高木勉著、サブタイトルは雪中行軍隊長・福島大尉の生涯。
先日の百万遍の古本まつりで購入した一冊なのだが、思った以上に面白かったので、軽く紹介しておく。
八甲田山雪中行軍といえば有名なのは『八甲田山死の彷徨』である。これは高倉健、北大路欣也で映画化もされた。しかしこれは虚実を取り混ぜた小説である。著者はこのベストセラーの虚伝を正すという姿勢である。例えば著者は、第5聯隊の雪中行軍隊を一貫して山口隊と呼ぶ。新田本を読んだ方なら分かると思うが、彼の本では5聯隊側の指揮官は神成(作中では神田)大尉であり、山口(同山田)少佐はくっついて来たおまけ且つ指揮系統を乱す存在のように描かれている。しかし著者は5聯隊側の指揮官は大隊長山口少佐であり、神成大尉はその部下の一中隊長に過ぎないとしている。常識的にはこちらの方が筋は通っている。また新田本では神成、福島(同徳島)両大尉は出発前に会っているが、実際はお互いに面識が無く、又両聯隊ともお互い相手の聯隊が雪中行軍を行うことすら知らなかったとしている。というのも31聯隊の雪中行軍は福島大尉が以前から綿密に計画を立てていた大行軍であるが、5聯隊側の行軍は、2,3日前に決定された、1泊2日の小行軍であったからだ、という。最も大きな点としては、福島隊に随行していた東奥日報の東海記者が、山頂付近で5聯隊の遭難者を発見し、遺体は無理なので小銃だけ持ち帰ったという話。これは東海記者が実際に記事にしたもので、新田本でも大きく取り上げられているが、著者はこの話は丸々記者の作文であり、福島隊は山口隊の遭難者は一切見ていないと断じている。
福島泰蔵は群馬県の商家に生まれた。教導団を経ての陸士入学であったため、同級生と較べれた年をとっていた。陸士は2期で同期には鈴木孝雄らがいた。任官した福島は高崎の町で同僚の永田十寸穂少尉と同じ下宿で暮らし始めた。永田は名前を”マスオ”と読む。彼にはやはり一風変わった名前の弟がおり、その弟も後に陸軍軍人となる。ちなみに父親も志解理(シゲリ)という変わった名前で、これは医家の家柄に由来するのかもしれない。福島は非常に勉強熱心な読書家であった。また普通の歩兵将校にはない地図作成という特技もあった。そのため中尉のとき、陸地測量部に転属となった。しかし僅か1年で、新設された歩兵第31聯隊の中隊長に赴任する。これは師団長の立見尚文が、陸士出の気鋭の将校を欲しがったことに因る。弘前でも彼は持ち前の勉強熱心さで、岩木山雪中踏破演習などの行軍演習を次々成功させ、師団長の知遇を得ている。八甲田山もこれらの演習の延長線上にあり、総ては対露戦の為であった。八甲田山雪中行軍は特に、福島大尉が聯隊長、旅団長を飛び越え、師団長から直接指導を受けていたと著者はしている。
さて見事に八甲田山を制覇した福島隊であったが、第5聯隊の悲劇のおかげで、その功績はあまり世間に広まることは無かった。福島自身はまもなく旅団副官に転任となった。ちなみにその前に、参謀本部が戦史室に彼を迎えようとしたことがあったが、それは立見が拒否したらしい。優秀な大尉を離したくなかったのだろう。旅団副官となった彼は妻を迎えている。
新たな上司で長州出身の友安治延少将は、漢籍を良くする文人タイプの将軍で、妻が薩摩人という点は乃木と同じであるが、実際彼の妻は乃木の妻静子と遠縁であった。友安の妻は広島で静養中であり、彼は妾宅に寝泊りすることが多かった。また友安自身体が弱く、半年も妻のところで休暇をとったことがあった。妾を伴って官費で秋田まで旅行をしたこともあった。ちなみに山口隊が遭難したとき彼は、浅虫温泉に居た。こういう態度が、仕事熱心な福島大尉には我慢ならなかった。副官の官舎は旅団長の向かいにあったが、旅団長が在宅時は必ず、旅団長官舎に向かって大声で号令をかけたり、詩吟をうなったりするようになった。酔っ払ってわけの分からないことを喚き散らすこともあり、福島の妻は気が気でなかった。ある日などは、釣りを楽しんでいる旅団長のところに馬で乗りつけ、大きな石を抱え上げて、旅団長が釣り糸を垂れている付近に投げ込み、一言の挨拶も無しに立ち去った。これには友安旅団長も肝をつぶし、顔面を蒼白にして口をわななかせていたという。遂に二人の抗争は陸軍省の裁くところとなり、友安少将は後備役に、福島大尉は山形の聯隊の中隊長に転任となった。いくら立見中将が福島贔屓とはいえ、少将と大尉が喧嘩をして少将が後備になるのだから、友安少将のだらしなさはよっぽどのものであったようだ。ちなみに彼は日露戦争では、後備第1旅団長として旅順攻囲に参加している。谷寿夫の機密日露戦史に次の記述がある。
”旅順攻撃における某少将の二〇三高地攻撃を辞退せる件”
この某少将が友安である。彼はあまりの惨状にビビッてしまい、自ら乃木に辞任を申し入れて旅団長を辞めている。
