小林弘忠『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』中公新書
巣鴨の初代教誨師花山信勝が主人公。これは色々な事情が重なってのことだが、花山師という人は、決して人気のある(評判の良い)人ではない。”巣鴨の父”という呼び名は師ではなく、二代目教誨師の田嶋隆純師に冠される。しかし著者・小林氏の花山師を見つめる視線はあくまで暖かい。氏の著作『逃亡』は以前紹介したが、暖かさに通じるものがある。
花山は真宗本願寺派宗林寺に生まれた。四高から東京帝大文学部印度哲学科に進み、更に大学院も出ている。その後帝大講師、助教授を経て、教誨師への就任要請を受けたときは教授となっていた。あいだに欧州を巡ったりもしており、語学力やキリスト教への理解もあった。根っからの学究であり、その学究臭さにあまり有り難味を感じないと思っていた被告もいた。しかしそれを言うなら田嶋師もソルボンヌ大学で文学博士を取得した現職大学教授である。
乱暴に言えば花山の説教は「安心して死になさい」というものだ。そして著者が示すように、師の説教で心安らかに処刑された人は何人もいる。ただやはり戦犯達は、基本的に自分たちに罪があるとは思っていないため、こういう説教の仕方は受けが悪い。心の安らぎを得た被告は結局処刑されてしまうわけだから、師への悪評だけが後に残る。この姿勢は特に、当時巣鴨で大きな影響力を持っていた岡田資中将と相容れなかった。
マスコミの問題もあった。巣鴨を一歩出ればマスコミが彼を取り巻く。そして彼の言葉の一部だけを取り上げて醜い記事を書く。これが廻りまわって巣鴨の住人に知れる。教誨師を辞めた後、本を出版し、これがベストセラーとなった。またアメリカに講演に行き人気を博した。こういったことも、残された人々からすれば面白いはずはない。何より後任の田嶋隆純という人が、花山と違いすぎた。
教誨師への就任依頼を受けたとき、田嶋はとても自分には務まらないと断ろうとした。しかしそれでは困るという若い米軍中尉に負け、一度試験的に講話をすることを引き受けた。
「わがいのち果てる日に」の大部分は死刑囚の遺書で占められ、”わがいのち”の”わが”というのは彼等自身を指しているが、田嶋自身巣鴨で脳溢血で倒れ、それが元で昭和三十二年に亡くなっている。ちなみに花山は平成まで長命した。
この話はだらだら続く可能性有り
巣鴨の初代教誨師花山信勝が主人公。これは色々な事情が重なってのことだが、花山師という人は、決して人気のある(評判の良い)人ではない。”巣鴨の父”という呼び名は師ではなく、二代目教誨師の田嶋隆純師に冠される。しかし著者・小林氏の花山師を見つめる視線はあくまで暖かい。氏の著作『逃亡』は以前紹介したが、暖かさに通じるものがある。
花山は真宗本願寺派宗林寺に生まれた。四高から東京帝大文学部印度哲学科に進み、更に大学院も出ている。その後帝大講師、助教授を経て、教誨師への就任要請を受けたときは教授となっていた。あいだに欧州を巡ったりもしており、語学力やキリスト教への理解もあった。根っからの学究であり、その学究臭さにあまり有り難味を感じないと思っていた被告もいた。しかしそれを言うなら田嶋師もソルボンヌ大学で文学博士を取得した現職大学教授である。
乱暴に言えば花山の説教は「安心して死になさい」というものだ。そして著者が示すように、師の説教で心安らかに処刑された人は何人もいる。ただやはり戦犯達は、基本的に自分たちに罪があるとは思っていないため、こういう説教の仕方は受けが悪い。心の安らぎを得た被告は結局処刑されてしまうわけだから、師への悪評だけが後に残る。この姿勢は特に、当時巣鴨で大きな影響力を持っていた岡田資中将と相容れなかった。
マスコミの問題もあった。巣鴨を一歩出ればマスコミが彼を取り巻く。そして彼の言葉の一部だけを取り上げて醜い記事を書く。これが廻りまわって巣鴨の住人に知れる。教誨師を辞めた後、本を出版し、これがベストセラーとなった。またアメリカに講演に行き人気を博した。こういったことも、残された人々からすれば面白いはずはない。何より後任の田嶋隆純という人が、花山と違いすぎた。
教誨師への就任依頼を受けたとき、田嶋はとても自分には務まらないと断ろうとした。しかしそれでは困るという若い米軍中尉に負け、一度試験的に講話をすることを引き受けた。
被告たちを前にした田嶋は、思わず次のように語りながら涙を流した。「シャット・アップ(黙れ)!!」
