近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

1912(明治四五/大正元)年

十一月二十五日 月 晴
午后、樺山資英宅にて内務次官床次竹二郎と会見、増師問題に付き論争。彼れは怒気を帯びて去る。

樺山も床次も薩摩人である。二個師団増設問題について三人で対応を練っている。

十一月二十六日 火 晴
余は予ねて大臣等と相談しある最小限案を主張し、彼等は、西園寺首相は如何にするも之を来年度の予算に上すことは絶対に不同意にて、来々年度より上すこととすべく、其為めには如何なる約束をも為すべしとて、其約束法に付き種々提案あり。(中略)大臣は矢張条虫案を固執し、最早妥協の余地無きものと観念しあるものゝ如く、余は、大臣は其閣僚との意思益々疎通を欠き、所謂官僚系長州系に少しく偏傾しあるにあらざるやを感ぜしめたるにより、此感想を直言し、大臣は政友会等非長閥派を味方として長閥を敵とするは得策にあらざると同様、過度に長閥に傾き其他を敵とするの不得策なるべきを陳じ、夜更けて帰宅す。

宇都宮の姿勢はかなり妥協的となっている。最小限案というのは小額でもよいから来年度予算に計上し、残りは再来年以降とする案。しかし床次の伝える西園寺首相の考えは、来年度予算に計上するは絶対不可。全ては再来年度というもの。この情報を持って上原陸相の下へいったところ、上原は依然原案に固執している。宇都宮は、最近の上原が周りを長州系の官僚に囲まれ、閣僚との疎通を欠いていることを憂慮し、そのことについて率直に諫言した。

十一月二十八日 木 曇
午前、陸軍大臣を訪ひ進言す。尚ほ私見を書して内呈す。(中略)結局余及床次より大臣に、条件を付け一年間延期することにて妥協するの得策なることを勧告するに決せしが、余が帰りたる后、此勧告は高島子を累すことに変更せられ、余も同意す。

宇都宮の呈した私見というのは、「今衝突して辞めるのは不利益である」というもの。いまや彼は完全に妥協論者となり、床次らと共に何とか上原を説得すべく苦心している。この際ということで薩摩の長老高島子爵にも協力を仰いでいる。

十一月二十九日 金 晴
過日来山県等の容喙を速きし結果、本日も岡次官は状況報告、意見受領に小田原に往きたり。(中略)夜十時過なりしも田中を其邸に訪ひ、談論午前一時に及ぶ。彼れは首相に妥協の誠意無きを以て一意突進の外無きを主張せり。転じて大臣を訪ひしに、矢張明日は突進すべき決意(これには裏面ありと余は信じ居りたり)を物語らる。

小田原というのは山県有朋の別荘を指す。岡次官が態々報告に赴いている。長州派にとって上原が強硬路線を取り自爆したところで、自分たちの腹は全く痛まない。それどころか願ったり叶ったりである。軍務局長の田中義一も本心はともかく強硬路線で大臣を煽る。宇都宮にはこの状況が歯がゆくて仕方ない。何とか上原の考えを変えたいがうまくいかない。

十一月三十日 土 晴
早朝、大臣を其褥に訪ひ、誠意西園寺と妥協、内閣を維持し、仮令一年延期しても増師案を成立せしむるの邦家の為め有利なるべきを最后の進言として進言す

午前三時過ぎに出た上原の官邸に早朝再び訪れ、最後の諫言を行った。上原陸相は彼等の悲願であった。このようなことでご破算にはしたくないのだ!しかし上原の態度は変わらない。

十二月二日 月 晴
午前十時三十分、上原陸相辞表を捧呈す。政局は是れより一転、天下再び彼等官僚、即長閥の有たるに終はるを免れざらん乎、噫。

世に有名な上原勇作陸相の帷幄上奏、単独辞職である。この三日後西園寺内閣は総辞職した。宇都宮があれほど喜んだ上原陸相は1年も持たなかった。少しずつ要路に同志を置くというのもすべてパーである。

十二月六日 金 晴
山県等は無論寺内と通牒之を推すに一決しありしも、大山公、平生に似ず異議あり(後略)

西園寺の後継首班について、山県らはかねてよりの計画通り寺内朝鮮総督を推したが、珍しく大山巌がこれに反対し、紛糾した。

十二月七日 土 晴
本日、長派の者より寺内宛の秘電一覧。彼等の内閣乗取の為めの陰謀の跡顕然、実に驚愕且つは慨嘆の至りなり。不臣不忠、彼等は真に忠臣顔を状へる偽善的賊臣とも謂うふべきなり。

何かの拍子で寺内たちの電報を手に入れた宇都宮。横車を押して西園寺内閣を倒し、寺内を首相とする陰謀を見て取り赫怒している。上原はまさにその陰謀の駒に使われたわけだ。宇都宮はそれがよく分かっていただけに、悔しさも百倍であろう。

十二月十八日 水 晴
余が参謀本部第二部長として着任以前より第四課長にして引続き久しく余が部下に誠意幇助し呉れたる歩兵大佐武藤信義、隊付希望により、成るべくは東京に置度、多少世話する所ありし甲斐ありて、本日近衛歩兵第四連隊長に補せられ発表す。

武藤はあらゆる意味で宇都宮の正統な後継者といえるだろう。近衛歩兵第四連隊は宇都宮の原隊でもある。


これで1912年分のレビューは終了。

1912(明治四五/大正元)年

八月三日 土 晴
午后、志波今朝一来宅(小倉市長候補を思立ち、余をして奥元帥に説せしめんとのことなれども、此際と云ひ又た元帥と余との関係と云ひ、無効なるのみならず却て有害なるべきことの理を詳説して還へす)。

志波は佐賀県人で陸士は宇都宮の一期後輩になる。小倉市長になりたいと考え、小倉出身で陸軍の大御所である奥保鞏元帥に宇都宮から口添えをして貰いたいと依頼してきたが、宇都宮は自分では逆効果だと断っている。奥とは折り合いが悪かったのか?

