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近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

(日露)戦前の松川敏胤の日記を読んでまず目につくのが田村怡与造への批判。「軍政あるを知りて戦略戦術あるを知らず」当時田村は参謀本部次長で松川は第一部長。どうも松川からしたら、田村は自分を軽んじているように感じたようだ。また田村は対露戦も慎重派だったので、そこら辺も合わなかった。
他にもいろいろ人物評をしていて、大山は恐露病患者で大決断が出来ないとか、大澤界雄は蔭では不平を言うが、表に出たら何も言えなくなるとか。また井口省吾は間違いのない人物だと評価しており、大島久直も教育熱心ないい将軍だと褒めている。落合豊三郎については、大事の前に慎重なのはいいが、慎重すぎると決断が出来ないと危惧(?)している。そして福田雅太郎を進取の気ありと絶賛している。
日本の騎兵について懐疑的なのは後(黒溝台)への伏線か。
日露戦争では満洲軍の参謀だった松川敏胤の日誌が、ここにある。國學院大学大学院の長南政義氏が翻刻されたもので、私は氏から直接送っていただいた。感想を書くと約束しながら、まだ果たせずにいるのが心苦しいが、、、
今、これをドラマ(坂の上の雲)を見ながら書いているが、このドラマでは誰が演るんだろうか?
あるブログで知った池田俊彦さんの『その後の二・二六』を購入し読了。副題の「獄中交遊録」が示すとおり、小菅の刑務所での池田さんの思い出を綴ったものだ。当時の小菅には左右の大物が勢ぞろいしていた。井上日召、古内栄司、小沼正、菱沼五郎、橘孝三郎、四元義隆、林正三。五・一五事件の三上卓、古賀清志、黒岩勇、山岸宏、村山格之、中村義雄。田中清玄、佐野学、鍋山貞親、田島善行、谷川巌、河上肇、朴烈。後に徳田球一や志賀義雄、福本和夫も来た。

池田さんは当初、山口大尉の兵器開発の手伝いをしていた。山口大尉は刑務所内に作業所を作ってもらい、これを山口デザインオフィス(通称YDO)と名付け、萱場製作所から発注を受けた機関砲の設計を手がけていた。しかし池田さんは次第に大尉の態度に物足らないものを感じるようになり、志願して農作業に移った。

 橘氏とはよく哲学的な話をした。特にカントやヘーゲルの話をした。橘氏はヘーゲルよりもカントが良いと言った。両手を握って眼の前に出し、掌を内側に向けて開きそれを胸に引き寄せながら言った姿が今でも私の眼に焼きついている。あらゆるエルシャイヌング(現象)をエンピンデン(感受)するのにカントは十二のカテゴリーを考えた。複雑なようだが確実だと言われた。
ヘーゲルは詩だねとも言った。これは私がヘーゲルの法律哲学綱要の中の好きな言葉「理性的なるものは現実的、現実的なるものは理性的である云々」の話をしてその詩的表現に魅せられているようなことを言ったからである。ヘーゲルの文章はあの時の私の胸の中で躍動していた。
また橘氏は農村の話をした。農民と土とは一体で農民は土に生きるものだ。資本が農民を搾取することは許されない。いまの日本の小作制度には大きな欠陥がある。人間は米を食べて生きている。そして糞をたれる。その糞を肥料にして稲が育つのだ。これは生命の永遠の循環で、稲を育てる耕土は稲を作る農民と一体のものなのだ。これを農民の手から奪うことは許されない。日本の農村社会は稲作民族の生活のシンボルであり、生活の文化そのものである。ロシア革命など共産党は農地を貴族の所有から奪ったが、それを本来の農民の手に返さず政府のものにしてしまった。これは農地解放などではないと言った。農民と土地が一体である農村が国の基礎であって、如何に工業が発達しても、国の形態の基礎は農本である。これが崩れれば日本の社会的精神的根拠が崩壊する。日本の皇室はこの中心にましますと言われた。橘氏の話は私を魅了した。
あれから五十年以上経った今日でも私はこの時のことを覚えている。橘氏はこうゆう話をされる時、その顔には情熱が溢れていた。橘氏は埴生の宿とか菩提樹などの浪漫的な歌が好きで、平和な農村を心から愛した方である。その方が五・一五事件というテロ行動に走ったことの裏には、破壊されてゆく農村への限りない慈しみと共に、金権資本に対する烈しい怒りが心の底にたぎっていたからに違いないと思う。橘氏のこのような思想は左翼系の佐野学氏などに伝わっていたのではないかと払は考えている。


池田さんは獄中で、その後の歩一と歩三の有様について聞くことができた。事件後歩一の聯隊長となった牛島満大佐は思いやり深い人格者であったため、事件に参加した下士官兵も分け隔てなく労ったのに対し、歩三の新聯隊長は事件参加者を逆賊扱いし、彼等を最も危険な戦場へ追いやったという。この聯隊長が誰かは分っているが、裏の取れない話なのでここではその名前は伏せておく。

さてこの本に書いてあることではないが、ひとつ。敗戦後、二・二六事件はファッショへの道を開く転機となった事件と悪し様に言われる一方、そのファッショ官僚たちと敵対していたことで逆に評価されるようにもなった。斎藤瀏はGHQに呼ばれて二・二六事件について説明を求められ、その結果、事件はデモクラシー革命だとかなんとか言われて、アメリカ人は理解してくれていると喜んで帰ってきたという話もある。しかし事件で死刑を免れ、後に恩赦で出獄した人々の多くは、その後国策会社のようなところに勤めて、大戦中非常に熱心に国に尽くされた。国運をかけた戦争を前にした日本人として、それは当然のことであるし、まして彼らは元々軍人なのだから、これを非難するには当たらない。しかしやはり一抹の物足りなさを感じるのも正直なところである。


