近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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『日本陸軍航空秘話』 田中耕二・河内山譲・生田惇 原書房 昭和56年

総勢50名を超える陸軍航空兵科出身者による座談会。主な出席者は
川嶋虎之輔少将(31)
青木 喬少将(32)
猿渡厚孝大佐(35)
宮子 実大佐(36)
秋山紋次郎大佐(37)
村田謹吾中佐(41)
田中耕二中佐(45)
加登川幸太郎中佐(42)

やはりその道の専門家が語るだけあって、読みごたえがある。知らなかった裏話とかもちょいちょいあった。座談会形式というのも読み易い。
ちなみに彼等が挙げる航空の先覚者は
寺内正毅:航空ために予算をとった
長岡外史:飛行機大好き人間
宇垣一成:4個師団と引き換えに航空8個中隊
井上幾太郎:文句なしに陸軍航空の父
徳川好敏:飛行将校の魁
石原莞爾:早くからの空軍独立論者
鈴木率道:優れた航空軍司令官
下村琢磨:やはり指揮官として優れる
原田貞憲:軍政面の第一人者
谷川一男:航空部隊運用の先覚者
島貫忠正:空地分離制の推進者
小野門之助:航空写真の大御所

島貫の空地分離というのは、それまで一纏めだった空中部隊(飛行中隊)と地上部隊(飛行場大隊)をばらして、別々に運用するというもの。航空士官学校の独立もこの島貫と谷川が殆どやったといわれる。島貫家は5人の息子が陸軍に入り、そのうち4人が陸大を恩賜で卒業したというちょっと他には例のない家。忠正はその長男にあたる。ノモンハンで戦死。

個人的には上にプラスして悲運の天才日野熊蔵を挙げたい。

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麻生太郎外務大臣が先頃朝日新聞紙上で、靖国神社の非宗教法人化という意見を述べられました。また自身のサイトにも靖国に弥栄あれという題で意見を載せておられます。前半の靖国神社に対する考えは概ね同意です。特に”(2) 靖国神社にとって、「代替施設」はあり得ません。 ”という部分は当にそのとおりだと思います。目先の利益だけ追いかけ、安易に代替施設の建設をなどとほざく恥知らずな輩とはさすがに違います。また本問題の解決法として麻生大臣は、靖国を最終的に国営にし、その過程で合祀の基準も明確に決めるとしています。私はこれはこれで一つの見識だとは思いますが、ベストかどうかは判断が付きません。ただ時間が無いというのは激しく同意です。皆死んでしまい気色の悪い連中ばかりになってからでは、どうしようもないですからね。すでにサヨクはそうなってますね。ウヨクも早晩そうなるでしょう。
麻生氏の靖国私見について

さて話は変わります。麻生太郎氏といえば吉田茂を祖父にもち、三笠宮仁親王殿下は義弟という名家の出ですが、そんな氏にも靖国に眠る親類がおられます。麻生攝郎海軍少尉。麻生太賀吉氏(太郎氏の親父殿)の従弟です。麻生少尉は昭和20年4月29日、第四筑波隊の一員として沖縄に突っ込み戦死しました。少尉は早稲田大学商学部を卒業した予備学生でした。後日母の元に半紙一枚の遺墨が届きました。




少尉はクラシックが好きで、弟妹への遺書には、戦死したならば交響曲のレコードをかけて我が霊を慰めてくれとあったそうです。




 




日本昔話のごんぎつねを見て、懐かしくなって青空文庫で新見南吉の作品を読んでたところ、「手袋を買いに」の中にもありました。
「ねむれ ねむれ
母の胸に、
ねむれ ねむれ
母の手に――」
シューベルトの子守唄。
戦死する将兵が最期に叫ぶのは「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」であるというのは良く聞く話です。
立山英夫歩兵少尉は、支那事変初期の永定河の戦いで戦死しました。少尉に任官されたかどうかという時期で、勿論49期最初の戦死者でした。少尉の内ポケットには母の写真が一葉入っていました。その裏には次のような母への思いが綴られていました。




