近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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第6章 阿部内閣における天皇指名制陸相の登場 ―畑陸相就任の衝撃―
この第6章こそ、多田駿マニアの私にとってはメインディッシュです。この件に関しては以前にも触れています。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-66.html
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel02/tada.html
が、改めて簡単にことの経緯を見てみます。

当時日本は三国同盟を巡って延々と五相会議を繰り返していました。そんな中、独ソ不可侵条約が突如結ばれ、平沼騏一郎首相は”何これ、イミフww”と総辞職してしまいます。同盟締結に邁進していた陸軍もショックを受け、同盟は一時棚上げとなりました。陸軍は、次の内閣は、賛否を問わず同盟問題に関わりのあった人を避けるべしという方針を決めました。これは即ち賛成派の小磯国昭拓相、反対派の米内光政海相、荒木貞夫文相といった人々を指しています。すったもんだの末に大命は阿部信行に降下しました。そこで陸軍首脳は恒例の三長官会議を開き、阿部新内閣の陸軍大臣の詮衡を行いました。

陸軍省の中堅層の支持は、前次官で現在航空総監の東條英機に集まっていました。しかし上層部の考えは違っていました。陸軍次官の山脇正隆は、参謀総長閑院宮殿下の邸で行われた三長官会議での、陸相詮衡の模様について次のような証言を行っています。

一、東条案
 これは防共協定が不可能となり、陸軍の今後の動向も考慮してこの際、向う意気の強いのが必要である。しかし東条さんは人事に対する意見があまりに一方的にはっきりしており、国内に対する評判も心配がある。あまり強硬な主張をすると、かえって諸問題の成功を阻むものであるから、との理由の下に板垣さんも我々も同意見で反対をした。
二、西尾案
 これはやむを得ない時は西尾(寿造大将)さんという案も出るだろうが、今は支那総軍司令官の引当てになっている。また中級将校には西尾さんに反対意見が多い。
三、磯谷案
 これは誰もが第三案に挙げる案であったが、最近のノモンハン事件の当面の責任者であり、また軍司令官の責任処罰をすることになるかも知れないのだから、この際問題とすることができない。
四、多田案
 これはとくに人事に於いて、東条案と反対で普遍的であるがその周囲の人選がよければ、公平な人事を行ない得ることができるだろうから、他に人がなければ仕方がなしこれで行く外はない。


一つ一つ見ていきましょう。東條は陸軍次官時代、支那事変などに対し非常に強硬な姿勢を取っていました。彼自身はそのせいで陸軍次官を辞めざるを得なくなるのですが、それによって中堅若手の心はがっちりつかんでいました。元々は板垣陸相も東條を信頼していたと思います。そうでないと、自ら自分の次官にと望まないでしょう。しかし浅原事件などを経て、この頃の彼の東條に対する感情は、相当に悪化していました。浅原事件のとき、兵務課長の田中隆吉が、石原莞爾を軽い処分に処した方が良いと進言しました。それを聞いた板垣は血相を変え、

「何たることを言う。こういう陰謀は許されない。この陰謀を行った連中はそれが航空総監たると、憲兵隊長たるを問わず、断固として解雇する」

と田中を叱りつけたそうです。航空総監は東條を指します。憲兵隊長というのは、東條の腹心と言われる加藤泊治郎のことです。要するに板垣は浅原事件を、石原や更には多田及び自分までもを陥れる陰謀と見ており、その策源地は東條であると考えていたわけです。そういう経緯もあって彼は東條案に反対しました。他のメンバーもこれに同意であったようです。ちなみに「人事に対する意見があまりに一方的にはっきりしており」という分析は、好き嫌いの激しい東條の性格をよく把握したものと言えるでしょう。


西尾寿造は4人の中では一番の先輩であり、この当時は三長官の一である教育総監でした。しかしいくらなんでも本人がいる席で「中級将校には西尾さんに反対意見が多い」などという話はされないでしょうから、会議には出席していないのでしょう。彼は非常な能吏(それこそ東條以上の)でしたが、部下にも同じだけを求める人で、その峻厳さは陸軍部内で定評がありました。「中級将校には西尾さんに反対意見が多い」というのはそのことに由来します。彼が教育総監部の第一課長から平壌の旅団長に栄転するとき、送別会の席上で当時部下だった武藤章が、

