近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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1913(大正2)年

九月五日 金 晴
午后十時、将に入寝せんとするの際、小村欣一宅より、政務局長阿部守太郎、伊集院を迎へて帰宅、将に門に入らんとして刺客に刺されたる旨電話あり。直に見舞ひしに重体、甚だ気遣わし。

41歳の若さで局長となった阿部とは、陸海外の少壮官僚の集まりなどでよく顔を合わせ親しかった。犯人は岩田愛之助に指嗾された二人の若者。所謂南京事件に対する対応が弱腰であると看做されたことが原因であった。南京事件とは北軍の前軍司令官張勲の軍勢が巻き起こしたアトロシティを指す。張勲軍の軍紀の悪さは半端ではなく、被害者の大半は中国人であったが、日本人も数名が殺害された。

十月九日 木 晴
青柳勝敏(李烈鈞等と事を与にし、敗れて林虎を伴ひ帰朝せるなり、当時の情況を詳報す)来宅す。

青柳は以前から宇都宮の元を何度も訪れ熱心に蒙古行きを希望していた予備役の騎兵大尉。妻は林大八の妹。前年、希望が叶って蒙古に渡っていたが、いつの間にか李烈鈞の幕僚となっていた。第二革命が破れると、李烈鈞は命からがら日本へ亡命したが、林虎は江西の奥地に取り残された。そこでまず山中峯太郎が偽の林虎となって北軍の目をくらまして日本に帰り、その後本物の林虎も何とか日本にたどり着いた。どうも青柳はその間、林虎と行動を共にしていたようだ。

十月十四日 火 曇
此夜、井戸川大佐を宅に招き、晩餐を与にしつゝ時局を談じ、高島子爵をして中心人物たらしむる為め之を擁立し、機を見て政友会に入り之を掌握し、終に大政の局に当らしむるの必要を告げ、之れが為め鹿児島内部、殊に山本伯一派との円満なる疎通を得させ度、之が為めには此数年来感情疎隔しある伊瀬知中将と子爵との交情を復旧、伊をして大に斡旋せしむるの必要を告げ、余も其内往訪すべきも、先づ井をして伊瀬知を訪問、瀬踏を為さしめんと相談せしに、井は之を快諾、二、三日中に伊を鎌倉に往訪することと為る。

高島鞆之助について、宇都宮は以前彼を参謀総長にしようと色々画策していたが、今度は首相にしようとしている。しかし、一体高島の何が宇都宮をそこまで引き付けるのかさっぱり分からない。機を見て政友会入りさせて、そこから首相にしようという考え(ちなみに後年、宇都宮のライバル田中義一がこのルートで首相となった)だが、そのためには同じ薩摩の山本権兵衛一派とも仲良くしておかなければならない。しかし現在、山本と親しい伊瀬知陸軍中将と高島は疎遠となっている。そこでまず井戸川辰三を伊瀬知の元に送り、伊瀬知と高島の仲の修復から始めようというのが話し合いの内容。

十一月三十日 日 晴
早朝、青柳勝敏来訪。孫逸仙等に鈴木宗言宅に密会せんことを申入れしに付き、来訪せば面会を辞せざるも、他に密会に行くことは好まざる旨返答す。

孫逸仙とは即ち孫文。

これにて1913年は終了。
1913(大正二)年

一月七日 月 晴
約に依り、午前八時桂総理大臣を三田の自邸に訪ふ。首相は満蒙問題解決(其程度は低く、安奉線、旅大を、出来れば九十九年、已むを得ざれば五十年延期を得て満足せんとするの意を漏せし故(中略))に意あること、其外対露軍事、就中我輸送力増加の事等を談じ、九時三十分辞して参謀本部に出勤。

西園寺公望から桂太郎陸軍大将に首相が変わった。それに伴い陸軍省首脳も
陸軍大臣 上原勇作 → 木越安綱
陸軍次官 岡市之助 → 岡市之助
軍務局長 田中義一 → 柴勝三郎
となった。一方参謀本部は部長以上に変動無しであった。
参謀総長 長谷川好道
参謀次長 大島健一
総務部長 山梨半造
第一部長 由比光衛
第二部長 宇都宮太郎
第三部長 武内 徹
第四部長 重見熊雄
桂は言うまでも無く長州人であったが、山県とはやや一線を画していた。満蒙に対する桂の経綸を聞いた宇都宮は、その欧米列強の目を気にした消極的な態度に物足りなさを覚えたが、あまり強くは追い込まなかった。宇都宮は十七日から約二ヶ月の支那朝鮮視察旅行に出るが、彼が帰国したときには既に桂内閣は倒れ、山本権兵衛海軍大将が首相となっていた。所謂大正政変である。

三月十五日 土 晴
夫れより木挽町万安に於ける歩中尉篠塚義男と軍医監鶴田禎次郎長女との婚礼開に臨席す。(中略)此縁談には夫婦にて多少斡旋する所ありしなり。

去年、長州人の娘と縁談があると言ってきて、宇都宮に渋い顔をさせた篠塚が結婚した。ところが相手が変わっている。なんと相手の父鶴田軍医監は佐賀人。宇都宮夫妻恐るべし!

