近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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著者の有馬頼義は斎藤内府の縁者であったことから、二・二六事件を「強盗、強姦のたぐい」と怒りに任せて評したことがある。これに仏心会の河野司氏が反応して論争となった。この本は、河野氏への反論代わりに週刊新潮で連載されたもの。私は別に河野氏の論理に全面的に賛同はしないけど、この件に関しての有馬氏の書くことは粗雑に過ぎる。ちなみにこの連載を受けて、仏心会側では、再反論するかどうかのアドバイスを三島由紀夫と五味川純平に求めたところ、両氏とも無視したら良いとの返事であったそうだ。それでも一応、末松太平元大尉が代表として反論文を書いて、新潮社に持ち込んでいる。

さてこの本で唯一資料的に面白いのものは、真崎追い落としを画策したと称する某将軍の手記とやらの摘要である。長くなるが以下引用。

昭和八年夏の定期異動で私は独立混成第一四旅団長から大阪歩兵第七旅団長に転任を命じられ、部下の将兵を山海関に残し内地へ戻った。私は台湾軍参謀時代以後、渡辺大将の知遇を受け、胸襟をひらいて様々な教えを受けていたが、二・二六事件に関係し、お互いの運命を左右する結果になるとは想像もしていなかった。

昭和九年正月私は冬期休暇で牛込の自宅に帰省したが、そのとき、歩兵大尉香田清貞と栗原安秀の訪問を受けた。両人とも私の歩兵第一連隊長時代の部下で、当時香田は連隊旗手で常に私の側近にあり、栗原は、見習士官として士官学校から帰隊していた。栗原は士官として優秀であったが、士官学校卒業前、彼は稀にみる美男子で女性問題を起し卒業が危くなったことがある。幸いに士官学校生徒隊長が私の同期生であったので、私は栗原のために弁明し、彼を無事に卒業させることが出来た。その事件がなければ、栗原は恩賜の仲間にはいったかも知れない。この二人が六、七年の間に香田は大尉に、栗原は中尉として機関銃隊付に成長して突然私の前に姿を現わしたのであった。しかし彼等はその思想も著しく進歩し複雑特異の境地に立っているのを知って更に驚いた。彼等は世界の情勢をのべ、我国の政党や政府要人の不真面目で無気力なことを指摘し、日本の将来のため、彼等が満州駐屯前にクーデターを決行し、昭和維新招来の犠牲になる覚悟であることを熱心に説き、私に、その幹部の一人になることを要望したのである。しかしこれは一生の一大事で、秘中の秘であるから、返事を保留し、彼等が持ってきた『日本改造案原理大綱』を検討してみたが、これは明らかに暴力革命の一種であり、私には直ちに賛成は出来なかった。そして、私は、彼等と正反対の立場に立つ決心をした。それで二人の二度目の来訪の析、極力思いとどまるように説得しようとしたが、二人とも意志をかえなかった。要するに彼等の保持する思想は、荒木、真崎両将軍の強調する皇道主義を基調とし、それに北一輝の革命的思想や井上日召の宗教的思想が一体となったもので、一種の神がかりであった。

真崎将軍は教育総監の現職にあり、その実力は高く評価され、彼等の信望を集めていることがわかった。そこで、彼等の行動を阻止する策は、真崎将軍を教育総監の位置から後退させなければならないと考えた。私は渡辺将軍に相談した。丁度その年末に賀陽宮殿下が宇品運輪部視察の帰途、大阪の東久邇宮殿下御訪問のため立ち寄られた機会があり、私は賀陽宮殿下に香田、栗原の名前は出さなかったが青年将校の間に不穏な空気があることを言上し、閑院参謀総長宮殿下に私の具申を、おとりつぎ願ったのである。そのことがあってから約一週間後、私は突然賀陽宮殿下からの書簡を受けた。内容は、小田原に御避寒中の閑院宮殿下に面接、貴殿の意見を申し上げたが、殿下には、何分老齢故、約束は出来ないが努力しよう、と御返事になったということであった。私は感激したが、昭和十年春の陸軍異動で、退職させられてしまった。この退職と、私のしたこととの間に関係があったかどうか、その時はわからなかった。するとその年の七月になって真崎大将は勇退され、同年八月には永田軍務局長が相沢中佐に殺され、その軍事裁判が翌十一年二月二十五日に行われ、真崎大将が証人として法廷に立った。更に翌二十六日未明には、二・二六事件が勃発し、渡辺大将はその兇刃に倒れてしまった。私の蒔いた、打倒真崎の種は、妙なかたちで芽を出し、思わぬところで花が咲き、少しは自分がお役に立ったのだ、と私はそのとき思った。(中略)

