近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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通常書評というのは、其の本を通読した後に書かれると思います。私もそうしてきました。しかし今回は違います(威張ってる訳ではない)。読みながら書きます。というのもこの本はリリース後間も無く購入していたのですが、今の今までほったらかしにしていました。厚い本なので最後まで読んでから書くとなると、また随分後のことになってしまいます。もうすぐ第3巻も出るので、何とか年内には終わらせて格好をつけたいとの思いでこうするのです。元より途中で飽きてしまった場合悲惨なことになりますが、書評熱が一番高まるのは読んでいるとき又は読了直後であるのも事実。さてどうなることやら。
ちなみに第1巻の感想は下記URL。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-152.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-153.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-155.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-157.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-158.html


1912(明治四五/大正元)年

一月九日 火 晴
在南京古川氏(中佐)の紹介にて三井分物産の森恪なる人来衙、革命軍に資金を供して利権の獲得の要を論ず。論ずる所大体同意なり。余も余の意見の一部を告ぐ。

森恪は後に田中義一内閣の書記官長となる人物。三井時代から既に頭角を現しており、この頃の彼に長沙で世話になった南部(宇都宮と同郷)も”風格あり才気煥発、将来ある人物と思った”そうだ。

一月二十七日 土 晴
袁等の黒幕には英タイムズ記者モリソン潜み居るやに思はる。

モリソンはかつて柴五郎と共に北京で篭城した有名記者。この男が袁世凱に知恵をつけているのではないかと疑っている。宇都宮は孫文らが袁世凱に誑かされ、結局袁が清朝に取って代わるだけになることを恐れている。

一月二十八日 日 晴
段祺瑞以下四十六名、連名にて高級将校より共和退位の已む可らざる上奏を為す。中に張勲の姓名まで見ゆ。甚だ不思議なり。

宇都宮の危惧したとおり、清朝はこれで崩壊した。皇帝退位を望む軍人リストに勤皇派であるはずの張勲まで載っていることを訝しんでいる。張勲は後に復辟騒動を起こす。

二月四日 日 晴
出勤掛、赤十字病院に松井を尋ねしに、経過良好。

第二部長たる宇都宮はこの頃実に忙しく多くの人間を使っているが、腹心と頼む松井石根は、盲腸炎で入院中であった。

二月七日 水 晴
金子新太郎は二千円を与えて余が派遣したること、一時行衛不明の風説ありしも、昨今に至り黎等も其戦死を認むるに至り余も満足なること、余の手よりも遺族扶助の為め若干を贈らんとて用意しあること、(中略)尚ほ彼等をして他日適当の時機に及んで武漢適当の地に墓碑にても建設せしめ両国の国交に資し度旨、柴五郎に返書す。

金子は予備の陸軍大尉で、熱心に渡清を望んでいたので、宇都宮がスポンサーとなっていた。その金子が武漢で戦死したことが確認された。宇都宮は彼らしく、その遺族によく心を配っている。
http://www.asahi.com/international/history/chapter04/01.html

三月二日 土 美晴
岩本千綱を役所に招き、雲南、貴州、広西、広東の一部、東京等を打て一団と為し、我に有利なる一国を造り度き希望を含め、旅費として金一千円を彼の準備金より支出す。

岩本は旧知の人物だが品行が悪く、中尉ぐらいで軍を辞めて馬賊に身を投じていた。人間的には信用できないが、自分と同じ考え(中国南部の独立)を持っているので、取りあえず金を与えることにした。

三月二十五日 月 曇
根津一来訪(同文会より派遣せる四川派遣員六ヶ月分四〇〇余円の補助を請ひしも、本部も年度末にて逼迫に付き断る)。

根津は宇都宮の1期先輩でこの頃は陸軍を辞めて東亜同文書院長であった。とにかく宇都宮も金が無いのである。

三月二十九日 金 雨
午后六時より、参謀総長長谷川大将、上京中の師団長等を華族会館に招待し列席す。此際田中義一、上原就任の件、最早九分迄は大丈夫と信ずる旨内談す。

以前も田中は同じようなことを言っていたが、今度こそは大丈夫か・・・

三月十日 土 曇
相模屋上原中将より、愈々申入れありし故要談あり来れとの事に、午前中に事務を終り午食時中将を訪ふ。今朝、在小田原山県元帥より中将へ面談し度に付き来訪せよとの申出にて、たぶん陸相後任の件なるべく、中将は明三十一日往訪を約したり。

石本陸相が重篤となり、遂に山県上原を陸相にすることに同意した模様。

四月五日 金 晴
本日午前、大臣親任式あり。上原中将愈々陸軍大臣に就任す。川上大将の死後十余年、長閥の勢力日に強大を極め、専恣横暴圧迫に圧迫を加へられ来りしに、今日初めて同志にして親友なる中将の就職を見るに至りしは愉快至極なり。