四月十五日 火 雨
陸軍大臣官制改正に付き次長より、総長は陛下に対し奉り「臣は該改正には反対に御座候へ共、陛下の御思召に任せ奉る云々」と謂が如き意味にて御答申さんとの様に聞取りし故、国家の重臣の御答としては少しく如何かと思ひ、総理大臣、陸軍大臣と協議し、既に宣言したる後の今日に於ては、時局の収拾上陸軍と国民との関係上、余は、
    一、陸軍大臣の官制は、軍事上の見地よりしては現役大中将を
     以てする現制度を尤も適当なりと思考す。
    二、然れども事情之を変更するの止を得ざるものありとすれば、
     同官の職域に必要の変更を加ふることを希望す。
と云ふ意味の意見を陳せり。

二個師団増設とのバーターで山本権兵衛が持出したのがこの陸(海)軍省官制改正。具体的にいえば、陸海軍大臣及び次官に任用されるものは現役の将官のみとしていたところの”現役”の二文字を削ろうというものであった。陸軍省も参謀本部もこれに強く反対した。宇都宮も陸相は現役将軍であることに越したことは無いと考えてはいたが、現在の陸軍に対する国民感情の悪さを考慮すると、拒否を貫くのは難しい。それならこの改正を受け入れた上で、陸相の権限の一部を参謀総長に移管して埋め合わせるべきだと考えていた。

四月十九日 土 晴
過日来陸軍大臣官制改正に長谷川総長、大島次長等反対の意見を陳し、大臣は為めに辞職を声明し本日茅ヶ崎に転地せりと云ふ。爾後の発展誠に懸念すべきなり。長谷川等の背後に黒幕あるや否や尚不明なり。勿論削除の純軍事上見地より好ましからざることは言ふまでも無きことなれども、総理大臣宣言後、陸軍大臣承認後の今日、時局の模様等に連想する時は、其結果に付ては大に考慮せざる可らざるものあるべし。

山本内閣の陸相は桂内閣以来の木越安綱であった。木越は桂から非常に重用されていたが、必ずしも長州閥の人間ではなかった。士官生徒の1期生で、日清戦争では桂をよく補佐した。日露戦争では最年少の師団長として、黒溝台で大きな功を挙げた。木越の情勢判断は宇都宮と同じであった。しかし長谷川総長などは狂ったように反対するし、直属の部下たちも全員反対であった。主務課長である軍事課長の宇垣一成大佐は稟議書の作成をボイコットした。そのため木越は自ら書記に命じて書類を作成し、参謀本部の同意を得ずに内閣に提出した。今に残る稟議書の連帯欄は空白、主務課長欄に一旦押された判子は黒く塗りつぶされている。その代わり「本案に不同意」と書かれた付箋がべたべたと貼られている。それらには軍務局の5つの課の課長の判子が押してある。木越はこの改正を通すと陸相を辞任。閲歴からも大将になって然るべき人物であったが、そのまま待命のち休職、そして後備役に入れられた。    陸軍大臣 木越安綱

四月二十日 日 曇
早朝、渡辺鉄太郎、海軍大佐秋山真之、川島浪速、伊東佑俊等来訪。就中秋山は尤も長座し色々の時事談あり、将来有用の人物に付き、多少肝胆を披きて相語る。

秋山真之は海軍軍人にしては珍しく支那に深い関心を抱く人物であり、宇都宮もその人物を気に入っている。以後よく彼は宇都宮を訪ねてくるようになる。

四月二十四日 木 曇
次長より部長一同を会し、総長は御前に咫尺し官制改革に不同意の旨奏上せしに、陛下は山本総理より詳はしく聴たり、総理の申す通に致置けとの意味の勅諚ありしに、就ては総長は直に辞表を上りて御反省を奉希(彼等の言)か、或は勅諚ありし此上は陸軍大臣の提案には同意し、其成立に就ては総長も責任を分ち然る後徐に辞表を上るか如何とのことに、最早御反省(彼等の言を借用す)の余地は無きものと信ず
(西園寺内閣の打破以来長閥に対する民怨は絶頂に達し、延て陸軍に及び、陸軍は長閥と共に天下の怨府と為り居れり。然るに彼等今尚其閥族の余命を無理に維持せんとて、官制問題なる好題目を借りて再び内閣、少くも陸軍大臣を動かさんとす。真に私の為めに国を誤り軍を誤るものと謂ふべきなり。軍紀地に落ち洪嘆に禁へず。彼等が対西園寺内閣隠謀の結果、陸軍も怨府と為り、官制改革も万已を得ざるに至り、山本の宣言と為りしものにて、改制の主因を作りしものは彼等隠謀者なり。然るに今亦だ純朴なる一部の軍人を引入れ、彼等長閥者流及之に付随せるもの等は、此問題を以て内閣に突撃せんとするものなり。併し事情已を得ずして大体の上より御裁可に相成り勅諚までありしものを御反省などとは、彼等は己れの立場を好くし内閣、殊に大臣を苦めんとするの陰謀と謂ふべきなり。公然総理大臣や陸軍大臣を悪罵し乱臣賊子を以て之を呼ぶに至る。而かも堂々たる部長や総長や責任ある将官の言動なり、軍紀果して何処にありや)。
因て、総長は責を陛下に帰し己を潔するが如き仕打は我長官としては為さしむ可らずと思考し、第二案、即ち勅諚ありし此上は理屈を抜き陸軍大臣の提案に同意し、唯だ大臣の職域に必要の変更を加ふべく、其細件は進で審議せん位のことを付加して陸軍大臣への回答を為し、総長の進退は徐ろに決せられ可然との意見を述べたり。由比、武内等も大抵同意なりしが如し。

長谷川総長が改正反対の上奏をしたところ、逆に天皇陛下に、山本の言うことを聞けと諭されてしまった。この上は辞任するだなんだとパフォーマンス(実際に辞任する気などさらさら無い)を繰り広げる上司に対し、宇都宮の内なる怒りが爆発している。彼に言わせればそもそも山本権兵衛がこのたびのような官制改正を持出したのも長州閥の専制が原因であり、民心が陸軍から離れたのも同様である。にも拘らずそれらを棚に上げ、尚も自分たちの勢力の保持だけを考えて、天皇陛下の任命した総理大臣や陸軍大臣を乱臣賊子などと罵る。天皇陛下に対する態度もどこかあてつけがましい。一体軍紀は何処にあるのか、と。彼はバッサリと、大島次長が示した二案のうち後者を進言、由比第一部長、武内第三部長もこれに同意であったという。
※取り消し線は本文通り。

