近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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イアン・ウォード『将軍はなぜ殺されたか 豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇』原書房

初期の戦犯裁判ではよく使われていた「指揮官責任」という幅広い訴因は、この頃(1949年)には国際社会で受け入れられないものになっていた。ハックニーによる特定に失敗したオーストラリア軍は、別の理由を探すべきであった。しかしどうしても西村の首が欲しかった彼らは、其の辺りをあいまいにして西村を起訴した。

新たに戦争犯罪調査官に任命されたジェームス・ゴドウィン大尉は、終戦までの1年半を日本軍の捕虜として過ごした。彼は復讐鬼となり、西村を吊るすことに執念を傾けた。そんな彼に運命の女神が微笑んだ。たまたま見つけ出した一人の近衛歩兵第5聯隊の少尉フジタ・セイザブロウ。1949年9月6日、明治生命ビルにおいて彼を尋問したゴドウィンは、すぐに彼がただの目撃者以上の存在であることに気付いた。彼こそ、パリットスロンの虐殺の実行者であったのだ。尋問は二日にわたって行われた。二日目の終わりにゴドウィンは、供述宣誓書は明日にならなければ出来ないとして、明日もう一度来るように告げて、フジタを帰した。そしてフジタは二度と戻ってこなかった。残された供述書は、7年7ヶ月前の事件を思い出して話しているにしては、あまりにも細部まで語られており、それはハックニーの作成した文書と酷似していた。供述書は、最後に僅か4行だけ、西村が捕虜を視察し、その後副官を通して殺害を命じた様子が語られ、唐突に終わっている。著者は、この供述書が、言葉の選択や構成において、明らかに英語で教育を受けた様子が見受けられ、他の日本人の尋問書とは異質であったとしている。しかしこの文書は、西村の裁判に提出され、精査されることなく有力な証拠となった。

フジタの逃亡という大失策はたいした問題にならず、続いてゴドウィンは、近衛師団司令部の3人の将校を見つけ出し尋問することに成功した。稲垣、園、日隈の3人の供述書は、これまた気味が悪いほど似通っており、それらはまたハックニーの文書とも異常に共通性があった。西村が殺害命令を下すくだりの供述も、3人殆ど同じであった。また園は、焼却命令は参謀長の今井大佐から出たと供述し、日隈は、西村と参謀長の今井大佐の仲が非常に悪く、処刑命令は、西村が今井に相談することなく出したのではないかと述べている。

最後に、西村の命令をフジタに伝えた野中副官が尋問された。彼の供述書も先の3人と殆ど同じであり、西村から、捕虜を銃撃隊により処刑(ショブン)せよという命令が下り、今井が、処刑が終わったら死体を焼くようにという命令を追加したと書かれていた。ゴドウィンは野中の供述を元にした報告書を書いているが、そこには供述書にはない西村の言葉が追加されている。また日隈の尋問後に書かれた報告書には、日隈が森岡参謀から聞いた処刑の様子が描かれているが、その様子は日隈の宣誓供述書には書かれていない、何故ならそれは、ハックニーの書いた虐殺の描写とは違う点が多いからだ。また森岡が、虐殺について今井参謀長に報告する必要があると言ったという重要な一節も抜けている。これらの報告書はその後、ゴドウィンが盗み出し隠匿したため、40年間表に出てくることはなかった。

オートラムからロスネグロス島のロンブルンポイント収容所に送られた西村は困惑していた。彼は、4人が精細に語ったパリットスロンでの自分の行動について殆ど記憶になかったからだ。ただ彼は捕虜を見たことは覚えていた。そして彼らを処分せよと命じたことも。しかしその後何の報告も受けなかった為、香港からマヌス島へ送られる船の中で中山弁護士から聞かされるまで、虐殺が行われたことは知らなかった。「処分」とは第25軍司令部に後送せよという意味であり、自分の命令が誤解される余地はないと、西村は確信していた。だが現実に虐殺は起こった。そこに自分以外の誰かが介在したとしか考えられない。彼には其の人物の想像がついた。しかし自らの罪を晴らすため、部下のしたかもしれない行為を話すというのは、彼にとって非常な苦痛であった。彼は裁判でも「処分(disposal)」とは後送を意味し、断じて処刑せよという意味ではないこと、野中は自分の意思を正確に伝えたであろうということを述べた。そして裁判長から、日隈ら3人が何故嘘の供述をしたと思うかと聞かれ、「考えるところはあるが、言いたくない」と答えた。

