近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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これまでのあらすじ


段祺瑞は馮国璋、王士珍とならび北洋の三傑と呼ばれた袁世凱の宿将である。この三人は段が砲兵、馮が歩兵、王が工兵と出身の兵科も違い、段は虎、馮は狗、王は竜と呼ばれた。

段はいったん目を掛けた人はどんなことがあっても捨てないと言われた。彼の一派は俗に安徽派と呼ばれ、徐樹錚、呉光新、傅良佐、靳雲鵬の段門の四天王や盧永祥、陳樹藩、段芝貴などで構成されていた。段が長く陸軍総長や国務総理を務め、譜代の四将軍もまたその下で官僚ポストを歴任していたため、彼らはあまり大きな私兵集団を持たなかった。

安徽派の最重要人物は徐樹錚である。彼は1909年に日本の陸軍士官学校を卒業した後は、段の智嚢として活躍した切れ者であった。軍人に似合わず政治的な才知に富み、武弁である段を補佐したが、やり過ぎて敵も多かった。

一方、馮国璋を中心とした直隷派は、北京から遠ざけられていたが故に、安徽派と比べて強力な私兵集団を持つことができた。直隷派は馮を筆頭に曹錕、王占元、李純、陳光遠、孫伝芳、斉燮元、馮玉祥などおり、曹錕の配下には呉佩孚がいた。

1917年(民国6年)11月、対南政策を巡って段祺瑞は国務総理を辞任した。しかし徐樹錚の策動によって、本来主和派のはずの直隷督軍曹錕らが馮国璋に対南武力行使を要求した。さらに徐は張作霖を関内に招じ入れ馮に圧力をかけた。1918年(民国7年)3月、やむを得ず馮国璋は王士珍に代えて段祺瑞を国務総理に任命した。

しかし段の武力統一政策はうまくはいかず、11月、大総統に就任した徐世昌は停戦を命じ、翌年2月には南北和平会議を開いた。会議自体は破綻したが、五・四運動によって反帝国主義の運動は全国に広まった。これを受けて呉佩孚は南北和平を訴え段政府を攻撃した。

1920年(民国9年)5月、かねてより撤兵を訴えていた呉佩孚は、遂に無断で湖南より撤退して保定に帰ってしまった。そして7月には徐樹錚の罪を鳴らし、直隷平野に兵を進めた。段祺瑞も辺防軍(参戦軍)をもって定国軍を組織し、自ら総司令、徐樹錚を総参謀長に任命し、保定に布陣した。辺防軍というのは元々参戦軍といい、坂西利八郎が、軍閥に左右されない国軍の中核にしようと育てていた。坂西も青木も辺防軍の使用に反対であったが、辺防軍を権力基盤とする安徽派が聞き入れるはずも無かった。

かつて徐樹錚の招きで入関した張作霖は、このときすでに徐とは決裂しており、安徽派と同じく日本を後ろ盾に持っていたにも関わらず、直隷派についた。また段譜代の靳雲鵬も、徐との不仲から離反した。しかしそれでも安徽派有利が大勢の見方であった。張の顧問をしていた町野武馬ですらも安徽派の勝利を予想していた。

7月14日に始まった勝負は、わずか数日で決着がついた。兵力に勝る安徽派が惨敗し、段は下野、徐は日本へ亡命した。これは前述のように安徽派に信頼できる手兵が無かったことや、トラブルメーカー徐樹錚によって、安徽派内部が分裂したことも原因に挙げられるが、一番の要因は五・四運動以降の排日機運であろう。直隷派はナショナリストのポーズをとり、安徽派を親日集団として攻撃した。しかし、実際安徽派は日本に対して再三援助を求めたが、日本は最後まで手を出さなかった。いや出す暇が無かったのか?

直隷派の総帥馮国璋は前年の12月に病死していたため、北京の権力は新総帥曹錕とその配下の実力者呉佩孚、そして張作霖が握った。しかし直隷派と奉天派は元来水と油であった。



波多野善大『中国近代軍閥の研究』
戸部良一『日本陸軍と中国』
西原亀三『夢の七十余年』


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