近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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『追想 陸軍少将 谷川一男』
昭和29年に55歳の若さで逝去された谷川一男少将の追悼録。発行者は御子息。追悼文を寄せている旧陸軍軍人の面子がなかなか豪華。

少将は元来文学や哲学を愛好する人であったが、家計の関係から官費の陸士に進んだというのは、小倉中学の同窓、吉田敬太郎氏(若松市長など)の言葉。この話は、谷川が2年間仕えた第八方面軍司令官今村均大将とも共通する。今村もまた、父の死で二高を諦め、陸士へ進んだ。


少将は陸軍航空の開拓者として、特に部隊運用に関して非常に大きな足跡を残した。そのため人は彼を、陸軍大学校の基礎を作ったヤコブ・メッケルなぞらえ、谷川メッケルと呼んだ。

二・二六事件では、判士として被告を裁く一方、彼らのために弁明書を書くなどしていたそうだ。

「あんなに愛国に志した若者をむざむざ処刑する羽目になって」

という言葉を、ソ連で一緒だった森正蔵夫人が覚えている。

次の「星夜雑感」という文は開戦当初、南方軍参謀であった時に書かれたものである。

 南国の星夜宿舎の屋上に坐して想念遥かなり。北極星地平に近く南十字星光燦たり。此の作戦も幸に極めて順調なる進展を見たるが、残るはただバタンとビルマのみ、バタンは時機の問題たるべくビルマは如何にしてマンダレー殲滅戦を鮮かに手際よく指導するかに顧慮あるのみ。
 帝国将来の経綸は如何。次で来るべき戦争指導の方案は如何。
 濠州、印度、ハワイの攻略の要否能否、北方ソ連に対する見解、支那事変の今日における意義と其解決の方途如何。
 地図を凝視すれば本作戦を契機とし僅か三ケ月に時勢一転し舞台改まり、三千年の歴史を通し情勢未曽有の変転を果せるに、自ら深き驚異を感ずるものあり。而かも一脈沈痛なる気持の我が胸を圧するものあり。万有は流転す。世に常住あるなし。栄ゆる者必ず衰うるは歴史の示す不滅の鉄則なりとすれば、流転の中に拠て以て立つ不変の真理は何ぞや。伸展せし国力を歴史の教ふる運命の流れに抗して、永遠不朽に生々発展向上せしむる事可能なりや。帝国のみ歴史の例外たり得べきや。可能なりとすれば其方途如何。我子孫の何れかの時機に、今日の国力の進展が圧迫退縮せしめらるる時ありとすれば之果して忍び得べき事なりや。或は謂ふ、永遠に発展するの途は「道義」立国にありと。帝国の拠て以て立つ道義とは何ぞや。深思省察真に思を砕くべき事項なりとす。
 人或は帝国の「神秘性」を謂ふ。或は然らん。世に奇蹟なしとは断じ得ざればなり。然れども万有流転の不滅の鉄則は、厳として我が心を圧するものあり。
 不滅とは何ぞや、永遠とは何ぞや、沈痛切なるものあり。
 順調の秋必ず逆境を思ふことを忘るべからず。敗戦の味を知らざる将帥は、断じて名将に非ず。

原四郎中佐の追悼文より抜粋



ラバウルで田中耕二は、

「この戦争は残念乍ら負けるだろう。然し誰が総理であったとしても、恐らく日本はこの戦争に突入したであろう」

という少将の言葉を聞いている。昭和20年に大本営参謀に転補されると、聨合艦隊参謀副長も兼任した。



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半藤一利、保阪正康両氏の対談をまとめた『昭和の名将と愚将』という本が出ていた。取り上げられているのはいつもの面子なので、立ち読みで済ませた。

しかし文句ばっかり言っていてもあれなので、自分でも私的(わたくしてき)昭和の名将をリスティングしてみる。名将といいながら、将官に拘っているわけではなさそうなので、遠慮なく尉官からも選ぶ。

どう見ても好みで選んでます。本当にありがとうございました。


先のエントリで突然、昭和13年1月15日の大本営政府連絡会議の模様を取り上げましたが、別に深い意味があったわけではありません。ただ外交というのは難しいなあというだけです。十分現在でも参考になる話ではあると思いますが。

で、三つ前のエントリでは棚橋茂雄と、彼がやっていた(と称する)対米工作についても書きました。(棚橋曰く)これを最も妨害したのが岩畔豪雄であったということも。しかし運命というか、その岩畔も昭和16年に対米交渉の最前線に立つことになります。この、井川忠雄と彼の工作は、棚橋のそれよりずっと有名なので、御存知の方も多いと思いますが。