八月五日 月 曇
帰途、大臣秘書官歩中佐井戸川辰三を其官舎に訪ひ、妻女に祝詞を述ぶ。井戸川は大臣の同県にて余等多年の同志なり。漸次大臣の身辺に同志の腹心を配置し大臣の位置を擁護するの目的にて、其第一着手として先づ井戸川を入れしなり。此次は機を見て長州人竹島音次郎の転出を機とし、陸軍省の高級副官に現砲兵課長奈良大佐を入れんとす。

徐々に上原の周りを同志で固めるという計画。第一弾として上原と同郷の井戸川を秘書官にした。更に機を見て高級副官に奈良武次を据えようと考えている様子。実際奈良はこの後高級副官になる。奈良は栃木県出身、誠実な人柄で後に東宮武官長/侍従武官長として長く昭和天皇に仕えた。

八月十八日 日 晴
薄暮、歩中尉篠塚義男来宅、長閥某の女を娶るの可否に付相談あり。相談にも及ざる次第なるべきに相談するは、其意あるの証なれども、本人の為め不利益なるべきを告示す。

兼ねてより可愛がっている篠塚が、長州人の娘との縁談を持ちかけられ、相談に来た。成績優秀眉目秀麗の青年将校であるから、周りもほっておかないのだろう。宇都宮としては即座に断らないのが不満。自分のところに相談に来るということは、篠塚としても気があるのだろうと推測しながらも、長州の閨閥に入ることの不利益を説いている。

九月七日 土 微雨
大蔵大臣秘書官安倍午生面会を申込み来り、二師団案撤回に付き熱心に懇談し、五時頃より夜九時に至る。

遂に日記上にもこの問題が現れた。安倍は蔵相山本達雄の甥にあたるそうだ。そういえばこの人物、以前に寺内寿一の人となりについて宇都宮に聞きに来たことがあった。

九月十四日 土 晴夜に入り雨
本日は在宅謹慎の積りなりしも、新聞の号外にて昨夜乃木大将夫妻殉死の事を知り其邸に往弔す。(中略)大将の性格高きは今更の事にあらねども、実に斯くまでとは存ぜざりし。我眼識恥かしき次第なり。

長州閥を憎悪する宇都宮も、藩閥から超然としていた乃木希典に対してはそこそこ畏敬の気持ちを抱いていたようだが、殉死の報を聞き、乃木の偉大さを再認識している。

九月十八日 水 晴
大蔵大臣秘書官安倍午生来宅、晩餐を共にし例の二師団増設案に付き議論を上下す。新説なし。其大臣の為めに上原大臣の譲歩を工夫せんとするものなれども、此方にても一々説破之を却く。

再び安倍の訪問を受けた。この時点での宇都宮は勿論増師推進派。

通常書評というのは、其の本を通読した後に書かれると思います。私もそうしてきました。しかし今回は違います(威張ってる訳ではない)。読みながら書きます。というのもこの本はリリース後間も無く購入していたのですが、今の今までほったらかしにしていました。厚い本なので最後まで読んでから書くとなると、また随分後のことになってしまいます。もうすぐ第3巻も出るので、何とか年内には終わらせて格好をつけたいとの思いでこうするのです。元より途中で飽きてしまった場合悲惨なことになりますが、書評熱が一番高まるのは読んでいるとき又は読了直後であるのも事実。さてどうなることやら。
ちなみに第1巻の感想は下記URL。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-152.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-153.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-155.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-157.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-158.html


1912(明治四五/大正元)年

一月九日 火 晴
在南京古川氏(中佐)の紹介にて三井分物産の森恪なる人来衙、革命軍に資金を供して利権の獲得の要を論ず。論ずる所大体同意なり。余も余の意見の一部を告ぐ。

森恪は後に田中義一内閣の書記官長となる人物。三井時代から既に頭角を現しており、この頃の彼に長沙で世話になった南部(宇都宮と同郷)も”風格あり才気煥発、将来ある人物と思った”そうだ。

一月二十七日 土 晴
袁等の黒幕には英タイムズ記者モリソン潜み居るやに思はる。

モリソンはかつて柴五郎と共に北京で篭城した有名記者。この男が袁世凱に知恵をつけているのではないかと疑っている。宇都宮は孫文らが袁世凱に誑かされ、結局袁が清朝に取って代わるだけになることを恐れている。

一月二十八日 日 晴
段祺瑞以下四十六名、連名にて高級将校より共和退位の已む可らざる上奏を為す。中に張勲の姓名まで見ゆ。甚だ不思議なり。

宇都宮の危惧したとおり、清朝はこれで崩壊した。皇帝退位を望む軍人リストに勤皇派であるはずの張勲まで載っていることを訝しんでいる。張勲は後に復辟騒動を起こす。

二月四日 日 晴
出勤掛、赤十字病院に松井を尋ねしに、経過良好。

第二部長たる宇都宮はこの頃実に忙しく多くの人間を使っているが、腹心と頼む松井石根は、盲腸炎で入院中であった。

二月七日 水 晴
金子新太郎は二千円を与えて余が派遣したること、一時行衛不明の風説ありしも、昨今に至り黎等も其戦死を認むるに至り余も満足なること、余の手よりも遺族扶助の為め若干を贈らんとて用意しあること、(中略)尚ほ彼等をして他日適当の時機に及んで武漢適当の地に墓碑にても建設せしめ両国の国交に資し度旨、柴五郎に返書す。

金子は予備の陸軍大尉で、熱心に渡清を望んでいたので、宇都宮がスポンサーとなっていた。その金子が武漢で戦死したことが確認された。宇都宮は彼らしく、その遺族によく心を配っている。
http://www.asahi.com/international/history/chapter04/01.html

三月二日 土 美晴
岩本千綱を役所に招き、雲南、貴州、広西、広東の一部、東京等を打て一団と為し、我に有利なる一国を造り度き希望を含め、旅費として金一千円を彼の準備金より支出す。

岩本は旧知の人物だが品行が悪く、中尉ぐらいで軍を辞めて馬賊に身を投じていた。人間的には信用できないが、自分と同じ考え(中国南部の独立)を持っているので、取りあえず金を与えることにした。

