近衛読書中隊

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平木國夫『バロン滋野の生涯 日仏のはざまを駆けた飛行家』読了。
これで徳川好敏日野熊蔵、滋野清武と、日本航空界の草創期を彩った三者の評伝を読み終えた。日野少佐については、少しだけ以前触れている。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-198.html
滋野清武フランス陸軍大尉についてはWikiが結構充実している。
滋野清武 - Wikipedia

三者のうち最大の成功者は、一般的価値観でいえば徳川大尉だろう。中将にのぼり、爵位も取り戻した(男爵だが)。自然、残りの二人の評伝は、徳川大尉に厳しくなる。特に滋野の評伝は、より攻撃的である。日野少佐と徳川大尉は、少なくとも表面的にはお互いを尊重し合っていたようだが、本書に依れば、滋野男爵と徳川大尉は、当時から結構対立的であったようだ。陸軍プロパー、それも当時航空を独占していた工兵科の将校である徳川と、陸軍幼年学校を中退し、音楽学校を経て単身渡仏して飛行術を学んだ滋野では、例え飛行家としての腕は断然滋野でも、陸軍がどちらに便宜を図るかは火を見るより明らかだろう。結局滋野はフランスで軍人となり、レジオン・ド・ヌール勲章を受ける。撃墜は5機程度らしい。WW1の撃墜王は言うまでも無くレッドバロン、ドイツの2位はWW2で自決したウデットである。ついでに言うとウデットと諍いのあったふとっちょ元帥も20機弱ほど落としている。

滋野夫人がフランス人であったため、彼の死後、長男の襲爵を巡って問題が発生した。何となれば、宮内省が二人の結婚を認めておらず、子供達は庶子扱いとなっていたからだ。残された夫人は、一時フランスに追い返されそうになり、ポール・クローデル大使(ロダンの愛人だったカミーユ・クローデルの弟)に助けを求めている。幸いにして夫人も子供も一緒に日本で暮らせるようにはなったが、滋野男爵家は廃爵となった。親戚一同が押捺する必要のある書類に最後まで印を押さなかったのは、滋野の義兄河野恒吉少将(7期)であったそうだ。河野は少将で予備役となると、朝日新聞の軍事顧問となり、戦後は『国史の最黒点』という1000ページを越える大著を残しているが、存外((C)大坪元雄)偏狭な人間だったようだ。

長男のジャック滋野氏は、ピアニストとして有名な方だそうだが、不慮の事故で亡くなられた。

私は未読なのだが、志賀直哉の『人を殴つた話』で、志賀たちに殴られるSというのは、清武のことだ。清武がよく華族女学校の正門前に立ち尽くしているというのが理由なのだが、彼からすればそれは、妹たちの送り迎えをしているだけであった。『人を殴つた話』は、ジャック氏の友人の抗議の手紙を受け、志賀の生前は全集に収録されることはなかった(死後に出た第七巻に収録)。

あとがきによれば、著者は日野熊蔵にも興味を持っており、日野熊蔵伝の著者渋谷氏とは同郷で、彼の取材にも協力したそうだ。道理で、特に日野に関する筆致が、日野の評伝と似ているはずだ。得心がいった。

   


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