32聯隊でも福島は短い期間に多くの提言や論文を残している。明治37年9月、福島は妻と生まれたばかりの娘を残して出征した。全軍の予備的扱いであった第8師団は遂に黒溝台に投入され、福島は明治38年1月28日、そこで戦死する。黒溝台の戦いは、明石、宇都宮ら在欧武官がロシアの冬季作戦を探知して警告を送っていたにも関わらず、また騎兵からも情報が上がっていたにも関わらず、児玉源太郎以下満洲軍参謀がそれを全く無視したため、日本軍の大苦戦となった。しかし実は福島も、戦前に書いた「露国ニ対スル冬季作戦上ノ一慮」という論文の中で、ロシア軍少将の談話を引用しながら、ロシア軍が冬季に作戦行動に出る可能性を訴えているのだ。福島は満洲に上陸した10月に、総司令部に於いて児玉に謁見している。彼を冬季作戦の権威と認めてのものだろうが、そのとき上記のことについて話し合われたかは不明。戦後、秋山好古が総軍参謀であった松川敏胤にこのときの不手際詰問した。二人の後ろで聞いていた永沼秀文によると、松川は諧謔的な口調で
「なあにあの時はお客さんが左翼方面から来るだろうと思っていたのだ」
と答えた。すると秋山は辞色ともに激しく
「お客を待つなら待つで歓待の手段を取っておかねばならないではないか。何にも接待の準備がないところへお客さんに見舞われたから、あの醜状を暴露したのではないか。敵の強大な集団が進んでくる模様はいく回となくわが輩の手許から報告してをり、警告してをつたのに、総司令部でああまた例の騎兵の報告かと軽視して信用しなかったから、遂にあんな不始末になったのだよ」
と厳然と言い放ち、これには松川も一言もなかったという。
先日の百万遍の古本まつりで購入した一冊なのだが、思った以上に面白かったので、軽く紹介しておく。
八甲田山雪中行軍といえば有名なのは『八甲田山死の彷徨』である。これは高倉健、北大路欣也で映画化もされた。しかしこれは虚実を取り混ぜた小説である。著者はこのベストセラーの虚伝を正すという姿勢である。例えば著者は、第5聯隊の雪中行軍隊を一貫して山口隊と呼ぶ。新田本を読んだ方なら分かると思うが、彼の本では5聯隊側の指揮官は神成(作中では神田)大尉であり、山口(同山田)少佐はくっついて来たおまけ且つ指揮系統を乱す存在のように描かれている。しかし著者は5聯隊側の指揮官は大隊長山口少佐であり、神成大尉はその部下の一中隊長に過ぎないとしている。常識的にはこちらの方が筋は通っている。また新田本では神成、福島(同徳島)両大尉は出発前に会っているが、実際はお互いに面識が無く、又両聯隊ともお互い相手の聯隊が雪中行軍を行うことすら知らなかったとしている。というのも31聯隊の雪中行軍は福島大尉が以前から綿密に計画を立てていた大行軍であるが、5聯隊側の行軍は、2,3日前に決定された、1泊2日の小行軍であったからだ、という。最も大きな点としては、福島隊に随行していた東奥日報の東海記者が、山頂付近で5聯隊の遭難者を発見し、遺体は無理なので小銃だけ持ち帰ったという話。これは東海記者が実際に記事にしたもので、新田本でも大きく取り上げられているが、著者はこの話は丸々記者の作文であり、福島隊は山口隊の遭難者は一切見ていないと断じている。
福島泰蔵は群馬県の商家に生まれた。教導団を経ての陸士入学であったため、同級生と較べれた年をとっていた。陸士は2期で同期には鈴木孝雄らがいた。任官した福島は高崎の町で同僚の永田十寸穂少尉と同じ下宿で暮らし始めた。永田は名前を”マスオ”と読む。彼にはやはり一風変わった名前の弟がおり、その弟も後に陸軍軍人となる。ちなみに父親も志解理(シゲリ)という変わった名前で、これは医家の家柄に由来するのかもしれない。福島は非常に勉強熱心な読書家であった。また普通の歩兵将校にはない地図作成という特技もあった。そのため中尉のとき、陸地測量部に転属となった。しかし僅か1年で、新設された歩兵第31聯隊の中隊長に赴任する。これは師団長の立見尚文が、陸士出の気鋭の将校を欲しがったことに因る。弘前でも彼は持ち前の勉強熱心さで、岩木山雪中踏破演習などの行軍演習を次々成功させ、師団長の知遇を得ている。八甲田山もこれらの演習の延長線上にあり、総ては対露戦の為であった。八甲田山雪中行軍は特に、福島大尉が聯隊長、旅団長を飛び越え、師団長から直接指導を受けていたと著者はしている。
さて見事に八甲田山を制覇した福島隊であったが、第5聯隊の悲劇のおかげで、その功績はあまり世間に広まることは無かった。福島自身はまもなく旅団副官に転任となった。ちなみにその前に、参謀本部が戦史室に彼を迎えようとしたことがあったが、それは立見が拒否したらしい。優秀な大尉を離したくなかったのだろう。旅団副官となった彼は妻を迎えている。
新たな上司で長州出身の友安治延少将は、漢籍を良くする文人タイプの将軍で、妻が薩摩人という点は乃木と同じであるが、実際彼の妻は乃木の妻静子と遠縁であった。友安の妻は広島で静養中であり、彼は妾宅に寝泊りすることが多かった。また友安自身体が弱く、半年も妻のところで休暇をとったことがあった。妾を伴って官費で秋田まで旅行をしたこともあった。ちなみに山口隊が遭難したとき彼は、浅虫温泉に居た。こういう態度が、仕事熱心な福島大尉には我慢ならなかった。副官の官舎は旅団長の向かいにあったが、旅団長が在宅時は必ず、旅団長官舎に向かって大声で号令をかけたり、詩吟をうなったりするようになった。酔っ払ってわけの分からないことを喚き散らすこともあり、福島の妻は気が気でなかった。ある日などは、釣りを楽しんでいる旅団長のところに馬で乗りつけ、大きな石を抱え上げて、旅団長が釣り糸を垂れている付近に投げ込み、一言の挨拶も無しに立ち去った。これには友安旅団長も肝をつぶし、顔面を蒼白にして口をわななかせていたという。遂に二人の抗争は陸軍省の裁くところとなり、友安少将は後備役に、福島大尉は山形の聯隊の中隊長に転任となった。いくら立見中将が福島贔屓とはいえ、少将と大尉が喧嘩をして少将が後備になるのだから、友安少将のだらしなさはよっぽどのものであったようだ。ちなみに彼は日露戦争では、後備第1旅団長として旅順攻囲に参加している。谷寿夫の機密日露戦史に次の記述がある。