三月二十五日 月 曇
根津一来訪(同文会より派遣せる四川派遣員六ヶ月分四〇〇余円の補助を請ひしも、本部も年度末にて逼迫に付き断る)。

根津は宇都宮の1期先輩でこの頃は陸軍を辞めて東亜同文書院長であった。とにかく宇都宮も金が無いのである。

三月二十九日 金 雨
午后六時より、参謀総長長谷川大将、上京中の師団長等を華族会館に招待し列席す。此際田中義一、上原就任の件、最早九分迄は大丈夫と信ずる旨内談す。

以前も田中は同じようなことを言っていたが、今度こそは大丈夫か・・・

三月十日 土 曇
相模屋上原中将より、愈々申入れありし故要談あり来れとの事に、午前中に事務を終り午食時中将を訪ふ。今朝、在小田原山県元帥より中将へ面談し度に付き来訪せよとの申出にて、たぶん陸相後任の件なるべく、中将は明三十一日往訪を約したり。

石本陸相が重篤となり、遂に山県上原を陸相にすることに同意した模様。

四月五日 金 晴
本日午前、大臣親任式あり。上原中将愈々陸軍大臣に就任す。川上大将の死後十余年、長閥の勢力日に強大を極め、専恣横暴圧迫に圧迫を加へられ来りしに、今日初めて同志にして親友なる中将の就職を見るに至りしは愉快至極なり。

川上操六が生きていたら貴様等にこんなやりたい放題させなかったのに。ムキー!」といったところか。例によって大山巌は完全無視、スルー。

四月七日 日 晴
昨日の電話に依り上原新大臣を往訪せしに、次長後任問題にて、寺内は長岡を推し、長谷川之を斥け、岡は明石は如何と言ひしに、長谷川は之をも欲せざるが如く、岡自身に来れと言ひし由にて、岡は笑ふて答えざりしが、結局山県の意向を聴くことを長谷川に勧め、長谷川は既に小田原に行けりと云ふ云々、就ては如何とのこと故、過日も申せし如く、井口、岡等を推薦す。

福島安正参謀次長の後任問題。寺内正毅長岡外史を推すが、参謀総長の長谷川好道はこれを却下。陸軍次官の岡市之助が、それでは明石元二郎はどうかというと、これも却下。では誰がいいのか問うと長谷川は岡自身が良いという。しかし岡にその気は無い。結局またしても山県の採決を待つことになる。上記の人物のうち明石を除く全員が長州人である。上原は一応宇都宮に誰が良いかと尋ね、宇都宮は井口省吾か岡が良いと答えているが、もちろんその意見が重視されることはない。

四月十一日 木 晴
井戸川を以て上原中将より、次長の後任は長谷川より第一に長岡を申出し、これは体能く賛成せず、次に大島を持出したり。未だ印は押さずとの事なるも、大島に既定のことは昨日田中義一より内報あり。(中略)大島は終始山県の家令的関係ありと云ふの外、腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家にして百科全書の評ある人物なり。其帝国参謀次長として不足なることは一般の定評あるもの、心細きの至りなり。之を川上、児玉の当時に思合すれば、参謀本部の今昔実に慨嘆の至りなり。(中略)況んや総務部長の後任に、旅順にて遺憾無く其の無気力と無能とを暴露せる長州人大庭二郎を据へんとするに於いておや。

山県の決定した次長は大島健一であった。大島は岐阜の人で後の駐独大使大島浩の父親である。昔から山県の家令的存在として知られており、知識の該博さには定評があった。しかし宇都宮に言わせると”腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家”であった。このような人物がかつては川上や児玉源太郎が就いていた職に就くとはと嘆いている。
更に大島の後任の参本総務部長候補に長州の大庭二郎が上がっていると聞き、旅順で遺憾なく無能っぷりを暴露した奴が何で総務部長になれるんだと、その人物をぼろくそにこき下ろしている。しかし結局大島の後任となったのは大庭ではなく山梨半造であった。この男も後年醜事件を起こす人物だが・・・

四月二十日 土 晴
歩中佐寺西秀武、漢口にて諜報勤務に服務中、黎元洪より金二十五万円を受取り、漢陽等にて革命軍の為めに戦死若くは尽力せし邦人に其十余万円を分配し、残余は返還せしも、大に世の疑惑を起こせしかば、調査の結果、本人には一点不正の処置はあらざれども、現役軍人には不穏当として所罰することとなり、重謹慎三十日に処す。

宇都宮としては何とか寺西を助けたく、自らの進退伺まで用意したが、結局彼は罰せられた。

五月八日 水 晴
藤井玄瀛来衙、法主の回答なるものを告げて曰く、
 一、年利五分を六分以上とすること
 二、五年を三年とすること
 三、今年分の利息は差引き然るべきや
 四、多賀若くは松井にて署名出来るや
第四は即座に否定し他は交渉せんとは答へしが、此種の事業に斯る営業者的の考にては到底不適当なることを信じ、岩崎に相談し、適当の名義人を用い彼の準備金より支出、岩崎をして事業に於て此借款に応ぜしむるの適当なるを思ひ(後略)

東翁牛特王の6千円の借款について真宗本願寺派に依頼したところ上記の四条件が返ってきた。多賀宗之や松井石根を保証人にするような話は即座に断っている。他の三条件は一応承ったが、この種の捨石的投資を要する国家事業に、営利を求める態度は不適当であるとして、本願寺からの投資は諦め、今迄どおり三菱の岩崎久弥に頼むこととした。岩崎と宇都宮の関係は陸相も参謀総長も知らないもので、両者の連絡には松井石根が当たっていた。この際上司にあなたの名前を明かさなければならないといわれた岩崎は、上原と福島にだけならよいと承諾した。

五月二十五日 土 晴
午后、上原大臣来宅、対談一時間にして去る。
在職大臣の余が宅に来りしは、今日の上原大臣を初めてとす。

(笑)