五月八日 木 晴
長州の岡市之助、次官を免ぜられ、兵庫の本郷房太郎其後任と為る。兎に角一進歩也。

岡を京都人とする本もあるが実際は長州人である。宇都宮は当初、岡の後任に山口勝を望んでいたが、木越の推薦で円満な人柄の本郷房太郎となった。山口は砲兵課長時代から部内に聞こえた実力者で、その態度の大きいことから”陸軍の大隈伯”というあだ名もあったという。二・二六事件に連座した山口一太郎大尉の父親である。

六月三日 火 曇
軍事課長等任免の件に付き柴軍務局長に注意せしむる為め、少将山口勝を教育総監部に訪ひ意見を交換し、山口本日柴を訪ふことに取極め帰衙す。

官制改正に最も強硬に反対していた宇垣一成軍事課長の処分に関して、山口と共に柴に掛け合っている。怪文書まで撒き散らした宇垣は、八月三十一日付けで歩兵第六連隊長に左遷されるが、これが宇都宮らの意見通りなのかは分からない。後に上原や武藤等と宇垣一派が激しく対立することを思えば、中々興味深い。更に言えば宇垣自身、復活した軍部内閣現役武官制によって組閣を阻まれるのだから、皮肉といえばこれ以上の皮肉は無い。

六月二十四日 火 雨
本日午前、葉山に於て楠瀬中将陸軍大臣に親任式あり。同志苦心の結果事実に現はれ、為邦家為陸軍、祝着の至なり。

木越の後任について宇都宮らは、伊瀬知中将を通じて山本に働きかけていたが、その希望通り楠瀬幸彦中将が陸軍大臣に任命された。楠瀬は上原と同期の砲兵将校で、土佐出身であった。長州の息のかかった人物の任用を防げたことで、宇都宮もほっとしている。このとき次官も寺内に近い本郷から、予てより希望の山口勝に代えるという話があったが、それは余りにも露骨過ぎると楠瀬の判断で見送られた。


1912(明治四五/大正元)年

十一月二十五日 月 晴
午后、樺山資英宅にて内務次官床次竹二郎と会見、増師問題に付き論争。彼れは怒気を帯びて去る。

樺山も床次も薩摩人である。二個師団増設問題について三人で対応を練っている。

十一月二十六日 火 晴
余は予ねて大臣等と相談しある最小限案を主張し、彼等は、西園寺首相は如何にするも之を来年度の予算に上すことは絶対に不同意にて、来々年度より上すこととすべく、其為めには如何なる約束をも為すべしとて、其約束法に付き種々提案あり。(中略)大臣は矢張条虫案を固執し、最早妥協の余地無きものと観念しあるものゝ如く、余は、大臣は其閣僚との意思益々疎通を欠き、所謂官僚系長州系に少しく偏傾しあるにあらざるやを感ぜしめたるにより、此感想を直言し、大臣は政友会等非長閥派を味方として長閥を敵とするは得策にあらざると同様、過度に長閥に傾き其他を敵とするの不得策なるべきを陳じ、夜更けて帰宅す。

宇都宮の姿勢はかなり妥協的となっている。最小限案というのは小額でもよいから来年度予算に計上し、残りは再来年以降とする案。しかし床次の伝える西園寺首相の考えは、来年度予算に計上するは絶対不可。全ては再来年度というもの。この情報を持って上原陸相の下へいったところ、上原は依然原案に固執している。宇都宮は、最近の上原が周りを長州系の官僚に囲まれ、閣僚との疎通を欠いていることを憂慮し、そのことについて率直に諫言した。

十一月二十八日 木 曇
午前、陸軍大臣を訪ひ進言す。尚ほ私見を書して内呈す。(中略)結局余及床次より大臣に、条件を付け一年間延期することにて妥協するの得策なることを勧告するに決せしが、余が帰りたる后、此勧告は高島子を累すことに変更せられ、余も同意す。

宇都宮の呈した私見というのは、「今衝突して辞めるのは不利益である」というもの。いまや彼は完全に妥協論者となり、床次らと共に何とか上原を説得すべく苦心している。この際ということで薩摩の長老高島子爵にも協力を仰いでいる。

十一月二十九日 金 晴
過日来山県等の容喙を速きし結果、本日も岡次官は状況報告、意見受領に小田原に往きたり。(中略)夜十時過なりしも田中を其邸に訪ひ、談論午前一時に及ぶ。彼れは首相に妥協の誠意無きを以て一意突進の外無きを主張せり。転じて大臣を訪ひしに、矢張明日は突進すべき決意(これには裏面ありと余は信じ居りたり)を物語らる。

小田原というのは山県有朋の別荘を指す。岡次官が態々報告に赴いている。長州派にとって上原が強硬路線を取り自爆したところで、自分たちの腹は全く痛まない。それどころか願ったり叶ったりである。軍務局長の田中義一も本心はともかく強硬路線で大臣を煽る。宇都宮にはこの状況が歯がゆくて仕方ない。何とか上原の考えを変えたいがうまくいかない。

十一月三十日 土 晴
早朝、大臣を其褥に訪ひ、誠意西園寺と妥協、内閣を維持し、仮令一年延期しても増師案を成立せしむるの邦家の為め有利なるべきを最后の進言として進言す

午前三時過ぎに出た上原の官邸に早朝再び訪れ、最後の諫言を行った。上原陸相は彼等の悲願であった。このようなことでご破算にはしたくないのだ!しかし上原の態度は変わらない。