「お母さん」と24回繰り返すこの文にいたく心打たれたかつての大隊長大江一二三少佐は、少尉の葬儀が営まれる日、次の弔歌を打電しました。

靖国の宮に御霊は鎮まるも
     をりをり帰れ母の夢路に



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特攻隊員というと誰を思い浮かべるでしょう?関大尉?藤井中尉?上原少尉※?
私は題名の若杉少尉です。私が彼の名を知ったのは故村上兵衛氏の『桜と剣』でした。淡路島の巡査の息子であった彼は、洲本中学では開校以来の秀才といわれていたそうです。その後広島幼年学校、陸士予科、航空士官学校と進み、すべて恩賜で卒業しました。

航空士官学校時代ではひとつのエピソードがある。
その担任の区隊長が、若杉を目の仇にして、些細なことを咎めては、彼を殴った。
その区隊長はモノマニアックなところがあり、とくに幼年学校に対する激しい敵意を抱いていたらしい。
嫌いな幼年学校出身の生徒が、しかし何でも良く出来るとなると、事毎に腹が立ったのかも知れない。
若杉は、温厚でけっして人と争ったりしない優しい性格の男でだったが、そういう完璧さが、ますます区隊長の怒りを誘った、ということも考えられる。
毎日のように、満座の中での殴打が続き、若杉の顔は、いつも脹れあがっていた。
しかし若杉は、それは自分にどこか至らないところがあるから、と反省するような男だ。
とうとうある夜、区隊長がまた若杉を列の前に呼び出し、殴ろうとすると、
「待ってください」と列中から呼び声がかかった。
同期の野上五夫が、
「若杉を殴るなら、私を殴ってからにしてください」と、一歩前に進み出たのである。
「なにぃ」
区隊長の怒りの眼差しの前に、すると、
「私も同じです」
「私も・・・・」
ぞろぞろと全区隊の生徒たちが、一歩前に踏み出した。
「貴様らぁ」
狂乱した区隊長は、その全員を、つぎからつぎに殴り飛ばし、そして部屋から去っていった。
野上によると、そのときの区隊長の後姿は、がっくりと肩が落ちて、じつに淋し気だった、という。
そして、その日からぴたりと区隊長の”若杉いじめ”はおさまった。(村上前掲書)


その後彼は常陸教導飛行師団で編成された八紘第十隊(殉義隊)の隊員に選ばれました。しかしその態度は、実に従容たるもので、一点の曇りも無い晴れ晴れとした表情であったと、皆語ります。

「若杉少尉にはおどろいた。あの人は普段から悠揚としていたが、特攻隊に決まっても、少しも変わらず、こちらが挨拶すると、にこやかに答礼してくれたものです」(高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』)


伝聞いた村上氏ら同期の人々も、若杉ならさもありなんと、何ら疑うことなく、それを受け入れました。しかし、フィリピンへ向かう途中、新田原で同期の日野少尉、木幡少尉と会った若杉少尉は、
「特攻隊編成の話があった時、おれは一番で志願した。しかし・・・・貴様は、まちがっても特攻隊なんかになるんじゃないぞ」と2人に言い残しました。その後、台湾の高雄でも同期の歩兵少尉を探して、一晩語り明かし、最後にこう言ったといいます。

「今まで俺は天皇陛下のため、お国のためと言い続けてきた。
 自分でもそれを信じ、いや信じていると思っていた。
 しかしその言葉にはどうも本当ではない部分が混じっているような気がする。
 …俺はそのことを誰かに言い遺しておきたかったんだよ」(村上前掲書)


敦賀隊長以下殉義隊の五機は、昭和19年12月18日、クラークへ進出、同21日1240頃、ミンドロ島沖の敵輸送船団に突入しました。

若杉是俊少尉 享年22歳 死後二階級昇進 功三級




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