五月三十一日 金 晴
午后五時より星ヶ岡茶寮に於ける星桜会に出席す。斎藤海軍大臣、上原陸軍大臣、乃木大将以下会する者二十五、六名。今までに無き盛会なりき。是は主として前幹事高橋静虎退き人気一変せいと、上原大臣新に就任、陸海両軍の感情一層融和したるに因るものにして、甚だ慶すべきなり。

はいはい、また上原自慢ですか。



1911(明治四四)年
一月八日 日 晴
 午后四時頃より、約により少将田中義一来訪。将来の国事に就き意見を交換し、且つ之れが為め偏狭なる郷関等を眼中に置かず、有為の人士と協力するの必要なりと云ふことに双方の意見一致し、先ず手始として海軍の財部少将(次官)と打解談を為す為め、余其機会を作ることに談じ合ふて対酌数時、九時頃辞し去る。
<注釈>
郷党閥を越えて協力しようと田中義一と約定を交わした宇都宮。実際、田中は長州派の寵児であったが、長閥意識は割合薄かった。手始めに、薩摩出身で山本権兵衛の婿、財部と田中の会談を宇都宮がセッティングすることに。



一月二十九日 日 晴
午后五時、我部の部員歩兵大尉香椎浩平の結婚披露の宴に列す(五円の勝男武士を送る)(第四課長武藤信義、昨日歩兵大佐に昇進に付き、亦た同様五円の鰹節を贈る)。香椎は福岡人にして誠実愛すべきの士なり。
<注釈>
香椎は磊落な性格の好人物であった。後に二・二六事件の当事者の一人。



二月六日 月 晴
 夕食後、海軍次官少将財部を訪ひ、不日余が宅に田中義一と三人会合打解談を試ことを申入れしに、彼れも快諾す。
<注釈>
先頃田中と交わした約束を財部にも伝えて、快諾を得る。薩摩系に親しい人の多い宇都宮は、この薩摩の海軍軍人ともある程度親交があった模様。



二月七日 火 晴
 第一部長松石安治、清国旅行の処、帰途罹病(昏睡状態に陥りたり)、去る五日帰京の由に付き、其家に往訪。
<注釈>
満洲四平で暖房器具の不具合からガス中毒に。以後、宇都宮は松石の容態に一喜一憂することとなる。



二月十八日 土 晴
 出勤掛、松石安治を赤十字病院に見舞ふ。尚ほ昏睡の状態に在り。
 此夜海軍次官海軍少将財部彪、歩兵第二旅団長陸軍少将田中義一を招き会食、談話を交換す。
<注釈>
以前の約束どおり、田中宇都宮財部の三者会談成る。
松石以前昏睡状態。宇都宮は数日おきにこれを見舞う。



二月二十七日 月 晴
 病気在宅(実は在宅、師団長会議に対する取調を為す)。
<注釈>
さぼって宿題?



三月二十一日 火 晴
 出勤掛、松石安治を見舞ふ。依然として昏睡状態に在り。真に憂ふべきなり。

四月十九日 水 晴
 井口中将来衙、松石病気を心配して小熊なる気遣治療を勧む。余も之に同意す。百方手段尽きたればなり。

五月三日 水 晴
 出勤掛、松石を見舞ふ。素人目には幾分快方の様なれども、平井院長は保証せず。
<注釈>
何時までたっても意識を快復しない松石に、陸大校長の井口省吾も心配し、ついに非科学的な治療に頼る心境に。井口もまた宇都宮や松石と並ぶ反長州の軍人。



五月十七日 水 曇後微雨
御思召を奉じて英人ハンナ・リデル嬢の苦心経営に係る癩病人収容回春病院を見舞ふ。牧軍医正、今井獣医正同行す。三宅院長の案内にて巡視す。収容患者五十一人、悲惨の極、如何にも気の毒の至なり。中には十四歳の小童患者、其母と共に収容せられ、母は重体なるあり、妙齢の処女もあれば頽齢の老人もあり、多くは親戚故旧に棄てられ孤独無告の中に死期を待ちつつあるの状、不憫とも気の毒とも言はん様無し。仁政の端は此辺より始めざる可らず、徒に法治等と称へて冷やかなる施政の結果は大逆無道の罪人を出す、輔弼者の責任や大なり。真に王道を行はば天下何物か感孚せざらん、噫。懐中にありたる金子の全部二十五円、殿下の御下賜金としては小額に過るとは考へしも、一人一人に菓子にても買ひ与へ呉れられよと申し、殿下よりの御菓子料として残し置きたり。
<注釈>
特命検閲の途中、我が国におけるハンセン病治療の魁、ハンナ・リデルの回春病院を訪ね、その悲惨さに強く心を打たれる。思わず手持ちの金銭を寄付する。



六月二十四日 土 晴
 本日福島中将宛松石の処分の軽挙なる可らざること、万止を得ざる場合にも其後任は尤も慎重に考へ余にも腹案あることを申送る。
<注釈>
快復しない松石の第一部長更迭が話題に上るようになった。検閲で東京を離れたままの宇都宮は、手紙で、松石の処分は慎重にするように福島安正次長に頼んでいる。



七月十五日 土 晴
 退出掛松石の病気を其自宅に見舞ふ。彼先ず発言、余が面を記憶するものの如く種々の応答を為せしに、大抵は間違無く体力も余程回復、此分にては快復疑無きものの如く慶賀の至なり。
<注釈>
久々に松石を見舞う。脳をやられた松石であるが、宇都宮の顔は判別できたらしい。僅かな快復を喜ぶ宇都宮。



八月八日 火 晴
 上原氏へ政局に関する長文の書状を出す。
 少将田中義一と役所に会見、政局に関し意見を交換し、陸軍大臣の後任は両人の意見上原に一致す。
<注釈>
桂内閣が退陣となり、寺内陸相も桂と進退を共にすることとなった。後任陸相は上原勇作が最適ということで、田中義一と意見が一致した。