十二月二日 月 晴
午前十時三十分、上原陸相辞表を捧呈す。政局は是れより一転、天下再び彼等官僚、即長閥の有たるに終はるを免れざらん乎、噫。

世に有名な上原勇作陸相の帷幄上奏、単独辞職である。この三日後西園寺内閣は総辞職した。宇都宮があれほど喜んだ上原陸相は1年も持たなかった。少しずつ要路に同志を置くというのもすべてパーである。

十二月六日 金 晴
山県等は無論寺内と通牒之を推すに一決しありしも、大山公、平生に似ず異議あり(後略)

西園寺の後継首班について、山県らはかねてよりの計画通り寺内朝鮮総督を推したが、珍しく大山巌がこれに反対し、紛糾した。

十二月七日 土 晴
本日、長派の者より寺内宛の秘電一覧。彼等の内閣乗取の為めの陰謀の跡顕然、実に驚愕且つは慨嘆の至りなり。不臣不忠、彼等は真に忠臣顔を状へる偽善的賊臣とも謂うふべきなり。

何かの拍子で寺内たちの電報を手に入れた宇都宮。横車を押して西園寺内閣を倒し、寺内を首相とする陰謀を見て取り赫怒している。上原はまさにその陰謀の駒に使われたわけだ。宇都宮はそれがよく分かっていただけに、悔しさも百倍であろう。

十二月十八日 水 晴
余が参謀本部第二部長として着任以前より第四課長にして引続き久しく余が部下に誠意幇助し呉れたる歩兵大佐武藤信義、隊付希望により、成るべくは東京に置度、多少世話する所ありし甲斐ありて、本日近衛歩兵第四連隊長に補せられ発表す。

武藤はあらゆる意味で宇都宮の正統な後継者といえるだろう。近衛歩兵第四連隊は宇都宮の原隊でもある。


これで1912年分のレビューは終了。

1912(明治四五/大正元)年

八月三日 土 晴
午后、志波今朝一来宅(小倉市長候補を思立ち、余をして奥元帥に説せしめんとのことなれども、此際と云ひ又た元帥と余との関係と云ひ、無効なるのみならず却て有害なるべきことの理を詳説して還へす)。

志波は佐賀県人で陸士は宇都宮の一期後輩になる。小倉市長になりたいと考え、小倉出身で陸軍の大御所である奥保鞏元帥に宇都宮から口添えをして貰いたいと依頼してきたが、宇都宮は自分では逆効果だと断っている。奥とは折り合いが悪かったのか?

八月五日 月 曇
帰途、大臣秘書官歩中佐井戸川辰三を其官舎に訪ひ、妻女に祝詞を述ぶ。井戸川は大臣の同県にて余等多年の同志なり。漸次大臣の身辺に同志の腹心を配置し大臣の位置を擁護するの目的にて、其第一着手として先づ井戸川を入れしなり。此次は機を見て長州人竹島音次郎の転出を機とし、陸軍省の高級副官に現砲兵課長奈良大佐を入れんとす。

徐々に上原の周りを同志で固めるという計画。第一弾として上原と同郷の井戸川を秘書官にした。更に機を見て高級副官に奈良武次を据えようと考えている様子。実際奈良はこの後高級副官になる。奈良は栃木県出身、誠実な人柄で後に東宮武官長/侍従武官長として長く昭和天皇に仕えた。

八月十八日 日 晴
薄暮、歩中尉篠塚義男来宅、長閥某の女を娶るの可否に付相談あり。相談にも及ざる次第なるべきに相談するは、其意あるの証なれども、本人の為め不利益なるべきを告示す。

兼ねてより可愛がっている篠塚が、長州人の娘との縁談を持ちかけられ、相談に来た。成績優秀眉目秀麗の青年将校であるから、周りもほっておかないのだろう。宇都宮としては即座に断らないのが不満。自分のところに相談に来るということは、篠塚としても気があるのだろうと推測しながらも、長州の閨閥に入ることの不利益を説いている。

九月七日 土 微雨
大蔵大臣秘書官安倍午生面会を申込み来り、二師団案撤回に付き熱心に懇談し、五時頃より夜九時に至る。

遂に日記上にもこの問題が現れた。安倍は蔵相山本達雄の甥にあたるそうだ。そういえばこの人物、以前に寺内寿一の人となりについて宇都宮に聞きに来たことがあった。

九月十四日 土 晴夜に入り雨
本日は在宅謹慎の積りなりしも、新聞の号外にて昨夜乃木大将夫妻殉死の事を知り其邸に往弔す。(中略)大将の性格高きは今更の事にあらねども、実に斯くまでとは存ぜざりし。我眼識恥かしき次第なり。

長州閥を憎悪する宇都宮も、藩閥から超然としていた乃木希典に対してはそこそこ畏敬の気持ちを抱いていたようだが、殉死の報を聞き、乃木の偉大さを再認識している。

九月十八日 水 晴
大蔵大臣秘書官安倍午生来宅、晩餐を共にし例の二師団増設案に付き議論を上下す。新説なし。其大臣の為めに上原大臣の譲歩を工夫せんとするものなれども、此方にても一々説破之を却く。

再び安倍の訪問を受けた。この時点での宇都宮は勿論増師推進派。

通常書評というのは、其の本を通読した後に書かれると思います。私もそうしてきました。しかし今回は違います(威張ってる訳ではない)。読みながら書きます。というのもこの本はリリース後間も無く購入していたのですが、今の今までほったらかしにしていました。厚い本なので最後まで読んでから書くとなると、また随分後のことになってしまいます。もうすぐ第3巻も出るので、何とか年内には終わらせて格好をつけたいとの思いでこうするのです。元より途中で飽きてしまった場合悲惨なことになりますが、書評熱が一番高まるのは読んでいるとき又は読了直後であるのも事実。さてどうなることやら。
ちなみに第1巻の感想は下記URL。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-152.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-153.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-155.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-157.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-158.html