続いて西村と一緒に起訴された野中が証言台に立った。宣誓を終えた野中は、ゴドウィンの作った宣誓供述書について攻撃を始めた。

弁護人 そこで師団長は何をしましたか。
野中  師団長はしばらく止まって、私の方を向いて捕虜を処分するよう言いました。
弁護人 ほかの供述書によると、師団長は捕虜を射殺するよう命じたと言っているが、どう思いますか。
野中  他の人がどう言っているか知りませんが、私について言えば、師団長は私に捕虜を処分するように言い、私は捕虜担当の将校に命令を伝えた。
弁護人 あなたの宣誓供述書によると、師団長は捕虜を銃撃隊によって射殺するよう言ったとなっていますが、あなたは今朝、これについて訂正しました。なぜそのような訂正をしたのか説明してもらえますか。
野中  取り調べの時もはっきり言ったのですが、私は師団長から捕虜を処分するよう命令を受け、命令を捕虜担当将校に伝えました。すると調査官は繰り返し、師団長は捕虜の射殺を命じたと言い、何度も示唆しました。私より前に調べを受けた園、日限の宣誓供述書を私に読んで……

ここで傍聴席にいたゴドウィンは退廷させられた。さらに野中は、今井参謀長から捕虜の死体を焼けという命令を受けた記憶はないとし、今井は通常誰かに命令を伝える場合、自分ではなく、稲垣を使ったという重要な証言を行った。

裁判の最後に中山弁護士は、西村が被告席から最後の陳述をすることの許可を求めた。許可された西村は被告席で立ち上がり、

「私が至らないために、このような事件が起きたことを申し訳なく思う。亡くなった方々に哀悼の意を表したい。それだけです」

と述べた。1950年6月22日、オーストラリア戦争犯罪裁判所は、西村に絞首刑、野中に6ヶ月の刑を言い渡した。


続く
イアン・ウォード『将軍はなぜ殺されたか 豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇』
原題は『Snaring the other Tiger』

大分前に読んだ本だが、良い機会なのであらすじを紹介しておく。
オーストラリアは第25軍司令官であったマレーの虎山下奉文の首を欲した。しかしこれはマッカーサーに奪われた。そこに現れたのが、山下の下で近衛師団長として戦っていた西村琢磨であった。罪状はパリットスロンでの捕虜虐殺事件。オーストラリアの新聞は彼を、山下の「首席補佐官」、「一番の腹心」と書いて、その不足感を埋め合わせようとした。もう一匹の虎(the other Tiger)である。しかし著者は二・二六事件まで遡り、二人が対立的関係にあったことまできちんと調査している。西村は第25軍の他の二人の師団長、松井太久郎牟田口廉也と同期であったが、二人がそれぞれ支那派遣軍総参謀長、ビルマの軍司令官に栄転したのに対し、彼だけが予備役に編入された。第25軍参謀だった辻政信は、その著作の中で近衛師団と西村を酷評している。その辻も山下に「こすい男」と書かれているが。