まるで飼犬を叱るような鋭い声。ハッと私は胸を突かれた。
一瞬しーんと静まった階上に、カラコロと下駄の音が聞こえ出した。十数人でもあろうか。頭上に近づき、次でカタヽとすぐ傍の階段を降りて来る。
一人、また一人、―降り口で会釈の目礼をかわすどの顔も、堅く結んで白蝋のように蒼白く透きとおっている。
田嶋隆純『わがいのち果てる日に』より
絶対に「懺悔しなさい」とは言わない。文字通り被告と共に苦しみ共に泣く田嶋の姿勢と比べれば、花山の態度はどこか一段上から見下ろすようなものに感じられる。また田嶋は就任と同時に熱心な助命嘆願運動を開始したが、これも花山はやらなかったことだ。この助命嘆願運動に対して、巣鴨の死刑囚を代表し岡田中将から田嶋に礼状が贈られているが、その中で岡田は、前任花山が助命嘆願に不熱心だったことを書いている。岡田の『毒箭』には更に、花山時代に自分宛に出されていたものが、田嶋師に代わってからやっと手元に届いたというようなことまで書かれている。仮に之が事実だとしても、花山が差し止めていたというようなことは無いと思うが、岡田の花山への感情を現している。「私は仏の慈悲に溢れて、その熱情を皆様にお伝えし得るが如き者ではありません。私のできることといえば、たゞ皆様と共に仏道を修業させて戴く、それ以外に何のお役にも立ち得ない人間であります」
「若し皆さんに罪ありとするならば、その罪は私達も亦共に負うべきものです」
「わがいのち果てる日に」の大部分は死刑囚の遺書で占められ、”わがいのち”の”わが”というのは彼等自身を指しているが、田嶋自身巣鴨で脳溢血で倒れ、それが元で昭和三十二年に亡くなっている。ちなみに花山は平成まで長命した。
この話はだらだら続く可能性有り
『終戦秘録 九州8月15日』上野文雄 白川書院
『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社
これも古本まつりで買った。『九州8月15日』は、菊水作戦から終戦後の復員あたりまでの九州を舞台にしたドキュメンタリー。著者は西日本新聞の記者。
九州では昭和20年、常軌を逸した事件が次々起こった。まずは衆議院議員吉田敬太郎が不敬罪などで逮捕された。新聞記者を相手に軍批判をやったときに、「皇族を担ぎ出そうという動きがあるが、高松宮様を除いてはつまらん方ばかりですな」とやったのがまずかったようだ。裁判は5分で終わり、懲役3年が宣告された。しかしこれはまだ序の口であった。
次に起こったのが九大の生体解剖事件、通称相川事件である。言いだしっぺは某軍医と方面軍航空参謀の佐藤吉直大佐。某軍医が九大のI第一外科部長のところに話を持ち込み、5月12日、Iの執刀で生体解剖が行われた。某が術後に肝臓を持ち出したため、戦後この事件は人肉食の嫌疑までかけられたが、結局その点は無罪となっている。持ち出した某は、空襲のときに負った怪我が原因で終戦前に病死した。
第三の事件が6月20日の捕虜殺害事件である。前日の19日に福岡は爆撃を受けた。その報復として8名の米軍捕虜が斬殺された。法務部長の伊藤章信少将、佐藤参謀、和光勇精法務大尉などが立会い、数名の尉官が腕を振るった。前日に母を空襲で殺されたT主計大尉は志願して3名を斬った。
第四の事件は8月10日の油山での捕虜殺害事件、通称油山事件である。このときも方面軍参謀副長友森清晴大佐、射手園少佐らの見守る中で8名が殺害された。今回も斬殺ではあったが、途中で空手による処刑が試された。勿論彼等は竜造寺徹心でも愚地独歩でもないので、空手では絶命させることが出来ず、結局斬っている。が、このことがより一層、事件に陰惨なイメージを与えることとなった。
次の、そして最後の捕虜殺害は8月15日である。終戦の玉音放送を受けて、方面軍司令部では残った捕虜の扱いが議論になった。友森大佐などは、自分はあまりこれまでの事件に関係が無いという思いがあったのか「どうせ隠したって判るよ」という立場であったが、参謀副長福島久作少将、佐藤大佐、情報参謀薬丸勝哉中佐、伊藤少将、和光大尉らは隠蔽を主張。結局残った14,5名の捕虜を油山に連れ出し、殺害した。このときは弓が実験的に使われたが、中らなかったらしい。また、佐藤大佐は処刑現場に報道部勤務の女を連れてきていた。
終戦を受けた方面軍司令部では、着任日の浅い安倍邦夫作戦参謀が徹底抗戦を叫んでいた。また報道部長の町田敬二大佐も、軍司令官横山勇を総理に抱く九州政府構想を持って動いていた。町田は報道部長であるため、彼の周りには火野葦平らもくっついていたが、結局横山中将が乗ってこなかったため、何事も起こらなかった。町田は後に自伝を書いているので、この話はそちらに譲る。
