近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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アンガウル島で俘虜となった船坂軍曹については以前に書いた。ついでなので、船坂氏に相対したクレンショー氏についても書いておく。

いきなり余談から入るが、駐日米国大使館のHPを見てたら1969年から72年の代理大使の名前がデビッド・オズボーンとなっている。船坂氏によればこの人もアンガウルにいて当時の船坂軍曹を見ているそうだ。

ペリリューで船坂氏と会ったとき、クレンショー氏は伍長であった。人殺しの嫌いな彼は、通訳になれば人を殺さずに済むと考え、海兵隊入隊と同時に日本語教習所に入り勉強していた。捕虜の監督官を任されたのもそのためだ。家が貧しかったため大学を諦めトラックの運転手をしていたが、非常に明晰な頭脳と実直な人柄の持ち主で、除隊するときには中尉になっていた。彼に助けられた日本人は船坂氏一人ではない。かれが日本にやってきたときには、彼によくしてもらった何人かの日本人が訪ねてきている。

船坂氏が一生懸命クレンショー氏を探していたように、クレンショー氏もグンソーフクダ(当時船坂氏が名乗っていた名前)を心配していた。ネイヴィタイムに載った船坂氏の手紙をクレンショー氏の戦友が見つけ、米国大使館の仲介で電話連絡が取れた後、二人は太平洋を挟んで毎週のように手紙のやり取りをした。クレンショー氏が船坂氏に出した最初の手紙は日本語と英語とローマ字のちゃんぽんであったが、結びの言葉が船坂氏の心を決定的に打った。

Watakushi no inochi no hon no peeji wa anata ga hirakimashita. ARIGATO GOZAIMASU!
(わたくしの命の本の頁は貴方がひらきました。ありがとうございます!)

クレンショー直筆

クレンショー氏は戦後努力して大きな会社の副社長にまでなっていた。来日した彼は船坂氏と二人で、TBSの「おはようにっぽん」に出演した。司会は小林桂樹と小野清子であった。彼はいつ準備したのかカフスボタンの裏に、平和について、神について、天皇制についての日本語の単語をびっしりと書きつけ、時折目を伏せてそれを見ながら、司会者の質問に日本語で答えた。旅行で日光を訪れると東照宮を見上げて

「フナサカサン、私、今から”ケッコー”使います」

と言って皆を笑わせた。「日光見ぬうち、結構言うな」の諺を彼は知っていたのだ。

船坂氏の子息がアメリカに仕事で行ったとき、クレンショー氏はダラスからロサンゼルスの空港まで迎えに行った。貿易会社を設立するとその会社名を「タイセイドー・インターナショナル」とした(検索したが残念ながら見付からず)。船坂氏の元には多いときで年間二十名からの、全く見ず知らずの人からの訪問があったという。何れもアメリカでクレンショー氏に出会い、二人の間にあった物語を聞かされた人であった。氏は日本人を見かけると日本語で話しかけ、親切に世話をした。



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