近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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『二・二六事件秘話 同期の雪 林 八郎少尉の青春』小林友一
『小林友一追悼録』刊行会(編纂委員長 山口 立)

二日早いが関西でも雪が降った。

小林友一少佐の同期(陸士47期)からは数名が事件に参加したが、特に刑死する林八郎とは格別の間柄であった。そのため記述はどうしても林寄りになる。そうすると割を食うのは栗原中尉だ(またか!)。まあそれは良い。事件当日、彼が安藤大尉と交わした会話は中々興味深い。

「安藤さん。これからどうなるのですか。どうするつもりですか」

「それは山下奉文少将に委せてある。山下閣下が出て来て、われわれの希望する方向に後始末をしてくれるはずだ」

「独自の計画は持っていないのですか」

「何も持っていない」




幼年学校時代の生徒監は千田貞季大尉(後に少将)であった。この人は後に硫黄島で戦死するが、教育者として大変立派な人物であったようで、悪く書かれているのを見たことがない。小林も彼の薫陶を受けた。同期の常盤稔は当時体が弱く、よく医務室で寝ていたが、小林は必ず何かをジャンクして見舞いに来てくれたという。以前少し書いたが、小林(と林)には心酔する二人の先輩がいた。一人は自決してしまうが、もう一人の山本春一氏は、空挺部隊の部隊長として南方で終戦を迎えた。この人には凄い逸話がある。

 彼が南支の独立混成旅団の歩兵大隊長の時である。討伐作戦から帰還して、その報告のため旅団長のところへ出頭した。旅団長加藤少将は、彼の大隊の損害(戦死傷)の少なかったことを詰問した。
 損害の多いほど、その部隊は勇戦奮闘したものと考えるような上司が、時にはいたのである。大切な天皇の赤子を、なるべく損なわずに戦果をあげることこそ真の指揮官である。
 山本支隊長は怒り心頭に達した。やにわに旅団長を腰車でぶん投げた。そして、「かくの如き馬鹿者、少将の資格なし」と、少将の階徽章をちきりとって投げ捨てた。

ちなみにこの加藤少将は陸士22期であったが、無天ということもあり、少将のままで終戦を迎えた。

上海事変では林の父、大八が戦死した。

林の父上第七聯隊長、上海の戦闘に於て戦死せらる。なんとも言えざる押付けられし感情に打たる。賽は既に投げられ、ルビコンは既に渡られたるに増兵を遅疑して、徒らに有為の士を殺す。彼林果して如何なる感慨ぞ。

この後、事変で活躍した辻政信の講演に感激し、林と共に辻の家を訪ね、更に丸め込まれ感激を新たにし、辻の後継者たるべしと心に誓っている。後年、小林は辻を次のように評している。

「Tさんは確かに日本一の歩兵中隊長だった。しかし聯隊長、師団長、軍司令官となると然らず」

しかし陸士で辻の薫陶を受けた人の中には、戦後も彼を神様の如く尊崇している人が少なくない。戦後、逃亡から帰ってきた辻政信は、次々と本を書いたが、その本を出版した亜東書房というのは、小林が設立したそうだ。後に二人はこの事業をめぐって大喧嘩した。

事件当時、近衛の聯隊長であった田中久一は小林の事件への関与を疑い、大隊副官に任命して、一種の軟禁状態においた。小林はそれが不満であったが、後年、再び田中に仕えることとなり、その真の人柄に触れ、深くこれに感動し、陸軍省人事局にいた先輩に宛て

「田中久一こそ、絶対に大将にすべき将軍である」

と私信を送った。

小林は陸士47期のトップで恩賜の銀時計を賜った。その後、当然陸大に入学したが、そこでは恩賜を逃した。ここに椿事がある。陸大には二つだけ銅像があった。一つは開祖のメッケル、もう一つは名教官といわれた石田保政。卒業を間近にひかえたある日、小林はメッケルの銅像に上って放尿をした。いくら操行点の無い陸大でも、これは問題になり、幹事の四出井綱正の取り成しで放校は免れたが、当然恩賜は無理であった。小林が敢えてこういう行為に出たのは、旧態依然とした陸大の教育内容に対する怒りがあったからだと、彼を知る人は考えているようだ。これをメッケル銅像事件という。

昭和26年の警察予備隊設立前後、次のようなことがあった。

 某日、二人の先輩がそろって訪ねて来られた。大本営作戦課、陸軍省軍務課と中枢で活躍された、軍内で著名な中佐である。
「警察予備隊には旧軍人は一人も入るなという運動を、お前すぐにでも開始しろ」
「どうして私にやれというのですか」
「お前は全国の状況にも通じているし、若い連中には一番顔が広いからだ」
「お断りします。やるならばお二人でやりなさい」
 私は即座にお断りした。
「現在の予備隊は、皇軍建軍の理想から見れば、それは遥かに遠いものでしょう。しかしながら、現在の国際情勢、日本の国情、世相を考えれば、お二人のいう理想論はまさしく夢物語りに過ぎません。漸を追うて前進すべきでしょう。
 現在、旧軍人が世間でどういう状況にあると思いますか。本当に食うや食わずの窮状にある人がたくさんおります。その人達が、妻子のため食わんがために予備隊へ入りたいというのを、何の権限があってやめさすことが出来ますか」
 ただこれは、先輩に対する私の詭弁の一種であって、実際に予備隊へ入隊した人達は、軍再建の理想に燃え、国家奉仕の熱情に根ざした純粋な気持ちであったことを付記する。

この二人は所謂服部グループの誰かであろう。こうは言ったが、彼自身は自衛隊に入ることは無かった。

靖国神社の看板や説明の英語化は、堀江芳孝が小林に半ば命ぜられてやったものだが、そのとき関わった人々の間で次のような雑談があったそうだ。

早速、松平宮司が、小林、杉田、大井と私の四名を昼食に招待され、四方山の話が出た。
大井「西郷さんは祭られていますか」
宮司「賊軍の大将ということで祭られていません」大井さんは「鶴岡藩の恩人なのに」と言って泣き出した。
杉田「東条さんは」
宮司「祭られています」……

大井とは海軍の大井篤少佐のことである。

「百歳まで生きて、貴様らの面倒を見てやる」が小林の口癖であったが、人並み外れた酒量のせいもあってか、これだけは果たされず、昭和59年永眠。



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