「課長は今度目出度く進級し、田舎の旅団に行かれるが、部下の頭と鋭敏極まる御自分の頭とを同等と考えられ、あまりやかましく云われると、皆逃げ廻って、なつきませんよ!!」

と冗談めかして忠告したことがありました。が、持って生まれた性格は変わらず、平壌でもビシバシやったため、部下は逃げ廻っていたそうです。しかし何よりも、彼は新たに編成される支那派遣軍の総司令官への就任が予定されていました。日露戦争の大山巌以来の”総司令官”という重職の人事はそう忽せには出来ません。ですのでこの案も却下となりました(ちなみに総参謀長には陸相を辞めた板垣が就任したことからも、その重さが分ると思います)。

磯谷廉介は所謂支那通でありながらも、軍務局長などの中央部の要職を歴任し、往く所可ならざるなき人物で、本来なら陸相の資格がありました。しかし山脇も言うとおり、彼は関東軍参謀長として、ノモンハン事件の当面の責任者でしたから、この時点での陸相就任は論外でした。

多田駿も磯谷と同じく支那通でしたが、上記三人とは違い一度も陸軍省に勤務した経験が無く(この点は板垣も同様)、本来なら陸相候補に名前が挙がる人物ではありませんでした。しかし時代の巡り合わせという奴でしょう。彼は東條のように偏った性格でもないので、補佐する人がよければ、まず無難であろうということでした。補佐役というのは誰を念頭においてのことか勿論知る術は有りませんが、あるいは板垣の頭には石原のことがあったかも知れません。陸相を辞めていく板垣にとって、石原の今後は心配事の一つでした(後に石原が遂に予備役に編入されたとき、そのニュースを板垣に伝えた幕僚が、「これで閣下も肩の荷が降りましたね」といったところ、板垣は「そんなことではないんだよ」と心底寂しそうに答えたそうです)。しかし多田なら、其の点は何の問題もありません。多田は板垣と並ぶ石原の数少ない庇護者でしたから。ちなみに、当の石原はこの二人について、先輩として敬愛はしつつも、自分がいないと駄目な人々と看做していた節がありますw彼は死の床で、

「多田さんや板垣さんが先に逝かれたが、寂光への道でウロウロしてはいかんから早く行って案内してやりたいと思ったりしています」

と、彼一流の諧謔で二人への気持ちを表現しています。

また多田は新首相の阿部と同じ砲兵科でした。圧倒的多数を占める歩兵以外の兵科は、その兵科内での繋がりが強く、二人も自然親しい間柄であったそうです。更に阿部の娘婿の稲田正純は、その兄が多田の師匠である坂西利八郎の養子である関係から(亦彼も砲兵)、多田に可愛がられていました(本人談)。そういった人間関係も考慮され、三長官会議は、全員一致で多田を次の陸相に推薦することを決定し、人事局長の飯沼守を満洲の多田の下へ派遣しました。

長くなるので続く


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第5章 第一次近衛内閣における首相指名制陸相の実現 ―杉山陸相から板垣陸相へ―
トラウトマン工作打ち切りの模様については以前に書きました。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-238.html
まあそうやって自分で戦争続行に舵を切った近衛文麿首相ですが、元来が平和志向の上に、事変も軍部の一撃論者の言うほど簡単に行きそうもないと、すぐに気付きました。陸軍大臣の杉山元は、北支へ出張するときも何をしに行くのか全然言わない。そういう態度に嫌気がさした近衛公は、彼を更迭しようと思い立ちます。後任候補に思い浮かんだのは、板垣征四郎でした。公は板垣と殆ど面識がありませんでしたが、板垣がかつて事変の不拡大を唱えた石原莞爾と極めて近い考えであるらしいという点が気に入りました。

ちょうど参謀本部でも杉山陸相に対する不満が高まっていました。参謀総長の閑院宮殿下も、近衛公の希望を支持しました。そこで風見章は、第五師団長として北支にいる板垣と連絡を取るには、多田駿参謀次長に頼むのが一番の早道と考え、彼にそれとなく相談してみました。しかし多田は、杉山の更迭には賛成も、後任には序列から言って古荘幹郎台湾軍司令官が順当ではないかと言い、風見が「板垣はどうだろう」とそれとなく聞いても、あまり気乗りがしない態度でした。これは多田が風見を警戒してのものなのか本心なのかは分りませんが、困った風見は、多田に頼むのを諦め、別のルートを探しました。白羽の矢が立ったのは、風見のかつての同僚で同盟通信の古野伊之助でした。通信社の人間なら、戦地に板垣を尋ねても怪しまれないし、古野は板垣と面識があり、そういう意味でも適任でした。早速彼は青島に向けて出発しました。