気の弱い陸軍大臣が、屈指の論客である、人一倍向う気の強い、荒木、真崎両将軍を向うヘまわしよくも堂々と渡り合い、最後まで強硬の態度をかえなかったのは、全く意外の感にうたれる。立野信之氏によれば、後援者として著名な顕官要人の名を列挙しているが、私は、同期生であり多年の盟友であった渡辺大将の力強いバックがあったからだと思っている。渡辺大将が私に、死を賭して陸軍のために最善の努力を傾けると明言された決意から、その裏を想像すると、閑院宮殿下が真崎大将の物々しい抗議に対し、静かに、それは軍の総意であるとして総監辞任を要望されたお言葉を吟味すると、私かかつて賀陽宮殿下を通じて参謀総長の宮殿下に意見を具申した内容と酷似していて、特に軍の総意という文句は、偶然かもしれないが、そのままそこで流用されていたので、私は心を打たれた。私の投じた一石は、必ずしも水泡に帰したのではないと感じられ、すくなからず責任を自覚した。これが想像でない理由は、私が宮様に言上したことは極秘の筈であったが、そのことがいつの間にか真崎教育総監の耳にはいり、教育総監部の某将軍は、真崎大将が激怒し『△△(この稿の筆者)はけしからん奴だ。若い宮殿下をそそのかして私を退職させようとした獅子身中の虫である。直ちにくびだ』と云ったそうである。次いで宇垣大将組閣の頃、最後まで孤軍奮闘された林弥三郎(※)中将から私は『君の退職の理由は聞いた。同情に堪えない』という話があった。私の真崎打倒の運動は数週の後には、関係者の間で知らない者がなくなったのである。しかし私は私の上司排撃の行為は、何と云っても軍紀上その罪は軽くない。私の退職は、当然であったと思う。

二・二六事件の朝、私は背広で、連絡に機関銃を据えている反乱軍の中を通過し、品川の北白川宮邸に伺候し、大妃殿下に拝謁御見舞を申しあげると共に、反乱軍の思想背景を御説明申し上げげ、若宮殿下の御行動には、この事件に関しては決してふるることなく一意軍務に御精励あらんことを祈願した。真崎、荒木等皇道派の巨頭も、この事件に責任ありと述べると、傍らの石川中将(※2)は極力その関係は皆無であると、私の意見の反駁に出たが、私は私の意見をまげなかった。大妃殿下は私の話を聴取されると、直ちに陛下の御見舞に参上された。これと前後して、鈴木侍従長夫人も参上されたようであった。夫人は、大将が襲撃を受けた現場の目撃者である。このお二人の言上された内容は勿論想 像を許さないが、青年将校たちを同情すべき蹶起部隊であるとは奏上されなかったことは確かである。

私は真崎将軍教育総監退職が、彼等青年将校達の不穏行動を阻止する最大の要素だと考え蔭ながら懸命に努力したつもりであったが、結果は逆効果になり、彼等の行動に火をつけた意外な結果になった。大地の覆える時、一木のよくささえ得るの難きことを痛感した。当時を回想すると、悪夢のような心地がする。


本書では敢えて名前は伏せてあるが、この将軍は15期の服部兵次郎少将。満洲事変では旅団長として名を馳せた人だが、必ずしも一介の武弁ではなかったようで、このような政治的立ち回りを見せていたとしてもおかしくは無い。彼には支那の軍閥がらみで何か逸話があったと思うが、思い出せない。また捜しときます。

さて手記の内容は、有馬氏も書いている通り、やや我田引水のきらいが強いが、これはしょうがない。勿論彼一人が真崎教育総監罷免の立役者ではないが、こういう動きが当時あったという例証に丁度良い。しかし林大将と渡辺大将が多年の盟友というのはどうだろうか。少なくとも事件の数年前までは、林は真崎、荒木の盟友であった人なわけだけど。ちなみに渡辺はかつて陸大校長を1年にも満たずに解任されているが、これは彼の”新思想”を、日露戦争を引きずる鈴木壮六総長、金谷範三次長(いずれも日露の第二軍参謀)が嫌ったせいであるという説がある(ただ渡辺は極端なドイツかぶれで、第七師団長時代も部下が随分困ったという話があるので、解任理由もそう単純なものではあるまいが)。このとき渡辺の後任に来たのが、日露戦争では一戸兵衛の副官であった林である。学生から見た林校長はかなり貧相で影が薄かったそうだが、本人も自覚があったようで、随分謙遜な態度であったそうだ。この林の後任校長が荒木で、就任の挨拶でただ一言「実行」と叫んで降壇したという話が残っている。

ついでに言うと、服部将軍の予備役入りは、本人は真崎総監解任運動のためと思いたがっているようだが、微妙なところだ。最終的なトリガーになった可能性は高いが、爆発的に将官のポストが増えた支那事変以降はともかく、この頃なら、これぐらいの経歴で、少将で予備となる例は無いことは無い。


※これは林弥三吉の間違い
※2これは北白川宮別当の石川漣平中将(10期)
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