パリットスロンでは100名以上のオーストラリア軍捕虜が殺害された。生き残ったハックニーは、その後改めて日本軍の捕虜となり、終戦間際に、同じチャンギーにいた一人の英国人に自分の体験を伝えた。その人物こそシリル・ワイルド少佐であった。ハックニーに拠れば、虐殺は、自動車で通りかかった高位の軍人が何事か指示を出して、立ち去った後に行われたという。戦後、日本の戦犯捜査を任されたワイルドは、この事件を重視した。山下に接見する機会を得た彼は、この事件について訪ねた。山下は、この事件を知らなかったが、そのようなことを実行した人間を強く非難するといい、事件は、当時その辺りに居た近衛師団が起こした可能性が高いと指摘した。そして師団長だった西村の名前を日本語で書き、かれを取り調べることに同意した。山下の話を聞いたワイルドは、ハックニーの見た高位の軍人が西村である可能性が高いとする意見を書いた。しかしワイルドはその後、余りの仕事量から、事件をオーストラリア当局に預けた。オーストラリアの調査チームが、チャンギーにいる西村の写真を手に入れ、本国に送ったのは1946年2月のことであった。この写真をハックニーが確認すれば、この事件は解決する。彼らはそう信じて疑わなかった。しかし写真を見せられたハックニーは当惑した。彼が見たのは「背の低いずんぐりとした」軍人であった。しかし西村は、当時の日本人の水準では長身で、また太ってもいなかった。
「ハックニー中尉は西村を確認できなかった」
この連絡がシンガポールの調査当局に届くのと相前後して、もう一つの悪い知らせが舞い込んだ。ワイルド少佐の乗った飛行機が香港で墜落したのだ。日本語に堪能で、山下・パーシヴァル会談では通訳を務めたワイルドは、捕虜生活を通して、その日本語能力を駆使して多くの同僚を救ったことで知られる。日本側も彼を「眠らない背の高い男」と呼んで一目置いていた。

その後、西村はシンガポールでの華僑虐殺の被告として裁判を受けた。ワイルドはこの事件で、当時第25軍参謀であった杉田一次が、重要な役割を果たしていたことを突き止めていた。山下・パーシヴァル会談で日本側の通訳を務めた杉田は、ワイルドの復讐リストの上から2番目に位置する人物であった。逮捕されチャンギーに移送された杉田は、英軍の日本軍俘虜に対する待遇の酷さに抗議して自決を試みるが、一命を取り止めてしまう。しかし彼はワイルドの死で、この事件から開放された。結局西村以下、裁判を受けた7人の中に参謀の姿は無かった。5人の判事のうち4人までは、西村は死刑と主張したが、最も若い1人の判事が無期を主張して抵抗した。英国の裁判では、死刑を言い渡すときは判事全員の一致が必要とされたため、結局西村は無期徒刑となり、チャンギーに送り返された。そして彼はそのままそこで、釈放を待つはずだった。

続く


三日目は日曜日で休廷であった。山形少佐はほかの収監者とともに、朝食をすませた直後、やってきた護衛兵に連行される。少佐としては、その後の裁判の打ち合わせでもあろうかと思っていたらしい、元気に出かけていった。夕刻になって、収監者たちが並んで便所に連れて行かれるときであった。二列縦隊になり、まさに行進しようとしたとき、玄関前の広場にとまっていた一台の囚人自動車の中から
「山形参謀、銃殺!」
というすさまじい絶叫が聞こえた。聞きおぼえのある声であった。自動車はそのまま遠ざかって行く。一同は便所に入って用を足しながら語り合い、”車の隙間からわれわれの隊列を認めた山形少佐が、自分にくだされた判決と処刑のことを私どもに伝えようとした血の絶叫だ”という結論に達したという。どこでどのように処刑されたのか、その後、山形少佐の姿を見た者はだれもいない。