”旅順攻撃における某少将の二〇三高地攻撃を辞退せる件”
この某少将が友安である。彼はあまりの惨状にビビッてしまい、自ら乃木に辞任を申し入れて旅団長を辞めている。
32聯隊でも福島は短い期間に多くの提言や論文を残している。明治37年9月、福島は妻と生まれたばかりの娘を残して出征した。全軍の予備的扱いであった第8師団は遂に黒溝台に投入され、福島は明治38年1月28日、そこで戦死する。黒溝台の戦いは、明石、宇都宮ら在欧武官がロシアの冬季作戦を探知して警告を送っていたにも関わらず、また騎兵からも情報が上がっていたにも関わらず、児玉源太郎以下満洲軍参謀がそれを全く無視したため、日本軍の大苦戦となった。しかし実は福島も、戦前に書いた「露国ニ対スル冬季作戦上ノ一慮」という論文の中で、ロシア軍少将の談話を引用しながら、ロシア軍が冬季に作戦行動に出る可能性を訴えているのだ。福島は満洲に上陸した10月に、総司令部に於いて児玉に謁見している。彼を冬季作戦の権威と認めてのものだろうが、そのとき上記のことについて話し合われたかは不明。戦後、秋山好古が総軍参謀であった松川敏胤にこのときの不手際詰問した。二人の後ろで聞いていた永沼秀文によると、松川は諧謔的な口調で
「なあにあの時はお客さんが左翼方面から来るだろうと思っていたのだ」
と答えた。すると秋山は辞色ともに激しく
「お客を待つなら待つで歓待の手段を取っておかねばならないではないか。何にも接待の準備がないところへお客さんに見舞われたから、あの醜状を暴露したのではないか。敵の強大な集団が進んでくる模様はいく回となくわが輩の手許から報告してをり、警告してをつたのに、総司令部でああまた例の騎兵の報告かと軽視して信用しなかったから、遂にあんな不始末になったのだよ」
と厳然と言い放ち、これには松川も一言もなかったという。
正直文章的にはも一つで、所々「ん?」と感じます。基本的には石原に関するエピソードの羅列で、失礼を承知で言えば、私がホームページでやってる人国記の超々グレードアップ版という感じです。しかしその参考文献の量が半端じゃないです。従ってどんな人でも、「へ〜」というエピソードがあると思います。石原好きの人は、まあこの一冊(二冊)で満足してしまうのもいいですが、出来れば巻末の文献一覧を辿っていって欲しいです。素人が歴史勉強するには、このやり方が一番だと思います。
それではちょっと面白かった小ネタを摘出してみます。
小学校時代、校長ですら頭を突き出せる窓の格子に、頭が引っかかるくらい巨頭だったため、ついたあだ名が”西洋かぼちゃ”。左下は莞爾と弟の二郎であるが、これを見る限りデカ頭は血統のようだ。右下は成長した二人だが、見ての通りやたら似ている。莞爾だと思って二郎に話しかける人やその逆がいたというのも、肯ける。

幼年学校時代、月6円50銭の学費のうち5円は鶴岡尚武会から、残りは鶴岡の素封家の富樫家から借りていた。同期の南部襄吉の父南部次郎は、郷里の育英資金から10円を借り、学費と小遣いとして7円50銭を送り、残りを自分のものしていた。石原も、父が学費の一部を煙草銭か何かに使っているらしいとこぼしていたという。二人の小遣いは同期中最低の1円であった。南部次郎は盛岡藩主の連枝、所謂アジア主義の外交官で、莞爾の中国観にかなりの影響を与えた。次郎も莞爾を高く買い、息子に対し「お前は一生あの人に見捨てられない様にしろ」と言っていた。
中央幼年学校卒業直前、剣術の時間に助教から「真剣勝負」を挑まれた。莞爾は、相手の急所を握って気絶させ、石原は品性下劣と評される一因となった。
士官候補生時代、南部は、小国日本ではどうやっても西洋に勝てないと、軍人に絶望し、植木屋になりたいと莞爾に相談した。莞爾は、陸軍を改正しドイツにでも何でも勝つ陸軍にするために軍人になった、貴様もそれだけの気宇を持たないか!と励ました。しかしその莞爾も後年、中耳炎で入院し、体に自信を無くして、「写真屋になりたい」と漏らしたことがある。このとき入院を嫌がる莞爾に困った父は、今村均に依頼し、今村は駄々をこねる莞爾を無理やり入院させた。
陸大入試の再審で、「機関銃の最も有効な使用法はどうあるべきか」という課題を与えられ、飛行機に装備して、”酔っ払いが歩きながら小便をするように”、”バラバラバラ”と敵の大縦隊に浴びせると答えたことは有名。
下の写真は、メッケルの胸像の前で撮られた陸大卒業記念。前列中央が石原。確信は無いが前列右から二人目が樋口季一郎じゃないか。石原の左隣は何となく、眉目秀麗・弁舌さわやかということで石原を抑えて首席になった鈴木率道のような気がするが自信は無い。後列左から二人目の恰幅のいい人は阿南惟幾か?

