近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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澤地久枝著『自決 こころの法廷』NHK出版

本書の主人公は、沖縄出身の軍人の中で最も知名度のあると思われる人物。陸軍大佐親泊朝省(おやどまり ちょうせい)。熊本幼年学校から陸士(37期)に進み、騎兵科の恩賜で卒した。この頃の陸士はまだ兵科別で恩賜を出していたが、親泊は全体でも8番目と優秀な成績である。父は教育者であり、その家柄は、沖縄の名門であった。将来を嘱望される青年将校であった親泊は、騎兵第27聯隊で聯隊旗手をつとめ、満洲事変での活躍は、ちょっとした軍国美談となった。

親泊は割合早くに結婚をした。妻には軍人の兄が二人いた。上が菅波一郎(後に少将)、下が同期生で菅波三郎といった。三郎と親泊は熊幼以来の親友であった。親泊は、幼年学校の休みには、沖縄の実家より宮崎の菅波家によく滞在したという。熊本の45聯隊で旗手もつとめた菅波三郎は、荒木貞夫らの計らいで東京の歩3に転任した。この菅波をかつて西田税に引き会わせたのは親泊であったという。西田も親泊と同じく朝鮮羅南の聯隊に居た。このような環境から、親泊も当然革新運動に関心を持っていたと思われる。昭和10年、陸大受験の為に上京して来た彼は、前年同様、菅波の家に泊まった。それに対し菅波は「俺の家に出入りを禁止す。君は勉強せよ」と申し渡し、親泊を革新運動から遠ざけた。結局親泊は、その後の二・二六事件で拘束されることもなく、陸大本科にこそ入れなかったものの、専科を卒業して、比較的順調な軍人人生を歩む。大東亜戦争が始まるまでは。

第38師団参謀として、大東亜戦争を迎えた親泊は、ガダルカナルで地獄の死闘に巻き込まれる。撤退後、彼はマラリヤや栄養失調で入退院を繰り返した。髪はすべて抜け落ち、上下の歯がすべて無くなっていたという。回復して陸士教官となった彼は、その地獄の一端を率直の一部の生徒に語っている(村上兵衛『桜と剣』)。当番兵の佐治氏は、著者に対して次のように語っている。
「師団長との会食のとき、参謀殿が使った飯盒を洗うのが当番の仕事です。『佐治』と呼んでわたされた飯盒をあけると、底に米と芋をおじやにしたものが二匙くらいと、乾パンが二つか三つ入っている。これが、わたしが生きのこったみなもとです。八十五歳になって、今日はじめて話すことです」
 この人は絶句し、嗚咽した。


陸士教官となった親泊は、積極的に筆をとり、文章を書き始めた。その活動が認められたのか、19年には大本営陸軍報道部員となった。彼はこのころ同期生に対して次のような不満を漏らしている。
戦争の経験のない者が戦争の指導をしているのは、戦場の実相がよく認識出来ず無理があり、危険えある。中央部にも其の種の人が多くて困ったものだ。殊に戦場に行く事を懲罰と心得る者があるに至っては、武士道も地におちた。
彼が書くのは戦場の凄絶な実相であり、米軍の残虐さであった。彼は女性向け雑誌にも積極的に書いた。
★「大陸作戦の成功 - 女性のための戦局情報」(婦人画報)
★「あだを討つ精神」(主婦之友)
★「粘りづよく」(婦人倶楽部)

戦局が押し詰まり、ポツダム宣言が出ても、親泊は絶対継戦を叫ぶ最強硬派の一人であった。ガダルカナルで共に戦った黒崎貞明による。
「あくまで抗戦。本土決戦を実行して、講和のチャンスを獲得するのみだ」
「ソ連が参戦した今でもですか」
「まだまだ、関東軍と朝鮮軍は持ちこたえられる。俺は悲観していないよ」

彼の心の奥底をうかがうのは難しい。故郷沖縄が米軍に蹂躙されたことを挙げる人もいるが、本当のところは分からない。第32軍への転出を希望して、阿南陸相に止められたこともあったというが。

終戦に際して、親泊は一つ重要なことをしている。8月11日、新聞に下村宏(海南)情報局総裁の談話が載った。これは下村によれば、終戦へ向けての事前工作というもので、戦局の困難さを告げ、”最後の一線を守るため政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても国体の護持のためにあらゆる困難を克服して行くことを期待する”という”含蓄深き言葉”で締めくくられたものであった。ところがその横に、次のような陸相布告が載っていた。
全軍将兵に告ぐ。「ソ」連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり。事茲に至る、又何をか言はん。断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令、草を喰み土を囓り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず。是れ即ち七生報国「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に、時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし。
総裁談話と全く相反する布告に、読んだ人は混乱した。しかしこれは同盟通信の長谷川才次の機転によって海外には伝わらなかった。この文章自体は、稲葉正夫中佐が起草したものであったが、陸相、次官、軍務局長らに無断で新聞に載せたのは、親泊であったという。それを聞いた阿南は、「とにかく陸相布告も載せてやってください」と言うのみで、特に親泊を罰するようなこともなかった。

9月3日、親泊家を尋ねた人が、家族4人の遺体を発見した。
同期生、上司の上田昌雄少将への遺書と、”草莽の文”という長文が遺された。



上の写真は若かりし日の親泊(右)と菅波。菅波は戦後、多くは語ろうとしなかったが、特に自決した妹夫妻に関しては、完全に沈黙している。しかし著者は、その沈黙の中にこそ二人の強い繋がりがあるのではないかと推測している。私も同感であるが、残念ながらそれを裏付ける具体的な話は、さしもの著者も発見できなかったようだ。菅波は昭和60年、81歳で亡くなった。墓石には”遊戯三昧 三郎”の文字が刻まれている。これは、彼が生前好んで色紙などに書いた言葉だそうだ。

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