1912(明治四五/大正元)年

一月九日 火 晴
在南京古川氏(中佐)の紹介にて三井分物産の森恪なる人来衙、革命軍に資金を供して利権の獲得の要を論ず。論ずる所大体同意なり。余も余の意見の一部を告ぐ。

森恪は後に田中義一内閣の書記官長となる人物。三井時代から既に頭角を現しており、この頃の彼に長沙で世話になった南部(宇都宮と同郷)も”風格あり才気煥発、将来ある人物と思った”そうだ。

一月二十七日 土 晴
袁等の黒幕には英タイムズ記者モリソン潜み居るやに思はる。

モリソンはかつて柴五郎と共に北京で篭城した有名記者。この男が袁世凱に知恵をつけているのではないかと疑っている。宇都宮は孫文らが袁世凱に誑かされ、結局袁が清朝に取って代わるだけになることを恐れている。

一月二十八日 日 晴
段祺瑞以下四十六名、連名にて高級将校より共和退位の已む可らざる上奏を為す。中に張勲の姓名まで見ゆ。甚だ不思議なり。

宇都宮の危惧したとおり、清朝はこれで崩壊した。皇帝退位を望む軍人リストに勤皇派であるはずの張勲まで載っていることを訝しんでいる。張勲は後に復辟騒動を起こす。

二月四日 日 晴
出勤掛、赤十字病院に松井を尋ねしに、経過良好。

第二部長たる宇都宮はこの頃実に忙しく多くの人間を使っているが、腹心と頼む松井石根は、盲腸炎で入院中であった。

二月七日 水 晴
金子新太郎は二千円を与えて余が派遣したること、一時行衛不明の風説ありしも、昨今に至り黎等も其戦死を認むるに至り余も満足なること、余の手よりも遺族扶助の為め若干を贈らんとて用意しあること、(中略)尚ほ彼等をして他日適当の時機に及んで武漢適当の地に墓碑にても建設せしめ両国の国交に資し度旨、柴五郎に返書す。

金子は予備の陸軍大尉で、熱心に渡清を望んでいたので、宇都宮がスポンサーとなっていた。その金子が武漢で戦死したことが確認された。宇都宮は彼らしく、その遺族によく心を配っている。
http://www.asahi.com/international/history/chapter04/01.html

三月二日 土 美晴
岩本千綱を役所に招き、雲南、貴州、広西、広東の一部、東京等を打て一団と為し、我に有利なる一国を造り度き希望を含め、旅費として金一千円を彼の準備金より支出す。

岩本は旧知の人物だが品行が悪く、中尉ぐらいで軍を辞めて馬賊に身を投じていた。人間的には信用できないが、自分と同じ考え(中国南部の独立)を持っているので、取りあえず金を与えることにした。

三月二十五日 月 曇
根津一来訪(同文会より派遣せる四川派遣員六ヶ月分四〇〇余円の補助を請ひしも、本部も年度末にて逼迫に付き断る)。

根津は宇都宮の1期先輩でこの頃は陸軍を辞めて東亜同文書院長であった。とにかく宇都宮も金が無いのである。

三月二十九日 金 雨
午后六時より、参謀総長長谷川大将、上京中の師団長等を華族会館に招待し列席す。此際田中義一、上原就任の件、最早九分迄は大丈夫と信ずる旨内談す。

以前も田中は同じようなことを言っていたが、今度こそは大丈夫か・・・

三月十日 土 曇
相模屋上原中将より、愈々申入れありし故要談あり来れとの事に、午前中に事務を終り午食時中将を訪ふ。今朝、在小田原山県元帥より中将へ面談し度に付き来訪せよとの申出にて、たぶん陸相後任の件なるべく、中将は明三十一日往訪を約したり。

石本陸相が重篤となり、遂に山県上原を陸相にすることに同意した模様。

四月五日 金 晴
本日午前、大臣親任式あり。上原中将愈々陸軍大臣に就任す。川上大将の死後十余年、長閥の勢力日に強大を極め、専恣横暴圧迫に圧迫を加へられ来りしに、今日初めて同志にして親友なる中将の就職を見るに至りしは愉快至極なり。

川上操六が生きていたら貴様等にこんなやりたい放題させなかったのに。ムキー!」といったところか。例によって大山巌は完全無視、スルー。

四月七日 日 晴
昨日の電話に依り上原新大臣を往訪せしに、次長後任問題にて、寺内は長岡を推し、長谷川之を斥け、岡は明石は如何と言ひしに、長谷川は之をも欲せざるが如く、岡自身に来れと言ひし由にて、岡は笑ふて答えざりしが、結局山県の意向を聴くことを長谷川に勧め、長谷川は既に小田原に行けりと云ふ云々、就ては如何とのこと故、過日も申せし如く、井口、岡等を推薦す。

福島安正参謀次長の後任問題。寺内正毅長岡外史を推すが、参謀総長の長谷川好道はこれを却下。陸軍次官の岡市之助が、それでは明石元二郎はどうかというと、これも却下。では誰がいいのか問うと長谷川は岡自身が良いという。しかし岡にその気は無い。結局またしても山県の採決を待つことになる。上記の人物のうち明石を除く全員が長州人である。上原は一応宇都宮に誰が良いかと尋ね、宇都宮は井口省吾か岡が良いと答えているが、もちろんその意見が重視されることはない。