というわけで今日の一冊はこれ。

著者は岩畔少将の親戚だそうです。ですので3分の1ぐらいは少将の伝記のようになっています。肝腎の日米交渉についても良く纏まっていると思います。武藤章こそ、陸軍内で数少ない彼らの後援者であったと著者は書いておられますが、この点は私もその可能性が高いと思います。ちなみに私は、武藤と岩畔は、性格の違いはともかく、その閲歴からその蹉跌に至るまで、共通点の多い二人だと、以前から思っていました。二人の良さというのは、思い切った方向転換ができる点にあると思います。陸軍が続いていれば、いずれも陸相になったでしょう。大事な時期に、二人ともが東京から遠く離れた場所に居たのは、残念です。ついでにいうと、武藤の近衛師団長転出も、岩畔と同じく、一種の左遷風味の人事であるとする人もいます。



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工藤美代子『昭和維新の朝 二・二六事件と軍師斎藤瀏』日本経済新聞社
二週前くらいに購入し、一週前には読み終わっていたのですが、感想が遅くなりました。斎藤瀏とその娘の斎藤史の著述を中心に構成されていますが、所々挿入される著者の歴史観がやや気になるという人は居るでしょう。全体としては、毒にも薬にもならないという感じです。無理矢理新機軸を打ち出そうとして、結果として人の心をぐちゃぐちゃにするような人もいますので、これは褒め言葉ですよ。でも理想はやはり斎藤親子の残した本を直接読むことです。これを期に再販とかになれば嬉しいのですが。

まだ今回のお召しを受けるかどうか迷っていたとき、岡野史彦が史に説得の電話を掛けてきた。前年の夏である。
「陛下はその後も勉強しておられるご様子です。例の事件のことを」

「あの歌は、どこでどういう気持ちで作られたのですか」
「いつもの歌作りと同じに、平常心で詠ったつもりでございます」
「お父上は瀏さん、でしたね・・・・・・」

陛下というのは今上陛下を指しますが、恐らく勉強ということなら、先帝陛下もされていたと思います。


ところで最後に、この本にも出てきますが、「秩父宮万歳」を叫んだ将校について。安藤輝三大尉であるというのが通説ですが、保阪正康氏が秩父宮と昭和天皇で、「いや実は栗原安秀中尉だ」という処刑に立ち会った某少佐の証言を引き出していますね。私は正直どちらでも良いと思うのですが、ただ
「安藤がそんな宮様に迷惑のかかるようなことを言うはずがない」
  ↓
「いや実は栗原でした」
みたいな流れが凄く嫌ですね。森田大尉の安藤大尉を思う気持ちも分かりますが、私は安藤大尉が言ったとしてもおかしいとは思いませんし、又それが大尉の遺徳を傷つけるとも思いません。安藤大尉は憤死したのですよ。


   
高木勉著、サブタイトルは雪中行軍隊長・福島大尉の生涯。
先日の百万遍の古本まつりで購入した一冊なのだが、思った以上に面白かったので、軽く紹介しておく。


八甲田山雪中行軍といえば有名なのは『八甲田山死の彷徨』である。これは高倉健、北大路欣也で映画化もされた。しかしこれは虚実を取り混ぜた小説である。著者はこのベストセラーの虚伝を正すという姿勢である。例えば著者は、第5聯隊の雪中行軍隊を一貫して山口隊と呼ぶ。新田本を読んだ方なら分かると思うが、彼の本では5聯隊側の指揮官は神成(作中では神田)大尉であり、山口(同山田)少佐はくっついて来たおまけ且つ指揮系統を乱す存在のように描かれている。しかし著者は5聯隊側の指揮官は大隊長山口少佐であり、神成大尉はその部下の一中隊長に過ぎないとしている。常識的にはこちらの方が筋は通っている。また新田本では神成、福島(同徳島)両大尉は出発前に会っているが、実際はお互いに面識が無く、又両聯隊ともお互い相手の聯隊が雪中行軍を行うことすら知らなかったとしている。というのも31聯隊の雪中行軍は福島大尉が以前から綿密に計画を立てていた大行軍であるが、5聯隊側の行軍は、2,3日前に決定された、1泊2日の小行軍であったからだ、という。最も大きな点としては、福島隊に随行していた東奥日報の東海記者が、山頂付近で5聯隊の遭難者を発見し、遺体は無理なので小銃だけ持ち帰ったという話。これは東海記者が実際に記事にしたもので、新田本でも大きく取り上げられているが、著者はこの話は丸々記者の作文であり、福島隊は山口隊の遭難者は一切見ていないと断じている。


