近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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保阪正康編『私は吉田茂のスパイだった』光人社NF文庫
東輝次氏は大正9年生まれの姫路の人。現役で入隊し、陸軍中野学校を経て陸軍省防衛課附。昭和19年冬にスパイとして吉田茂邸に奉公に上がった。この人物については、畠山清行氏の『陸軍中野学校①諜報戦史』(番町書房)に既に登場しており、最近新潮文庫から出た『秘録陸軍中野学校』にも収録されているが(この編者も保阪氏)、本書の売りはなんといっても東氏の手による「防諜記」という回想手記だろう。

このころの吉田包囲網について東氏は次のように書いている。

箱根某ホテルボーイ二名(O曹長に軍曹)、大・公使館(在日)Y曹長、T軍曹ほか三名、新聞記者のB憲兵軍曹、某会社社員、「クリーニング」屋三名、外人商社五名、駅の改札掛等々、ずいぶんといたけれど、余のように土と水と肥料と闘い、野菜配給をしたり、開墾をしたり、このような肉体労働をしているものはいなかった。

これは防衛課の諜報員であり、ほかに憲兵隊も諜報員を使っていたので、当時の吉田の周りは、文字通りスパイが入り乱れていた。

そんな中、東軍曹は吉田の信頼も厚く、彼を自転車の後ろに乗せて走ったり、重要な手紙を託されたりしていた。手紙は当然開封され、中身がチェックされたが、軍曹自身は、どんどん吉田に惹かれていった。昭和20年4月15日、遂に憲兵隊が吉田を逮捕した。憲兵隊は”近衛上奏文”を探して、家中をひっくり返したが、それは少し前に女中が竈で燃やしてしまっていた。東はそれを見ていたが、既に中身を写していたので、あえてそれを止めることもせず、勿論このたびの憲兵隊に教えるようなこともしなかった。拘引される老人の背中を、彼は複雑な気持ちで眺めていた。吉田の留守中も、彼はそれまで以上に熱心に家の用事をこなした。畑もつくった。スパイには「新聞なん入れられない」という新聞配達夫に、そんなことはないから入れてくれと頼んだ。

「すぐ帰るから」の言葉通り、吉田は一月半で帰ってきた。東は「こんなに早くに釈放するくらいなれば、俺がこんな生活をする必要がなかった」のではないかと思ったという。彼には次の仕事、近衛文麿公爵への「コーゲン」工作が待っていた。そこで引き止める吉田と家族の者を振り切って、退邸した。

戦後、再び吉田を尋ねた東は、初めて自分が陸軍省のスパイであったことを告白した。吉田は機嫌よく

「お互い、お国のためと思ってやったんだからよいよ。当時は君が勝ったけれど、今はわたしが勝ったね」

と言って、大笑いした。二人の関係はその後も長く続き、東は警察予備隊に入ったが、代わりに彼の弟が吉田邸の書生となった。
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