前記の山西残留問題における日本側の最高責任者は第1軍司令官の澄田中将だが、その次にくるのは第114師団長の三浦三郎中将となる。三浦は数少ない(唯一?)憲兵出身の師団長であるが、河本大作による残留将校の区分によれば、彼は利権派であり、実際帰れるチャンスをつかむとさっさと帰国している。

遠藤三郎は戦後、軍備の撤廃や中共政府との国交樹立を訴えてまわったため、元軍人のみならず多くの人の憤激を買った。山口県での遠藤の講演を聴いた三浦もその一人で、郷友会の機関誌に、その講演の内容を歪曲した記事を載せた。

辻政信は、遠藤と片山哲が中共から4千万円を受領したと吹聴してまわった。そして遠藤に抗議されると「渡されたと言ったが、閣下が受け取ったとはいっておりません。したがって訂正の要は認めません」と言い逃れた。

MSA協定批准に関する公聴会に、先輩の酒井鎬次と一緒に呼ばれた時、批准賛成の酒井に対し、遠藤は軍備は国を守るよりも戦争の導火線になりやすいし、日本のような国は軍備では絶対に国防は不可能であるのみならず、中ソとの軍備拡張競争を激化せしむるとして、反対意見を述べた。

衆院予算委員会の公聴会では世界連邦論、自衛隊無用論をとうとうとぶちまくり、それに元スペイン公使の須磨弥吉郎が真空論で噛み付くという、戦中とは逆の珍現象も起こった。

同期生会である二六会は、遠藤への弾劾文への賛意を集めるアンケートを行った。親友の満井佐吉からおかしなアンケートが回ってきたと通報を受けた遠藤は、幹事の元を訪れて抗議したが、結局同期会への出席は取りやめ、退会者という扱いとなった。26期ではほかにも、モンスターと呼ばれた田中隆吉が同期の多くから義絶されている。

今村均は遠藤の中国訪問に反対であり、ソ連はもうすぐ潰れるんだから、中国なんか行ってもしょうがないと、中国行きの断念を薦めた。しかし人間が出来ており、遠藤が戦犯将官の遺骨を持ち帰ってくると、わざわざ空港までこれを出迎え、感謝を述べている。
大山柏『金星の追憶』

当時陸大兵学教官で最も口の悪い工兵出身の高○中佐(十七期)がいた。この人は頭が余りにも鋭ど過ぎて剃刀の様で、常に辛辣な批判をするので往々誤解を受け、為に有為の材を持ちながら陸軍生活も短命に終った人であり、「口は禍の元」を地でいった人である。しかし不思議なことには私とは別懇の間柄で、今以て(昭和三十八年)尚音信を通じ、同氏の居所を十七期会に通報したのも私なのである。
 さて私が殿下に御供しているときは、よく金武官と並んで歩く。すると例の高○中佐、何んでこれを見逃そう。私共が行遇った途端に大声で私に向い「銀武官!」ときた。並みいる連中ドット笑う。なる程にわか分限の御附きだから、本職の金武官に対し銀武官は誠に当意即妙。いや皆んなが悦ぶのなんの。それからは皆んなで私を銀武官と渾名してしまった。だが殿下だけは全く御存知なかった。

今その場所をハッキリ記憶していない。恐らく富山近所だったかと思う。在郷軍人会の面々が殿下に御手植の御願にきた。担任教官(香月中佐と記憶する)と交渉、これは私がした結果、某月某日昼食休憩時に行われることになった。その日がきた。私が丁度折悪く殿下の御側にいた時だった。在郷軍人分会長の中尉殿、直立不動の姿勢も厳格且つ大声に「銀武官殿! 御手植の準備が完了しました」ときた。これには殿下御自身が余程驚かれたらしく、私が未だ嘗て聞いたことがない怒声を以て「ここにおられる方は銀武官ではありません。大山大尉です」で、気の毒したのは分会長、目を白黒している。彼氏は私を銀と堅く信じ、何んの疑もなかったのだ。

著者は大山元帥の跡取りで母は山川捨松。文中の殿下は王世子李垠殿下のことであり、金武官というのが、宇都宮太郎に育まれた金吾こと金応善である。というわけで、ぼつぼつ宇都宮日記第三巻に取り掛かりたい。
via http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-555.html
辻政信の『潜行三千里』が毎日ワンズというところから再販されているそうだ。元々毎日新聞社から出ていた本だけに、その系列なのだろう。辻は戦後多くの著作を出している。出版順ではなく中身の時系列で並べると

『亜細亜の共感』・・・彼が従軍した上海事変に始まり、支那総軍参謀時代の東亜連盟運動やら蒋介石の母親の葬式の話やら。

『ノモンハン』・・・これは関東軍参謀として臨んだノモンハン事件の話。

『シンガポール』・・・大東亜戦争緒戦、マレーからシンガポールまで、第二十五軍参謀時代の話。

『ガダルカナル』・・・大本営作戦班長として現地に赴いたガダルカナルでの話。

『十五対一』・・・インパール作戦後のビルマ、第三十三軍参謀として遂行した断作戦の話。拉孟、騰越は玉砕した。

『潜行三千里』・・・終戦と同時にタイから中国に逐電したときの話。

戦後の話は『これでよいのか』ほか数冊。

現代では総じて評判の悪い辻だが、かつては彼を高く評価する人は結構いた。元上官の磯谷廉介は、辻の悪口を聞くと機嫌が悪くなったというし、新聞記者でも高宮太平、田村真作(以上朝日)、中所豊(大阪)といった人々は、戦後に出した軍閥暴露モノの中で辻を褒めている。