武藤章は真宗であったが、ベルリンで里見岸雄の講演会を聞いてから、熱心に日蓮を研究するようになった。石原はこれに大変喜び、日本の妻に手紙で、実家の尾野実信大将邸に住む武藤夫人を訪ねるよう依頼している。石原は、武藤は「中々立派な人なる故、此一族を教化することは極めて有効」と考えたのである。
宮沢賢治は石原と同じ国柱会の信行員であった。賢治は『妙法蓮華教』1000部の頒布を遺言したが、頒布先の名簿には石原の名前もあった。賢治の弟清六から石原に送られた本は、第59号であった。
下巻に続く?
引き続き、澤地久枝『自決 こころの法廷』NHK出版
及び、須山幸雄『二・二六事件 青春群像』芙蓉書房
前のエントリは平日の晩にチャッチャと書いたので、やはり足らずが多く気になる。親泊の37期は熊幼に重要人物が集中している。菅波、大蔵栄一、香田清貞、朝山小二郎・・・皆熊幼である。そのうち菅波は熊幼を優等(2番)で卒業している。しかし陸士に進んでからは、思想問題に没頭して成績を下げている。2期上の大岸頼好も広幼を4番で卒業しながら、陸士で菅波と同じ100番台まで落ちている。点取り虫に徹していれば、軍官僚としての栄達は約束されていたであろうが、人より抜きん出た知性と感受性が彼らを維新活動へと導いた。親泊もまた陸大には進んでいない。受験は少なくとも2度している。そのとき上京して菅波の家に泊まっているので、再審までは進んでいるようだ。どこまで本気だったのかは不明。
ちなみにこの期のトップは井本熊男で、彼は陸士の予科、本科でもトップをキープして恩賜の銀時計を貰った。彼は後に大本営参謀として、撤退命令を持って自らガダルカナル島に飛び、撤退作戦を指導するという困難な任務を果たす。二人は直接顔を合わせる事はなかったが、電話では喋っている。そのとき親泊は次のようなことを言っている。
「おい井本か、第三十八師団の将兵は最後の一人まで最善を尽くしてよく戦ったぞ。これ丈は認めてくれ。帰ったら同期生諸君によろしく、他に何も云うことはない」
まだ撤退命令を知らない彼は、ガ島で果てる気持ちであった。
若かりし日の親泊は、道を歩くと、すれ違う女子学生がいっせいに振り返るような美男子であった。ひよわく運動が苦手であったが、その”少年”ぶりから特別扱いされていたという。小山公利によれば、長距離走で親泊が青くなって列外に出ても先輩は黙認するが、他の生徒が同じように出ると、「こら、貴様は親泊と違う」とどやされ列に戻されたという。一方文才は此頃からずば抜けたものがあり、国語教官のお気に入りであった。菅波も軍服姿には定評があり、西田税の家で、菅波と海軍の藤井斉に初めて会った末松太平は、海軍はスマート陸軍は野暮ったいという先入観から、藤井を菅波だと思ったという。結婚に際しては、親泊が菅波に直接、妹をくれと言ったそうだ。
予科士を卒業して羅南の騎兵27聯隊に配属となった親泊は、そこで西田税と出会う。彼はすっかり西田に傾倒し、隣の歩兵聯隊に居た大蔵らのもとにやってきては西田の講義の受け売りをした。菅波にも手紙で、「羅南にすばらしい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」と書いている。菅波が西田の名前を聞いたのはこれが最初であった。後に彼は親泊によって西田に引き合わされ、最も深い同志となる。
現代では嘘の代名詞となった大本営発表であるが、陸軍報道部員という仕事は、やはり親泊には相当つらいものであったようだ。心許したかつての部下の岡治男大尉には
「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。心の中では申し訳ないと詫びつづけている。ほんとうに辛い職務だ」とうつむき語ったという。
彼の死について菅波は熊本幼年学校第二十二期同期生月報に次の手記を寄せている。
(前略)
『親泊様、御一家一同御自害、相果てられました』― 昭和二十年九月三日の早朝、小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。
かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものなってみると、哀痛、万感交々この胸に迫る。取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。空襲を免れた古い街並の一角、シーンと静まる親泊の家、一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。
『あそこ、か』。玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。
凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち技き、十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
件の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニングの二号であった。
通夜、翌日納棺、荼昆に付す。いよいよ出棺の間際、『お別れを』と係の者が蓋を開けると、大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、『ワーッ』と一斉に声をあげて泣き出した。無理もない。きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、まのあたりにして、ああ。(中略)。
終戦の日から、ミズリー艦上の降服調印の日までの間に、一度だけ朝省が拙宅に来た。『千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで』と語った。『上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない』とも。
また別の日、妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、『うちに行こう、一緒に行こう』と言って泣き出した。虫が知らせたのかと、あとで思った。(後略)
天皇とその周辺のふがいなさを強く批判する親泊の発言について、菅波は茶園義男教授への手紙の中にも書いている。
