断行するなど、優秀な将軍であり、徳王自伝に出てくるエピから、人格的にも優れた人であったようだが、如何せん情報が少ない。ずっと満洲にいて戦功がないということで、大将に昇進せず、予備役に入れられてしまったのも痛い。

一方藤室は、陸軍史上初めて地幼、中幼、陸士、陸大をすべて首席で卒業した人で、身長も180cmを優に超えていた大男。総身に知恵が回りすぎるくらい回るとは、井本参謀の言葉だったか。

ちなみに地方幼年学校第1期生は陸士15期にあたるので、藤室は12年目で初の快挙ということになる。彼以降3人が達成した。

藤室は欧州からの帰途の船上でこの事件を聞き、神戸に上陸すると荷物をまとめ服装を改め、「真崎憲兵」に逮捕されるのを静かに待ったと、後に語ったような人物。

吉田は藤室に手紙を送って翻意を促したが(この手紙は順逆の昭和史などで引用されている)、藤室はこれを黙殺した。後に同期の谷田勇に「貴様あのときほんとうはどう思ったんだ」と問われ、「中央の意思を承けている俺としては、ああいうほかなかったんだ」と答えたとか。

藤室は北西田だけではなく、真崎の極刑も強く主張した。その真崎に無罪を言い渡したのが、予備役大将の磯村年だ。息子は陸大主席の少将だが、終戦前に墜死した。その息子はNHKのアナウンサー。



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