四月十一日 木 晴
井戸川を以て上原中将より、次長の後任は長谷川より第一に長岡を申出し、これは体能く賛成せず、次に大島を持出したり。未だ印は押さずとの事なるも、大島に既定のことは昨日田中義一より内報あり。(中略)大島は終始山県の家令的関係ありと云ふの外、腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家にして百科全書の評ある人物なり。其帝国参謀次長として不足なることは一般の定評あるもの、心細きの至りなり。之を川上、児玉の当時に思合すれば、参謀本部の今昔実に慨嘆の至りなり。(中略)況んや総務部長の後任に、旅順にて遺憾無く其の無気力と無能とを暴露せる長州人大庭二郎を据へんとするに於いておや。

山県の決定した次長は大島健一であった。大島は岐阜の人で後の駐独大使大島浩の父親である。昔から山県の家令的存在として知られており、知識の該博さには定評があった。しかし宇都宮に言わせると”腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家”であった。このような人物がかつては川上や児玉源太郎が就いていた職に就くとはと嘆いている。
更に大島の後任の参本総務部長候補に長州の大庭二郎が上がっていると聞き、旅順で遺憾なく無能っぷりを暴露した奴が何で総務部長になれるんだと、その人物をぼろくそにこき下ろしている。しかし結局大島の後任となったのは大庭ではなく山梨半造であった。この男も後年醜事件を起こす人物だが・・・

四月二十日 土 晴
歩中佐寺西秀武、漢口にて諜報勤務に服務中、黎元洪より金二十五万円を受取り、漢陽等にて革命軍の為めに戦死若くは尽力せし邦人に其十余万円を分配し、残余は返還せしも、大に世の疑惑を起こせしかば、調査の結果、本人には一点不正の処置はあらざれども、現役軍人には不穏当として所罰することとなり、重謹慎三十日に処す。

宇都宮としては何とか寺西を助けたく、自らの進退伺まで用意したが、結局彼は罰せられた。

五月八日 水 晴
藤井玄瀛来衙、法主の回答なるものを告げて曰く、
 一、年利五分を六分以上とすること
 二、五年を三年とすること
 三、今年分の利息は差引き然るべきや
 四、多賀若くは松井にて署名出来るや
第四は即座に否定し他は交渉せんとは答へしが、此種の事業に斯る営業者的の考にては到底不適当なることを信じ、岩崎に相談し、適当の名義人を用い彼の準備金より支出、岩崎をして事業に於て此借款に応ぜしむるの適当なるを思ひ(後略)

東翁牛特王の6千円の借款について真宗本願寺派に依頼したところ上記の四条件が返ってきた。多賀宗之や松井石根を保証人にするような話は即座に断っている。他の三条件は一応承ったが、この種の捨石的投資を要する国家事業に、営利を求める態度は不適当であるとして、本願寺からの投資は諦め、今迄どおり三菱の岩崎久弥に頼むこととした。岩崎と宇都宮の関係は陸相も参謀総長も知らないもので、両者の連絡には松井石根が当たっていた。この際上司にあなたの名前を明かさなければならないといわれた岩崎は、上原と福島にだけならよいと承諾した。

五月二十五日 土 晴
午后、上原大臣来宅、対談一時間にして去る。
在職大臣の余が宅に来りしは、今日の上原大臣を初めてとす。

(笑)

五月三十一日 金 晴
午后五時より星ヶ岡茶寮に於ける星桜会に出席す。斎藤海軍大臣、上原陸軍大臣、乃木大将以下会する者二十五、六名。今までに無き盛会なりき。是は主として前幹事高橋静虎退き人気一変せいと、上原大臣新に就任、陸海両軍の感情一層融和したるに因るものにして、甚だ慶すべきなり。

はいはい、また上原自慢ですか。



1911(明治四四)年
一月八日 日 晴
 午后四時頃より、約により少将田中義一来訪。将来の国事に就き意見を交換し、且つ之れが為め偏狭なる郷関等を眼中に置かず、有為の人士と協力するの必要なりと云ふことに双方の意見一致し、先ず手始として海軍の財部少将(次官)と打解談を為す為め、余其機会を作ることに談じ合ふて対酌数時、九時頃辞し去る。
<注釈>
郷党閥を越えて協力しようと田中義一と約定を交わした宇都宮。実際、田中は長州派の寵児であったが、長閥意識は割合薄かった。手始めに、薩摩出身で山本権兵衛の婿、財部と田中の会談を宇都宮がセッティングすることに。



一月二十九日 日 晴
午后五時、我部の部員歩兵大尉香椎浩平の結婚披露の宴に列す(五円の勝男武士を送る)(第四課長武藤信義、昨日歩兵大佐に昇進に付き、亦た同様五円の鰹節を贈る)。香椎は福岡人にして誠実愛すべきの士なり。
<注釈>
香椎は磊落な性格の好人物であった。後に二・二六事件の当事者の一人。



二月六日 月 晴
 夕食後、海軍次官少将財部を訪ひ、不日余が宅に田中義一と三人会合打解談を試ことを申入れしに、彼れも快諾す。
<注釈>
先頃田中と交わした約束を財部にも伝えて、快諾を得る。薩摩系に親しい人の多い宇都宮は、この薩摩の海軍軍人ともある程度親交があった模様。



二月七日 火 晴
 第一部長松石安治、清国旅行の処、帰途罹病(昏睡状態に陥りたり)、去る五日帰京の由に付き、其家に往訪。
<注釈>
満洲四平で暖房器具の不具合からガス中毒に。以後、宇都宮は松石の容態に一喜一憂することとなる。



二月十八日 土 晴
 出勤掛、松石安治を赤十字病院に見舞ふ。尚ほ昏睡の状態に在り。
 此夜海軍次官海軍少将財部彪、歩兵第二旅団長陸軍少将田中義一を招き会食、談話を交換す。
<注釈>
以前の約束どおり、田中宇都宮財部の三者会談成る。
松石以前昏睡状態。宇都宮は数日おきにこれを見舞う。



二月二十七日 月 晴
 病気在宅(実は在宅、師団長会議に対する取調を為す)。
<注釈>
さぼって宿題?