一方中支の視察から帰ってきた杉山は、閑院宮、梨本宮両殿下に呼び出され、陸軍大臣を辞めるように言い渡されました。これは近衛公の希望で、天皇陛下が閑院宮殿下に頼んだことでした。びっくりした杉山は、帰って梅津と相談しました。自分たちが言ったのだから、杉山はすぐに辞めるだろうと考えた閑院宮殿下は、すぐに近衛公に連絡しましが、案に相違して、杉山はすぐには辞表を出しませんでした。5月に入り辞任することは認めましたが、後任には古荘を推しました。参謀本部は健康上の理由(脳溢血?)でこれを撥ね付けましたが、杉山はかなり粘りました。

山東省の陣中で板垣と会った古野は、陸相就任を要請をしました。驚いた板垣は、容易に首を縦には振らず、多田駿を代りに推薦したりしましたが、結局古野の熱情に絆され、承諾しました。古野は出発前に3つの条件を近衛公から聞かされており、それは「日本軍の華北撤兵」「日中戦争の収拾」「東条次官任命」でしたが、板垣はこれを飲んだそうです。

古荘を推して粘っていた杉山ですが、教育総監の西尾寿造も板垣支持にまわったため、2対1で押し切られる形で辞表を出しました。このことについて杉山は原田熊雄に次のように漏らしています。

元来梅津にしろ自分にしろ、なんとかしてこの陸軍の統制を回復することに専念しておったのでありまして、そのために非常に評判が悪かったのでありますけれども、評判の悪い方が実際はよいのでありますということをよほど申し上げてみたが、どうしてもおきき入れにならん。どうも近衛総理は伝法肌の人が好きなんで、自分達なんかはとても駄目なんだ。

次官の梅津美治郎も非常に怒っており、滅多なことで感情を面に出さない彼が、海軍次官の山本五十六に、近衛公に対する怒りを吐露しています。また彼の数少ない郎党であった軍務課長の柴山兼四郎が、近衛公の秘書官の岸道三のところに怒鳴り込んだりもしています。柴山は、支那事変初期に於いて、不拡大派として頑張っていた人物です。

さて最後にこの問題で一番の論点、東條英機の陸軍次官就任問題についてです。筆者は東條の次官就任の原動力として4つの説があることを示しています。
(1)杉山説(2)梅津説(3)板垣説(4)近衛説
このうち杉山と梅津は同腹のため1つに収斂できます。板垣も、近衛公の意を受けてのものであることが、古野の回想で分ることから、1つにできるでしょう。結局この問題は、辞任させられる杉山ー梅津ラインの人事か、近衛ー板垣ラインの人事かということになるかと思います。そして戦後流布する説は前者、つまり板垣ー多田ー石原のラインに掣肘を加えるための、杉山、梅津の置き土産であるという説が圧倒的です。近衛公自身そのように人に話しています。ところが当時人事局長であった阿南惟幾は、板垣が東條の次官就任を強く望んでいたと述べています。そこで筆者は結論として、板垣東條はワンセットで近衛公の希望であったのではないかとしています。

【感想】
板垣陸相は何も為すところが無く、東條次官も喧嘩の種にすぎませんでした。結局苦労したこの内閣改造は、大失敗だったわけです。そこで公は十河信二から言われます。
「板垣には石原を付けなきゃいけない。東條なんか付けるから駄目なんです」
なるほど東條が悪いのか。板垣が悪いとなると(ホントは彼も問題なのだが)、これを強く望んだのは自分なのだから責任の持って行きようがないが、東條なら、(これもホントは公が望んだことだが)杉山も梅津も反対しなかったので(と思われる)、彼らの責任にできる!まあこんなところでしょうか。少々公にとって酷すぎる想像ですが、しかしこういう節があの方の性格にはあります。