終戦の間際 天皇、皇太后全く意気地なし。みずから戦を宣しながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。 ―朝省最後の言葉
菅波自身この親泊の意見にある程度同意であることは、それに続く彼の言葉からも明白だ。まあ、こういう天皇批判を、機関説として揶揄する向きがあるが、私はその点には全く同意しない。精神性を無視した唯物論は問題にならない。
及び、須山幸雄『二・二六事件 青春群像』芙蓉書房
前のエントリは平日の晩にチャッチャと書いたので、やはり足らずが多く気になる。親泊の37期は熊幼に重要人物が集中している。菅波、大蔵栄一、香田清貞、朝山小二郎・・・皆熊幼である。そのうち菅波は熊幼を優等(2番)で卒業している。しかし陸士に進んでからは、思想問題に没頭して成績を下げている。2期上の大岸頼好も広幼を4番で卒業しながら、陸士で菅波と同じ100番台まで落ちている。点取り虫に徹していれば、軍官僚としての栄達は約束されていたであろうが、人より抜きん出た知性と感受性が彼らを維新活動へと導いた。親泊もまた陸大には進んでいない。受験は少なくとも2度している。そのとき上京して菅波の家に泊まっているので、再審までは進んでいるようだ。どこまで本気だったのかは不明。
ちなみにこの期のトップは井本熊男で、彼は陸士の予科、本科でもトップをキープして恩賜の銀時計を貰った。彼は後に大本営参謀として、撤退命令を持って自らガダルカナル島に飛び、撤退作戦を指導するという困難な任務を果たす。二人は直接顔を合わせる事はなかったが、電話では喋っている。そのとき親泊は次のようなことを言っている。
「おい井本か、第三十八師団の将兵は最後の一人まで最善を尽くしてよく戦ったぞ。これ丈は認めてくれ。帰ったら同期生諸君によろしく、他に何も云うことはない」
まだ撤退命令を知らない彼は、ガ島で果てる気持ちであった。
若かりし日の親泊は、道を歩くと、すれ違う女子学生がいっせいに振り返るような美男子であった。ひよわく運動が苦手であったが、その”少年”ぶりから特別扱いされていたという。小山公利によれば、長距離走で親泊が青くなって列外に出ても先輩は黙認するが、他の生徒が同じように出ると、「こら、貴様は親泊と違う」とどやされ列に戻されたという。一方文才は此頃からずば抜けたものがあり、国語教官のお気に入りであった。菅波も軍服姿には定評があり、西田税の家で、菅波と海軍の藤井斉に初めて会った末松太平は、海軍はスマート陸軍は野暮ったいという先入観から、藤井を菅波だと思ったという。結婚に際しては、親泊が菅波に直接、妹をくれと言ったそうだ。
予科士を卒業して羅南の騎兵27聯隊に配属となった親泊は、そこで西田税と出会う。彼はすっかり西田に傾倒し、隣の歩兵聯隊に居た大蔵らのもとにやってきては西田の講義の受け売りをした。菅波にも手紙で、「羅南にすばらしい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」と書いている。菅波が西田の名前を聞いたのはこれが最初であった。後に彼は親泊によって西田に引き合わされ、最も深い同志となる。
現代では嘘の代名詞となった大本営発表であるが、陸軍報道部員という仕事は、やはり親泊には相当つらいものであったようだ。心許したかつての部下の岡治男大尉には
「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。心の中では申し訳ないと詫びつづけている。ほんとうに辛い職務だ」とうつむき語ったという。
彼の死について菅波は熊本幼年学校第二十二期同期生月報に次の手記を寄せている。
(前略)
『親泊様、御一家一同御自害、相果てられました』― 昭和二十年九月三日の早朝、小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。
かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものなってみると、哀痛、万感交々この胸に迫る。取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。空襲を免れた古い街並の一角、シーンと静まる親泊の家、一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。
『あそこ、か』。玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。
凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち技き、十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
件の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニングの二号であった。
通夜、翌日納棺、荼昆に付す。いよいよ出棺の間際、『お別れを』と係の者が蓋を開けると、大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、『ワーッ』と一斉に声をあげて泣き出した。無理もない。きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、まのあたりにして、ああ。(中略)。
終戦の日から、ミズリー艦上の降服調印の日までの間に、一度だけ朝省が拙宅に来た。『千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで』と語った。『上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない』とも。
また別の日、妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、『うちに行こう、一緒に行こう』と言って泣き出した。虫が知らせたのかと、あとで思った。(後略)
天皇とその周辺のふがいなさを強く批判する親泊の発言について、菅波は茶園義男教授への手紙の中にも書いている。
終戦の間際 天皇、皇太后全く意気地なし。みずから戦を宣しながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。 ―朝省最後の言葉