三月二十一日 火 晴
 出勤掛、松石安治を見舞ふ。依然として昏睡状態に在り。真に憂ふべきなり。

四月十九日 水 晴
 井口中将来衙、松石病気を心配して小熊なる気遣治療を勧む。余も之に同意す。百方手段尽きたればなり。

五月三日 水 晴
 出勤掛、松石を見舞ふ。素人目には幾分快方の様なれども、平井院長は保証せず。
<注釈>
何時までたっても意識を快復しない松石に、陸大校長の井口省吾も心配し、ついに非科学的な治療に頼る心境に。井口もまた宇都宮や松石と並ぶ反長州の軍人。



五月十七日 水 曇後微雨
御思召を奉じて英人ハンナ・リデル嬢の苦心経営に係る癩病人収容回春病院を見舞ふ。牧軍医正、今井獣医正同行す。三宅院長の案内にて巡視す。収容患者五十一人、悲惨の極、如何にも気の毒の至なり。中には十四歳の小童患者、其母と共に収容せられ、母は重体なるあり、妙齢の処女もあれば頽齢の老人もあり、多くは親戚故旧に棄てられ孤独無告の中に死期を待ちつつあるの状、不憫とも気の毒とも言はん様無し。仁政の端は此辺より始めざる可らず、徒に法治等と称へて冷やかなる施政の結果は大逆無道の罪人を出す、輔弼者の責任や大なり。真に王道を行はば天下何物か感孚せざらん、噫。懐中にありたる金子の全部二十五円、殿下の御下賜金としては小額に過るとは考へしも、一人一人に菓子にても買ひ与へ呉れられよと申し、殿下よりの御菓子料として残し置きたり。
<注釈>
特命検閲の途中、我が国におけるハンセン病治療の魁、ハンナ・リデルの回春病院を訪ね、その悲惨さに強く心を打たれる。思わず手持ちの金銭を寄付する。



六月二十四日 土 晴
 本日福島中将宛松石の処分の軽挙なる可らざること、万止を得ざる場合にも其後任は尤も慎重に考へ余にも腹案あることを申送る。
<注釈>
快復しない松石の第一部長更迭が話題に上るようになった。検閲で東京を離れたままの宇都宮は、手紙で、松石の処分は慎重にするように福島安正次長に頼んでいる。



七月十五日 土 晴
 退出掛松石の病気を其自宅に見舞ふ。彼先ず発言、余が面を記憶するものの如く種々の応答を為せしに、大抵は間違無く体力も余程回復、此分にては快復疑無きものの如く慶賀の至なり。
<注釈>
久々に松石を見舞う。脳をやられた松石であるが、宇都宮の顔は判別できたらしい。僅かな快復を喜ぶ宇都宮。



八月八日 火 晴
 上原氏へ政局に関する長文の書状を出す。
 少将田中義一と役所に会見、政局に関し意見を交換し、陸軍大臣の後任は両人の意見上原に一致す。
<注釈>
桂内閣が退陣となり、寺内陸相も桂と進退を共にすることとなった。後任陸相は上原勇作が最適ということで、田中義一と意見が一致した。



八月二十五日 金 晴
 田中義一電話して曰く、二、三日前までは大臣後任は上原と確信せしに、昨今少しく変態を生ぜり、二、三日前までは石本の行先を研究せしに、今は中止せられ、ドーモ石本にはあらざるか云々。余は他用に託して陸軍省人事局長山田を見て之を叩きしに、彼曰く、寺内大将昨日小田原山県元帥を訪問の結果、大臣後任は愈々石本次官の昇任に確定せり唯今内聞せり云々。是に因て見れば、彼等長閥者は石本推薦に一致せしこと最早疑ふべきの余地無し。此上は政友会の態度なれども、これは余り当にせざるを至当とす。即ち此度は目的を遂げざりしものと覚悟後図を画すること肝要なり。尤も表面は更に一層の冷静を装ふこと必要にして、余も再び一伴食部長として無声雌伏の旧態に復べく、徐に後図を画せんとす、誠に是非も無き次第なり。併し石本にせよ誰にせよ、藩閥者流の天下は確に一転機の運に向へり。奮ふべし奮ふべし大いに奮ふべし。以上の要旨を上原中将を始め井戸川、町田、小山、樺山等の同志に通ず。
<注釈>
後任陸相は上原という意見で一致していたはずの田中から、どうも後任は石本新六になりそうであるとの電話を受ける。人事局長で長州の山田隆一にそれとなく尋ねたところ、山縣有朋と寺内正毅との会談で、長らく寺内の次官を務めた石本の昇任が決まったとのこと。上原を推していた田中も、敢えてこれに逆らうような動きは無し。宇都宮も時利あらず、”一伴食部長”として雌伏すると決め、同志の井戸川辰三、町田経宇らにもそのように伝えた。石本は上原と同じ工兵科であり、同じようにフランスに派遣された人物であったが、精励ぶりが寺内に気に入られ、長く次官を務めた。しかしそのハードワークが祟ったのか、現職のまま病死する。息には二・二六事件で判士を務めた石本寅三らがいる。