それでも収まらない若い召集の将校たちがいた。彼等が頼みにしたのが、菊池部隊(第212師団)の桜井徳太郎であった。桜井は数少ない少将での師団長で、支那やビルマで鳴らした猛将であった。しかし彼は終戦直後に東京に飛び、自らの目で詔勅を確認して、既に継戦意欲を失っていた。周りの人々の必死の説得で若い人々も解散したが、リーダー格の二人だけは、そっと仲間から離れ、油山で自決した。このときは立たなかった桜井は、16年後に奇妙なクーデーターに関与することとなる。
戦後、上記の捕虜殺害事件が明るみに出て、軍司令官以下が逮捕された。横山中将は、当初は自らの命令で軍律会議抜きでの処刑をやらせたと述べていたが、再審では、「自分は命令していない。伊藤と佐藤が決めたと思う」と証言を翻した。大岡昇平は、岡田資の伝記『ながい旅』の中で、この横山の態度を引き合いに出している。横山も支那の第11軍司令官時代は非常に評判の良い将軍だったのだが。一審で9名の絞首刑判決が出たが、幸いなことに後にいずれも減刑された。しかし横山中将は獄中で病死した。他に生体解剖のI医師が自決している。ちなみに和光大尉は上海でのドゥーリットル隊のパイロット処刑も主導している。この事件の裁判では、軍司令官であった沢田茂が、責任は総て自分にあるという断固たる態度をとった。裁判中、通訳をしていた朝鮮人が沢田中将の傍に寄ってきて、「そのような証言は、東洋人には理解できるが、白人に対しては有害無益であるから取り消しなさい」と忠告したが、沢田は「その必要はない」といって聞かなかった。しかし判決は全体的に軽く、1人の刑死者も出さなかった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/bcaircrew.html
『逃亡』は、油山事件で命令により捕虜を斬ったある見習士官の逃亡の記録。東京帝大を卒業した病院長の息子として生まれたSは、鹿児島高商を卒業した後入隊し、久留米の予備士官学校、中野学校を経て、西部軍司令部附となる。8月10日、命令によって、油山で捕虜1名を殺害。戦後、家族に別れを告げ、逃亡。多治見市の大きな陶器製造所の門を叩く。焼き物経験の無い男の採用に、社長は当初乗り気では無かったが、丁度雑用係が居なかったことから、雑役夫として雇われる。松田という偽名を使い、真面目にこつこつ働く男は、段々やり手の社長からも、雑事一切を取り仕切る矍鑠とした社長の母親からも、信頼されるようになる。そして遂には雑役を卒業し、焼き物職人となる。勿論最初は怒られ通しであったが、持ち前のもの覚えのよさで、ぐんぐん腕を上げ、仲間の職人からも一目置かれる存在となる。そして事務主任に抜擢され、労使関係の調整も任される。
しかしその間も、残された家族には、GHQを後ろ盾にした官憲の、人権などどこ吹く風の取り調べが加えられていた。警察の執拗な取調べに、33歳の姉は体調を崩し、遂には病死してしまう。それでも取り調べの手は緩まない。盗聴器まで使った非人道的な捜査に、しかし残された母や妹が屈することは無かった。そもそも彼女たちは本当にSの居場所など知らなかった。しかし東京にいた元上官のYだけは、Sから連絡を受けて居場所を知っていた。家族に加えられる警察の余りに過酷な取調べに、思い余ったYは、遂に聞き込みに来た刑事に独断でSの居場所を告げる。
昭和24年7月19日、事務室にいたSの元に3人の男がやってきた。一人は元上官のYであった。いつの間にか社長もやってきて、「S君ちょっと」と彼を本名で呼ぶ。残りの二人は警視庁の刑事であった。「ごめんなさい」深く頭を垂れるSに対しYが、「ご家族のご苦労を見かねてね。君に何も言わずにこうした措置をとってしまった。お詫びする」。社長が言葉を継ぐ。「S君、私もうすうす君が戦犯というのには気付いていた。気持ちをしっかり持ちなさい。大丈夫だからね」。社長一家、従業員一同に暖かく見送られ、多治見を後にしたSは巣鴨に収監される。そして横浜に於ける彼の裁判は、長らく続いた連合軍による戦犯裁判の棹尾を飾ることとなる。
200ページちょっとの薄い本ではあるが、あっという間に読んでしまった。著者の姿勢に好感が持てる。2006年の3月に出版された本なので、まだまだ簡単に手に入るし、図書館でも開架に置かれているはずだ。
敢えて言おう、必読書であると!