福島泰蔵は群馬県の商家に生まれた。教導団を経ての陸士入学であったため、同級生と較べれた年をとっていた。陸士は2期で同期には鈴木孝雄らがいた。任官した福島は高崎の町で同僚の永田十寸穂少尉と同じ下宿で暮らし始めた。永田は名前を”マスオ”と読む。彼にはやはり一風変わった名前の弟がおり、その弟も後に陸軍軍人となる。ちなみに父親も志解理(シゲリ)という変わった名前で、これは医家の家柄に由来するのかもしれない。福島は非常に勉強熱心な読書家であった。また普通の歩兵将校にはない地図作成という特技もあった。そのため中尉のとき、陸地測量部に転属となった。しかし僅か1年で、新設された歩兵第31聯隊の中隊長に赴任する。これは師団長の立見尚文が、陸士出の気鋭の将校を欲しがったことに因る。弘前でも彼は持ち前の勉強熱心さで、岩木山雪中踏破演習などの行軍演習を次々成功させ、師団長の知遇を得ている。八甲田山もこれらの演習の延長線上にあり、総ては対露戦の為であった。八甲田山雪中行軍は特に、福島大尉が聯隊長、旅団長を飛び越え、師団長から直接指導を受けていたと著者はしている。

さて見事に八甲田山を制覇した福島隊であったが、第5聯隊の悲劇のおかげで、その功績はあまり世間に広まることは無かった。福島自身はまもなく旅団副官に転任となった。ちなみにその前に、参謀本部が戦史室に彼を迎えようとしたことがあったが、それは立見が拒否したらしい。優秀な大尉を離したくなかったのだろう。旅団副官となった彼は妻を迎えている。

新たな上司で長州出身の友安治延少将は、漢籍を良くする文人タイプの将軍で、妻が薩摩人という点は乃木と同じであるが、実際彼の妻は乃木の妻静子と遠縁であった。友安の妻は広島で静養中であり、彼は妾宅に寝泊りすることが多かった。また友安自身体が弱く、半年も妻のところで休暇をとったことがあった。妾を伴って官費で秋田まで旅行をしたこともあった。ちなみに山口隊が遭難したとき彼は、浅虫温泉に居た。こういう態度が、仕事熱心な福島大尉には我慢ならなかった。副官の官舎は旅団長の向かいにあったが、旅団長が在宅時は必ず、旅団長官舎に向かって大声で号令をかけたり、詩吟をうなったりするようになった。酔っ払ってわけの分からないことを喚き散らすこともあり、福島の妻は気が気でなかった。ある日などは、釣りを楽しんでいる旅団長のところに馬で乗りつけ、大きな石を抱え上げて、旅団長が釣り糸を垂れている付近に投げ込み、一言の挨拶も無しに立ち去った。これには友安旅団長も肝をつぶし、顔面を蒼白にして口をわななかせていたという。遂に二人の抗争は陸軍省の裁くところとなり、友安少将は後備役に、福島大尉は山形の聯隊の中隊長に転任となった。いくら立見中将が福島贔屓とはいえ、少将と大尉が喧嘩をして少将が後備になるのだから、友安少将のだらしなさはよっぽどのものであったようだ。ちなみに彼は日露戦争では、後備第1旅団長として旅順攻囲に参加している。谷寿夫の機密日露戦史に次の記述がある。
”旅順攻撃における某少将の二〇三高地攻撃を辞退せる件”
この某少将が友安である。彼はあまりの惨状にビビッてしまい、自ら乃木に辞任を申し入れて旅団長を辞めている。

32聯隊でも福島は短い期間に多くの提言や論文を残している。明治37年9月、福島は妻と生まれたばかりの娘を残して出征した。全軍の予備的扱いであった第8師団は遂に黒溝台に投入され、福島は明治38年1月28日、そこで戦死する。黒溝台の戦いは、明石宇都宮ら在欧武官がロシアの冬季作戦を探知して警告を送っていたにも関わらず、また騎兵からも情報が上がっていたにも関わらず、児玉源太郎以下満洲軍参謀がそれを全く無視したため、日本軍の大苦戦となった。しかし実は福島も、戦前に書いた「露国ニ対スル冬季作戦上ノ一慮」という論文の中で、ロシア軍少将の談話を引用しながら、ロシア軍が冬季に作戦行動に出る可能性を訴えているのだ。福島は満洲に上陸した10月に、総司令部に於いて児玉に謁見している。彼を冬季作戦の権威と認めてのものだろうが、そのとき上記のことについて話し合われたかは不明。戦後、秋山好古が総軍参謀であった松川敏胤にこのときの不手際詰問した。二人の後ろで聞いていた永沼秀文によると、松川は諧謔的な口調で
「なあにあの時はお客さんが左翼方面から来るだろうと思っていたのだ」
と答えた。すると秋山は辞色ともに激しく
「お客を待つなら待つで歓待の手段を取っておかねばならないではないか。何にも接待の準備がないところへお客さんに見舞われたから、あの醜状を暴露したのではないか。敵の強大な集団が進んでくる模様はいく回となくわが輩の手許から報告してをり、警告してをつたのに、総司令部でああまた例の騎兵の報告かと軽視して信用しなかったから、遂にあんな不始末になったのだよ」
と厳然と言い放ち、これには松川も一言もなかったという。