八月二十五日 金 晴
 田中義一電話して曰く、二、三日前までは大臣後任は上原と確信せしに、昨今少しく変態を生ぜり、二、三日前までは石本の行先を研究せしに、今は中止せられ、ドーモ石本にはあらざるか云々。余は他用に託して陸軍省人事局長山田を見て之を叩きしに、彼曰く、寺内大将昨日小田原山県元帥を訪問の結果、大臣後任は愈々石本次官の昇任に確定せり唯今内聞せり云々。是に因て見れば、彼等長閥者は石本推薦に一致せしこと最早疑ふべきの余地無し。此上は政友会の態度なれども、これは余り当にせざるを至当とす。即ち此度は目的を遂げざりしものと覚悟後図を画すること肝要なり。尤も表面は更に一層の冷静を装ふこと必要にして、余も再び一伴食部長として無声雌伏の旧態に復べく、徐に後図を画せんとす、誠に是非も無き次第なり。併し石本にせよ誰にせよ、藩閥者流の天下は確に一転機の運に向へり。奮ふべし奮ふべし大いに奮ふべし。以上の要旨を上原中将を始め井戸川、町田、小山、樺山等の同志に通ず。
<注釈>
後任陸相は上原という意見で一致していたはずの田中から、どうも後任は石本新六になりそうであるとの電話を受ける。人事局長で長州の山田隆一にそれとなく尋ねたところ、山縣有朋と寺内正毅との会談で、長らく寺内の次官を務めた石本の昇任が決まったとのこと。上原を推していた田中も、敢えてこれに逆らうような動きは無し。宇都宮も時利あらず、”一伴食部長”として雌伏すると決め、同志の井戸川辰三、町田経宇らにもそのように伝えた。石本は上原と同じ工兵科であり、同じようにフランスに派遣された人物であったが、精励ぶりが寺内に気に入られ、長く次官を務めた。しかしそのハードワークが祟ったのか、現職のまま病死する。息には二・二六事件で判士を務めた石本寅三らがいる。



九月二十二日 金 雨
 去二月以来病気にて転地中なりし福島中将昨夕帰宅の由に付き、出勤掛往訪せしに、元気も余程快復しあり、公務上の報告、人事(松石後任には由比を第一、山梨第二として薦む。其外柴、星野等も参考に供せしに、由比には尤も同感を表せらる。大沢少将の往先心配を頼みしに、輜重兵監に為すことには出来れば同意の趣にて、余先ず浅田教育総監の意を質すことになり、本日午後往訪之を尋ねしに、浅田氏は現兵監の往先無き等を理由として拒否の意を洩せり)。
<注釈>
松石の更迭は避けられない状況となり、後任について福島と意見交換。宇都宮の第一候補は高知の由比光衛、第二候補は田中と同期で田村怡与造の婿山梨半造、更に宇都宮の同期、柴勝三郎、新潟出身の星野金吾を挙げたが、福島も由比が最適と、意見が一致した。
また第三部長大沢界雄の転任先として、輜重兵監はどうかと、教育総監の浅田信興に打診したが、浅田は婉曲にこれを拒否した。結局大沢は由良要塞司令官という閑職に転任し、間もなく予備に入れられる。



十月八日 日 晴
 在宅。歩少佐松井石根来訪(其縁談に付き)、余が懐抱の一部を告げ、余が為めに尽さんことを求めしに、彼も承諾之を約す。余は腹心として彼を使用せんと欲するなり。
<注釈>
以前世話した縁談こそうまくいかなかったが、その後も宇都宮は松井の面倒を見ている。遂には同志となるよう求め、松井もこれを承諾している。



十月十日 火 曇
 過般来次長と内議中なりし第一部長後任に由比を、否らざれば山梨或は柴を、大学校長に松川を、否らざれば星野、柴の内を推すことを重ねて内相談し、次長の決心は決したりと認む。併し前途幾多の難関あり、安心は素より未だし。彼等は両方共に大場、大井を推し、大島より之を唱導せしめつつあり。斯の如くなれば、既に長州の寵児あり、準長の大島あり、之に一長を加へば参謀本部の部長は五人中の三人は長州にて、本部は純然たる長州の物たらんとす。大学校長に長州人の用ゆ可らざるは試験問題の漏洩、人選の詮考等の私曲甚しく、其前例あるを以て、初めては大学校丈なりとも彼等の毒手より神聖に為し置き度微意なり。
<注釈>
長州派は第一部長、陸大校長の職に大庭二郎、大井成元を据えようと、参本総務部長で長く山縣の副官であった大島健一を使って、運動していた。宇都宮は松石の後任には以前話した通り由比を、井口の後任には松川敏胤を据えるように、改めて福島の決心を求めている。陸大の校長を長州派にすればえこ贔屓をする、すでにその前例があると、宇都宮は書いている。恐らくその前例とは寺内正毅と、その跡を継いだ藤井茂太だろう。藤井は兵庫だが、そういう噂がある。



十月十八日 水 晴
 過般来私に苦心せし松石第一部長の後任に、吾人側の由比光衛確定、一安心す。長系の意を迎ふるに急なる大島等は、長の大庭、大井を推したるなり。事此に至るの已むを得ざりし、松石の為めには気の毒なり。
 此夜時局に付き警保局長古賀廉造と其案内にて木挽町緑屋に会飲。亦た「私見」を内示し時局を談じ、同時に極めて隠密に叛徒を助くるに付き、殊に職掌柄武器輸出等に便宜を与へんことを内談せしに彼も快諾す。
<注釈>
・結局第一部長には宇都宮の第一候補であった由比が就任することとなった。しかし陸大の校長には大井がなる。この翌年のことである。
・警保局長古賀廉造と会談し、支那革命軍への武器の供与を黙認するよう依頼して、承諾を受けている。



十月二十五日 水 晴
 松石少将病捗々しからず。時局急なる為め、少将由比光衛第一部長に任ぜられ松石は待命と為る、誠に気の毒の次第なり。由比は近衛歩兵第四聯隊以来の親友にして、此度は余も推薦者の一人なり。
<注釈>
松石、遂に待命となる。由比は松石ほどの才気の閃きは無いが、戦場に於いては飽くまで豪胆な人物であった。