しかし、警察の職務熱心はどう捉えれば良いのだろう。はっきり言って私は、吐き気がするが。
『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社
これも古本まつりで買った。『九州8月15日』は、菊水作戦から終戦後の復員あたりまでの九州を舞台にしたドキュメンタリー。著者は西日本新聞の記者。
九州では昭和20年、常軌を逸した事件が次々起こった。まずは衆議院議員吉田敬太郎が不敬罪などで逮捕された。新聞記者を相手に軍批判をやったときに、「皇族を担ぎ出そうという動きがあるが、高松宮様を除いてはつまらん方ばかりですな」とやったのがまずかったようだ。裁判は5分で終わり、懲役3年が宣告された。しかしこれはまだ序の口であった。
次に起こったのが九大の生体解剖事件、通称相川事件である。言いだしっぺは某軍医と方面軍航空参謀の佐藤吉直大佐。某軍医が九大のI第一外科部長のところに話を持ち込み、5月12日、Iの執刀で生体解剖が行われた。某が術後に肝臓を持ち出したため、戦後この事件は人肉食の嫌疑までかけられたが、結局その点は無罪となっている。持ち出した某は、空襲のときに負った怪我が原因で終戦前に病死した。
第三の事件が6月20日の捕虜殺害事件である。前日の19日に福岡は爆撃を受けた。その報復として8名の米軍捕虜が斬殺された。法務部長の伊藤章信少将、佐藤参謀、和光勇精法務大尉などが立会い、数名の尉官が腕を振るった。前日に母を空襲で殺されたT主計大尉は志願して3名を斬った。
第四の事件は8月10日の油山での捕虜殺害事件、通称油山事件である。このときも方面軍参謀副長友森清晴大佐、射手園少佐らの見守る中で8名が殺害された。今回も斬殺ではあったが、途中で空手による処刑が試された。勿論彼等は竜造寺徹心でも愚地独歩でもないので、空手では絶命させることが出来ず、結局斬っている。が、このことがより一層、事件に陰惨なイメージを与えることとなった。
次の、そして最後の捕虜殺害は8月15日である。終戦の玉音放送を受けて、方面軍司令部では残った捕虜の扱いが議論になった。友森大佐などは、自分はあまりこれまでの事件に関係が無いという思いがあったのか「どうせ隠したって判るよ」という立場であったが、参謀副長福島久作少将、佐藤大佐、情報参謀薬丸勝哉中佐、伊藤少将、和光大尉らは隠蔽を主張。結局残った14,5名の捕虜を油山に連れ出し、殺害した。このときは弓が実験的に使われたが、中らなかったらしい。また、佐藤大佐は処刑現場に報道部勤務の女を連れてきていた。
終戦を受けた方面軍司令部では、着任日の浅い安倍邦夫作戦参謀が徹底抗戦を叫んでいた。また報道部長の町田敬二大佐も、軍司令官横山勇を総理に抱く九州政府構想を持って動いていた。町田は報道部長であるため、彼の周りには火野葦平らもくっついていたが、結局横山中将が乗ってこなかったため、何事も起こらなかった。町田は後に自伝を書いているので、この話はそちらに譲る。
それでも収まらない若い召集の将校たちがいた。彼等が頼みにしたのが、菊池部隊(第212師団)の桜井徳太郎であった。桜井は数少ない少将での師団長で、支那やビルマで鳴らした猛将であった。しかし彼は終戦直後に東京に飛び、自らの目で詔勅を確認して、既に継戦意欲を失っていた。周りの人々の必死の説得で若い人々も解散したが、リーダー格の二人だけは、そっと仲間から離れ、油山で自決した。このときは立たなかった桜井は、16年後に奇妙なクーデーターに関与することとなる。
戦後、上記の捕虜殺害事件が明るみに出て、軍司令官以下が逮捕された。横山中将は、当初は自らの命令で軍律会議抜きでの処刑をやらせたと述べていたが、再審では、「自分は命令していない。伊藤と佐藤が決めたと思う」と証言を翻した。大岡昇平は、岡田資の伝記『ながい旅』の中で、この横山の態度を引き合いに出している。横山も支那の第11軍司令官時代は非常に評判の良い将軍だったのだが。一審で9名の絞首刑判決が出たが、幸いなことに後にいずれも減刑された。しかし横山中将は獄中で病死した。他に生体解剖のI医師が自決している。ちなみに和光大尉は上海でのドゥーリットル隊のパイロット処刑も主導している。この事件の裁判では、軍司令官であった沢田茂が、責任は総て自分にあるという断固たる態度をとった。裁判中、通訳をしていた朝鮮人が沢田中将の傍に寄ってきて、「そのような証言は、東洋人には理解できるが、白人に対しては有害無益であるから取り消しなさい」と忠告したが、沢田は「その必要はない」といって聞かなかった。しかし判決は全体的に軽く、1人の刑死者も出さなかった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/bcaircrew.html
『逃亡』は、油山事件で命令により捕虜を斬ったある見習士官の逃亡の記録。東京帝大を卒業した病院長の息子として生まれたSは、鹿児島高商を卒業した後入隊し、久留米の予備士官学校、中野学校を経て、西部軍司令部附となる。8月10日、命令によって、油山で捕虜1名を殺害。戦後、家族に別れを告げ、逃亡。多治見市の大きな陶器製造所の門を叩く。焼き物経験の無い男の採用に、社長は当初乗り気では無かったが、丁度雑用係が居なかったことから、雑役夫として雇われる。松田という偽名を使い、真面目にこつこつ働く男は、段々やり手の社長からも、雑事一切を取り仕切る矍鑠とした社長の母親からも、信頼されるようになる。そして遂には雑役を卒業し、焼き物職人となる。勿論最初は怒られ通しであったが、持ち前のもの覚えのよさで、ぐんぐん腕を上げ、仲間の職人からも一目置かれる存在となる。そして事務主任に抜擢され、労使関係の調整も任される。
