近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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小磯の自伝をぱらぱらと読み返した。獄中で書かれた900ページを越える大著だ。装丁や外箱まで自分でやるなど芸が細かい。

日韓トンネル議連とかいうのがあるらしいが、日韓トンネルといえば小磯である。彼は少佐のときに、対馬海峡隧道案というのを書いている。

陸士12期の同期生である杉山二宮の三人とは若いころ非常に仲が良かった。よく4人で小磯の家に集まり、宴会をしていたため、小磯家の小さい娘が、杉山の真似をして、床の間に上がって金盥を叩いて踊るので、困ったという。一番早く予備役に入れられた二宮は、最後まで小磯と行を共にしたが、残りの2人は元帥となり、小磯たちとは、やや袂を分かつこととなる。

小磯の人生で最も大きなトピックは、勿論首相就任であろう。彼の内閣時代には捷一号作戦や繆斌工作があった。どちらも彼が力を注いだものだが、前者は特に無残な結果となった。

三月事件も大きい。一連の革新運動の口火である。宇垣は、小磯こそがこの事件の責任者であると考えており、この事件によって苦境に立たされている今(組閣時のこと)、小磯は当然自分に協力すべきだと考えていた。しかし前エントリの通り、小磯はこれを断った。宇垣の日記にはこれに対する怒りが綴られている。

小磯の台頭が炎となり小磯の軽挙が招来したる三月事件が其の口実に利用せらるるなどは、奇しき因縁と謂つべきなり。彼の今後の運命は風前の燈火の有様なり。彼自体夫れを承知して居る筈なれば彼の捨身的奮起を促し見たりしが、彼も凡庸儕輩と等しく明哲保身以外に立ち得ざりしは可憐なり矣。(一月二十七日)

『宇垣一成日記 2』



大尉時代には内蒙に潜入して、宗社党への工作を行っている。これは宇都宮太郎の後任の参本第二部長福田雅太郎の方策であったが、結局中途で中止となり、小磯は梯子を外されたような状態となった。

最後に面白い話をひとつ。大正9年、師団対抗演習の準備のため、大竹沢治大佐、小磯少佐、阿南惟幾大尉の三人が東北を回った。酒田駅についたとき、年少の阿南大尉が明日の切符を買っている間に、二人は宿屋を探した。よさそうな宿屋を見付けたので、小磯が交渉のため入ろうとすると、大竹大佐が、

「おい小磯、待て待て、貴公の顔じゃ宿屋が上げないよ」

と言う。小磯は内心、

「あなたより物騒じゃありませんよ」

と思ったが、さすがにそれを口に出すのは憚られたので、

「戯談をいっちゃいけませんよ」

とだけいって宿屋に入った。結果は果たして大竹の言ったとおりで、宿屋は、満室だといって小磯のたちの宿泊を断った。憮然として戻ってきた小磯を見て大竹は、

「小磯、それ見ろ、いはんこっちやないじゃないか」

と嬉しそうに笑う。そこへ阿南大尉が追いついてきて

「どうしたんです」

と聞くので、

「此の宿は一杯で泊められないといふんだよ」

と答えた。それを聞いた阿南は、宿屋の帳場に行って、

「他に良い宿屋があったら教へて下さい」

と頼んだ。小磯とは打って変わって、若く眉目秀麗な大尉に、宿屋も好意を抱いたが、小磯に対し満室ですと言った手前、今更彼らを泊めるわけにもいかず、結局他の宿屋に案内してくれた。こうして一行は、其の晩、無事に宿泊することが出来た。その後一切の投宿交渉は、阿南大尉に一任された。大竹沢治は新潟出身で、非常な逸材といわれ、この後参本第一部長まで務めるが、少将のとき病没した。


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