近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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正月用に買った『陸海軍人物史論』を読んでいます。本書における陸海の比率は4:6ぐらいでしょうか。陸軍軍人に関する部分だけ読了しました。鵜崎鷺城の『薩の海軍長の陸軍』や『陸軍の五大閥』とかぶる部分が多い、と言うか同じ人物(たち)を評しているのですから、あんまり違いがあるとそちらの方が困るんですがね。どうやって内容を纏めようか思案中です。とりあえず一番印象に残った話だけ先に書いておきます。

猫将軍
これ、薩摩出身の大寺安純将軍のあだ名なんです(リンク先に写真あり)。本文を口語訳すると大体次のようになります。

彼は、勇猛にして胆略あり、往々にして先輩にも傍若無人な態度をとるため、同じ薩摩の先輩たちも中々彼をうまく使うことができない。従って薩摩人でありながら昇進は遅い。わずかに山地元治(土佐人)だけが思うところあってか彼を帷幄に迎えた。長州の長谷川好道は彼のことをライバル視しており、彼が良い地位につくたびに「また猫にやられた、また猫にやられた」といって悔しがった。長州閥に対し薩摩の陸軍を代表して立つ人物は川上操六を除けば彼の外にはいない。それだけに日清戦争で威海衛攻撃時に敵弾により戦死したことは返す返すも残念だ。

確かに山地将軍が第1師団長のとき、大寺は第1師団参謀長となっています。また同い年の西寛二郎や年下の川上操六川村景明と比べても昇進は遅いようです。しかし長谷川は大寺が大尉のときにすでに大佐になっているのに(しかも自分の方が年下)、何をそんなにライバル視していたのかよくわかりませんね。

ちなみに第1師団参謀だった秋山好古が参謀長の大寺にいじめられて、フランスに逃げたという話があります。秋山はフランスに行く前、東京鎮台参謀の職にありました。東京鎮台は間もなく第1師団になるのでこれはいいとしても、大寺はそのとき歩兵第3聯隊長でした。ですので”参謀長だった大寺”にいじめれらたというのは間違いでしょうね。ただ歩兵第3聯隊は東京鎮台の隷下ですので二人が顔を合わすことは多かったと思います。この話は他の本(『陸軍の五大閥』)にも載っていますので、当時こういう噂があったのは間違いないようです。さてフランスから帰ってきた信三郎さんは古巣の騎兵第1大隊(第1師団隷下)の中隊長になります。すると1年もしないうちに大寺が参謀長として第1師団にやってきました。すかさず信三郎さんは騎兵監部へ逃げますが、半年で騎兵第1大隊長に栄転となります。結局二人は同じ師団で日清戦争に臨むこととなりました。信さんもまた山地将軍の引き立てであったようですが、将軍は二人の間柄をどう見ていたのでしょうか?

猫将軍というあだ名がいつからのものなのかは分かりませんが、彼が本物の将軍になるのは日清戦争の最中です。そして少将任官の僅か2ヵ月後には戦死します(これは日清戦争で唯一の将官の戦死)。戦後男爵が贈られました。そういえば三浦観樹も大寺は生きていれば大将になったと書いていましたねえ。
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