菅波自身この親泊の意見にある程度同意であることは、それに続く彼の言葉からも明白だ。まあ、こういう天皇批判を、機関説として揶揄する向きがあるが、私はその点には全く同意しない。精神性を無視した唯物論は問題にならない。
澤地久枝著『自決 こころの法廷』NHK出版
本書の主人公は、沖縄出身の軍人の中で最も知名度のあると思われる人物。陸軍大佐親泊朝省(おやどまり ちょうせい)。熊本幼年学校から陸士(37期)に進み、騎兵科の恩賜で卒した。この頃の陸士はまだ兵科別で恩賜を出していたが、親泊は全体でも8番目と優秀な成績である。父は教育者であり、その家柄は、沖縄の名門であった。将来を嘱望される青年将校であった親泊は、騎兵第27聯隊で聯隊旗手をつとめ、満洲事変での活躍は、ちょっとした軍国美談となった。
親泊は割合早くに結婚をした。妻には軍人の兄が二人いた。上が菅波一郎(後に少将)、下が同期生で菅波三郎といった。三郎と親泊は熊幼以来の親友であった。親泊は、幼年学校の休みには、沖縄の実家より宮崎の菅波家によく滞在したという。熊本の45聯隊で旗手もつとめた菅波三郎は、荒木貞夫らの計らいで東京の歩3に転任した。この菅波をかつて西田税に引き会わせたのは親泊であったという。西田も親泊と同じく朝鮮羅南の聯隊に居た。このような環境から、親泊も当然革新運動に関心を持っていたと思われる。昭和10年、陸大受験の為に上京して来た彼は、前年同様、菅波の家に泊まった。それに対し菅波は「俺の家に出入りを禁止す。君は勉強せよ」と申し渡し、親泊を革新運動から遠ざけた。結局親泊は、その後の二・二六事件で拘束されることもなく、陸大本科にこそ入れなかったものの、専科を卒業して、比較的順調な軍人人生を歩む。大東亜戦争が始まるまでは。
第38師団参謀として、大東亜戦争を迎えた親泊は、ガダルカナルで地獄の死闘に巻き込まれる。撤退後、彼はマラリヤや栄養失調で入退院を繰り返した。髪はすべて抜け落ち、上下の歯がすべて無くなっていたという。回復して陸士教官となった彼は、その地獄の一端を率直の一部の生徒に語っている(村上兵衛『桜と剣』)。当番兵の佐治氏は、著者に対して次のように語っている。
「師団長との会食のとき、参謀殿が使った飯盒を洗うのが当番の仕事です。『佐治』と呼んでわたされた飯盒をあけると、底に米と芋をおじやにしたものが二匙くらいと、乾パンが二つか三つ入っている。これが、わたしが生きのこったみなもとです。八十五歳になって、今日はじめて話すことです」
この人は絶句し、嗚咽した。
陸士教官となった親泊は、積極的に筆をとり、文章を書き始めた。その活動が認められたのか、19年には大本営陸軍報道部員となった。彼はこのころ同期生に対して次のような不満を漏らしている。
”戦争の経験のない者が戦争の指導をしているのは、戦場の実相がよく認識出来ず無理があり、危険えある。中央部にも其の種の人が多くて困ったものだ。殊に戦場に行く事を懲罰と心得る者があるに至っては、武士道も地におちた。”
彼が書くのは戦場の凄絶な実相であり、米軍の残虐さであった。彼は女性向け雑誌にも積極的に書いた。
★「大陸作戦の成功 − 女性のための戦局情報」(婦人画報)
★「あだを討つ精神」(主婦之友)
★「粘りづよく」(婦人倶楽部)
戦局が押し詰まり、ポツダム宣言が出ても、親泊は絶対継戦を叫ぶ最強硬派の一人であった。ガダルカナルで共に戦った黒崎貞明による。
「あくまで抗戦。本土決戦を実行して、講和のチャンスを獲得するのみだ」
「ソ連が参戦した今でもですか」
「まだまだ、関東軍と朝鮮軍は持ちこたえられる。俺は悲観していないよ」
彼の心の奥底をうかがうのは難しい。故郷沖縄が米軍に蹂躙されたことを挙げる人もいるが、本当のところは分からない。第32軍への転出を希望して、阿南陸相に止められたこともあったというが。
終戦に際して、親泊は一つ重要なことをしている。8月11日、新聞に下村宏(海南)情報局総裁の談話が載った。これは下村によれば、終戦へ向けての事前工作というもので、戦局の困難さを告げ、”最後の一線を守るため政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても国体の護持のためにあらゆる困難を克服して行くことを期待する”という”含蓄深き言葉”で締めくくられたものであった。ところがその横に、次のような陸相布告が載っていた。
”全軍将兵に告ぐ。「ソ」連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり。事茲に至る、又何をか言はん。断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令、草を喰み土を囓り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず。是れ即ち七生報国「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に、時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし。”
総裁談話と全く相反する布告に、読んだ人は混乱した。しかしこれは同盟通信の長谷川才次の機転によって海外には伝わらなかった。この文章自体は、稲葉正夫中佐が起草したものであったが、陸相、次官、軍務局長らに無断で新聞に載せたのは、親泊であったという。それを聞いた阿南は、「とにかく陸相布告も載せてやってください」と言うのみで、特に親泊を罰するようなこともなかった。
9月3日、親泊家を尋ねた人が、家族4人の遺体を発見した。
同期生、上司の上田昌雄少将への遺書と、”草莽の文”という長文が遺された。

上の写真は若かりし日の親泊(右)と菅波。菅波は戦後、多くは語ろうとしなかったが、特に自決した妹夫妻に関しては、完全に沈黙している。しかし著者は、その沈黙の中にこそ二人の強い繋がりがあるのではないかと推測している。私も同感であるが、残念ながらそれを裏付ける具体的な話は、さしもの著者も発見できなかったようだ。菅波は昭和60年、81歳で亡くなった。墓石には”遊戯三昧 三郎”の文字が刻まれている。これは、彼が生前好んで色紙などに書いた言葉だそうだ。