しかしその間も、残された家族には、GHQを後ろ盾にした官憲の、人権などどこ吹く風の取り調べが加えられていた。警察の執拗な取調べに、33歳の姉は体調を崩し、遂には病死してしまう。それでも取り調べの手は緩まない。盗聴器まで使った非人道的な捜査に、しかし残された母や妹が屈することは無かった。そもそも彼女たちは本当にSの居場所など知らなかった。しかし東京にいた元上官のYだけは、Sから連絡を受けて居場所を知っていた。家族に加えられる警察の余りに過酷な取調べに、思い余ったYは、遂に聞き込みに来た刑事に独断でSの居場所を告げる。
昭和24年7月19日、事務室にいたSの元に3人の男がやってきた。一人は元上官のYであった。いつの間にか社長もやってきて、「S君ちょっと」と彼を本名で呼ぶ。残りの二人は警視庁の刑事であった。「ごめんなさい」深く頭を垂れるSに対しYが、「ご家族のご苦労を見かねてね。君に何も言わずにこうした措置をとってしまった。お詫びする」。社長が言葉を継ぐ。「S君、私もうすうす君が戦犯というのには気付いていた。気持ちをしっかり持ちなさい。大丈夫だからね」。社長一家、従業員一同に暖かく見送られ、多治見を後にしたSは巣鴨に収監される。そして横浜に於ける彼の裁判は、長らく続いた連合軍による戦犯裁判の棹尾を飾ることとなる。
200ページちょっとの薄い本ではあるが、あっという間に読んでしまった。著者の姿勢に好感が持てる。2006年の3月に出版された本なので、まだまだ簡単に手に入るし、図書館でも開架に置かれているはずだ。
敢えて言おう、必読書であると!
しかし、警察の職務熱心はどう捉えれば良いのだろう。はっきり言って私は、吐き気がするが。
何とか間に合いました。
ホテルにこもりっきりだったパール判事と、日本を見て周ったレーリンク判事。二人の友情、良いですね。今まであまり注目されてこなかったイギリスのパトリック判事。
あんまり期待してなかったんですが、なかなか良かった。でも高い受信料とってんだから、これぐらいのレベルは保ってもらわんと。
やはりパール判事は傑物。しかしその崇高なる思想は、日本での彼の支持者たちには、びっくりするぐらい伝わってないね。
ちなみにレーリンク判事が、死刑が妥当としたのは嶋田繁太郎、岡敬純の海軍コンビに佐藤賢了。逆に無罪としたのは広田弘毅、木戸幸一、重光葵、東郷茂徳の文官4氏に畑俊六。畑の無罪に関してレーリンクは、政府の政策を実行しただけの軍人を罰することはできないとしている。
ホテルにこもりっきりだったパール判事と、日本を見て周ったレーリンク判事。二人の友情、良いですね。今まであまり注目されてこなかったイギリスのパトリック判事。
あんまり期待してなかったんですが、なかなか良かった。でも高い受信料とってんだから、これぐらいのレベルは保ってもらわんと。
やはりパール判事は傑物。しかしその崇高なる思想は、日本での彼の支持者たちには、びっくりするぐらい伝わってないね。
ちなみにレーリンク判事が、死刑が妥当としたのは嶋田繁太郎、岡敬純の海軍コンビに佐藤賢了。逆に無罪としたのは広田弘毅、木戸幸一、重光葵、東郷茂徳の文官4氏に畑俊六。畑の無罪に関してレーリンクは、政府の政策を実行しただけの軍人を罰することはできないとしている。
親愛なるピゴットヘ
何よりもまず、わたくしの人物につき詳細な口供書をいただいたことを心から感謝いたします。それはわたくしの友人からいただいた中で最もすぐれたものでした。この口供書が軍事委員会に大きな影響か及ぼしたことは疑いありません。そしてわたくしの良心を非常に慰めてくれました。わたくしはこれほど深く友情に感激したことはありません。
あなたをはじめ御家族の方々はどうしていられますか。あなた方がうまく切り抜けて来られたあのおそるべき戦争中、皆さんはお元気で過ごされたことと思います。御子息のフランシス君はどうしておられますか。もう少佐でしょうね。戦争中、御無事であったことを祈ります。わたくしの國も國民も現在、惨憺たる有様です。どんなにひどいか御想像もつきますまい。國民は飢餓に瀕しています。
わたくしは開戦当初フィリッピンの軍司令官でした。今、そのむくいを受けようとしています。この手紙を御らんになる前に、あなたはわたくしがどうなったかをお聞きになることでしょう。
わたくしはこんな厳しい苦難に直面しなければならないとは、夢にも思いませんでした。ただただ運命という外、このわたくしの気持ちをいい表わす言葉もありません。わたくしの弁護に立たれた六人のアメリカ将校に深い恩義を感じます。かれらは最も不利な吠況の下で、最善の努力を尽くされました。それはたとえ否定されたとはいえ、かれらは公平な裁判をするために健闘されたのです。
わたくしの妻は証言するためにマニラに来ました。そしてあなたの御好意を深く感謝しております。もうすぐ日本へ帰るのですが、わたくしから厚くあなたに御礼を申し上げるように、また奥様にくれぐれもよろしくと申しております。
わたくしは、またいつか再びロンドンを見る日のあることを希望していましたが、それは真昼の夢よりもはかないものとなりました。
おもえば、アメリカ軍事裁判などでしゃべるために英語を学んだのではなかったのでしたが。ああ!
