近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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判決を受けて、中山弁護士は素早く、再審を請求する書類を提出した。その書類は以前と違い、簡潔で洗練されたものであった。中山弁護士への通信を検閲していたオーストラリア軍は、彼に知恵をつけているのが誰なのか知っていた。その人物こそ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護士であった。弁護側は改めて三人の証人を尋問し、新たな宣誓供述書を作り、それを提出した。それにはゴドウィンのやり口が如実に表されていた。

稲垣  (ゴドウィンによる尋問のやり方の例を示す)
ゴドウィン 西村中将が話したことを聞いたはずだ。
稲垣  聞いた、かもしれない、しかしそれについて覚えていない。
ゴドウィン それをはっきり聞いたはずだ。もう一度考えてみろ。私は十分調査した。彼が話したとあなたが言うとき、西村中将が命令を出したことを証明する調書を私は持っている。
稲垣  そうかもしれないが、私は思い出せない。
ゴドウィン 思い出したほうがいい、よく考えてみろ、こんなに重要なことを忘れているはずがない。
(取調官は非常に興奮した。彼は部屋から出て通訳に何か指示した。その後通訳が私に話しはじめた)
通訳  取調官はこの事件のことをよく知っている。フジタという当時捕虜担当の将校がこの部屋で、命令が出されたときの状況を証言している。
稲垣  そうですか。(私は取調官がいないとほっとして、気楽に彼に話した)。彼は何と言ったのですか。
通訳  西村中将はその場で、捕虜をすべて射殺するよう命じ、彼の副官がそれを伝えたとフジタは言った。

園   私は取り調べについて次のような印象を持った。何人かの証人が私の前に、ゴドウィン大尉によって尋問されていたようだった。彼は明らかに私の供述を、前の証人の話に合わせようと必死になり、私の尋問を急いで終わらせようとしていた。そのため私が思い出せないとか、思い違いの答えをしたり、前の証人の証言と違ったことを言ったりすると、ゴドウィン大尉は非常に興奮し、私の襟をつかみ、突き飛ばし、あるいは罰として立たせ、長い間わめき散らした。「巣鴨プリズン行きだ」とも言った。私が当時オーストラリアの兵舎で仕事をしていたのを彼は知っていたので、彼は「もし協力するなら、今のところで仕事を続けることができる」と言った。

日隈  彼は一九四二年マレーのパリットスロンで起きた事件について質問したが、私はその多くに答えられなかった。なぜなら事件は七年以上も前に起きており、ほとんど詳細は忘れている。にもかかわらずゴドウィン大尉は「それはこうだったのではないか。あなたの前に来ただれだれはそう言った。だからあなたはそこにいて、知らないわけがない」と言った。私が記憶になく答えられずにいると、彼は「あなたがすぐ答えないなら、永久に家に帰れないぞ」と脅した。私がはっきり思い出せないと、このようなことを言われ、私は次第に彼が言った通りなのかもしれないと思うようになり、それで「そうだったのかもしれない」とか、「そうだったのだと思う」というような、あいまいな答えをした。それが私 の署名した宣誓供述書です。

また虐殺を引き起こした近衛歩兵第5聯隊の聯隊長であった岩畔豪雄からも嘆願書が出された。それによれば、逃亡したフジタは、ゴドウィンの取調べを受けた後、岩畔の事務所を訪れ、善後策を相談していた。フジタは、西村師団長から殺害命令を受けたことはないこと、命令は今井参謀長のメッセンジャー役だった稲垣から受けたことを岩畔に訴えたという。同席していた岩畔の同期森本軍蔵も、岩畔の嘆願書を裏書する嘆願書を出した。これらが嘘でないとするならば、殺害は西村と仲の悪かったという今井亀治郎参謀長のラインから出たものと考えるのが妥当だろう。今井は岩畔と同期で、近衛師団参謀長の後、第236聯隊長を経て最後は関東軍司令部附であった。頭の鋭い人で、辻政信などともガンガンやりあったらしいが、戦後どうなったのかは分らない。ソ連に連れて行かれたのか?ちなみに236聯隊というのは、支那戦線に関する著作がある佐々木春隆元大尉のいた聯隊なので、彼の著作を読めば、多少はその人となりが分るかもしれないが、残念ながら私が持っているのは今井の前任の亀川大佐時代の『長沙作戦』のみなので、すぐには確認できない。

オーストラリア軍はこれらすべてを無視し、刑を執行した。西村は子供への最後の手紙で、「自分は責任を取る。おまえもそういう番がまわってきたとき、責任を回避してはいけない」という趣旨のことを書いた。彼は、「無実の罪で死ぬことはできない」と訴えていたが、一方で、誰かが処刑されねばならないとすれば、それは自分であるべきだという気持ちも持っていたように思える。西村はあまり家に居ないひとであったが、長男は、彼の車が道路に転がっていた少女のボールをひいてしまい、翌日その少女の家の前に新しいボールを置いてきたこと、ニュース映画で山下将軍が誇らしげに捕虜や鹵獲した兵器を視察しているのを見て「捕虜の前であのような威張った態度をとってはいけない」と怒ったことを覚えている。

辞世は

 責めに生き 責めに死するは 長たらむ 人の途なり 憾みやはする

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