近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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中島欣也『銀河の道 ”社会主義中尉”松下芳男の生涯』恒文社

芳男の父は下士官上がりの将校であった。新発田の彼の家の側には、第15歩兵旅団副官だった大杉東大尉の家もあった。日露戦争で鬼少佐と謳われる人物であった。大杉が宮城に詰めていた時、何かの際に馬から振り落とされてお濠に落ちた。明治天皇が泥まみれであがってきた大杉をごらんになって、『猿じゃ猿じゃ』と笑い興ぜられたそうである。芳男はその家の次男と仲が良かったが、長男とはその当時はあまり接点がなかった。「栄さん」何かの折に芳男が声をかけると、「おお松下」栄は振り返って無愛想に応えるだけだった。

芳男は仙台の地方幼年学校に進学した。そこには終生の友人となる田中新一もいた。晩年、芳男は仙幼の校史の編纂を手がけている。中央幼年学校を卒業後、田中と二人確実に一緒に行けるところということで、志望者の少ない弘前の歩兵第52聯隊を志望した。二人は志望通り弘前の聯隊で隊付をすることになった。他に加藤鑰平なども一緒だった。

陸士に入学し25期生となった芳男だが、その頃既に軍人社会に絶望し、悶々とした日々を送っていた。大久保に、幼なじみの兄、大杉栄が住んでいることを知り、尋ねている。大杉は、床の間に飾ってあった二本の白鞘の日本刀を示し、「どっちでもいい。一本あげようか」と言った。貰っておけば良かったと、後年芳男は言っている。帰った芳男は、仙幼以来の同期生藤縄作太郎と那須弓雄に、大杉に会ったことをしゃべった。二人も目を輝かせて、今度一緒に連れて行けとせがんだ。藤縄は騎兵科のトップを争う秀才であったそうだが、大杉と会ったことで、みるみる思想的に変化し、区隊長を椅子で殴って陸士を退学、東大哲学科に進んだが、松島湾で投身自殺したそうだ。那須は後にガダルカナルで戦死した。

どうにか陸士を卒業した芳男は、弘前に帰り見習士官となった。すでに札付きであった彼を預かることをいやがる中隊長が多い中、吉岡文蔵という大尉だけが進んでこれを引き受けた。吉岡の人格的統御力によって落ち着いたかに見えた芳男であったが、吉岡の転任でまた元に戻った。あるとき後備の兵隊の教育を任された。その中に非常に優秀な二等卒がいた。下士官であってもおかしくないのに何故二等卒のままなのか。芳男はそのTという人物を呼んで話を聞いた。それによるとTは殺人の刑余者であった。話によれば、彼は現役時代、中隊長に信頼されて酒保の助手として現金を任されていた。しかしふとした出来心からこの金に手をつけ酒食を覚え、あげくに馴染みの芸妓を殺してしまった。Tは終身刑となり、中隊長も名誉進級で少佐となって予備役に編入された。しかしその中隊長は自分の不遇を嘆くこともなく、下獄するTを呼んで「たとえ終身刑であっても、人間どこにいても、命ある限りは、人は人たるの道を踏んでゆかねばならないのだ」と諭した。また獄中への毎月の手紙も欠かすことはなかった。Tはそれを拝んで過ごした。恩赦で出獄すると、大阪に住んでいた元中隊長を訪ね、以後大阪に落ち着き更正の道を歩んでいるという。

「そうか。よくわかった。してその中隊長は、もしや松下亀蔵といわなかったか」
「ハイ、そのとおりであります。ですが中尉殿が、どうしてそのお名前をー」

亀蔵は父であった。芳男は胸が熱くなった。

こんなことがあっても、彼の煩悶は深まるばかりであった。ある日彼は、友愛会の鈴木文治に手紙を書き、自分は社会主義思想を有し、ノルマン・エンゼルに傾倒していることを告白し、友愛会に入り、仙台支部を樹立したいと告げた。ところがこの手紙が東京日日新聞の社会面に大きく掲載された。そういう時代であった。

「社会主義に共鳴し
        将校が軍隊を嫌忌す」
これが主見出しで、わき見出しは、
「歩兵第五十二聯隊の松下中尉
    大杉・堺の諸氏と交はり深く
    友愛会に入会の希望を有す」

新聞を見た時の陸相田中義一は激怒したらしい。芳男は停職になり、そのまま予備役に編入された。

東京に出た芳男は、日大に通い、33歳で卒業した。また片山哲や星島二郎の「中央法律新報」の手伝いもしていた。この時代の吉野作造、穂積重遠、末弘厳太郎らとの出会いが、後に彼が東大で法博となったときにもものを言った。特に尾佐竹猛との出会いは、芳男の進路に大きな影響を与えた。後年彼は、教育総監部の仕事で陸軍教育史などを手がけるが、それには尾佐竹の強いプッシュがあった。勿論親友であり当時陸軍の中枢にいた田中の後押しもあったに違いないが。この仕事は新聞でも大きく取り上げられたが、何故左翼かぶれにやらせるのかという批判も当然多くあった。しかし当時教総の庶務課長だった富永信政が理解ある人物であったため、芳男は救われた。

大杉栄とは親しくしていたが、思想的にはあまりしっくり言っていなかった。堀保子に同情して、彼女に金を貸したりもしていた。貸した金は返ってこなかったが、堀は死ぬ前にタンスと平民新聞一揃えを芳男に贈った。関東大震災のとき、芳男は大杉を見舞っている。彼が訪れた三日後、大杉と伊藤野枝は憲兵隊に連行され、殺害された。子供が一緒に殺されたと知り、先日訪ねたときにはしゃいでいたの娘の魔子ではないかと心を痛めたが、殺されたのは甥の橘宗一であった。

社会主義陣営に身を置きながらも、どこか必ずしもそこに溶け込めないでいた芳男の前に、遂に生涯の師が現れる。水野廣徳であった。戦後間もなく、水野が不遇のうちに病死すると、芳男はその伝記を書いた。そしてその印税をつぎ込み松山に水野の歌碑を、殆ど独力で建てた。

世にこびず 人におもねらず 我はわが
      正しと思ふ道を歩まむ

この歌を選んだのは未亡人と芳男であった。彼はこの歌を終生支えとし、軸にして死ぬまで側に置いた。

去年だったか、マツノ書店から秋山好古、秋山真之の伝記が復刻された。これらの刊行責任者は桜井眞清少将となっているが、実質的な著者は水野であり、また芳男もこれを手伝っている。このことはマツノさんからのパンフレットで、國學院大學の長南政義氏も触れておられる。この二冊が、戦前の軍人の伝記の中でも格段に読みやすいのは、こういったことも影響しているのだ。



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