もうあなたにも皆様にも、お別れの言葉を申さねばなりません。どうか御健康でいられますよう祈ります。
わたくしの最悪の災厄に際して示して下さったあなたの友情にたいし、くりかえし御礼申上げます。
サヨナラ、ミナサン、ゴキゲンヨオ
本間雅晴
F・S・G・ピゴット著 長谷川才次訳 『絶たれたきずな』より
ピゴットはイギリスの工兵将校であり、並み居る各国外交官、武官の中でもぶっちぎりの知日派であった。我が陸軍にも知己は多く、その交際範囲は山県有朋、上原勇作といった元老にも及んだ。しかし東條英機にはあまり親しみを感じなかったという。戦後、マッカーサーの個人的復讐の生贄に供された親友本間雅晴のために、マニラの法廷に口供書を提出した。上はそれに対する本間のお礼の手紙。原文は英語。”サヨナラ、ミナサン、ゴキゲンヨオ”のところだけわざわざカタカナにしてるのは、ひょっとしてここだけ原文でも日本語だったのだろうか?当然ピゴットは日本語バリバリである。

何よりもまず、わたくしの人物につき詳細な口供書をいただいたことを心から感謝いたします。それはわたくしの友人からいただいた中で最もすぐれたものでした。この口供書が軍事委員会に大きな影響か及ぼしたことは疑いありません。そしてわたくしの良心を非常に慰めてくれました。わたくしはこれほど深く友情に感激したことはありません。
あなたをはじめ御家族の方々はどうしていられますか。あなた方がうまく切り抜けて来られたあのおそるべき戦争中、皆さんはお元気で過ごされたことと思います。御子息のフランシス君はどうしておられますか。もう少佐でしょうね。戦争中、御無事であったことを祈ります。わたくしの國も國民も現在、惨憺たる有様です。どんなにひどいか御想像もつきますまい。國民は飢餓に瀕しています。
わたくしは開戦当初フィリッピンの軍司令官でした。今、そのむくいを受けようとしています。この手紙を御らんになる前に、あなたはわたくしがどうなったかをお聞きになることでしょう。
わたくしはこんな厳しい苦難に直面しなければならないとは、夢にも思いませんでした。ただただ運命という外、このわたくしの気持ちをいい表わす言葉もありません。わたくしの弁護に立たれた六人のアメリカ将校に深い恩義を感じます。かれらは最も不利な吠況の下で、最善の努力を尽くされました。それはたとえ否定されたとはいえ、かれらは公平な裁判をするために健闘されたのです。
わたくしの妻は証言するためにマニラに来ました。そしてあなたの御好意を深く感謝しております。もうすぐ日本へ帰るのですが、わたくしから厚くあなたに御礼を申し上げるように、また奥様にくれぐれもよろしくと申しております。
わたくしは、またいつか再びロンドンを見る日のあることを希望していましたが、それは真昼の夢よりもはかないものとなりました。
おもえば、アメリカ軍事裁判などでしゃべるために英語を学んだのではなかったのでしたが。ああ!