本書の主人公は、沖縄出身の軍人の中で最も知名度のあると思われる人物。陸軍大佐親泊朝省(おやどまり ちょうせい)。熊本幼年学校から陸士(37期)に進み、騎兵科の恩賜で卒した。この頃の陸士はまだ兵科別で恩賜を出していたが、親泊は全体でも8番目と優秀な成績である。父は教育者であり、その家柄は、沖縄の名門であった。将来を嘱望される青年将校であった親泊は、騎兵第27聯隊で聯隊旗手をつとめ、満洲事変での活躍は、ちょっとした軍国美談となった。
親泊は割合早くに結婚をした。妻には軍人の兄が二人いた。上が菅波一郎(後に少将)、下が同期生で菅波三郎といった。三郎と親泊は熊幼以来の親友であった。親泊は、幼年学校の休みには、沖縄の実家より宮崎の菅波家によく滞在したという。熊本の45聯隊で旗手もつとめた菅波三郎は、荒木貞夫らの計らいで東京の歩3に転任した。この菅波をかつて西田税に引き会わせたのは親泊であったという。西田も親泊と同じく朝鮮羅南の聯隊に居た。このような環境から、親泊も当然革新運動に関心を持っていたと思われる。昭和10年、陸大受験の為に上京して来た彼は、前年同様、菅波の家に泊まった。それに対し菅波は「俺の家に出入りを禁止す。君は勉強せよ」と申し渡し、親泊を革新運動から遠ざけた。結局親泊は、その後の二・二六事件で拘束されることもなく、陸大本科にこそ入れなかったものの、専科を卒業して、比較的順調な軍人人生を歩む。大東亜戦争が始まるまでは。
第38師団参謀として、大東亜戦争を迎えた親泊は、ガダルカナルで地獄の死闘に巻き込まれる。撤退後、彼はマラリヤや栄養失調で入退院を繰り返した。髪はすべて抜け落ち、上下の歯がすべて無くなっていたという。回復して陸士教官となった彼は、その地獄の一端を率直の一部の生徒に語っている(村上兵衛『桜と剣』)。当番兵の佐治氏は、著者に対して次のように語っている。
「師団長との会食のとき、参謀殿が使った飯盒を洗うのが当番の仕事です。『佐治』と呼んでわたされた飯盒をあけると、底に米と芋をおじやにしたものが二匙くらいと、乾パンが二つか三つ入っている。これが、わたしが生きのこったみなもとです。八十五歳になって、今日はじめて話すことです」
この人は絶句し、嗚咽した。
陸士教官となった親泊は、積極的に筆をとり、文章を書き始めた。その活動が認められたのか、19年には大本営陸軍報道部員となった。彼はこのころ同期生に対して次のような不満を漏らしている。
”戦争の経験のない者が戦争の指導をしているのは、戦場の実相がよく認識出来ず無理があり、危険えある。中央部にも其の種の人が多くて困ったものだ。殊に戦場に行く事を懲罰と心得る者があるに至っては、武士道も地におちた。”
彼が書くのは戦場の凄絶な実相であり、米軍の残虐さであった。彼は女性向け雑誌にも積極的に書いた。
★「大陸作戦の成功 − 女性のための戦局情報」(婦人画報)
★「あだを討つ精神」(主婦之友)
★「粘りづよく」(婦人倶楽部)
戦局が押し詰まり、ポツダム宣言が出ても、親泊は絶対継戦を叫ぶ最強硬派の一人であった。ガダルカナルで共に戦った黒崎貞明による。
「あくまで抗戦。本土決戦を実行して、講和のチャンスを獲得するのみだ」
「ソ連が参戦した今でもですか」
「まだまだ、関東軍と朝鮮軍は持ちこたえられる。俺は悲観していないよ」
彼の心の奥底をうかがうのは難しい。故郷沖縄が米軍に蹂躙されたことを挙げる人もいるが、本当のところは分からない。第32軍への転出を希望して、阿南陸相に止められたこともあったというが。
終戦に際して、親泊は一つ重要なことをしている。8月11日、新聞に下村宏(海南)情報局総裁の談話が載った。これは下村によれば、終戦へ向けての事前工作というもので、戦局の困難さを告げ、”最後の一線を守るため政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても国体の護持のためにあらゆる困難を克服して行くことを期待する”という”含蓄深き言葉”で締めくくられたものであった。ところがその横に、次のような陸相布告が載っていた。
”全軍将兵に告ぐ。「ソ」連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり。事茲に至る、又何をか言はん。断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令、草を喰み土を囓り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず。是れ即ち七生報国「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に、時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし。”
総裁談話と全く相反する布告に、読んだ人は混乱した。しかしこれは同盟通信の長谷川才次の機転によって海外には伝わらなかった。この文章自体は、稲葉正夫中佐が起草したものであったが、陸相、次官、軍務局長らに無断で新聞に載せたのは、親泊であったという。それを聞いた阿南は、「とにかく陸相布告も載せてやってください」と言うのみで、特に親泊を罰するようなこともなかった。
9月3日、親泊家を尋ねた人が、家族4人の遺体を発見した。
同期生、上司の上田昌雄少将への遺書と、”草莽の文”という長文が遺された。

上の写真は若かりし日の親泊(右)と菅波。菅波は戦後、多くは語ろうとしなかったが、特に自決した妹夫妻に関しては、完全に沈黙している。しかし著者は、その沈黙の中にこそ二人の強い繋がりがあるのではないかと推測している。私も同感であるが、残念ながらそれを裏付ける具体的な話は、さしもの著者も発見できなかったようだ。菅波は昭和60年、81歳で亡くなった。墓石には”遊戯三昧 三郎”の文字が刻まれている。これは、彼が生前好んで色紙などに書いた言葉だそうだ。
著者の篠原氏には小川又次や田村怡与造の本がある。
副題は「旅団長に見る失敗と成功の研究」
さらに帯には
「できる男」「できない男」日露戦争戦略と戦術、勝利と敗北の構図。実戦で力を発揮するには何が必要なのか。またどうしたら成果をあげられるのか。三人の指揮官に見る指揮統率の要諦。勝敗の分岐点に学ぶ。
もういい加減安っぽいビジネス書みたいな売り文句は止めて欲しいんだが。これを読んで興味を持って買う人が居るのか?