十一月二十九日 水 晴
 陸軍大学校卒業式に付き陛下御臨幸参列す。第一は旧連隊の歩中尉梅津美治郎にて、六人の優等者中第五も同じく歩中尉篠塚義男なりしは心中独り嬉しく覚へたり。
<注釈>
旧部下から二人が陸大恩賜賞を貰った。目を掛けていた篠塚は陸軍に入ってから初めて首席を逃したが、この期は陸大有数の激戦の期であった。首席には最後の参謀総長梅津美治郎、次席は永田鉄山、それに加賀の当主前田利為、藤岡万蔵、篠塚と続き、6位は小畑敏四郎であった。



以上で、『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記 1』のレビューは終わる。読んでくださった皆さん、ご苦労様でした。

ところで最後に、宇都宮は陸軍三太郎と称された中の一人であった。ところがこの三太郎、もう一人は仙波太郎で確定なのだが、最後の一人が本によって違う。明治44年発刊の鵜崎鷺城著『薩の海軍長の陸軍』によれば宇都宮と仙波、林太郎を合わせて陸軍の三太郎としている。しかし戦後出た本ではこれが桂太郎になっている。字面が似てるのでどちらかが誤植の可能性が高いが、これがまた微妙すぎる対比で、どっちが正か判別できない。確かに桂は、仙波、宇都宮と並べるには大物過ぎる。一方の林は、士官生徒の6期生であり、軍事課長などの要職も経験しており、こちらが正しいような気もするが、彼は旅団長を最後に中将進級と同時に待命となっている。仙波、宇都宮と並べて三太郎と呼ぶにはこちらはやや小物のような気もする。まあ、宇都宮が陸軍を代表する逸材であることには変わりは無いが。


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結構長い間探してた(といっても血眼になるほどではないが)ピゴットの『絶たれた絆』を手に入れました。朝、起き際に何となく閃くものがあり、トイレに行くより先に日本の古本屋で検索して発見。こういう勘だけは効くんだよなあ。
以上閑話。

1910(明治四三年)
二月二十八日 月 晴
 満洲長春にて実業に従事せる辺見勇彦(元と高島中将の書生たりしことあり、三十七、八年役には馬賊を率いて功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)。

<注釈>
辺見は日露戦争の裏側で活動した馬賊の一人で中国名は江崙波。父は西郷隆盛軍きっての猛将辺見十郎太。最初は高島鞆之助の書生、次に上原勇作の書生を務めたが、軍人になる気がさっぱりなかったため、大陸に渡った。



三月十四日 月 晴
 此夜、内務省地方局長床次竹次郎を訪ひ、時局発展且つ高島子爵救済の儀に付き相談する所あり。

<注釈>
負債を抱えて苦しんでいる高島鞆之助救済について床次と相談している。床次は薩摩出身故。後に政界入り。昭和の政界をかき回す台風の目となる。



四月七日 木 晴
 部下部員歩兵少佐井上一次、機密書取扱に付不注意の科軽謹慎三日に処す(小功名心利己主義の人にして、大学校にて講演せる講義を印刷し、山県元帥や其外へ配布せんとせしなり。警告する所ありしも注意を欠き物議を生じ、穏便に為し能はざる事情あり処分)。但し次長は同人を米国公使館付と為すことに付ても不同意を唱へられたるに付き、熟考すべきを約す(余は一の考案あり、尚熟考中なり)。

<注釈>
井上一次は石川出身で、シンガポールやフィリピンに差遣されるなど、英米情報畑を歩む、宇都宮にとっては直系の後輩になる。それが、山縣有朋に阿るために、部内秘を勝手に持ち出し、処分を受けた。決まっていた米国駐在の件もこれで中止とすべきと、次長の福島安正は主張したが、宇都宮は留保した。結局宇都宮の配慮で、井上は無事米国公使館附武官となる。



六月十八日 土 曇
 本日は去る明治十八年士官学校を卒業少尉に任官せし第七期生の第二十五回の誕生日に付き、幹事村岡方にて午后より誕生会を開き、会する者、島川、柴、井上、石栗、高瀬、宇都宮に主人村岡を加へて七人。同期生は入校の時は七十人なりしが、目下現職に在るものは僅に巻末に録せる二十六人なり。例に依り中隊長馬場少将(ヨビ)に祝辞を送り歓飲して散ず。
 此夜小山秋作来宅、之に南洋拓殖の必要を語る。

<注釈>
・士官生徒の7期からは宇都宮のほかに島川文八郎が大将となった。硬骨漢で知られる柴勝三郎は中将どまり。井上仁郎、村岡恒利も中将、高瀬清次郎は少将であった。

・小山秋作は何期かは忘れたが、日露戦争では裏方として活動した軍人で、大佐くらいで予備に入ったはず。南洋起業という国策会社を起こすのだが、まさにその相談だろう。宇都宮も英国に駐在していただけに、東南アジアに目が向いている。



七月三日 日 雨
 親友橋口勇馬、女婿宮内歩兵大尉夫妻来訪。寿満子と四人にて晩餐を与にす。

<注釈>
橋口勇馬は日露戦争では馬賊を率いて後方攪乱にあたった人で、花大人や前述辺見と同じく薩摩人。父は寺田屋事件で斬死した橋口伝蔵(つまり樺山資紀は叔父となる)。ところで彼が連れてきた婿の宮内であるが、宇都宮は歩兵と書き、この本の編集者もそのまま訂正していないが、これは間違い。この人は宮内英熊といって騎兵科で、後に近衛騎兵聯隊長なども務めた人物。日露戦争では永沼挺進隊に参謀格として加わり大活躍した。
 



八月五日 金 晴驟雨
 早朝深堀未亡人来訪(篠塚へ縁談に付き)。

八月六日 土 曇
 篠塚母来り一応中止の旨にて写真を返へす。

<注釈>
目を掛けている旧部下篠塚義男についての縁談話。結局彼は長谷川直敏中将の娘と結婚しているが、これが宇都宮の斡旋かどうかは知らない。しかし長谷川と篠塚は11歳しか違わないので、篠塚はひどく晩婚だったのか、あるいは再婚か。