もうあなたにも皆様にも、お別れの言葉を申さねばなりません。どうか御健康でいられますよう祈ります。
わたくしの最悪の災厄に際して示して下さったあなたの友情にたいし、くりかえし御礼申上げます。
サヨナラ、ミナサン、ゴキゲンヨオ
本間雅晴
F・S・G・ピゴット著 長谷川才次訳 『絶たれたきずな』より
ピゴットはイギリスの工兵将校であり、並み居る各国外交官、武官の中でもぶっちぎりの知日派であった。我が陸軍にも知己は多く、その交際範囲は山県有朋、上原勇作といった元老にも及んだ。しかし東條英機にはあまり親しみを感じなかったという。戦後、マッカーサーの個人的復讐の生贄に供された親友本間雅晴のために、マニラの法廷に口供書を提出した。上はそれに対する本間のお礼の手紙。原文は英語。”サヨナラ、ミナサン、ゴキゲンヨオ”のところだけわざわざカタカナにしてるのは、ひょっとしてここだけ原文でも日本語だったのだろうか?当然ピゴットは日本語バリバリである。

12月17日の朝日新聞朝刊、社会面に面白い記事が出ていた。以下はasahi.comからの転載。
映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。
溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。
東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。
完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。
また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。
64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。
後略
http://www.asahi.com/international/update/1217/001.html
そんなこと今更言われなくても分かってるアルヨ!と言いたくなる話だが、とりあえず本人が書いたものであり、また中共が公表を許したものであるというのは大きい。戦後、溥儀はありとあらゆる物語にされた。悲劇の主人公であったり無気力な傀儡であったり、その描かれ方はまちまちだ。しかしそれらの物語にも共通項がある。それは悪逆無道な関東軍将校の描写である。特にその象徴的存在として使われる吉岡安直の描かれ方は気の毒なばかりだ。其の原因は溥儀の東京裁判での証言とこの回想録に拠る。勿論日本軍の威光を笠に満洲人に対して酷い態度をとった人間は軍民問わず多い。はっきり言って多数派だろう。吉岡にしても威圧的な態度をとったり謀略をめぐらせたりしているかもしれない。しかしこと彼と溥儀の関係だけは、そんな単純に割り切れるものではない。吉岡と溥儀の出会いは、まだ吉岡が少佐で支那駐屯軍参謀として天津にいたときに始まる。満洲事変の後、溥儀が満洲国執政となると、吉岡はその側近に選ばれ、以降ソ連軍に捕らえられるまで、溥儀の側をほぼ離れなかった。其の間に吉岡は中佐から中将にまで進級していた。現役の軍人が一つところにこんなにも長くいる例はあまりない。敢えて言うなら青木宣純や坂西利八郎がそれにあたるだろうか。陸軍省の方でも吉岡を他の職に転任させようという動きはあったし、吉岡自身も部隊長への転出を望んでいた。しかし皇帝が、「吉岡を離したくない」と、それを許さなかったのである。吉岡未亡人の話によると、彼が病気などで休むと、皇帝は自ら見舞いの電話をかけてきたそうだ。電話に出た女中は大変恐縮したという。それはそうだろう。
ところがソ連軍に囚われ、東京裁判の証人に仕立て上げられると、ころっと手のひらを返し、吉岡を初めとした事情を知る人間が出廷できないことを良いことに、或ること無いこと証言した。ソ連に連行された吉岡は昭和24年に病死。誰がどう考えてもおかしい内容であっても、反論できるものがいないというもどかしい状況で、このまま歴史となるかと思われたが、何のことは無い、本人がとっくの昔に自白してるわけだ。これで吉岡中将の最低限の名誉は回復されるのではないかと思う。
それにしてもである。中共が内容に手を入れたり、削除したりするのは、それは彼等の自由である。溥儀の苦しい立場も理解できる。しかしこれだけ言わされた感、書かされた感があるものを、無批判に受け入れありがたがる人々は、ホントに幸せな人たちだ。つくづくうらやましい。
追記
ソ連軍進攻の際、日本軍への支援を命じることは、中共の視点では勿論悪であるが、朝日新聞的にはどうなのか興味あるなあ。今日の朝刊でドイツの戦争被害(強制移住)問題について特集していただけに、余計に。まあ普通に考えれば、悪なんだろうなあ。下手な抵抗をしたから余計に被害が増えたとでも言うかな?ここまでくると左右以前に人間性の問題だな。
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映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。
溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。
東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。
完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。
また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。
64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。
後略
http://www.asahi.com/international/update/1217/001.html