九月二十二日 金 雨
 去二月以来病気にて転地中なりし福島中将昨夕帰宅の由に付き、出勤掛往訪せしに、元気も余程快復しあり、公務上の報告、人事(松石後任には由比を第一、山梨第二として薦む。其外柴、星野等も参考に供せしに、由比には尤も同感を表せらる。大沢少将の往先心配を頼みしに、輜重兵監に為すことには出来れば同意の趣にて、余先ず浅田教育総監の意を質すことになり、本日午後往訪之を尋ねしに、浅田氏は現兵監の往先無き等を理由として拒否の意を洩せり)。
<注釈>
松石の更迭は避けられない状況となり、後任について福島と意見交換。宇都宮の第一候補は高知の由比光衛、第二候補は田中と同期で田村怡与造の婿山梨半造、更に宇都宮の同期、柴勝三郎、新潟出身の星野金吾を挙げたが、福島も由比が最適と、意見が一致した。
また第三部長大沢界雄の転任先として、輜重兵監はどうかと、教育総監の浅田信興に打診したが、浅田は婉曲にこれを拒否した。結局大沢は由良要塞司令官という閑職に転任し、間もなく予備に入れられる。



十月八日 日 晴
 在宅。歩少佐松井石根来訪(其縁談に付き)、余が懐抱の一部を告げ、余が為めに尽さんことを求めしに、彼も承諾之を約す。余は腹心として彼を使用せんと欲するなり。
<注釈>
以前世話した縁談こそうまくいかなかったが、その後も宇都宮は松井の面倒を見ている。遂には同志となるよう求め、松井もこれを承諾している。



十月十日 火 曇
 過般来次長と内議中なりし第一部長後任に由比を、否らざれば山梨或は柴を、大学校長に松川を、否らざれば星野、柴の内を推すことを重ねて内相談し、次長の決心は決したりと認む。併し前途幾多の難関あり、安心は素より未だし。彼等は両方共に大場、大井を推し、大島より之を唱導せしめつつあり。斯の如くなれば、既に長州の寵児あり、準長の大島あり、之に一長を加へば参謀本部の部長は五人中の三人は長州にて、本部は純然たる長州の物たらんとす。大学校長に長州人の用ゆ可らざるは試験問題の漏洩、人選の詮考等の私曲甚しく、其前例あるを以て、初めては大学校丈なりとも彼等の毒手より神聖に為し置き度微意なり。
<注釈>
長州派は第一部長、陸大校長の職に大庭二郎、大井成元を据えようと、参本総務部長で長く山縣の副官であった大島健一を使って、運動していた。宇都宮は松石の後任には以前話した通り由比を、井口の後任には松川敏胤を据えるように、改めて福島の決心を求めている。陸大の校長を長州派にすればえこ贔屓をする、すでにその前例があると、宇都宮は書いている。恐らくその前例とは寺内正毅と、その跡を継いだ藤井茂太だろう。藤井は兵庫だが、そういう噂がある。



十月十八日 水 晴
 過般来私に苦心せし松石第一部長の後任に、吾人側の由比光衛確定、一安心す。長系の意を迎ふるに急なる大島等は、長の大庭、大井を推したるなり。事此に至るの已むを得ざりし、松石の為めには気の毒なり。
 此夜時局に付き警保局長古賀廉造と其案内にて木挽町緑屋に会飲。亦た「私見」を内示し時局を談じ、同時に極めて隠密に叛徒を助くるに付き、殊に職掌柄武器輸出等に便宜を与へんことを内談せしに彼も快諾す。
<注釈>
・結局第一部長には宇都宮の第一候補であった由比が就任することとなった。しかし陸大の校長には大井がなる。この翌年のことである。
・警保局長古賀廉造と会談し、支那革命軍への武器の供与を黙認するよう依頼して、承諾を受けている。



十月二十五日 水 晴
 松石少将病捗々しからず。時局急なる為め、少将由比光衛第一部長に任ぜられ松石は待命と為る、誠に気の毒の次第なり。由比は近衛歩兵第四聯隊以来の親友にして、此度は余も推薦者の一人なり。
<注釈>
松石、遂に待命となる。由比は松石ほどの才気の閃きは無いが、戦場に於いては飽くまで豪胆な人物であった。



十一月二十九日 水 晴
 陸軍大学校卒業式に付き陛下御臨幸参列す。第一は旧連隊の歩中尉梅津美治郎にて、六人の優等者中第五も同じく歩中尉篠塚義男なりしは心中独り嬉しく覚へたり。
<注釈>
旧部下から二人が陸大恩賜賞を貰った。目を掛けていた篠塚は陸軍に入ってから初めて首席を逃したが、この期は陸大有数の激戦の期であった。首席には最後の参謀総長梅津美治郎、次席は永田鉄山、それに加賀の当主前田利為、藤岡万蔵、篠塚と続き、6位は小畑敏四郎であった。



以上で、『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記 1』のレビューは終わる。読んでくださった皆さん、ご苦労様でした。

ところで最後に、宇都宮は陸軍三太郎と称された中の一人であった。ところがこの三太郎、もう一人は仙波太郎で確定なのだが、最後の一人が本によって違う。明治44年発刊の鵜崎鷺城著『薩の海軍長の陸軍』によれば宇都宮と仙波、林太郎を合わせて陸軍の三太郎としている。しかし戦後出た本ではこれが桂太郎になっている。字面が似てるのでどちらかが誤植の可能性が高いが、これがまた微妙すぎる対比で、どっちが正か判別できない。確かに桂は、仙波、宇都宮と並べるには大物過ぎる。一方の林は、士官生徒の6期生であり、軍事課長などの要職も経験しており、こちらが正しいような気もするが、彼は旅団長を最後に中将進級と同時に待命となっている。仙波、宇都宮と並べて三太郎と呼ぶにはこちらはやや小物のような気もする。まあ、宇都宮が陸軍を代表する逸材であることには変わりは無いが。


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