岩川隆『孤島の土となるとも』 第七章 ソ連裁判ーハバロフスク裁判より

ソ連や中国共産党が戦犯を処刑しなかったなどという話は、綜合的に見れば寝言以外の何物でもないわけだが、それはそれとして、今回は別の話。

肩から縄をぶら下げた参謀という人種は、特に我が帝国陸軍を語る上では欠くべからざる人々である。時には指揮官以上の役割を果たすことともあった。しかし戦後に行われた戦犯裁判では、意外に影が薄い。特に刑死者は少ない。綿密に調べたわけではないが、陸軍に於いて、参謀時代の責任を問われて処刑された人は10人いないんじゃないだろうか?今、わかる範囲でいうと
  • 平野少佐・・・第147師団参謀。終戦の日8月15日に起こった英国搭乗員処刑の罪で香港にて銃殺。
  • 馬杉中佐・・・第46師団参謀。チャンギーで絞首刑。
  • 甲村中佐・・・独混第57旅団参謀。パレンバンに降下した挺進第2聯隊長。モロタイで銃殺。
  • 上原中佐・・・遺書に依れば藤兵団参謀長。藤兵団というのは第39師団(通称・藤)ではなく、バタンガスで暴れまわった藤重大佐(後に少将)の偽装兵団を指す。マニラで聯隊長共々絞首刑。
  • 田沢中佐・・・チャンギーで絞首刑。遺書に「参謀として働き」とある。
  • 鏑木少将・・・第34軍参謀長時代に起こった漢口での米軍搭乗員殺害事件の責任者として上海で絞首刑。この事件では軍命令で、部下に殺害を命じた憲兵分隊長が、「全責任を負」うと書いて自決したが、結局軍参謀長の他に、実行者の憲兵准尉らが絞首刑となった(軍司令官佐野中将は戦中に病死)。鏑木少将は次のような遺書を残している。

漢口米軍俘虜惨虐事件に就ては当時呂武集団参謀長たりし小官の不注意の為予期外の事態を惹起し聖戦の意義に汚点を印し軍の名誉を損じ加ふるに多数の将兵に重刑者を出すに至りし段真に申し訳なくて謹で御詫び申上候。殊に上官の命令の儘行動し重刑に処せられたる下士官兵の上を思へば断腸の至りに御座候。本日公判にて死刑の宣告を受くるに臨み謹て御詫び申上且つ従前の御懇情を深謝仕候。


これだけである。

尾家陸軍大佐は陸士28期。独立歩兵第174大隊長(第102師団隷下)としてネグロス島の守備に当たっており、現時住民虐殺の責任を問われて銃殺刑の判決を受け巣鴨に移送されてきた。55歳の老大佐であった。花山師は、A級の7人全員に、尾家大佐の遺書を読み聞かせた。広田を除く6人の陸軍軍人は(恐らく誰一人彼のことを知ってはいなかったと思うが)、花山の期待通り、いずれもこの遺書に感銘を受けたらしい。言い方は悪いが、尾家大佐の遺書は、教誨師花山にとっても”自信作”、”成功作”であった。ちなみに大佐の遺書は『世紀の遺書』で読んでいるが、愚鈍な私は花山師が感じたほどのものは感じ取れなかった。

大佐にとっての痛恨事は、部下から死刑囚を出したことであった。熊本出身の少尉は、捕虜にしたフィリピン人を殺害したという罪で、カンルバン収容所で絞首刑となった。命令したのは尾家大佐であった。

 絞首刑台にのぼる前、少尉は刑場にはりめぐらされた金網にしがみつき、はなれた房にいる隊長よ聞け、とばかりに絶叫した。
「隊長殿ッ、助けてください。私は隊長殿の命令にしたがったまでではないですか。どうして私が死刑にならないといけないんですが。なぜです、なぜなんですか!お願いですッ。助けて!隊長殿、助けてください」
 彼は、恥も外聞もなく泣いて叫び、金網から手をはなそうとしなかった。
 五人の兵隊が彼をかかえこんで、網にからみついた指をとこうとしたがとけず、指を切断して死刑階段をのぼらせたといわれている。
 尾家は、そのことをわきまえている。

巣鴨に移送された後、尾家は「私は部下の責任をとってやれなかった」と同房の人に述懐している。

「死することは帰するがごとしですなあ」

そういって尾家は刑場へ向かうバスへ乗った。刑場への途上、隣に座った花山は尾家が居眠りをしているのに気付き驚いた。「まさか」、あるいは陸軍大佐としての名利を得んがための擬態ではないか、そう思って軽くゆすったが、彼はゆれるに任せて寝息を立てている。バスが刑場に近付いたので、今度ははっきりと揺すぶって起こした。

