近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

本を読んでいて面白い部分を見つけると、極力付箋を貼るようにしてます。でもしばらくすると、そのエピソードがどの本に載っていたか思い出せなくなり、折角の付箋もあまり役に立ちません。書くというのは大事ですね。そういえば学生時代も私は書いて覚えていました。ましてこのように人目に触れるものを書くとなると、気を使うので、より自分の頭にも入ります。これからは読んだら書く、をできるだけ実践していきたいです。

『四王天延孝回顧録』 みすず書房 昭和39年7月25日
四王天延孝は前橋藩士の西村家に生まれ、四王天家の養嗣子となった。祖父は前橋藩家老四王天清とのことであるから、分家か何かだろう。四王天家の祖先は明智光秀の部将四王天但馬守といわれる。陸士11期の工兵将校。陸士、陸大の成績は平凡だが、日露戦争では鴨緑江渡河の際に功をたてた。反ユダヤ主義者として有名だが、伝書鳩を陸軍に持ち帰ったりと、工兵将校としても色々な仕事をしている。この回想録は戦後に書かれたが昭和11年で終わっている。面白かった部分をピックアップしておく。

福島安正はものすごい甘党の上下戸。ラム酒の入ったプディングでも酔うし、アルコールランプの匂いでも酔うらしい。

ザバイカルの第五師団、内線作戦で3兵団を各個撃破。戦術家の鈴木壮六師団長、令名を挙ぐ。

軍務局長畑英太郎は練達の事務家。いつもは盲版式だが、時々「うっ」と捺印の手が止まる。その書類は必ず問題があった。

関東大震災時、陸軍省経理局の白戸課長、朝鮮人と間違われて殴打される。深谷の警察署に保護された朝鮮人83名の身柄について、旧部下に指示を与える。のぼせ上がった町民、警察署に押し寄せるも、これを渡さず。

陸海軍の航空研究機関の合同に努力するも、上層部の感情的な反対でぽしゃる。

将官演習旅行では軍司令官を仰せ付けられる。参謀長は井染禄郎。上原参謀総長に大いに褒められる。

国際共産党の本を出版。現役将官が実名で出すのは良くないと言われペンネーム「藤原信孝」とした。四王天家は鎌足から十六世、児玉七党の一を祖としているため。

上原元帥より、ユダヤ問題から手を引くよう勧告を受ける。これを拒否した四王天、その後間もなく予備役となる。

大場弥平と連れ立って、原田熊男を訪問し、国際連盟脱退反対の意見について聞きに行く。要領を得ない返答に、はっきり答えるよう勧告すると、原田色を失い、椅子にめり込んで無言になってしまったので、丁寧に辞去した。小心の人との印象。

昭和10年4月2日、軍人会館で催された林陸相主催の在郷将官招待会で、参謀本部の坂西一良大佐、酒を飲んで登壇し、”閣下方は起きているのか眠っているのか、生きているのか死んでいるのか、恐らく眠っているのであろう”と激越な調子で怒鳴った。将官が黙っているわけがない。”何を無礼を申すか、降りて来い”とか”イヤ、何を言うかもう少し言わしてみろ”という意見もあったが、驚いた主人の陸軍省の人間が坂西を拉致して去った。聞けば在郷軍人会幹部の某将官が、この会合を利用して謡曲の会か講習のパンフレットを配布したことに坂西が憤慨して、このような言動を為したということだ。しかし理由の如何に関わらず、このような不軍紀行為は許すべからざるものであるから、大佐は停職処分となった。