それでは東條という個人名はどこから出てきたのでしょう。板垣を取ると決めた公は鈴木貞一に相談し、彼から「板垣にはしっかりした人を補佐につけなければいけない」というサジェスチョンを受けています。このとき鈴木が東條の名前を出したかどうかは知りませんが、16期の板垣の下で次官が出来る(大臣次官が同期という例も無いことはないが)有能な軍事官僚というと、確かに東條(17期)か山下奉文(18期)しかおらず、東條が候補となるのは自然で、違和感は無いですね。当たり前ですが当時の東條は首相にも参謀総長にもなっておらず大東亜戦争もやってません(個人的には兵務局長今村均の抜擢も面白かったと思いますが、18期の阿南が人事局長をやっている以上、無理な人事でしょうね)。

結局のところこの時点では、東條の次官就任は、杉山、梅津からしたら板垣や後ろで糸を引く石原を抑えるために、板垣にとっては行政に疎い自分の有能な片腕として、近衛にとってはこれまた、石原派が力を持ちすぎることを防ぐために(この、妙にバランスを取ろうとするやり方は、彼の典型的手法)、四者四様ながら歓迎されていたと見て良いと思います。尤も参謀次長の多田は、石原の次官起用を望んでいたらしく、あるいは不満に思っていたかも知れません。東條と多田はこの後、激しく争うこととなります。

余談:風見章の日記が刊行されるそうですね。この問題の渦中の人物だけに楽しみです。また古野伊之助の評伝を注文しました。やはりあのあたりの人も抑えておかなくてはいけないと思うので。


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第4章 林内閣の組閣 ― 梅津次官と石原派中堅幕僚の抗争
林銑十郎には、浅原健三という私設秘書がいました。浅原は有名な労働運動家であり、元無産政党の代議士でしたが、森恪に気に入られ、その紹介で陸軍に近付き、林の側近に収まっていました。森は、陸軍で話せるのは石原莞爾小畑敏四郎だと浅原に語り、彼に石原と会うよう薦めました。森に薦められ石原と会った浅原は、すぐに意気投合しました。林を担いだのは、民間ではこの浅原と宮崎正義、そして興中公司の十河信二、陸軍サイドでは石原のほかに軍務局長の磯谷廉介片倉衷といった人々でした。十河が組閣参謀長として、四谷の組閣本部に入りました。彼は書記官長に就任する予定でした。別に石原たちは林を尊敬していた訳ではありませんでした。むしろ逆に、自分たちの思うままに操りやすいと考えてこれを推し、宇垣を潰したのです。

他に、林には白上祐吉という弟がいました。彼は汚職で逮捕されたことがある札付きでした。林は陸軍大臣時代、この弟の逮捕を理由に、大臣を辞職するしないで、一騒動起こしたことがあります。白上は四高の同窓生の大橋八郎や河田烈を味方に、石原派に対抗しました。

更にもう一派、アムンゼンとスコットの争いに割ってはいる白瀬矗の如く、この両派の争いに介入していたのが、平沼騏一郎の手先の政治浪人成田努でした。平沼は、自分が辞退したおかげで林にお鉢が回ったのだから、自分には組閣に口を出す権利があると考えていたようです。しかし成田は、海軍大臣に小林省三郎を要求したことで林の憤激を買い、組閣本部から追放されました。小林は、米内光政が「小林は海軍の黒星付きだから」と反対していました。

組閣本部は以上三派に政治浪人や報道陣も含め、数百の人でケイオスでした。十河は、林を二階に上げて、それらの人々から隔離しようと努めましたが、林は便所に行く振りをして、いつの間にかこっそり下に降り、彼等と会っていました。

石原派の一番の要求は、板垣征四郎関東軍参謀長の陸軍大臣起用(万已むを得ざるときは杉山元でも可)でした。それに対する寺内寿一の回答は、三長官会議の決定で中村孝太郎を推薦するというものでした。林は、中村は同郷だから遠慮したいと、弱弱しく拒否しますが、今時同郷とかは問題ではないとばっさりやられ、一旦組閣本部に戻りました。林の報告を聞いた十河は、自ら寺内を尋ねました。寺内は十河に、杉山、中村、小磯の三人の候補がいたが、杉山、小磯は三月事件に関係が有るので、適任者は中村しかいないと説明しました。そして板垣は若すぎて全軍の統制には不適任であると、十河の要求を斥けました。

