近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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1909(明治四二)年
五月二十二日 土 晴
 篠塚中尉来訪。義兄負債の抵当に供せし其家邸の竟に人手に委せざる可からざるの悲報を報ず。

<注釈>
篠塚義男は歩一の将校の中で最も頻繁に宇都宮家を訪れている人物である。かつては自邸の庭に実った柿を持ってきたこともあったが、今度その邸を借金の抵当に取られることとなってしまったらしい。彼は熊幼、中幼、陸士をすべて首席で卒業したホープで、宇都宮も相当な期待を寄せていた。宇都宮は日露戦争当時、駐英武官として明石工作を助けて活躍したが、篠塚も第一次世界大戦に於いて、オーストリア大使館附武官として、情報収集で手腕を発揮した。大山柏は篠塚について、”名諜報で名声を博した”と書いている。四王天延孝も”ウィーンで色々な問題について卓越な意見を聞かされたから、それは書物に書いて広く人に読ませたらどうかと慫慂したら、書物を書きこれを印刷に附することは容易だが、その代わりこれは普及性が強いから万一誤りが混入すると、多くの人を誤まらせる害も少なくない。だから余程慎重に研究してからでないと印刷して発表するなどはすべきものでないと謙遜された”と書いている。終戦時、”軍事参議官として開戦に賛成した責任”をとって自決した。
ちなみに東條に対する数多の非難の中に、同期で自分より成績の良かった篠塚を嫉妬からクビにしたというものがある。これは東條の大将進級時の特殊事情から発生した噂ではないかと思う。この当時、大将に抜擢人事はやらないというのが暗黙の了解であった。しかし東條は首相に任命されたため、特例として大将に進級した。このとき、学校の成績などにより、停年名簿で東條より右翼にいた篠塚は追い抜かれた。追い抜かれた篠塚は予備役になるでもなく、現役に留まった。この異常事態から先のような噂が出たのではないか。しかし戦争末期に何人か出たへんちくりんな大将を見る限り、篠塚を大将にしても良かったのではないかと思わないでもない。



八月十八日 水 曇
 仏国より近頃帰朝歩兵第四十八聯隊長に補せられたる大佐町田経宇、久留米より態々来訪。将来の事共時事を相談して夜十二時を過ぎ町田も一泊す。金谷範三の同志たり得べくを彼に告ぐ。

<注釈>
町田経宇は鹿児島出身で、いわば同志。後に大将。
後記の9/23の日記にあるとおり、宇都宮はこの段階ではまだ金谷範三と面識がない。では何を以て同志足り得るとしたのかというと、彼が送ってきた手紙の内容が良かったのだろう。金谷は後年、宇垣の後援を受けて、宇都宮の後継者である武藤信義と参謀総長の座を争うのだから、皮肉である。



九月十七日 金 雨
 久振にて高島中将を往訪せしに、不遇の上に負債累積如何にも気の毒の境遇に在り。併しさすがに本人は之を辞色には現はさず、強て平然たる所一層気の毒の感を深くす。

<注釈>
宇都宮がかつて、参謀総長にしようと奔走した高島鞆之助であるが、どういうわけか借金まで抱えて不幸な境遇にあるらしい。それにしても宇都宮は中々情に篤い。



九月二十三日 木 晴
 歩兵少佐金谷範三来訪、同人は在欧中屡書を送り呉れし人にて今日初めて面談。

<注釈>
前記の金谷(後の参謀総長)と初めての対面。この頃の宇都宮は、佐賀や鹿児島といった郷党のほかに、自分の職場である参謀本部に仲間を求めている。金谷もまた統帥一本槍の人物である。



十一月七日 日 晴
 演習第二日。南軍は昨日来箒川右岸の陣地を占め、北軍は進で之を攻撃し、戦局を終らずして夜に入り現在地にて夜を徹することとなる。此日第二師団は主力を佐良土方面に用い突撃せしも、無効と審判して原位置に退却せしめしに、第二師団長松永中将服せず互に多少の激語を用ゆるに至りしも終に服従せられたり。中将は余が中尉時代の大隊長にして平生先輩として尊敬せし所なりしに此始末に至りしは遺憾の外なし。併し彼我互いに直に一笑釈然たるを得しは仕合なりき。此夜は佐良土村なる小料理屋角やに投宿。八時半より露営地及第一線巡視、夜十二時帰宿す。

<注釈>
陸軍特別大演習、宇都宮は審判官を務めた。このとき第二師団長松永正敏は、師団砲兵の掩護の元に、橋の上を突進した。宇都宮はその攻撃不成功と判定し、松永に原位置に戻るよう要求した。しかし日露戦争で鳴らした猛将松永は容易に引かない。この様子を固唾をのんで見守っていた歩兵第四聯隊の若い少尉がいた。彼は後に陸軍大将となり、戦後回想録を出したが、このときの宇都宮の様子が余程印象に残ったようで、一章を割いている。以下はその回想録『私記・一軍人六十年の哀歓』より抜粋。
” 私は軍旗を奉じ、旗護兵五人と一団となり、乗馬審判官ふたりのまん中におどりこんだ。馬が驚いてあとずさりし、一頭が前脚をあげたので、一人は落馬しかけた。するとうしろにいたもひとりのべつの審判官が、私を踏みつぶすような気勢で、前に立ちふさがった。見れば少将の階級章をつけ、参謀懸章をつけている。
「松永将軍!攻撃は不成功。すぐ旧位置にお戻りなさい」
「さがらぬ。不公正の審判には服さない」
「おひかえなさい。陛下御統監の審判でござりまするぞ」
 血色の良い丸顔の少将は、こうどなった。
 松永師団長は「うーん」とうなりながら、からだをふるわせ口惜しがっていたが、「陛下の統監」といわれては、もう返す言葉がなく、
「河内(礼蔵)大佐!北岸に戻れ」
 自身も、うしろに戻りはじめた。
 私自身は連隊長といっしょに戻りながら、「こんな狭い橋のうえを密集縦隊で突進するなんて、非実戦きわまる。司令部も川の中を突っ切るべきだ。さげられたってしかたがない。が、猛将軍とうたわれている、日露戦の勇将軍に対し、階級の下の少将が、敢然公正な審判をやり通した、あの人はえらいな」と思うと同時に、なんだか、源平時代の絵巻物を見ているような、詩的な感情を覚えたものだ。”



十一月十二日 金 晴
 午后七時三十分より桂総理大臣官邸にて英国元帥キッチナーを晩餐に招待、参列す。客はキッチナーの外、大使及我大臣並に大将等なり。帰途上京中の上原第七師団長を訪ふ、不在。本日松石を参謀本部より追はんとするの相談を長岡より松石に打掛け、松石より相談あり。次長に絶対に拒絶すべきことを勧め、尚総長へも此決心を為さしむる為め福島中将を同邸に煩はし、両人の決心も固定せりと認む。

十一月十三日 土 晴
 松石と其進退に付き彼来談。次長とも協議。益々総長、次長の前決心を固執せんことを勧め、次長は諾して再総長邸に往訪す。

<注釈>
もうひとつわかりにくい文章だが、長岡外史はこの当時軍務局長であるので、松石更迭案は陸軍省から出たものと考えるのが妥当か。それに対し宇都宮は、断固拒絶するよう本人にも言い、更に次長にも働きかけている。このときの次長は福島安正である。
キッチナーはあのキッチナー。


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