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小平喜一著 光人社NF文庫
休日出勤のお供にと何気に買った一冊。副題は知られざる日中戦争のインパール戦。支那戦線最大の敗戦である芷江(シコウ)作戦を描いた書。著者は独混第81旅団の下士官だった。
支那における我が軍は連戦連勝であったわけではない。例えば若林東一のデビュー戦となる良口会戦なんかも、負け戦である。しかし芷江ほどはっきりとした大敗は無い。
以下は、専田盛寿81Bs長に関する話。
”すでに五十の坂を越えた新旅団長は、前任者に輪をかけた、特権意識過剰の我利々々亡者であった。
着任して半月も経たぬうちに、夜伽の女が欲しいと言い出した。
旅団長閣下の欲しいということは即、命令であった。
忠義面した副官は早速、治安維持会に命令して女を準備させた。
人身御供となったのは十六歳にも満たぬ花も蕾の姑娘であった。
そして「おれはサックなんか使うのは嫌いだから病気の有無をよく調べろ」と命じた。”
専田は北支事変拡大に邁進した性質の悪い支那通の代表格だが、品行の方も最低でワロタ。神様みたいなのがいる一方でこういう下種い人間も少なくないのが、我が帝國陸軍であった。
友近美晴は広幼出身(首席で卒)、陸士32期、陸大は41期。まずは世代のトップグループに属していたといってよい。第14軍参謀副長から、新設された第35軍参謀長に就任。一時期、参謀副長となるが(参謀長として和知鷹二が来たため)、また参謀長に返り咲く。この本は敗戦直後に書かれたが、責任を師団以下になすりつけ随分勝手なことを書くとの批判もある。
第1師団については、期待はずれの1師団と評し、片岡董中将に関しても、騎兵らしからぬ消極的な戦闘指導と酷評している。しかし米軍はむしろ第1師団の戦いぶりを評価しており、友近少将のこの1D評は不適当であろう。個人的な感情を持ち込んだものか?
第100師団に関しては、百鬼夜行の100師団と評し、特に師団長原田次郎中将を我利亡者と称し、戦闘指導は積極的も、食糧問題や軍政に関してからっきし無関心で、自分は米と鶏ばかり食っていたと酷評を加えている。
第102師団に関しては、参謀長で持つ102師団と称し、専科出身の和田参謀長を、戦術眼高く、事務処理適切と評価している。逆に、師団長の福栄真平中将に関しては、私生活に関心深く、食と住になかなかやかましく、指揮冷厳にして卑俗な人柄で、人望薄く、一死赴難の気概なく「我々は何時帰れるんだい」等の愚問を発したなどと手厳しい。それもそのはず、この福栄中将はレイテ決戦の最中に、軍の命令も待たず、部下を置き去りにして、セブ島に逃げ帰るというとんでもない軍紀違反をやらかした人物なのだ。友近は特に相当の紙幅をこの福栄中将の逃亡事件に割いている。これには温厚な鈴木宗作軍司令官もかんかんであったという。どうにか命永らえた福栄中将もしかし戦後、BC級戦犯として銃殺された。

熊幼の方はやはりちょっとばかしはずれだったようだ。柳勇大佐による武藤章の面白話が載っていたが、残念ながら殆どは「武藤章回想録」にて引用されており、既知の内容であった。
いつまでも愚痴っててもしょうがないので、適当に書き散らすことにしました。

この本の著者、赤松貞雄は徹頭徹尾東條サイドの人間ですので、星野直樹に好意的です。ではその反対側に居るのが誰かというと、岸信介ですね。武藤章のブレーンだった矢次一夫は、書記官長に星野ではなく岸を据えるように強く武藤に進言。それを受けた武藤はかなり執拗に運動し、それが彼と東條英機の仲違いの一因になったと書いています。結局、武藤は佐藤や赤松のような東條の郎党ではなかったということですね。

さて回顧録など読むと、敢えて人物名を伏せてあることがよくあります。よってそのあたりを中心に書いてみようかと。

”私たちの取締生徒は、田中義一大将の女婿でなかなかの美男子であり、成績も首席だった。私はその前に机をおかされ、何時も彼に監視されているように思われて困った。私がニキビだらけの醜面であり、処分されたりしたので、何時も無愛想に取り扱われていた印象しか残っていなかった。それなのに、運命のいたずらか、後年私が教育総監部奉職時代でも、欧州出張時代でも、彼が思いつきのことをして失敗し、その後始末を私がさせられる羽目になったのである。そして私は出来るだけの御世話をして、彼から大いに感謝せられたのである。”