このとき寺内は「杉山、中村、小磯」の三人が候補であったと十河に言いました。しかしほんの10日前の宇垣の組閣時は、「杉山、中村、香月」が候補でした。筆者はここに注目し、とにかく何が何でも中村を候補にするために、三月事件に無関係の香月を小磯に入れ替える詐術を用いたと述べています。中村推しと板垣反対には当然梅津美治郎次官の強い意志が働いていました。

以下は浅原の評伝『反逆の獅子』に載っている話ですが、十河の報告を聞いた石原は、もう一度林を寺内の元へやるように言い、一方で寺内を梅津と引き離して缶詰にするよう、磯谷に連絡しました。磯谷は軍務局課員を引き連れて陸相官邸に乗り込み、寺内を取り囲んで板垣陸相を認めるよう迫りました。この異様な行動に驚いた寺内は

「軍務局長は陸軍大臣の命に服しないか」

と大声を出しましたが、磯谷は

「服しません」

と答えたそうです。

所が林のほうは、もうこの頃板垣陸相に対する熱意を失っており、それより自分の組閣を第一に考えるようになっていました。組閣本部での十河への風当たりも強くなっており、岩田愛之助などは、

「十河は林内閣を毒殺するんだろう。今日中に組閣本部から退かなければ殺す」

と言っていたそうです。また林自身、ひそかに憲兵隊の大谷敬二郎に連絡し、十河の処遇についてアドバイスを受けています。大谷に語った

「陸軍大臣だって誰でもつとまる。三長官の推す中村君で結構なのだ」

というのが、彼の本音でした。

そのような状態で、林は寺内に会うため組閣本部を出発しますが、彼は真っ直ぐ陸相の元へは向かいませんでした。慌てた十河らが憲兵に頼んで探したところ、林は閑院宮邸に居ました。林の後をつけていた記者からこの情報をつかんだ松村秀逸は、官邸の玄関に近い部屋で一人でストーブにあたっていた梅津に報告しました。梅津は、林が閑院宮にすがって板垣陸相を通そうとしていると判断し、

「陰謀だ。よくわかった」

とすぐに立ち上がって部屋を出ました。その後、梅津の指示で、秘書官が別当の稲垣中将に電話で会談の内容を確かめたところ、単なる挨拶であったという答えでした。

しかし陸相官邸から帰ってきた林は、十河に対し、

「宮様から三長官会議の決定をなぜ素直にうけないのかとえらく叱られた。自分は陸軍出身だから宮様の御意見にそむくわけにはいかないのだ」

と内話しました。それを聞いた十河は

「宮様が出て来ては万事終わりである」

と感じたのだそうです。この点について筆者は、林は石原派を振り払うために宮様の権威を利用したのではないか、つまり実際叱られたかどうかは別にして、「叱られ」ることが目的で(閑院宮邸に)行ったのではないかと考察しています。これは梅津の観測とは逆ですが、非常に面白い考察だと思います。

翌日改めて陸相からの電話で、中村陸相が正式に決定すると、十河と浅原は組閣本部を離れました。書記官長には大橋がなりました。浅原の報告を聞いた片倉は

「林に欺かれた。よし!たたきつぶす」

と怒鳴ってアジトを出て行きましたが、その周りには憲兵の姿がありました。石原は、民間人の浅原と宮崎を陸軍省と参謀本部の代表として、二人に絶縁状を持たせて、林のところへ挨拶に行かせました。車に乗り込む浅原に、石原はこう言ったそうです。

「はっきりと縁を切って、林内閣はつぶす。そう明言しておいた方がいいですよ」



組閣の成った後梅津は、「片倉少佐のやったことはけしからん」と怒り、皆の意見を聞きましたが、皆が片倉を支持するので「皆がそういうなら私の言ったことは取り消す。しかし君のやったことには同意しない」と述べるにとどまり、片倉への処分はありませんでした。

【感想】
閑院宮邸に寄ったのは、板垣板垣としつこい十河を振り切るための”林自身の”陰謀ではないかという筆者の考察は、なかなか面白く、林なら有り得ると思わせます。そこで思い出すのが、深酒で体を壊した荒木陸相の後任に真崎を据えるため、教育総監だった林と陸軍次官の柳川が閑院総長宮を訪れたときの話です。宮様が、「真崎は嫌だ、林お前がやれ」と怒ったため、これには真崎命の柳川もどうすることもできず、林が陸相となりました。まさかこれまでも、宮様の真崎嫌いを計算に入れた林の策謀とは思いませんが、案外この件がヒントになっているかも知れませんね。林は解散総選挙で敗れて僅か4ヶ月で桂冠しますが、これは建川美次や小林省三郎に唆されたものであると河野恒吉は書いています。





