近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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原田統吉『風と雲と最後の諜報将校』自由国民社

陸軍中野学校二期生の手記である。二期は社会人として世間の飯を食ってきた人間が多かったので、主に予備士官学校から集められた学校出立ての一期生より冷めたところがあったそうだ。当時中野には伊藤佐又という大変な精神主義者の教官がいた。この男は「女房に乗るときも、天皇陛下のお役に立つ子どもができるように念じろ」とかいうような、ナントカと紙一重な人物であった。一期生は結構彼に心服していたそうだが、原田らはそうでもなかったらしい。この伊藤が教え子を使って神戸の英国領事館を焼き討ちしようとしたとき、たまたまその場に居合わせてしまったために、巻き添えになった二期生がいた。彼らは計画に反対であり、なんとか神戸の旅館から脱走しようとしていたが、その矢先に憲兵に踏み込まれて一網打尽にあった。これは、伊藤が憲兵隊にいた同期に、計画を打ち明け協力を求めたという、嘘のような話が原因であった。伊藤は勿論これで予備役となった。当時の憲兵司令官だった平林中将は、高嶋辰彦が裏で糸を引いているという噂が、当時あったことを記している。この事件は一時的に後方勤務要員養成所(翌年陸軍中野学校となる)の存廃を左右した。所長の秋草中佐は、剛腹な人で、秘密戦の重要性は上層部に認識させるために、学生に陸軍省から重要書類を盗ませたりすることもあったが、さすがにこの一件は応えたようだ。ちなみに大野芳の『革命』によれば伊藤は岸信介と縁続きだとか。

秋草俊大佐は数カ国語に通じ、若い頃から背広での特殊勤務が長い対ソ諜報の第一人者であった。彼の軍人離れした柔軟な姿勢は、中野学校に強い影響を与えた。しかし家では飯を食う時以外は、軍歌を歌っているか、ところかまわず横になり大いびきをかくだけだったので、新婚の奥さんが、この人はどうかしているのではないかと心配して、新聞の身上相談に手紙をだしたこともあったそうだ。終戦時は関東軍にいたが、「ソ連が来たら、一番にやられることはまちがいない。いまのうちに逃げるように」という人に「俺が逃げれば、代わりにだれかがやられる」といって、断固動かなかった。ソ連軍に収容された彼は、果たして二度と日本の土を踏むことはなかった。

閑話休題。さて原田らを可愛がってくれた教官にNという陸大出の大尉がいた。卒業して新京へ旅立つ彼らを柱の蔭から見送ってくれたそうだ。このNはのちにソ連駐在武官として、ソ連の不敗を冷徹に分析したという。原田自身、後にこのNと同じ役回りを演じることになる。このNとは恐らく野原博起であろう。彼もまたシベリアで死んだ。

原田は卒業以来一貫して対ソ諜報にあたった。そのうちの奉天時代には、小畑信良少将とも関わりがあった。この頃の小畑は、ちょうどインパール作戦に反対して、第15軍参謀長から関東軍に転任させられた後であった。この時代の彼についての描写がある本は珍しい。ちなみに彼もまたソ連に抑留され、牟田口よりだいぶ遅くに復員した。

原田の最後の任地はチタの領事館であった。ここの領事は久松と名乗っていたが、これは偽名で本名は松平定尭という軍人であった。彼には磯村武亮少将という義弟がおり、この人は終戦間際に飛行機が墜落して亡くなった。どういう訳かは知らないが、後に二人の息子は、共にNHKのアナウンサーになった。

また話がそれたが、領事館の任務は勿論対ソ諜報であった。しかし原田の着任当時は、シベリア鉄道を行くクリエールの世話に忙殺され、本業が疎かになっていた。その中でも原田たちを顰蹙させたのは、昭和20年4月30日に旅だった二人で、あまりにも露わな軍隊的上下関係から、その正体が何であるかは、見る人が見れば容易にわかった。彼らは勿論偽名を使っていたが、その正体は大本営の通信参謀金子中佐と航空将校の柴田少佐であった。二人はシベリア鉄道内でソ連将校から酒盛りに誘われ、金子はその直後に死亡、柴田は縛り上げられ、手持ちの書類はすべて写真に撮られた。

原田たちは領事館の天井裏に双眼鏡を据え、僅かに見えるシベリヤ鉄道を観察し、

「七、八月の候、ソ連の進攻の公算最も大なり」

という結論に達し、6月10日頃、関東軍と大本営に打電した。



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