川上操六が生きていたら貴様等にこんなやりたい放題させなかったのに。ムキー!」といったところか。例によって大山巌は完全無視、スルー。

四月七日 日 晴
昨日の電話に依り上原新大臣を往訪せしに、次長後任問題にて、寺内は長岡を推し、長谷川之を斥け、岡は明石は如何と言ひしに、長谷川は之をも欲せざるが如く、岡自身に来れと言ひし由にて、岡は笑ふて答えざりしが、結局山県の意向を聴くことを長谷川に勧め、長谷川は既に小田原に行けりと云ふ云々、就ては如何とのこと故、過日も申せし如く、井口、岡等を推薦す。

福島安正参謀次長の後任問題。寺内正毅長岡外史を推すが、参謀総長の長谷川好道はこれを却下。陸軍次官の岡市之助が、それでは明石元二郎はどうかというと、これも却下。では誰がいいのか問うと長谷川は岡自身が良いという。しかし岡にその気は無い。結局またしても山県の採決を待つことになる。上記の人物のうち明石を除く全員が長州人である。上原は一応宇都宮に誰が良いかと尋ね、宇都宮は井口省吾か岡が良いと答えているが、もちろんその意見が重視されることはない。

四月十一日 木 晴
井戸川を以て上原中将より、次長の後任は長谷川より第一に長岡を申出し、これは体能く賛成せず、次に大島を持出したり。未だ印は押さずとの事なるも、大島に既定のことは昨日田中義一より内報あり。(中略)大島は終始山県の家令的関係ありと云ふの外、腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家にして百科全書の評ある人物なり。其帝国参謀次長として不足なることは一般の定評あるもの、心細きの至りなり。之を川上、児玉の当時に思合すれば、参謀本部の今昔実に慨嘆の至りなり。(中略)況んや総務部長の後任に、旅順にて遺憾無く其の無気力と無能とを暴露せる長州人大庭二郎を据へんとするに於いておや。

山県の決定した次長は大島健一であった。大島は岐阜の人で後の駐独大使大島浩の父親である。昔から山県の家令的存在として知られており、知識の該博さには定評があった。しかし宇都宮に言わせると”腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家”であった。このような人物がかつては川上や児玉源太郎が就いていた職に就くとはと嘆いている。
更に大島の後任の参本総務部長候補に長州の大庭二郎が上がっていると聞き、旅順で遺憾なく無能っぷりを暴露した奴が何で総務部長になれるんだと、その人物をぼろくそにこき下ろしている。しかし結局大島の後任となったのは大庭ではなく山梨半造であった。この男も後年醜事件を起こす人物だが・・・

四月二十日 土 晴
歩中佐寺西秀武、漢口にて諜報勤務に服務中、黎元洪より金二十五万円を受取り、漢陽等にて革命軍の為めに戦死若くは尽力せし邦人に其十余万円を分配し、残余は返還せしも、大に世の疑惑を起こせしかば、調査の結果、本人には一点不正の処置はあらざれども、現役軍人には不穏当として所罰することとなり、重謹慎三十日に処す。

宇都宮としては何とか寺西を助けたく、自らの進退伺まで用意したが、結局彼は罰せられた。

五月八日 水 晴
藤井玄瀛来衙、法主の回答なるものを告げて曰く、
 一、年利五分を六分以上とすること
 二、五年を三年とすること
 三、今年分の利息は差引き然るべきや
 四、多賀若くは松井にて署名出来るや
第四は即座に否定し他は交渉せんとは答へしが、此種の事業に斯る営業者的の考にては到底不適当なることを信じ、岩崎に相談し、適当の名義人を用い彼の準備金より支出、岩崎をして事業に於て此借款に応ぜしむるの適当なるを思ひ(後略)

東翁牛特王の6千円の借款について真宗本願寺派に依頼したところ上記の四条件が返ってきた。多賀宗之や松井石根を保証人にするような話は即座に断っている。他の三条件は一応承ったが、この種の捨石的投資を要する国家事業に、営利を求める態度は不適当であるとして、本願寺からの投資は諦め、今迄どおり三菱の岩崎久弥に頼むこととした。岩崎と宇都宮の関係は陸相も参謀総長も知らないもので、両者の連絡には松井石根が当たっていた。この際上司にあなたの名前を明かさなければならないといわれた岩崎は、上原と福島にだけならよいと承諾した。

五月二十五日 土 晴
午后、上原大臣来宅、対談一時間にして去る。
在職大臣の余が宅に来りしは、今日の上原大臣を初めてとす。

(笑)

五月三十一日 金 晴
午后五時より星ヶ岡茶寮に於ける星桜会に出席す。斎藤海軍大臣、上原陸軍大臣、乃木大将以下会する者二十五、六名。今までに無き盛会なりき。是は主として前幹事高橋静虎退き人気一変せいと、上原大臣新に就任、陸海両軍の感情一層融和したるに因るものにして、甚だ慶すべきなり。

はいはい、また上原自慢ですか。



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