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第3章 宇垣内閣の流産 ―「軍の総意」による「反対」
昭和12年の1月23日に広田内閣が総辞職し、宇垣一成大将に組閣の大命が下ります。そこから大命拝辞までの流れは、色々な本に載っていますし、何より本書も詳しいのでそちらを読んでいただくとして、ここでは個人個人にスポットを当てます。
香月清司中将については下記URL
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-210.html
小磯国昭については下記URL
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-245.html
で触れているので、今回は省略します。

宇垣反対のムーブメントの中心にいたのが石原莞爾であることは衆目の一致するところです。当時彼は参謀本部の第二課長でしたが、その権勢は下手な大臣をしのぐくらいのものがありました。「魔力があった」と表現する人もいます。また陸軍省の兵務課長田中新一や軍務局課員片倉衷も石原に追随していました。彼らの反対理由は、表向きは三月事件でしたが、実際はかつての軍縮に現されるような宇垣の豪腕を嫌がってのものだと言われています。この頃石原は独自の五ヵ年計画を腹蔵しており、それにはうるさ型の宇垣では都合が悪かったのでしょう。

軍務局長は磯谷廉介でしたが、彼も格別石原たちの動きを止めるようなことはしませんでした。この人の本心は良く分りません。憲兵司令官の中島今朝吾は派手に動きますが、この人に関しては別に書くときが来ると思うので、今回は省略です。

さて本題は下から突き上げられる立場にあった人々です。まず三次長。

教育総監部本部長の中村孝太郎は、陸軍が形式的に出した陸相候補の一人でしたが、正直彼がどういう考えであったのかは、全くわかりません。経歴的には宇垣の部下だったこともあり、当然知った仲ではあったでしょう。

参謀次長の西尾寿造は若い頃から非常な能吏として知られ、彼が見た文書は、宇垣も盲判を押したと言われています。つまりそれだけの信頼関係があったということです。彼は石原の動きを追認したように見えますが、本心がどうであったのかは分りません。

陸軍次官の梅津美治郎は、上記二人よりさらに宇垣と縁の深い人物でした。私生活では仲人もしてもらっています。梅津はその性格から言っても、石原たちの動きに不快感を持っていた節があります。しかしこのときはまだ、何も言いませんし動きません。明哲保身の人として、宇垣も不快感を日記に綴っています。

三次長の上の三長官。

陸軍大臣の寺内寿一は、かつて予備役入りのところを、宇垣にすがって助けてもらったことがあります。宇垣が思うほど、当人がそのことを恩に感じているかは分りませんが、彼個人が宇垣に悪意を持っていないことは確かです。某筋から、「そろそろ宇垣は(首相に)どうだろうか」と聞かれて、「もうそろそろいい時分でしょう」と答えています。しかし自他共に認めるロボットである彼は、部下に言われるままに宇垣を訪れ、大命拝辞の勧告までしています。

参謀総長は閑院宮殿下でした。殿下は基本的にお飾りで、普段は次長が職務を代行することが多いのですが、このときの三長官会議には、殿下直々に出席されておられます。これは殿下の権威を利用しようとする石原の差し金であったと言っている人がいるようです。殿下の三長官会議出席を後で聞いた別当の稲垣三郎中将は、

同宮邸に奉仕すること十数年の永きにわたりながら、最も大切の時機に、同邸におらざりしために、飛んだ事態をかもしたり

と残念がったとか。これを見ると、稲垣中将は宇垣内閣に賛成であったととれますね。この話は私は本書で初めて知りました。またこの殿下の動き(宇垣排撃加担)に抗議して、第一師団に閑院宮殿下の「死亡通知葉書」を投げ込んで逮捕された新聞記者もいたそうです。

