近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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北京から満洲へ逃げ帰る張作霖の列車は、京奉線のクロス地点に於いて爆破されたが、このとき起爆スイッチを押したのは東宮自身であったとの説もある。もとより河本、東宮の行為は許されざるものである。しかし一方において、張作霖の苛斂誅求もこれまた揺るがし難い事実だ。また東宮が熱心に進めた満蒙開拓移民も、多くの原住民から土地を奪い、彼らを不幸にした。しかし終戦後の日本移民の凄絶なる運命は、一体誰に一義的責任があるのか?そもそも8万人もの農民が死に追いやられることについて、NHKなどどう思っているのだろうか?戦争にはよくある事とでも言うつもりだろうか?戦争犯罪というものに勝った側負けた側の区別があるのだろうか?何でもかんでも人のせいにしない態度は結構だが、ここまで来ると何らかの意図をもってやってるのかと疑いたくもなる。



さて張作霖爆殺事件の後、東宮は岡山の歩兵第十聯隊の中隊長に転任となった。聯隊長は小畑敏四郎であった。小畑は東宮を深く愛したが、東宮もまたこの陸軍きっての切れ者聯隊長を深く尊敬した。当時東宮は河本の後を追って予備役となるつもりであったが、小畑は自分に一任しろといってこれを止めた。小畑はこのとき、永田岡村らと河本の処分に反対する運動を続けていた。結局彼ら二葉会の運動の甲斐なく河本は予備役となったが、東宮は現役に残れることになった。当時の東宮を知る人はこう語っている。
「東宮さんは実に立派な完璧な中隊長であった。全身全霊、これ至誠の人といっても過言ではない。日ならずして聯隊内の将校下士官は、東宮さんの人柄に打たれた。東宮さんは熱血、純情の人であったが、誰に対しても謙抑で親しみ易い、素朴な村の長老といったタイプで、威張るとか法螺を吹くとか、自己の手柄話などはしない。つねに春風駘蕩たる人柄だが、一歩公務となれば峻烈極まりない」
このころ既に東宮は、武装移民の計画を抱いており、予備となったらその活動に打つ込むつもりで、聯隊の将校にも語っていた。
当時は非常な不況であった。彼はまた非常に人情に厚く、兵隊の家庭が困っていないかを熱心に調べた。そして貧農の子弟がいると呼んで話を聞き、ボロボロと涙を流した。父母が病気だなどという話を聞くと、堪らなくなるのか、財布の金を全部出し、断る兵隊に無理やり握らせる。なので、中隊付きの曹長がよほど気を付けていないと、東宮の給料袋は空になってしまう。満蒙移民の背景にはこういった世相もあったということも、少しは頭に入れておいて良いのではないか。

支那事変が勃発すると、東宮は特設師団の大隊長として出征した。柳川平助率いる第十軍の一員として杭州湾上陸を果たした彼は、11月14日、浙江省平湖県の草原で、左胸に被弾した。もはや助からないことを自覚した東宮は、部下にノートと鉛筆を出させ、

うれしさや 秋晴れの野に 部下と共

という辞世の句を認め絶命した。享年45歳。死後歩兵大佐に昇進した。

余談ではあるが、東宮に先立つこと2ヶ月、これまた特色ある隊付将校、杉本五郎も戦死している。彼もまた、死してなお影響を後世に与え続けた人物であった。


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Lieutは、日本で家庭を転任するみたい…

2006.08.13 13:28 URL | BlogPetのクリ #- [ 編集 ]













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