近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)
1913(大正2)年

九月五日 金 晴
午后十時、将に入寝せんとするの際、小村欣一宅より、政務局長阿部守太郎、伊集院を迎へて帰宅、将に門に入らんとして刺客に刺されたる旨電話あり。直に見舞ひしに重体、甚だ気遣わし。

41歳の若さで局長となった阿部とは、陸海外の少壮官僚の集まりなどでよく顔を合わせ親しかった。犯人は岩田愛之助に指嗾された二人の若者。所謂南京事件に対する対応が弱腰であると看做されたことが原因であった。南京事件とは北軍の前軍司令官張勲の軍勢が巻き起こしたアトロシティを指す。張勲軍の軍紀の悪さは半端ではなく、被害者の大半は中国人であったが、日本人も数名が殺害された。

十月九日 木 晴
青柳勝敏(李烈鈞等と事を与にし、敗れて林虎を伴ひ帰朝せるなり、当時の情況を詳報す)来宅す。

青柳は以前から宇都宮の元を何度も訪れ熱心に蒙古行きを希望していた予備役の騎兵大尉。妻は林大八の妹。前年、希望が叶って蒙古に渡っていたが、いつの間にか李烈鈞の幕僚となっていた。第二革命が破れると、李烈鈞は命からがら日本へ亡命したが、林虎は江西の奥地に取り残された。そこでまず山中峯太郎が偽の林虎となって北軍の目をくらまして日本に帰り、その後本物の林虎も何とか日本にたどり着いた。どうも青柳はその間、林虎と行動を共にしていたようだ。

十月十四日 火 曇
此夜、井戸川大佐を宅に招き、晩餐を与にしつゝ時局を談じ、高島子爵をして中心人物たらしむる為め之を擁立し、機を見て政友会に入り之を掌握し、終に大政の局に当らしむるの必要を告げ、之れが為め鹿児島内部、殊に山本伯一派との円満なる疎通を得させ度、之が為めには此数年来感情疎隔しある伊瀬知中将と子爵との交情を復旧、伊をして大に斡旋せしむるの必要を告げ、余も其内往訪すべきも、先づ井をして伊瀬知を訪問、瀬踏を為さしめんと相談せしに、井は之を快諾、二、三日中に伊を鎌倉に往訪することと為る。

高島鞆之助について、宇都宮は以前彼を参謀総長にしようと色々画策していたが、今度は首相にしようとしている。しかし、一体高島の何が宇都宮をそこまで引き付けるのかさっぱり分からない。機を見て政友会入りさせて、そこから首相にしようという考え(ちなみに後年、宇都宮のライバル田中義一がこのルートで首相となった)だが、そのためには同じ薩摩の山本権兵衛一派とも仲良くしておかなければならない。しかし現在、山本と親しい伊瀬知陸軍中将と高島は疎遠となっている。そこでまず井戸川辰三を伊瀬知の元に送り、伊瀬知と高島の仲の修復から始めようというのが話し合いの内容。

十一月三十日 日 晴
早朝、青柳勝敏来訪。孫逸仙等に鈴木宗言宅に密会せんことを申入れしに付き、来訪せば面会を辞せざるも、他に密会に行くことは好まざる旨返答す。

孫逸仙とは即ち孫文。

これにて1913年は終了。
スポンサーサイト












管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/tb.php/220-7e615ed9

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。