最後に問題の教育総監杉山元。杉山は宇垣の下で軍事課長、軍務局長、陸軍次官を務め、彼との縁の深さでは、当時の陸軍で右に出るものはいないといっても良いでしょう。宇垣が大命を拝し、宮中から四谷の自宅に戻ったのは25日の午前3時前でした。出迎える人の中には和服を着た杉山大将の姿もありました。勿論彼はその時、大命拝辞についてなど何も言いません。それを見た人々が、杉山は大臣をやるつもりだなと思ったとしても、無理は無いでしょう。よもやこの先生が、翌26日に近衛師団長の香月中将(杉山中村に次ぐ第三の候補)を伴って記者会見を開き、「自分は絶対に宇垣内閣に入閣しない」言い放ち、更にその足で宇垣を尋ねて大命拝辞を勧告するなど、神ならぬ身では分るはずも有りません。26日、大命拝辞を勧告しに組閣本部の宇垣を尋ねた杉山は、逆に宇垣に言いこめられ、(´・ω・`)として帰ります。そもそも彼がどういうつもりで、私服で宇垣を出迎えたのか分りませんが、こういうことをしているから、「便所のドア」(どっちにでも開くの意)などと呼ばれるのです。宇垣としても泣くに泣けない心境だったでしょう。

【感想】
著者は、宇垣反対は陸軍の総意であり、それ故に例え軍部大臣現役武官制が復活していなかったとしても、陸軍大臣を求めるのは難しかったであろうとしています。この点は私も同意見です。タイミング的に、現役武官制復活の直後に起こっただけに、惑わされやすいですが。しかし宇垣は後備の大将です。現役武官制が無ければ、法制上は彼自身が陸軍大臣を兼摂することが可能でした。勿論このような状況で、彼が陸軍大臣になったとして、何が出来たかというのはあります。しかし何か出来たかもしれません。そういう意味で、私はある程度、軍部大臣現役武官制の威力を認めるのです。


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第2章 軍部大臣現役武官制の復活
軍部大臣現役武官制は山本権兵衛内閣で廃止されました。その経過については、当時の陸相木越安綱の項などでも触れています。この官制改正を飲んだ陸軍は、その対策として陸軍省、参謀本部、教育総監部関係業務担任規定を改正しました。具体的に言えば、統帥命令に関する権限、編制動員業務に関する権限を参謀本部に移管し、陸相の専管事項であった高級人事も、三長官の合議制にするというもので、要するにそれらは陸軍大臣の権限を制限するという目的を持っていました。

広田内閣は、この軍部大臣現役武官制を復活させましたが、これを推し進めたのは、新たに陸軍次官に就任した梅津美治郎でした。梅津は二・二六事件において、断固討伐を訴えた数少ない師団長の一人でした。現役武官制復活の表向きの理由は、事件で追放された皇道派将軍の任用を防ぐということでした。これは、皇道派の将軍に深い信頼を寄せる近衛文麿の存在が念頭にあったかもしれません。しかし彼にはもう一つの目的がありました。それは、三長官に分散した人事行政の権限を、再び陸軍大臣に一元化するというものでした。つまりそれは三長官合議制の廃止を意味します。

ずっと後年、小磯国昭が大命を受けたとき、広田に呼び止められた話は、以前しました。この話はかなり広まっており、宇垣も戦後、聞いたそうです。

 私が最近聞いた話によれば、当時〔宇垣内閣流産事件の頃〕既に三長官会議の決定なるものは政府によって無効であった、との事。即ち小磯内閣成立の為の重臣会議を終えて・・・・・(後略)

文藝春秋臨時増刊 昭和メモ

ところが、宇垣は戦後知ったと言いますが、本書によれば、昭和11年5月18日の読売新聞にはっきりと、三長官会議は廃止されたという記事が載っているのだそうです。またこの頃、議会に於いて軍部大臣の選任方法について、植原悦次郎議員から質問を受けた広田は、

大命を拝しました本人は、例えば軍部に於きましては自分の適当と認める人を陛下に奏薦することが出来ると思うのであります

と答弁しています。これを聞いた椎原は、その後二度に渡って”そんなはずは無いだろう”というような趣旨の質問を繰り返したますが、広田は、軍部大臣は首相が選任できるという趣旨の答弁を繰り返し、最後には

私が申した通りに御信用願います

と言い切っています。議会には当然陸相とそのスタッフがいましたが、この広田首相の答弁が、その後問題になった形跡はないため、少なくとも寺内と広田の間では、三長官会議の廃止は合意されていたようです。後年広田が小磯にいったことは、満更の出鱈目でもなかったということです。