九月十一日 日 晴
 夕刻、野戦砲兵監中将大迫尚道来訪。帯病満洲に帰任せし伊地知第十一師団長の進退の儀に付凝議の結果、関東都督より中将の内地転任を上申せしむるを尤も穏当と為し、此手続を取る様細々なる依頼状を余より都督府参謀長星野少将へ送ることと為り、起草研究の上一応親友上原中将に示して発送のことに決して夕食を共にし、大迫氏携へ去る。

<注釈>
病気のまま満洲に帰任した伊地知幸介の処遇に関して、大迫兄弟の弟尚道と相談している。上官の関東都督(大島義昌)から中央に、内地帰任を申請してもらうよう、都督府参謀長の星野金吾少将に手紙を書くことに決したようだ。”親友上原中将”というのは宇都宮と伊地知のどちらに掛かっているのか?年齢からいえば伊地知だろうが。


九月十七日 土 曇
 退出掛、陸軍大将土屋光春を其大久保の新寓に訪ふ。大将は日清役には大佐にて川上中将の下に陸軍参謀たり、余は大尉にて其下に参謀たり、戦役後も大佐は第二局長にして余は引続き其下に大尉局員たりしなり。余が日清戦役後対露の目的を以て従来の七師団を倍加して十四師団の七軍団に拡張すべき意見を呈出し、財政の関係上近衛の二師団は一師団となり結局十三師団案として成立せしは此土屋大佐の局長時代にて、川上中将の力は勿論なれども、大佐の好意も与て其進達成立に多大の効果ありしなり。今の伊地知中将が当時の中佐にて、土屋局長の下に今の課長の如き位置にありたり。先づ之に謀り其力に依りて順次進達せられたるなり。当時第一局長たりし少将寺内正毅、陸軍次官たりし少将児玉源太郎等は初は之に反対せしは今に一奇なり。彼等は此兵力を以て当時過大と為せしなり。殊に参謀本部中にても東条英教の如きは、僅かに一師団増加を以て足れりと称したり。畢竟是等は当時対露の観念未だ皆無若くは不十分なりし結果なるべし。

<注釈>
土屋光春は岡崎出身で、川上操六にその才を認められ起用された人。日清戦争後、師団の倍増を唱えた宇都宮を後押して、何とか13師団まで持っていった。このとき陸軍省の寺内正毅や児玉源太郎は増師に反対し、参謀本部に於いても東條英教などは一個師団増で十分と言っていた。第2局員であった伊地知は、宇都宮と同じく増師を主張していた。土屋はこの八月に大将親任と同時に後備となった。宇都宮の訪問も恐らくはその慰労であろうが、もう少し大将として用いるべき人物であったのではないか。思い出話を記した宇都宮にもまた、そういう残念な気持ちがあったのではなかろうか?



九月二十六日 月 雨
 午后三時三十分、清浦子爵等の斡旋にて出来上りし同郷の先輩司法大臣伯爵大木喬任銅像除幕式に参列す。同郷の人の外は会するもの寥々。これが長州人の仕事ならば猫も杓子も駆付け可きに、人情の軽薄是非も無き次第なり。

<注釈>
佐賀の大先輩である大木喬任の銅像除幕式。参列者が少ないことを愚痴っている。長州人の銅像なら猫も杓子も駆けつけるであろうにと。時代は下る。大正11年、長州の山縣と佐賀の大隈という超大物が前後して亡くなったが、参列者は大隈の方が遥かに多かったという。



十月二十五日 火 小雨
 新嘉坡松本より「小山トモ相談確定、五千円送ラレ度シ」との電報昨夜到達、乃ち南方経略事業の準備に一歩を踏始めたるなり、慶すべし。唯だ準備せしは二千円にして三千円の不足なり。福島次長に相談せしも二千以上は出来ず、去て辻村経理局長に談ぜしに、同情を以て心配し呉れしもこれ亦た確実なる算なし。因て初の決心の如く渋谷地所抵当にて明治商業より借出し得る余地尚ほ存するを以て、後は後として此際此三千円は同銀行より借出し送金以て急場の需要を充すに決心す。

<注釈>
南方経略のため、シンガポールに着いた小山から金が足りないとの電信。参謀本部でも陸軍省でもこれ以上出せないとのことなので、宇都宮は渋谷の地所(2800坪)を抵当に、自分で金を借りることにした。宇都宮の月給は262円。それにしても、社会保険庁の連中に聞かせたい話だ。


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1909(明治四二)年
五月二十二日 土 晴
 篠塚中尉来訪。義兄負債の抵当に供せし其家邸の竟に人手に委せざる可からざるの悲報を報ず。

<注釈>
篠塚義男は歩一の将校の中で最も頻繁に宇都宮家を訪れている人物である。かつては自邸の庭に実った柿を持ってきたこともあったが、今度その邸を借金の抵当に取られることとなってしまったらしい。彼は熊幼、中幼、陸士をすべて首席で卒業したホープで、宇都宮も相当な期待を寄せていた。宇都宮は日露戦争当時、駐英武官として明石工作を助けて活躍したが、篠塚も第一次世界大戦に於いて、オーストリア大使館附武官として、情報収集で手腕を発揮した。大山柏は篠塚について、”名諜報で名声を博した”と書いている。四王天延孝も”ウィーンで色々な問題について卓越な意見を聞かされたから、それは書物に書いて広く人に読ませたらどうかと慫慂したら、書物を書きこれを印刷に附することは容易だが、その代わりこれは普及性が強いから万一誤りが混入すると、多くの人を誤まらせる害も少なくない。だから余程慎重に研究してからでないと印刷して発表するなどはすべきものでないと謙遜された”と書いている。終戦時、”軍事参議官として開戦に賛成した責任”をとって自決した。
ちなみに東條に対する数多の非難の中に、同期で自分より成績の良かった篠塚を嫉妬からクビにしたというものがある。これは東條の大将進級時の特殊事情から発生した噂ではないかと思う。この当時、大将に抜擢人事はやらないというのが暗黙の了解であった。しかし東條は首相に任命されたため、特例として大将に進級した。このとき、学校の成績などにより、停年名簿で東條より右翼にいた篠塚は追い抜かれた。追い抜かれた篠塚は予備役になるでもなく、現役に留まった。この異常事態から先のような噂が出たのではないか。しかし戦争末期に何人か出たへんちくりんな大将を見る限り、篠塚を大将にしても良かったのではないかと思わないでもない。