そんなこと今更言われなくても分かってるアルヨ!と言いたくなる話だが、とりあえず本人が書いたものであり、また中共が公表を許したものであるというのは大きい。戦後、溥儀はありとあらゆる物語にされた。悲劇の主人公であったり無気力な傀儡であったり、その描かれ方はまちまちだ。しかしそれらの物語にも共通項がある。それは悪逆無道な関東軍将校の描写である。特にその象徴的存在として使われる吉岡安直の描かれ方は気の毒なばかりだ。其の原因は溥儀の東京裁判での証言とこの回想録に拠る。勿論日本軍の威光を笠に満洲人に対して酷い態度をとった人間は軍民問わず多い。はっきり言って多数派だろう。吉岡にしても威圧的な態度をとったり謀略をめぐらせたりしているかもしれない。しかしこと彼と溥儀の関係だけは、そんな単純に割り切れるものではない。吉岡と溥儀の出会いは、まだ吉岡が少佐で支那駐屯軍参謀として天津にいたときに始まる。満洲事変の後、溥儀が満洲国執政となると、吉岡はその側近に選ばれ、以降ソ連軍に捕らえられるまで、溥儀の側をほぼ離れなかった。其の間に吉岡は中佐から中将にまで進級していた。現役の軍人が一つところにこんなにも長くいる例はあまりない。敢えて言うなら青木宣純や坂西利八郎がそれにあたるだろうか。陸軍省の方でも吉岡を他の職に転任させようという動きはあったし、吉岡自身も部隊長への転出を望んでいた。しかし皇帝が、「吉岡を離したくない」と、それを許さなかったのである。吉岡未亡人の話によると、彼が病気などで休むと、皇帝は自ら見舞いの電話をかけてきたそうだ。電話に出た女中は大変恐縮したという。それはそうだろう。
ところがソ連軍に囚われ、東京裁判の証人に仕立て上げられると、ころっと手のひらを返し、吉岡を初めとした事情を知る人間が出廷できないことを良いことに、或ること無いこと証言した。ソ連に連行された吉岡は昭和24年に病死。誰がどう考えてもおかしい内容であっても、反論できるものがいないというもどかしい状況で、このまま歴史となるかと思われたが、何のことは無い、本人がとっくの昔に自白してるわけだ。これで吉岡中将の最低限の名誉は回復されるのではないかと思う。
それにしてもである。中共が内容に手を入れたり、削除したりするのは、それは彼等の自由である。溥儀の苦しい立場も理解できる。しかしこれだけ言わされた感、書かされた感があるものを、無批判に受け入れありがたがる人々は、ホントに幸せな人たちだ。つくづくうらやましい。
追記
ソ連軍進攻の際、日本軍への支援を命じることは、中共の視点では勿論悪であるが、朝日新聞的にはどうなのか興味あるなあ。今日の朝刊でドイツの戦争被害(強制移住)問題について特集していただけに、余計に。まあ普通に考えれば、悪なんだろうなあ。下手な抵抗をしたから余計に被害が増えたとでも言うかな?ここまでくると左右以前に人間性の問題だな。
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ラスト侍は映画館で見た。多分4回は見たと思う。一つの映画を見た回数としては私の中では最多タイだろう。DVDも持ってるが、これは一回も見てない。何というか映画も音楽も結局めぐりあい宇宙ですね。そのときの環境、心境次第で、同じものでも全く受け取り方が変わる。しかし吹き替えに強い違和感を感じるのは、やはり字幕で見過ぎたせいかな?
ところでケン・ワタナベはこの度栗林中将を演じているわけだが、私としては、前から彼に演じて欲しい帝國軍人がいる。本間雅晴だ。謙さんには凛然とした武人らしい武人もいいが、本間のような弱さの見える役も合うと思う。彼ぐらい物語映えするプロフィールの持ち主はちょっといないのではないか。顔を見なければ日本人とは分からないとまで云われた英語力、バターンのデスマーチと、ハリウッドで取り上げてもおかしくない要素が揃ってる。クライマックスはもちろんマニラ法廷における夫人の証言シーンだ。
妻がマニラに来た事は非常な手柄であつた。妻に接触するものを通じて本間並本間の家庭が明になつた。証人台に立つて「今尚本間雅晴の妻たるを誇りとする、娘も亦本間の様な人に嫁せしめたい」との証言は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かつた。キング少将の副官も、検事のリムも感動したそうだ。
本間の遺言
本間の母は文字が書けなかった。しかし本間が軍人となり離れて暮らすようになってから、文字を習い、仮名文字の手紙も書けるようになった。遺書の母への部分が、子供に話すような平易な文章なのはそのためだ。
まあハリウッドなどと贅沢は言わんよ。角田房子女史の阿南、本間、今村の三部作、NHKでやってくれ。高い受信料払ってんだ。一つくらいわがまま聞いてくれてもいいだろ。絶対当たるって。
ところでケン・ワタナベはこの度栗林中将を演じているわけだが、私としては、前から彼に演じて欲しい帝國軍人がいる。本間雅晴だ。謙さんには凛然とした武人らしい武人もいいが、本間のような弱さの見える役も合うと思う。彼ぐらい物語映えするプロフィールの持ち主はちょっといないのではないか。顔を見なければ日本人とは分からないとまで云われた英語力、バターンのデスマーチと、ハリウッドで取り上げてもおかしくない要素が揃ってる。クライマックスはもちろんマニラ法廷における夫人の証言シーンだ。
妻がマニラに来た事は非常な手柄であつた。妻に接触するものを通じて本間並本間の家庭が明になつた。証人台に立つて「今尚本間雅晴の妻たるを誇りとする、娘も亦本間の様な人に嫁せしめたい」との証言は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かつた。キング少将の副官も、検事のリムも感動したそうだ。
本間の遺言
本間の母は文字が書けなかった。しかし本間が軍人となり離れて暮らすようになってから、文字を習い、仮名文字の手紙も書けるようになった。遺書の母への部分が、子供に話すような平易な文章なのはそのためだ。
まあハリウッドなどと贅沢は言わんよ。角田房子女史の阿南、本間、今村の三部作、NHKでやってくれ。高い受信料払ってんだ。一つくらいわがまま聞いてくれてもいいだろ。絶対当たるって。