首席というのは毎年いるが、田中義一の婿(養子)となると限定される。西村敏雄その人だ。かれは幼年学校から陸士、陸大すべて首席で通した稀に見る秀才であり、フィンランド、スウェーデンの公使館附武官を務め、戦後は「北欧諸民族の祖国愛」という本まで出している。

後輩にTという成績のよい中尉がいた。(彼は陸大に入り、更に東大に聴講し、大東亜戦争では参謀として香港攻略に功があったが、戦後死亡された)この中尉が、大演習出発前、不幸にも花柳病にかかり私は彼を伴って連隊長室に行き演習不参加の御詫びを申述べた。例により東条連隊長は、
「安いものを買うからだ馬鹿者め!!」
と大声で叱咤した。だが、その後で私だけを残すと、すぐ連隊長の友人の医者に電話連絡を私に命じ、自分で電話口に出て、
「私の可愛い部下だ。将来有望な青年将校だから、金はかかってもいいから徹底的に治してくれよ」
と懇々と話をし、当時営業自動車が少ないときわざわざ自動車を呼んで彼を入院させた。

これも簡単に特定できる。多田督知。歩一であり、東京帝大の経済学部に派遣されていた。大東亜戦争緒戦では、第23軍参謀として香港攻略に参加。第14師団参謀長としてパラオに取り残されて終戦を迎えた。「日本戦争学」だとか何とかいう著作があるが、私は未読。

この本は以上。

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兄弟或いは親子で大将という例は幾つかあるが、それが陸海軍分かれてとなると、2組しかない。西郷兄弟と鈴木兄弟である。ただし西郷兄弟は草創期の人物で、いきなり大将或いは少将に任官されたことを考えると、正味の陸海軍兄弟大将は鈴木貫太郎・孝雄兄弟のみと云えるだろう。兄の貫太郎は終戦時の首相で有名だが、弟の孝雄はそのとき靖国神社の宮司をしていた。終戦で辞任したが、実に8年近くこの職にあった。彼の妻は日清日露の勇将立見尚文の娘で、次男の英は海軍に進み、開戦直前、郵船の事務員に身を窶してハワイを偵察した人物。ちなみに兄貫太郎の妻は、昭和天皇の養育係として知られる孝子夫人だ。

『怒涛の中の太陽』という本がある。孝雄の長男鈴木武氏が中心となって編纂された鈴木兄弟に関する本である。その中に、孝雄自ら筆をとり兄についての思い出を綴った「先兄を憶う」とい文章がある。残念ながら未完のまま、大将の遺稿となってしまった文章だが、中々面白いのでちょいと紹介したい。



大正5年頃だったか、私が砲兵課長奉職時、偶々品川よりの汽車の中で、兄と懇意な井上雅二氏と会った。氏は私に「君はお兄さんの人格についてどう思うか」と尋ねられた。私は「私が今日あるのは全く兄のおかげで衷心感謝しているが、特別なところがあるとは思わない」と答えた。すると井上氏は諄々と兄の業績を物語り、兄をして他日の大をなさしむるには、これからも兄弟が助け合っていかなければならないと、説かれた。後日これを兄に話すと、兄は笑って「私は決して名利を求めない。私はただ事に臨んで誠心誠意これを処理するのみだ。他人の批判のごときには全く関心が無い」と述べた。この言葉こそ、兄の終生を貫いた人生観ではないかと、物心ついた頃より終生苦楽を共にした私は思う。

父の由哲は関宿藩士で、元治元年から代官として和泉国伏尾の陣屋に駐在した。兄の貫太郎はそこで生まれた。3歳下の私は小石川の藩邸で生まれた。戸籍上は明治2年となっているが実際は明治3年生まれである。

兄は大きな体に似合わず泣き虫であった。しかもその泣き声は、体に比例してすこぶる大きかった。私は兄とは反対に強情で腕白で暴れ者であった。兄の泣き声を聞くと、私は兄を守るために直ちに声のする方へ飛び出していく。ついてみれば、兄は数人の学友に囲まれ、揶揄されているのか、ただ声を上げて泣いているだけである。私はまだ学齢に達していなかったけれど、彼らは私の姿を見ると囲みを解いて逃げ去った。私は、兄を苛めた上級生の一人が、私の家の前を通って通学することを知っていたので、翌朝未明から起きてその生徒が通るのを待ち伏せ、これに闘争を挑もうとしたが、その生徒はこれを察知したのか、道を変えて登校した。

