近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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正確に言えば逆で、軍部大臣現役武官制廃止の効能ですか。

広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、その直後に宇垣一成が組閣の大命を拝しながら、陸軍大臣を得ることができずに、泣く泣く大命拝辞するという事件が起こりました。この件については以前
香月清司中将について(1)
林弥三吉中将重大声明
で軽く触れましたが、それではこのとき、軍部大臣現役武官制が復活していなければ、宇垣は無事組閣出来たでしょうか?確かに彼に協力する予備役の大将、中将は数名いましたが、しかし、大臣も出さないというくらい(陸軍に)反感を抱かれている内閣に入閣するぐらいの意気の有る人は、いたかどうか(この話は本来、『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』を読んだ上でやるべきなのでしょうが、残念ながら私はまだ読めていません)。

宇垣から電話で依頼を受けた小磯国昭は、三長官の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝鮮海峡を渡っている間に(彼は当時、朝鮮軍司令官)、電報一本で予備役に編入され駄目になると答えたそうですが、仮に現役武官制が無ければ、彼は予備役編入覚悟で宇垣と心中したでしょうか?後述するように、彼はかなり現役に執着していましたので、どうもその可能性は薄そうな気がします。

「新聞で大体は承知してゐました。一体どうした訳なんですか?」
「困った。陸軍大臣を受けるものがないといふのだ。君一つ受けて呉れ」
「さうですか、それは御察しします。然し三長官からの推薦も受けないのに、閣下からの直接交渉に対し私一存で諾否は申せませんな」
「さうか、困ったな」
「閣下、寺内君にもつと強硬に交渉したらどうです。大命が降下したんですからね。何とかならうぢやありませんか」
「うゝ、寺内に言うても駄目なんだ。まあ一応電話を切らう」

小磯国昭『葛山鴻爪』より抜粋

尤も小磯自身は、別段宇垣に出馬に反対というわけでもなく、彼のことも、最近は余程大物になったと評価していました。小磯は本来、二・二六事件後の粛軍で予備役になるはずだったところでしたが、建川美次が、小磯はもう少しだけ現役で置いておいてくれと頼んでくれたおかげもあり、少しだけ現役生命が延び、その間に大将にも親任されました。しかし知らぬが仏、昭和13年7月に参本附となったときも、彼はこの人事に大不満で、閑院総長宮の前で

小磯は本日、着任致しました。参謀本部附として最後の御奉公を殿下の麾下に勤め得ますことは小磯の光栄とする所であります。唯、今回近く待命になる趣でありますが、其の真の理由に就いては何も承知して居りませず、又強いて承らうとも思つて居りません。然し坊間評判する所に依りますと、三月事件の関係者であつたが為であるとか、統制派の一人であるが為とか・・・・・・

小磯国昭『葛山鴻爪』

と、侍立する多田駿参謀次長がそんなこと言うなという顔をしているのを尻目に、くだくだと喋くりました。しかしそれに対する殿下のお言葉は

種々と御苦労だつた。尚、毎日出勤には及ばない

の一言でした。その後も、なかなか予備役願を出さなかったので、人事局課員は随分困ったそうです(慣例として、体が悪いので現役に堪えないという文書を出す)。この態度に、阿南惟幾人事局長は、大将だからとて特別扱いする必要は無いので、予備役に入れてしまえと怒ったそうです(額田坦『陸軍省人事局長の回想』)。


では一方陸軍は、この軍部大臣現役武官制にどう向き合っていたのかというと、松村秀逸の『三宅坂』に”陸大にも文官陸相論”という話が載っています。彼が陸大三学年のとき、軍事課長と兼任で陸大教官もやっていた梅津美治郎が、「陸軍大臣は文官がよいか、武官がよいか」という質問をしました。若い方から順次答えていきましたが、10人目で文官が8人、武官が2人だったので、梅津教官はこの質問を打ち切りました。10人目がちょうど松村だったそうですので、残りの9人のうちには、松村知勝田中弥が含まれていたと見て間違いなさそうです。もう少し進めば、片倉衷桜井徳太郎長勇といった人々まで回っていました。勿論これが陸軍を代表する意見というわけではありませんが、若手のホープの中に、予備役将官どころか非軍人の陸相をも容認する意見があったというのは、中々面白いではありませんか。休み時間の雑談では「犬養あたりにやらせるが、一番よいよ」というような意見も出たそうです。案外、軍部大臣に非現役武官も認めるという制度に、馴染み始めていたのかもしれません。この翌年、満洲事変が勃発し、総ては転回します。


最後に広田弘毅氏について。矢次一夫の『昭和動乱私史』に興味深い話が載っています。昭和19年7月、大命を受け、宮中から退出しようとする小磯を、広田は「小磯君、大事な話がある」と呼び止めました。そして次のように言ったといいます。

「後任大臣を決めるのは、三長官会議のすいせんを受けなくともいいのだよ。これは、僕の内閣時代、軍部大臣を現役制に決めたとき、代りの条件として、取り交わしたものだ。どうか大事の問題だから忘れないように、とくに注意しておくよ」

矢次一夫『昭和動乱私史』下巻

ようするに、従来次の陸軍大臣は、三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の詮衡によるという”慣例”でしたが、現役武官制を復活させるのとバーターで、首相は必ずしも三長官の推薦を受けた人を陸相にしなくても、自分で選べるようにしたと言うのです。これを湯沢三千男から聞いた矢次は、色々調べたそうですが、結局裏付けはとれませんでした。後世史家の調査に期待したいと書いていますが、果たして調べている人はいるのでしょか?


  
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