しかし梅津次官の人事一元化は、参謀本部の強い反対に阻まれ挫折します。また三長官会議もその後惰性的に開かれ、結局現役武官制が復活しただけと相成りました。

【感想】
広田弘毅はA級戦犯として処刑されました。故に、広田の中から、それに相応しい罪状を搾り出そうとする人々がいます。そしてそういった人々が必ず挙げるのが、この軍部大臣現役武官制の復活です。しかし著者は、軍部大臣現役武官制が無くとも、軍部は既に内閣の死命を制する力を持っており、この官制の復活を過大視するはおかしいと主張します。
軍部大臣現役武官制の復活は、あくまで陸軍の内部事情に依る所が大きく、しかし外から見れば、軍部が政府に圧力を掛けているように見える。この構図は何かに似ていないでしょうか。そうです、やはりこの時期にあった支那駐屯軍の増強です。あれも、関東軍の北支への容喙を防ぐという陸軍の内部事情に依りました。しかしそういった事情は、国民政府には当然分らないわけで、自分たちへの圧力と受け取ったのは当然のことだったでしょう。
梅津という人は、大変統制を重んじる性格でした。彼は、統帥権という秘剣を持つ参謀本部の力を、少しでも削いでおきたかったのではないでしょうか。つまり、二・二六事件で統制派と皇道派の争いは一応解消しましたが、梅津・石原という二大巨頭の新たな争いが、このとき既に始まっていたというわけです。

第3章へ続く


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第1章 広田内閣における陸軍の政治介入
二・二六事件の後、元老西園寺公望に首班として指名されたのは近衛文麿公爵でした。しかし近衛公は何かと理由をつけてこれを辞退。重臣達は困りますが、一木喜徳郎の推薦で広田弘毅に大命が降ります。
広田の組閣振りを注視していた陸軍は、その面々に不満を抱き、入閣予定であった寺内寿一をして、入閣を拒絶させます。このとき陸軍が忌避した人々は一般的に次の五名とされます。

  1. 牧野伸顕の女婿吉田茂
  2. 朝日新聞の下村宏
  3. 民政党の川崎卓吉
  4. 国体明徴の観念に疑義があるとされる小原直
  5. 軍需産業と繋がりの有る中島知久平
著者は、更にこれに永田秀次郎も加えた六名にクレームがついたとしています。

一方このとき陸軍省において協議に参画したのは、新大臣候補の寺内大将のほかに、現大臣の川島義之、次官の古荘幹郎、軍務局長の今井清、軍事課長の村上啓作、調査部長の山下奉文そして軍事課課員の武藤章高嶋辰彦といった人々でした。大臣、次官は勿論山下、村上の二人もいずれ事件の責任を問われる身であり、今井清も、皇道派ではありませんでしたが、この後一時的に兵本附となります(責任を問われたのか体が悪かったのかは不明)。当然、一連の流れを取り仕切ったのは、一番階級が下の武藤たちであったろうことは想像できます。特に武藤は、広田の組閣本部と直接の交渉にあたったため強い印象を与え、一連のクレームは、武藤一身から出たものであるというようなことすら言われます。武藤の持つ強大な才能もまた、人々の思い込みを補強します。しかし彼のブレーンであった矢次一夫は、むしろ武藤はより強硬な意見を持つ連中から突き上げられ、それを抑えるのに必死であったのだと書いています。

広田陣営は、陸軍の意向を汲みながらリストを作り上げましたが、最後の段階でまた陸軍が、政党人は一人にしろとクレームをつけてきました。それをうけて組閣参謀の藤沼庄平は、寺内に直接電話をかけて、「陸軍のせいで組閣が出来ないと明日新聞にぶちまける」と言いました。それを聞いた寺内は「ちょっと待ってくれ」と言い、「特使に持たせる一文に同意してくれるなら、明日の組閣に同意する」と答えました。特使としてやってきたのは武藤でした。その内容は随分陸軍本位なものでしたが、広田サイドは我慢してそれを聞き、何とか組閣にこぎつけました。

【感想】
個人的にへ~と思ったのは、永田秀次郎の件でしょうか。著者はまずこの第1章で、軍部大臣現役武官制が復活していない状況にも関わらず、広田内閣が陸軍の反対で流産しかけたという点を指摘します。

第2章へ続く




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