小学校時代、私たちが住んでいた前橋に、板垣退助先生が演説に来られた。私たちは接待役補佐に選ばれた。まさに宴会が始まらんとするそのとき、突然私は宴会に出席して酌をしろと申し付けられた。驚いた私は兄に相談し、兄は年長の学童に代わってくれるよう頼んだが、彼らは、”武士の子が酌をするなどもってのほかである。我々は下足番をするから、お前たちは酌をしろ”といって代わってくれない。そこで私は仕方なく宴席についた。そして云われるがままに、立って演説する板垣先生に「先生水を」とコップを差し出した。礼儀作法も心得ない学童を、このような場面で使うとは、よくよく無謀な話である。私は明治11,2年頃、胃病に悩み、病床に呻吟していた。兄は学校から帰宅するとまず第一に私の病床を見舞った。私が兄の帰宅を一日千秋の思いで待つとともに、兄は私が一日でも早く快復することを望んだ。兄の私に対する愛情はこの時代に始まり、終生変わることなく続いたことを憶うに、私は感謝の念禁ずるに能わざるとともに、涙を禁じ得ない。

明治18年の夏、海軍兵学校より帰ってきた兄と二人で妙義山に登る二泊三日の旅行をした。この旅行こそ、兄が私に最も大きな教化を与えた記念すべき旅行であった。私たちは妙義山を下り富岡町に至る途中で道に迷い、右へ行くか左へ行くか議論した。その結果、私は茶目っ気を出して、憤然と自らが主張した道を進み、数百メートルいったところで桑畑に隠れて兄の動静を観察していた。しばらくすると心配顔の兄が私の前を通り過ぎた。私は兄が数十メートル行ったところで声をかけた。すると振り向いた兄は、目に涙を浮かべて、”お前は出発前に父上が言われたことを忘れたのか。父上は我らに仲良く旅行をしてこいと言われた。このような行動をして、お前自身は満足かもしれないが、私は兄として父上に面目が立たない。この行は、お前一人の行にあらず、二人の旅行である。自分の欲を充たさんとして他者の責任を考えないのは愚者の行為だ。”と諄々と私に訓戒を加えた。私は返す言葉もなく、涙を浮かべて己の不明を詫びた。



以下思い出は日清戦争にとび、そこで終わっている。未完なのは残念だが、それでも兄弟の若い頃を生き生きと描く文章は素晴らしい。終戦という未曾有の大事件の収拾にあたった鈴木貫太郎には、それを陰で支えるこういう弟が居たのである。鈴木貫太郎は昭和23年、82歳で世を去った。鈴木孝雄は戦後は偕行社会長を長く務め、昭和39年、93歳の天寿を全うした。


写真は靖国神社宮司時代の鈴木孝雄



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河辺虎四郎中将は富山出身の陸士24期。陸大は恩賜。支那事変勃発時の参本第二課長(戦争指導課長)であり、終戦時は参謀次長であった人物。ウ号作戦の河辺正三(まさかず)大将は実兄にあたる。

本書は、参謀次長時代の中将の日記と、その部分に対応した回想(戦後刊行された回想録より抜粋)を並べ、それに解説を加えるという構成になっている。

しかしこの解説が酷い。河邊虎四郎文書研究会には、軍事史家として名高い森松俊夫氏も名を連ねておられるのに、一体これはどうしたことだろう。私も、海軍の”良識派”やそれに追従する小説家が広めた海軍善玉・陸軍悪玉論は、全く噴飯ものだと思うが、しかし本書のようなピントはずれの批判もまたみっともないと思う。下手をすれば河辺中将を貶める結果となるのではないかとも心配する。ただ、本書に引用されている日記は防衛研究所所蔵で刊行されていないので、私にとっても有り難い。防衛研究所には、未刊行の(高級軍人たちの)日記類をぼちぼち吐き出していただきたいのだが・・・・