「ねむられていましたね」
「はあ」
 彼は、自分でも意外だったというように、あいまいにうなずいて、それから念仏をとなえはじめていた。

刑場の手前で、差し出された教誨師の手を固く握り返し、尾家大佐はしっかりとした足取りで刑場に入っていった。巣鴨で唯一の銃殺刑であった。
小林弘忠『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』中公新書
巣鴨の初代教誨師花山信勝が主人公。これは色々な事情が重なってのことだが、花山師という人は、決して人気のある(評判の良い)人ではない。”巣鴨の父”という呼び名は師ではなく、二代目教誨師の田嶋隆純師に冠される。しかし著者・小林氏の花山師を見つめる視線はあくまで暖かい。氏の著作『逃亡』は以前紹介したが、暖かさに通じるものがある。

花山は真宗本願寺派宗林寺に生まれた。四高から東京帝大文学部印度哲学科に進み、更に大学院も出ている。その後帝大講師、助教授を経て、教誨師への就任要請を受けたときは教授となっていた。あいだに欧州を巡ったりもしており、語学力やキリスト教への理解もあった。根っからの学究であり、その学究臭さにあまり有り難味を感じないと思っていた被告もいた。しかしそれを言うなら田嶋師もソルボンヌ大学で文学博士を取得した現職大学教授である。

乱暴に言えば花山の説教は「安心して死になさい」というものだ。そして著者が示すように、師の説教で心安らかに処刑された人は何人もいる。ただやはり戦犯達は、基本的に自分たちに罪があるとは思っていないため、こういう説教の仕方は受けが悪い。心の安らぎを得た被告は結局処刑されてしまうわけだから、師への悪評だけが後に残る。この姿勢は特に、当時巣鴨で大きな影響力を持っていた岡田資中将と相容れなかった。

マスコミの問題もあった。巣鴨を一歩出ればマスコミが彼を取り巻く。そして彼の言葉の一部だけを取り上げて醜い記事を書く。これが廻りまわって巣鴨の住人に知れる。教誨師を辞めた後、本を出版し、これがベストセラーとなった。またアメリカに講演に行き人気を博した。こういったことも、残された人々からすれば面白いはずはない。何より後任の田嶋隆純という人が、花山と違いすぎた。

教誨師への就任依頼を受けたとき、田嶋はとても自分には務まらないと断ろうとした。しかしそれでは困るという若い米軍中尉に負け、一度試験的に講話をすることを引き受けた。

 「シャット・アップ(黙れ)!!」
 まるで飼犬を叱るような鋭い声。ハッと私は胸を突かれた。
 一瞬しーんと静まった階上に、カラコロと下駄の音が聞こえ出した。十数人でもあろうか。頭上に近づき、次でカタヽとすぐ傍の階段を降りて来る。
 一人、また一人、―降り口で会釈の目礼をかわすどの顔も、堅く結んで白蝋のように蒼白く透きとおっている。

田嶋隆純『わがいのち果てる日に』より

被告たちを前にした田嶋は、思わず次のように語りながら涙を流した。

「私は仏の慈悲に溢れて、その熱情を皆様にお伝えし得るが如き者ではありません。私のできることといえば、たゞ皆様と共に仏道を修業させて戴く、それ以外に何のお役にも立ち得ない人間であります」

「若し皆さんに罪ありとするならば、その罪は私達も亦共に負うべきものです」

絶対に「懺悔しなさい」とは言わない。文字通り被告と共に苦しみ共に泣く田嶋の姿勢と比べれば、花山の態度はどこか一段上から見下ろすようなものに感じられる。また田嶋は就任と同時に熱心な助命嘆願運動を開始したが、これも花山はやらなかったことだ。この助命嘆願運動に対して、巣鴨の死刑囚を代表し岡田中将から田嶋に礼状が贈られているが、その中で岡田は、前任花山が助命嘆願に不熱心だったことを書いている。岡田の『毒箭』には更に、花山時代に自分宛に出されていたものが、田嶋師に代わってからやっと手元に届いたというようなことまで書かれている。仮に之が事実だとしても、花山が差し止めていたというようなことは無いと思うが、岡田の花山への感情を現している。

