近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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兄弟或いは親子で大将という例は幾つかあるが、それが陸海軍分かれてとなると、2組しかない。西郷兄弟と鈴木兄弟である。ただし西郷兄弟は草創期の人物で、いきなり大将或いは少将に任官されたことを考えると、正味の陸海軍兄弟大将は鈴木貫太郎・孝雄兄弟のみと云えるだろう。兄の貫太郎は終戦時の首相で有名だが、弟の孝雄はそのとき靖国神社の宮司をしていた。終戦で辞任したが、実に8年近くこの職にあった。彼の妻は日清日露の勇将立見尚文の娘で、次男の英は海軍に進み、開戦直前、郵船の事務員に身を窶してハワイを偵察した人物。ちなみに兄貫太郎の妻は、昭和天皇の養育係として知られる孝子夫人だ。

『怒涛の中の太陽』という本がある。孝雄の長男鈴木武氏が中心となって編纂された鈴木兄弟に関する本である。その中に、孝雄自ら筆をとり兄についての思い出を綴った「先兄を憶う」とい文章がある。残念ながら未完のまま、大将の遺稿となってしまった文章だが、中々面白いのでちょいと紹介したい。



大正5年頃だったか、私が砲兵課長奉職時、偶々品川よりの汽車の中で、兄と懇意な井上雅二氏と会った。氏は私に「君はお兄さんの人格についてどう思うか」と尋ねられた。私は「私が今日あるのは全く兄のおかげで衷心感謝しているが、特別なところがあるとは思わない」と答えた。すると井上氏は諄々と兄の業績を物語り、兄をして他日の大をなさしむるには、これからも兄弟が助け合っていかなければならないと、説かれた。後日これを兄に話すと、兄は笑って「私は決して名利を求めない。私はただ事に臨んで誠心誠意これを処理するのみだ。他人の批判のごときには全く関心が無い」と述べた。この言葉こそ、兄の終生を貫いた人生観ではないかと、物心ついた頃より終生苦楽を共にした私は思う。

父の由哲は関宿藩士で、元治元年から代官として和泉国伏尾の陣屋に駐在した。兄の貫太郎はそこで生まれた。3歳下の私は小石川の藩邸で生まれた。戸籍上は明治2年となっているが実際は明治3年生まれである。

兄は大きな体に似合わず泣き虫であった。しかもその泣き声は、体に比例してすこぶる大きかった。私は兄とは反対に強情で腕白で暴れ者であった。兄の泣き声を聞くと、私は兄を守るために直ちに声のする方へ飛び出していく。ついてみれば、兄は数人の学友に囲まれ、揶揄されているのか、ただ声を上げて泣いているだけである。私はまだ学齢に達していなかったけれど、彼らは私の姿を見ると囲みを解いて逃げ去った。私は、兄を苛めた上級生の一人が、私の家の前を通って通学することを知っていたので、翌朝未明から起きてその生徒が通るのを待ち伏せ、これに闘争を挑もうとしたが、その生徒はこれを察知したのか、道を変えて登校した。

小学校時代、私たちが住んでいた前橋に、板垣退助先生が演説に来られた。私たちは接待役補佐に選ばれた。まさに宴会が始まらんとするそのとき、突然私は宴会に出席して酌をしろと申し付けられた。驚いた私は兄に相談し、兄は年長の学童に代わってくれるよう頼んだが、彼らは、”武士の子が酌をするなどもってのほかである。我々は下足番をするから、お前たちは酌をしろ”といって代わってくれない。そこで私は仕方なく宴席についた。そして云われるがままに、立って演説する板垣先生に「先生水を」とコップを差し出した。礼儀作法も心得ない学童を、このような場面で使うとは、よくよく無謀な話である。私は明治11,2年頃、胃病に悩み、病床に呻吟していた。兄は学校から帰宅するとまず第一に私の病床を見舞った。私が兄の帰宅を一日千秋の思いで待つとともに、兄は私が一日でも早く快復することを望んだ。兄の私に対する愛情はこの時代に始まり、終生変わることなく続いたことを憶うに、私は感謝の念禁ずるに能わざるとともに、涙を禁じ得ない。

明治18年の夏、海軍兵学校より帰ってきた兄と二人で妙義山に登る二泊三日の旅行をした。この旅行こそ、兄が私に最も大きな教化を与えた記念すべき旅行であった。私たちは妙義山を下り富岡町に至る途中で道に迷い、右へ行くか左へ行くか議論した。その結果、私は茶目っ気を出して、憤然と自らが主張した道を進み、数百メートルいったところで桑畑に隠れて兄の動静を観察していた。しばらくすると心配顔の兄が私の前を通り過ぎた。私は兄が数十メートル行ったところで声をかけた。すると振り向いた兄は、目に涙を浮かべて、”お前は出発前に父上が言われたことを忘れたのか。父上は我らに仲良く旅行をしてこいと言われた。このような行動をして、お前自身は満足かもしれないが、私は兄として父上に面目が立たない。この行は、お前一人の行にあらず、二人の旅行である。自分の欲を充たさんとして他者の責任を考えないのは愚者の行為だ。”と諄々と私に訓戒を加えた。私は返す言葉もなく、涙を浮かべて己の不明を詫びた。



以下思い出は日清戦争にとび、そこで終わっている。未完なのは残念だが、それでも兄弟の若い頃を生き生きと描く文章は素晴らしい。終戦という未曾有の大事件の収拾にあたった鈴木貫太郎には、それを陰で支えるこういう弟が居たのである。鈴木貫太郎は昭和23年、82歳で世を去った。鈴木孝雄は戦後は偕行社会長を長く務め、昭和39年、93歳の天寿を全うした。


写真は靖国神社宮司時代の鈴木孝雄



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