近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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浅田信興という人は、当世風にいうとワイドショー向きらしく、当時のジャーナリストにもよく弄られている。尉官時代の彼は借金苦にあえいでおり、馬丁が雇えず妻に馬を洗わせていたとか、借金取りが来た時、押入れに隠れて「留守なり」と怒鳴ったとかいう話が残っている。西南の役では、これ以上借金に苦しめられるなら死んだほうがマシだと、命を捨てて奮戦し武名を挙げた。東京への凱旋時には一人だけ浮かない顔をしていたという。その後月曜会に関係して長岡外史らと共に一時左遷される。教導団の大隊長時代、練兵場で下肥をかついだ農夫と出会い、

おやじそこのけ!大隊止まれ!

という号令をかけ、これが名号令と評判になった。やがて川上操六に見出され清国に差遣される。日清戦争には、北海道の屯田兵参謀長をしていたため参加せず。川上が死ぬと長岡や寺内正毅との腐れ縁を使って長州に近づいた。こういった身の振り方が彼の評判を最悪にする。

小川又次と寺内正毅の最も悪点を搗交ぜたる如き人物なり

とか、地方に出張すると

其地方第一流の旅館にして而かも絶対相宿者なく、且夜具は絹夜具なることを

要求するとか、悪評頻々である。

ゴマすりが功を奏したのか、後に彼は陸軍最高峰たる三長官の一である教育総監となる。そして特命検閲で台湾に赴いた。時の台湾総督は長州の古参佐久間左馬太大将であった。この佐久間、浅田が来る前に下僚を集め、

浅田は近頃生意気だ。宴酣にして庭に引出し、俺があの橋の上から池につきおとすから、とめだて一切まかりならぬ

と宣言し、本当にそのとおりにやったというから、乱暴な話だ。南国とはいえ、宴会の最中に池にぶち込まれ、その後浅田がどういう風に引き下がったのか興味のあるところだ。本来なら血を見てもおかしくない仕打ちだと思うが。

このように珍談奇談の多い彼であるが、軍人の表芸である戦争に関して、彼の能力にけちをつける人間はいないだろう。メッケルは彼を天性の参謀官であると評したらしい。日露戦争では当初近衛の旅団長、後に師団長として全戦役間に活躍した。彼は戦場から妻に

生きて帰れば男爵夫人、死ねば浮気の後家となれ

と書いて送った。面白い言葉ではあるが、乃木将軍などとは全く別の人種であったようだ。
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