「わがいのち果てる日に」の大部分は死刑囚の遺書で占められ、”わがいのち”の”わが”というのは彼等自身を指しているが、田嶋自身巣鴨で脳溢血で倒れ、それが元で昭和三十二年に亡くなっている。ちなみに花山は平成まで長命した。


この話はだらだら続く可能性有り


『終戦秘録 九州8月15日』上野文雄 白川書院
『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社

これも古本まつりで買った。『九州8月15日』は、菊水作戦から終戦後の復員あたりまでの九州を舞台にしたドキュメンタリー。著者は西日本新聞の記者。
九州では昭和20年、常軌を逸した事件が次々起こった。まずは衆議院議員吉田敬太郎が不敬罪などで逮捕された。新聞記者を相手に軍批判をやったときに、「皇族を担ぎ出そうという動きがあるが、高松宮様を除いてはつまらん方ばかりですな」とやったのがまずかったようだ。裁判は5分で終わり、懲役3年が宣告された。しかしこれはまだ序の口であった。

次に起こったのが九大の生体解剖事件、通称相川事件である。言いだしっぺは某軍医と方面軍航空参謀の佐藤吉直大佐。某軍医が九大のI第一外科部長のところに話を持ち込み、5月12日、Iの執刀で生体解剖が行われた。某が術後に肝臓を持ち出したため、戦後この事件は人肉食の嫌疑までかけられたが、結局その点は無罪となっている。持ち出した某は、空襲のときに負った怪我が原因で終戦前に病死した。

第三の事件が6月20日の捕虜殺害事件である。前日の19日に福岡は爆撃を受けた。その報復として8名の米軍捕虜が斬殺された。法務部長の伊藤章信少将、佐藤参謀、和光勇精法務大尉などが立会い、数名の尉官が腕を振るった。前日に母を空襲で殺されたT主計大尉は志願して3名を斬った。

第四の事件は8月10日の油山での捕虜殺害事件、通称油山事件である。このときも方面軍参謀副長友森清晴大佐、射手園少佐らの見守る中で8名が殺害された。今回も斬殺ではあったが、途中で空手による処刑が試された。勿論彼等は竜造寺徹心でも愚地独歩でもないので、空手では絶命させることが出来ず、結局斬っている。が、このことがより一層、事件に陰惨なイメージを与えることとなった。

次の、そして最後の捕虜殺害は8月15日である。終戦の玉音放送を受けて、方面軍司令部では残った捕虜の扱いが議論になった。友森大佐などは、自分はあまりこれまでの事件に関係が無いという思いがあったのか「どうせ隠したって判るよ」という立場であったが、参謀副長福島久作少将、佐藤大佐、情報参謀薬丸勝哉中佐、伊藤少将、和光大尉らは隠蔽を主張。結局残った14,5名の捕虜を油山に連れ出し、殺害した。このときは弓が実験的に使われたが、中らなかったらしい。また、佐藤大佐は処刑現場に報道部勤務の女を連れてきていた。

終戦を受けた方面軍司令部では、着任日の浅い安倍邦夫作戦参謀が徹底抗戦を叫んでいた。また報道部長の町田敬二大佐も、軍司令官横山勇を総理に抱く九州政府構想を持って動いていた。町田は報道部長であるため、彼の周りには火野葦平らもくっついていたが、結局横山中将が乗ってこなかったため、何事も起こらなかった。町田は後に自伝を書いているので、この話はそちらに譲る。

それでも収まらない若い召集の将校たちがいた。彼等が頼みにしたのが、菊池部隊(第212師団)の桜井徳太郎であった。桜井は数少ない少将での師団長で、支那やビルマで鳴らした猛将であった。しかし彼は終戦直後に東京に飛び、自らの目で詔勅を確認して、既に継戦意欲を失っていた。周りの人々の必死の説得で若い人々も解散したが、リーダー格の二人だけは、そっと仲間から離れ、油山で自決した。このときは立たなかった桜井は、16年後に奇妙なクーデーターに関与することとなる。