八月十八日 水 曇
 仏国より近頃帰朝歩兵第四十八聯隊長に補せられたる大佐町田経宇、久留米より態々来訪。将来の事共時事を相談して夜十二時を過ぎ町田も一泊す。金谷範三の同志たり得べくを彼に告ぐ。

<注釈>
町田経宇は鹿児島出身で、いわば同志。後に大将。
後記の9/23の日記にあるとおり、宇都宮はこの段階ではまだ金谷範三と面識がない。では何を以て同志足り得るとしたのかというと、彼が送ってきた手紙の内容が良かったのだろう。金谷は後年、宇垣の後援を受けて、宇都宮の後継者である武藤信義と参謀総長の座を争うのだから、皮肉である。



九月十七日 金 雨
 久振にて高島中将を往訪せしに、不遇の上に負債累積如何にも気の毒の境遇に在り。併しさすがに本人は之を辞色には現はさず、強て平然たる所一層気の毒の感を深くす。

<注釈>
宇都宮がかつて、参謀総長にしようと奔走した高島鞆之助であるが、どういうわけか借金まで抱えて不幸な境遇にあるらしい。それにしても宇都宮は中々情に篤い。



九月二十三日 木 晴
 歩兵少佐金谷範三来訪、同人は在欧中屡書を送り呉れし人にて今日初めて面談。

<注釈>
前記の金谷(後の参謀総長)と初めての対面。この頃の宇都宮は、佐賀や鹿児島といった郷党のほかに、自分の職場である参謀本部に仲間を求めている。金谷もまた統帥一本槍の人物である。



十一月七日 日 晴
 演習第二日。南軍は昨日来箒川右岸の陣地を占め、北軍は進で之を攻撃し、戦局を終らずして夜に入り現在地にて夜を徹することとなる。此日第二師団は主力を佐良土方面に用い突撃せしも、無効と審判して原位置に退却せしめしに、第二師団長松永中将服せず互に多少の激語を用ゆるに至りしも終に服従せられたり。中将は余が中尉時代の大隊長にして平生先輩として尊敬せし所なりしに此始末に至りしは遺憾の外なし。併し彼我互いに直に一笑釈然たるを得しは仕合なりき。此夜は佐良土村なる小料理屋角やに投宿。八時半より露営地及第一線巡視、夜十二時帰宿す。

<注釈>
陸軍特別大演習、宇都宮は審判官を務めた。このとき第二師団長松永正敏は、師団砲兵の掩護の元に、橋の上を突進した。宇都宮はその攻撃不成功と判定し、松永に原位置に戻るよう要求した。しかし日露戦争で鳴らした猛将松永は容易に引かない。この様子を固唾をのんで見守っていた歩兵第四聯隊の若い少尉がいた。彼は後に陸軍大将となり、戦後回想録を出したが、このときの宇都宮の様子が余程印象に残ったようで、一章を割いている。以下はその回想録『私記・一軍人六十年の哀歓』より抜粋。
” 私は軍旗を奉じ、旗護兵五人と一団となり、乗馬審判官ふたりのまん中におどりこんだ。馬が驚いてあとずさりし、一頭が前脚をあげたので、一人は落馬しかけた。するとうしろにいたもひとりのべつの審判官が、私を踏みつぶすような気勢で、前に立ちふさがった。見れば少将の階級章をつけ、参謀懸章をつけている。
「松永将軍!攻撃は不成功。すぐ旧位置にお戻りなさい」
「さがらぬ。不公正の審判には服さない」
「おひかえなさい。陛下御統監の審判でござりまするぞ」
 血色の良い丸顔の少将は、こうどなった。
 松永師団長は「うーん」とうなりながら、からだをふるわせ口惜しがっていたが、「陛下の統監」といわれては、もう返す言葉がなく、
「河内(礼蔵)大佐!北岸に戻れ」
 自身も、うしろに戻りはじめた。
 私自身は連隊長といっしょに戻りながら、「こんな狭い橋のうえを密集縦隊で突進するなんて、非実戦きわまる。司令部も川の中を突っ切るべきだ。さげられたってしかたがない。が、猛将軍とうたわれている、日露戦の勇将軍に対し、階級の下の少将が、敢然公正な審判をやり通した、あの人はえらいな」と思うと同時に、なんだか、源平時代の絵巻物を見ているような、詩的な感情を覚えたものだ。”



十一月十二日 金 晴
 午后七時三十分より桂総理大臣官邸にて英国元帥キッチナーを晩餐に招待、参列す。客はキッチナーの外、大使及我大臣並に大将等なり。帰途上京中の上原第七師団長を訪ふ、不在。本日松石を参謀本部より追はんとするの相談を長岡より松石に打掛け、松石より相談あり。次長に絶対に拒絶すべきことを勧め、尚総長へも此決心を為さしむる為め福島中将を同邸に煩はし、両人の決心も固定せりと認む。

十一月十三日 土 晴
 松石と其進退に付き彼来談。次長とも協議。益々総長、次長の前決心を固執せんことを勧め、次長は諾して再総長邸に往訪す。

<注釈>
もうひとつわかりにくい文章だが、長岡外史はこの当時軍務局長であるので、松石更迭案は陸軍省から出たものと考えるのが妥当か。それに対し宇都宮は、断固拒絶するよう本人にも言い、更に次長にも働きかけている。このときの次長は福島安正である。
キッチナーはあのキッチナー。


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