近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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評伝川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書 625)
紹介するのが遅れましたが、なかなか良かったと思います。写真もふんだんに使われており、特にカンジュルジャップがえらく好男子なのには驚きました。またこのブログでは常連ですが、従来の川島芳子本ではさらっと触れられるだけの多田駿について、そこそこ紙幅を割いているのも、私的には高ポイントです。

右が著者のHPです。http://www.tblegs.com/terao/win/home.html
ちなみに私は掲示板の方にチラッと感想を書かせていただきました。

多田が北支方面軍司令官時代に、芳子暗殺指令を出したという話は、芳子からそれを聞いた笹川良一の回想などで知られた話ですが、指令を出したのが多田自身なのか、部下の参謀なのかは曖昧です。実際に指令を受けたという中野学校出の将校は、次のように書いています。
日下部一郎著『謀略太平洋戦争』弘文堂より

ある日、久村は、茂川中佐から、東城の無量大人胡同にある中佐の公館に来るようにいわれた。約束の時間に公館を訪れると、すでに先客があった。特殊情報の機関長である日高中佐であった。
(何かあるな)
久村はとっさに感じとった。果して、日高中佐と久村を前にした茂川中佐は、
「実は、参謀長閣下から内命があった」
と単刀直入に切り出した。
「川島芳子を始末せよ、とのことだ」
思いもかけぬ内命だった。日高中佐と久村は思わず顔を見合わせた。

「君たちも聞いてはおるだろうが、最近の川島芳子の乱行ぶりは目に余るものがあるのだ。軍司令官閣下の名を濫用して中国商人から多額の金品を詐取したり、満州国皇帝を侮辱するかと思えば、汪新政府をみだりに批判したり、傍若無人の振舞はつのるばかりである。このまま放置して、軍司令官閣下に迷惑のかかるような事態でも起これば、取り返しはつかぬ。今のうちに始末するようにとの参謀長からの内命なのだ」久村は内命の実行者たること、日高中佐はこれを側面から援助することを、茂川中佐は強い調子で言い渡した。

命令を受けた久村は、川島邸への威嚇射撃を行い、何とか芳子が自発的に北京から離れるよう仕向けたが、そこは芳子もさるもので、全く気にした様子がない。そこで久村は思い切って北京飯店に自ら赴き、単刀直入に談判に及んだ。

「きょう伺ったのは、陸軍将校としてではなく、あなたと面識のある者として、個人的な立場で、あなたに重大なお願いをしようと思ったからです。この私の願いは、是非、ききとどけてほしい。押しつけがましいようだが、これはあなたの生命に関することなのですから……」
芳子の表情から媚が消え、その大きいつぶらな眼はいっそう大きく見聞かれて、久村の顔をじっとみつめた。
「川島さん、この北京を一時離れていただけませんか。急にこんなことをいい出して、不審がられることでしょうが、いや、聡明なあなたのことだから、理由はもうお察しになっているかもしれない。とにかく、この際、北京にとどまっておられることは、大変ご迷惑な結果を招くことになるのです。」
ここまで一息にいうと、久村も言葉を切って、相手の真剣な眼を見かえした。
重苦しい沈黙がつづいた。二人とも視線をそらそうとはしない。二つの視線は、まるで真剣勝負のように、空中でするどく切り結ばれた。緊張の数秒が長く感じられるような空気を突然破って
「よくわかりました」
川島芳子の唇がやっと聞かれた。
「あなたのおっしゃる意味は私にもよく解っています。だからこそ、私は意地でも北京を一歩も動くまいと考えていました。しかし、そんな意地を捨てて、あらためて進退を考えてみましょう」



ちなみに楳本捨三氏は山田乙三大将の伝記『将軍の四季』で彼女の振舞を次のように書いています。

今日はちょうど彼女の誕生日であり、北京在住の朝野の名士が招かれて、そのパーティーに華やかなものであった。
集まってきた顔ぶれは、華北政務委員会情報局長管翼賢、北京に公用で来ていた満州国の軍事部大臣(終戦時前)刑士廉上将(大将)、満州建国当時の実業部総長(のちの経済部大臣)の張燕卿、三六九画報社長朱書紳、新聞、雑誌界の知名土、名優馬連良をはじめ、梨園の名優たち、北支方面軍司令部の参謀肩章を輝やかせた軍人たちの姿など。なぜ、こんなに知名士が集まるのだろう?とだれでも不思議に思うに違いない。しかし、その疑問は、すぐに解くことができた。玄関正面を入れば、ぱっと目につくところに、銀色まばゆく輝く大きな楯がれいれいしく飾りたてられてある。
  祝誕生日 川島芳子ヘ 北支那方面軍司令官多田駿
と刻みこまれた大文字が、人々の目を剌したからである。

楳本氏は芳子だけでなく、彼女をほったらかしていた多田にも批判的です。

芳子は口をひらくと、”お父さま”と多田駿を呼んだ。中国でいう乾らい、いわゆる義理の父という意味である。当時、日本軍の占領地で、その方面軍司令官といえば、神さま同然の権力者である。現代の若い娘が中年男を、パパ、パパと呼ぶ、男と女の関係、そんな仲でなかったと思うものはひとりもいなかった。
芳子は、いちばん長く多田駿を利用した。満州国が建国され、多田少将が満州国軍(そのころは軍政部)の最高顧問だった時代からであり、多田の名がいかに芳子に利したか、その時代から多くの中堅将校(のちの将官連)に聞かされたことである。

次の文は当時北支方面軍参謀長だった笠原幸雄中将から楳本氏へ宛てた手紙の一節です。

『このたびは、また川島芳子の御著書御恵贈を辱うし有り難う存じます。まだ読みませんが、川島芳子に関しては、極端なる長短両面あり、小生には苦き思い出があります。昭和十四年ごろ、小生、北支方面軍参謀長(司令官多田駿大将。当時、中将)時代、川島芳子北京に来りあり、多田閣下の芳子の名付親(?)たりし関係を利用し、その名を利用し種々策動--また、芳子の策動に因して、方面軍司令部の有能の参謀をして、物資融通の過を犯さしめるに至り、小生、涙を呑んで、その参謀を停職に処分するに至り、それに関連して芳子に断乎、北支退去を命じた苦き思い出を思い出し、感慨無量なるものがあります。』



何となく話が見えてきますね。ちなみに芳子は獄中で多田について「沈静で品格も高尚」と供述しているそうです。


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