近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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香月清司中将について語ってみる。香月中将の名前が歴史上大きくクローズアップされるのは、次の二回だと思う。

<宇垣内閣の陸相候補に>
昭和12年1月、宇垣一成に組閣の大命が下ると、陸軍の一部幕僚はこれに対し猛烈な反対運動を展開した。彼らに押された時の陸軍大臣寺内寿一は、自ら宇垣の元に赴き、
「陸軍三長官協議の結果、第一候補杉山元、第二候補中村孝太郎、第三候補香月清司にそれぞれ打診しましたが、いずれにも断られました。陸軍としてはもう他に推挙すべき人がいません」
と語った。ちなみに杉山は三長官の一である教育総監、中村は杉山の下の教育総監部本部長、香月は近衛師団長であった。宇垣は旧部下の朝鮮軍司令官小磯国昭に電話をするなど、なおも抵抗を続けたが、宮中のバックアップも得られず、1月29日、涙を飲んで大命を拝辞した。このとき宇垣の腹心の林弥三吉中将が、陸軍を激しく攻撃する声明文を発表している。
さて香月であるが、かりそめとはいえ、陸相候補に名前が挙がるのは、凡百の中将ではなかった証左だろう。

<支那駐屯軍司令官に>
昭和12年の7月に北平でおこった日支両軍の衝突は、意外に難しい事態となった。渦中の支那駐屯軍司令官田代皖一郎は7月16日に死去(脳溢血)し、後任に当時教総本部長であった香月が任ぜられた。東京で不拡大方針を与えられた彼が、途中朝鮮の小磯などから強硬論を吹き込まれ、天津に着いたときには一撃論者になっていたというのは、”定説”となっている。当時駐屯軍司令部で、参謀長橋本群と二人だけの不拡大派であった池田純久は、香月をメッキの不拡大主義者と書き、前任の田代が生きていれば、事変はあんなことにはならなかったのにと悔やんでいる。7月26日の広安門事件の後、香月と池田の間で次のような会話が交わされた。

「池田君まだ決心はつかぬか」
「司令官何の決心ですか、不拡大方針は既定の通りですが」
「いや拡大に対する君の決心さ。これだけ軍隊が恥辱を受ければ、世話はないよ。ここらで一ぺん支那軍を叩いて反省を促そう」
「軍司令官閣下、私は決心がつきかねます」
「いいよ。僕が責任を負う。やろう。今迄よく我慢した。さぞ辛かったろう。これからしっかりやってくれ」

こうして北支戡定作戦は発動した。この後北支那方面軍が編成されると、支那駐屯軍は第一軍に改組され、香月はそのまま第一軍司令官となった。

通史的な本に載っている話としては大体こんなところではないだろうか。しかし私的には、ここから先の話の方が面白かったりする。

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