近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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引き続き、澤地久枝『自決 こころの法廷』NHK出版
及び、須山幸雄『二・二六事件 青春群像』芙蓉書房

前のエントリは平日の晩にチャッチャと書いたので、やはり足らずが多く気になる。親泊の37期は熊幼に重要人物が集中している。菅波、大蔵栄一、香田清貞、朝山小二郎・・・皆熊幼である。そのうち菅波は熊幼を優等(2番)で卒業している。しかし陸士に進んでからは、思想問題に没頭して成績を下げている。2期上の大岸頼好も広幼を4番で卒業しながら、陸士で菅波と同じ100番台まで落ちている。点取り虫に徹していれば、軍官僚としての栄達は約束されていたであろうが、人より抜きん出た知性と感受性が彼らを維新活動へと導いた。親泊もまた陸大には進んでいない。受験は少なくとも2度している。そのとき上京して菅波の家に泊まっているので、再審までは進んでいるようだ。どこまで本気だったのかは不明。

ちなみにこの期のトップは井本熊男で、彼は陸士の予科、本科でもトップをキープして恩賜の銀時計を貰った。彼は後に大本営参謀として、撤退命令を持って自らガダルカナル島に飛び、撤退作戦を指導するという困難な任務を果たす。二人は直接顔を合わせる事はなかったが、電話では喋っている。そのとき親泊は次のようなことを言っている。
「おい井本か、第三十八師団の将兵は最後の一人まで最善を尽くしてよく戦ったぞ。これ丈は認めてくれ。帰ったら同期生諸君によろしく、他に何も云うことはない」
まだ撤退命令を知らない彼は、ガ島で果てる気持ちであった。

若かりし日の親泊は、道を歩くと、すれ違う女子学生がいっせいに振り返るような美男子であった。ひよわく運動が苦手であったが、その”少年”ぶりから特別扱いされていたという。小山公利によれば、長距離走で親泊が青くなって列外に出ても先輩は黙認するが、他の生徒が同じように出ると、「こら、貴様は親泊と違う」とどやされ列に戻されたという。一方文才は此頃からずば抜けたものがあり、国語教官のお気に入りであった。菅波も軍服姿には定評があり、西田税の家で、菅波と海軍の藤井斉に初めて会った末松太平は、海軍はスマート陸軍は野暮ったいという先入観から、藤井を菅波だと思ったという。結婚に際しては、親泊が菅波に直接、妹をくれと言ったそうだ。

予科士を卒業して羅南の騎兵27聯隊に配属となった親泊は、そこで西田税と出会う。彼はすっかり西田に傾倒し、隣の歩兵聯隊に居た大蔵らのもとにやってきては西田の講義の受け売りをした。菅波にも手紙で、「羅南にすばらしい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」と書いている。菅波が西田の名前を聞いたのはこれが最初であった。後に彼は親泊によって西田に引き合わされ、最も深い同志となる。

現代では嘘の代名詞となった大本営発表であるが、陸軍報道部員という仕事は、やはり親泊には相当つらいものであったようだ。心許したかつての部下の岡治男大尉には
「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。心の中では申し訳ないと詫びつづけている。ほんとうに辛い職務だ」とうつむき語ったという。

彼の死について菅波は熊本幼年学校第二十二期同期生月報に次の手記を寄せている。
(前略)
『親泊様、御一家一同御自害、相果てられました』― 昭和二十年九月三日の早朝、小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。
 かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものなってみると、哀痛、万感交々この胸に迫る。取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。空襲を免れた古い街並の一角、シーンと静まる親泊の家、一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。
 『あそこ、か』。玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。
 凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち技き、十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
 件の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニングの二号であった。
 通夜、翌日納棺、荼昆に付す。いよいよ出棺の間際、『お別れを』と係の者が蓋を開けると、大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、『ワーッ』と一斉に声をあげて泣き出した。無理もない。きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、まのあたりにして、ああ。(中略)。
 終戦の日から、ミズリー艦上の降服調印の日までの間に、一度だけ朝省が拙宅に来た。『千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで』と語った。『上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない』とも。
 また別の日、妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、『うちに行こう、一緒に行こう』と言って泣き出した。虫が知らせたのかと、あとで思った。(後略)

天皇とその周辺のふがいなさを強く批判する親泊の発言について、菅波は茶園義男教授への手紙の中にも書いている。
終戦の間際 天皇、皇太后全く意気地なし。みずから戦を宣しながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。 ―朝省最後の言葉
菅波自身この親泊の意見にある程度同意であることは、それに続く彼の言葉からも明白だ。まあ、こういう天皇批判を、機関説として揶揄する向きがあるが、私はその点には全く同意しない。精神性を無視した唯物論は問題にならない。
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