戦後、上記の捕虜殺害事件が明るみに出て、軍司令官以下が逮捕された。横山中将は、当初は自らの命令で軍律会議抜きでの処刑をやらせたと述べていたが、再審では、「自分は命令していない。伊藤と佐藤が決めたと思う」と証言を翻した。大岡昇平は、岡田資の伝記『ながい旅』の中で、この横山の態度を引き合いに出している。横山も支那の第11軍司令官時代は非常に評判の良い将軍だったのだが。一審で9名の絞首刑判決が出たが、幸いなことに後にいずれも減刑された。しかし横山中将は獄中で病死した。他に生体解剖のI医師が自決している。ちなみに和光大尉は上海でのドゥーリットル隊のパイロット処刑も主導している。この事件の裁判では、軍司令官であった沢田茂が、責任は総て自分にあるという断固たる態度をとった。裁判中、通訳をしていた朝鮮人が沢田中将の傍に寄ってきて、「そのような証言は、東洋人には理解できるが、白人に対しては有害無益であるから取り消しなさい」と忠告したが、沢田は「その必要はない」といって聞かなかった。しかし判決は全体的に軽く、1人の刑死者も出さなかった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/bcaircrew.html


『逃亡』は、油山事件で命令により捕虜を斬ったある見習士官の逃亡の記録。東京帝大を卒業した病院長の息子として生まれたSは、鹿児島高商を卒業した後入隊し、久留米の予備士官学校、中野学校を経て、西部軍司令部附となる。8月10日、命令によって、油山で捕虜1名を殺害。戦後、家族に別れを告げ、逃亡。多治見市の大きな陶器製造所の門を叩く。焼き物経験の無い男の採用に、社長は当初乗り気では無かったが、丁度雑用係が居なかったことから、雑役夫として雇われる。松田という偽名を使い、真面目にこつこつ働く男は、段々やり手の社長からも、雑事一切を取り仕切る矍鑠とした社長の母親からも、信頼されるようになる。そして遂には雑役を卒業し、焼き物職人となる。勿論最初は怒られ通しであったが、持ち前のもの覚えのよさで、ぐんぐん腕を上げ、仲間の職人からも一目置かれる存在となる。そして事務主任に抜擢され、労使関係の調整も任される。

しかしその間も、残された家族には、GHQを後ろ盾にした官憲の、人権などどこ吹く風の取り調べが加えられていた。警察の執拗な取調べに、33歳の姉は体調を崩し、遂には病死してしまう。それでも取り調べの手は緩まない。盗聴器まで使った非人道的な捜査に、しかし残された母や妹が屈することは無かった。そもそも彼女たちは本当にSの居場所など知らなかった。しかし東京にいた元上官のYだけは、Sから連絡を受けて居場所を知っていた。家族に加えられる警察の余りに過酷な取調べに、思い余ったYは、遂に聞き込みに来た刑事に独断でSの居場所を告げる。

昭和24年7月19日、事務室にいたSの元に3人の男がやってきた。一人は元上官のYであった。いつの間にか社長もやってきて、「S君ちょっと」と彼を本名で呼ぶ。残りの二人は警視庁の刑事であった。「ごめんなさい」深く頭を垂れるSに対しYが、「ご家族のご苦労を見かねてね。君に何も言わずにこうした措置をとってしまった。お詫びする」。社長が言葉を継ぐ。「S君、私もうすうす君が戦犯というのには気付いていた。気持ちをしっかり持ちなさい。大丈夫だからね」。社長一家、従業員一同に暖かく見送られ、多治見を後にしたSは巣鴨に収監される。そして横浜に於ける彼の裁判は、長らく続いた連合軍による戦犯裁判の棹尾を飾ることとなる。

200ページちょっとの薄い本ではあるが、あっという間に読んでしまった。著者の姿勢に好感が持てる。2006年の3月に出版された本なので、まだまだ簡単に手に入るし、図書館でも開架に置かれているはずだ。
敢えて言おう、必読書であると!



しかし、警察の職務熱心はどう捉えれば良いのだろう。はっきり言って私は、吐き気がするが。


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