旅団長という職は、師団の数も知れていた日露戦争の頃は、まだ重要な役職だった。時代が下り、数十の軍司令部と数百の師団が編成されるようになって、完全に閑職化したが。日露戦争自体が話題に上ることは非常に多いが、出てくる人物はいつも馬鹿の一つ覚え。そういう中、こういう本は嬉しい。
で、できる男というのは花の梅沢旅団の梅沢道治と岡崎山の岡崎生三、「できない男」というのは東条英機の親父殿を指す。梅沢将軍は、まあかなりの有名人だろう。「平時の講評はこれを取り消す」は有名な手紙だ。岡崎将軍を取り上げてくれたのは嬉しい。饅頭山を奪取した猛将なんだが、知名度が低すぎる。第二師団の勇戦はこの人ともう一方の旅団長だった松永正敏に負うところが大きいと云われる。できれば松永将軍にも触れて欲しかったな。英教さんは、まあ陸大1期の恩賜であり、また息子が息子だけに、知名度はある。ただ結局机上の人であったようだ。戦術家として期待されながら、その期待を裏切った旅団長は、彼のほかに須永武義、山口圭蔵が挙げられるが(これは石光真清の本に載っていた)、運不運もあるし、決め付けるのは気の毒な気もする。
ところで下の写真、向かって左の腕組みしている青年将校は誰だか分かるだろうか?

ヒントは、この写真は梅沢旅団の司令部の写真だということ。分からん人は、鼻の下に長い八の字髭をイマジネーションで付け加えて欲しい。するとどうだろう。あら不思議w いやー爽やかですなあ。ちなみに右端の人物も大将にまでなっている。
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副題は「旅団長に見る失敗と成功の研究」
さらに帯には
「できる男」「できない男」日露戦争戦略と戦術、勝利と敗北の構図。実戦で力を発揮するには何が必要なのか。またどうしたら成果をあげられるのか。三人の指揮官に見る指揮統率の要諦。勝敗の分岐点に学ぶ。
もういい加減安っぽいビジネス書みたいな売り文句は止めて欲しいんだが。これを読んで興味を持って買う人が居るのか?
旅団長という職は、師団の数も知れていた日露戦争の頃は、まだ重要な役職だった。時代が下り、数十の軍司令部と数百の師団が編成されるようになって、完全に閑職化したが。日露戦争自体が話題に上ることは非常に多いが、出てくる人物はいつも馬鹿の一つ覚え。そういう中、こういう本は嬉しい。
で、できる男というのは花の梅沢旅団の梅沢道治と岡崎山の岡崎生三、「できない男」というのは東条英機の親父殿を指す。梅沢将軍は、まあかなりの有名人だろう。「平時の講評はこれを取り消す」は有名な手紙だ。岡崎将軍を取り上げてくれたのは嬉しい。饅頭山を奪取した猛将なんだが、知名度が低すぎる。第二師団の勇戦はこの人ともう一方の旅団長だった松永正敏に負うところが大きいと云われる。できれば松永将軍にも触れて欲しかったな。英教さんは、まあ陸大1期の恩賜であり、また息子が息子だけに、知名度はある。ただ結局机上の人であったようだ。戦術家として期待されながら、その期待を裏切った旅団長は、彼のほかに須永武義、山口圭蔵が挙げられるが(これは石光真清の本に載っていた)、運不運もあるし、決め付けるのは気の毒な気もする。
ところで下の写真、向かって左の腕組みしている青年将校は誰だか分かるだろうか?

ヒントは、この写真は梅沢旅団の司令部の写真だということ。分からん人は、鼻の下に長い八の字髭をイマジネーションで付け加えて欲しい。するとどうだろう。あら不思議w いやー爽やかですなあ。ちなみに右端の人物も大将にまでなっている。
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終戦を迎えると土居は、敵将湯恩伯の友情と協力の下、戦後処理に腕を振るった。第十三軍嘱託であった村辺繁一氏は土居に関して強烈な思い出がある。終戦後間もなく、ある日本人女性が米軍に拉致され、数週間後米ドルを貰って帰ってきたという事件が起こった。上海在留日本人は大騒ぎとなり、日本倶楽部で対策会議が開かれた。村辺氏は市川治郎参謀と相談の上、花柳界の女に因果を含める外あるまいという意見をまとめ、それを会議の席上で述べた。すると・・・
「じっと黙って聴いておられた土居閣下は、やおら私を睨みつけるようにして、『おれは女のけつで楽をしようとは思わぬ。いかない時はおれが死んでやる』と大喝される。この時の閣下は正に神か人か、帝國軍人はかくこそあるべし、拝みたい程の感激に胸が熱くなる。
泣きながら『閣下、非常の事態です。大の虫を生かすためです』と声を震わせる。閣下は私を顧みて『二度というな』とまた大喝された。あの時位心で泣いたことはない。幸いにして翌日から湯将軍の命令で日本人居住地域には柳団長の巡邏隊が出るしバリケードを築いて貰ってその後このような不祥事は起きなくてすんだ。閣下の決断によるところであると思う」(『一軍人の憂国の生涯』より抜粋)
全文はここ
土居中将は、反骨心と実行力に溢れた土佐のいごっそうという感じで、私もかなり好きです。ソ聯時代のエピソードも面白いですが、やはり上記のセリフが最高。
「女を差し出して自分が助かろう何て思わん。どうしても出せというなら、わしが腹を切ってやる」
土居さんが腹を切って事態が好転するかはともかく、戦争も漸く終り命の心配も無くなったときに、こんなこと言いきれる人はそう居ないでしょう。。