正直文章的にはも一つで、所々「ん?」と感じます。基本的には石原に関するエピソードの羅列で、失礼を承知で言えば、私がホームページでやってる人国記の超々グレードアップ版という感じです。しかしその参考文献の量が半端じゃないです。従ってどんな人でも、「へ~」というエピソードがあると思います。石原好きの人は、まあこの一冊(二冊)で満足してしまうのもいいですが、出来れば巻末の文献一覧を辿っていって欲しいです。素人が歴史勉強するには、このやり方が一番だと思います。

それではちょっと面白かった小ネタを摘出してみます。

小学校時代、校長ですら頭を突き出せる窓の格子に、頭が引っかかるくらい巨頭だったため、ついたあだ名が”西洋かぼちゃ”。左下は莞爾と弟の二郎であるが、これを見る限りデカ頭は血統のようだ。右下は成長した二人だが、見ての通りやたら似ている。莞爾だと思って二郎に話しかける人やその逆がいたというのも、肯ける。

  

幼年学校時代、月6円50銭の学費のうち5円は鶴岡尚武会から、残りは鶴岡の素封家の富樫家から借りていた。同期の南部襄吉の父南部次郎は、郷里の育英資金から10円を借り、学費と小遣いとして7円50銭を送り、残りを自分のものしていた。石原も、父が学費の一部を煙草銭か何かに使っているらしいとこぼしていたという。二人の小遣いは同期中最低の1円であった。南部次郎は盛岡藩主の連枝、所謂アジア主義の外交官で、莞爾の中国観にかなりの影響を与えた。次郎も莞爾を高く買い、息子に対し「お前は一生あの人に見捨てられない様にしろ」と言っていた。

中央幼年学校卒業直前、剣術の時間に助教から「真剣勝負」を挑まれた。莞爾は、相手の急所を握って気絶させ、石原は品性下劣と評される一因となった。

士官候補生時代、南部は、小国日本ではどうやっても西洋に勝てないと、軍人に絶望し、植木屋になりたいと莞爾に相談した。莞爾は、陸軍を改正しドイツにでも何でも勝つ陸軍にするために軍人になった、貴様もそれだけの気宇を持たないか!と励ました。しかしその莞爾も後年、中耳炎で入院し、体に自信を無くして、「写真屋になりたい」と漏らしたことがある。このとき入院を嫌がる莞爾に困った父は、今村均に依頼し、今村は駄々をこねる莞爾を無理やり入院させた。

陸大入試の再審で、「機関銃の最も有効な使用法はどうあるべきか」という課題を与えられ、飛行機に装備して、”酔っ払いが歩きながら小便をするように”、”バラバラバラ”と敵の大縦隊に浴びせると答えたことは有名。

下の写真は、メッケルの胸像の前で撮られた陸大卒業記念。前列中央が石原。確信は無いが前列右から二人目が樋口季一郎じゃないか。石原の左隣は何となく、眉目秀麗・弁舌さわやかということで石原を抑えて首席になった鈴木率道のような気がするが自信は無い。後列左から二人目の恰幅のいい人は阿南惟幾か?



武藤章は真宗であったが、ベルリンで里見岸雄の講演会を聞いてから、熱心に日蓮を研究するようになった。石原はこれに大変喜び、日本の妻に手紙で、実家の尾野実信大将邸に住む武藤夫人を訪ねるよう依頼している。石原は、武藤は「中々立派な人なる故、此一族を教化することは極めて有効」と考えたのである。

宮沢賢治は石原と同じ国柱会の信行員であった。賢治は『妙法蓮華教』1000部の頒布を遺言したが、頒布先の名簿には石原の名前もあった。賢治の弟清六から石原に送られた本は、第59号であった。

下巻に続く?
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