近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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以前も触れましたが、これ中々良い本です。宮城事件だけではなく、水戸の航空通信師団の反乱にも詳しく触れています。私の知る限りでは一番詳しいんではないかな。この本読んでて色々と勉強になりましたが、個人的にホーっと思ったのが、佐藤好弘大尉のその後について。佐藤大尉は戦後、同期生の村上稔夫大尉の家に半年ほど居候し、その後北海道の薬局に入り婿したという。これを読んでアッと思った人は、村上兵衛マニヤだ。結構なことです。『馬のある風景』の矢藤大尉というのは、佐藤好弘大尉だったんだなあ。そう考えると感慨深い。



もう一つ。黒崎貞明の『恋闕』にこういう一節がある。

”十三日、松浦少佐が大岸頼好、菅波三郎、末松太平の三人を連れてきた。
いずれも二・二六事件の先輩同志である。
聞けば、陸軍省の嘱託だといって門をくぐったそうだ。
この時期に旧同志の”揃い踏み”とはいささかできすぎた演出であった。
(中略)
このとき、松浦少佐は、いきなり私の拳銃を取って飛び出した。
何をするのだろうと呆気にとられていると、しばらくしてから悄然として帰ってきた。
「俺は二・二六事件でも死に損なった。あの失敗が支那事変を拡大し、そしてこの大戦となり、今、日本は無条件降伏を迎えようとしている。
われわれが倒そうとした軍閥がいま、このような形で倒れようとは思ってもみなかった。
俺は貴様ほど利口ではない。ただ死に場所を見つけたいと思った。俺が梅津総長と刺し違えれば、何か別の途が開けるかも知れないと思って、総長室に行って見たが、総長は宮中に行ったあとだった。俺はまた死に損なった」といってボロボロ涙を流している。”

迂闊といえば迂闊だが、これを読んだとき、私は特に何も思わなかった。ところが終戦秘史に、この松浦少佐のフルネームが載っており、それが松浦邁だという。松浦邁と聞いてアッと思う人は、これまた相当なマニヤだw そう。「現下青年将校の往くべき道」の執筆者である(現代史資料国家主義運動1に全文掲載)。まだ見習士官のときに書かれた同文書は、菅波たち先輩を大いに驚かせた。しかしその後、改造法案を巡る東京(西田)と和歌山(大岸)の確執に首を突っ込んで、西田を怒らせ、以降表舞台に名前が出ることは無いと思う。その人がここで出てきたわけだから感慨深い。また一つ勉強になりました。

改めて松浦少佐の経歴を調べると、長らく病気を患い、昭和19年に依願退役している。終戦時は在郷軍人会の仕事をしていたようだ。しかし梅津という人はもっと暗殺対象になっていいはずの人だと思うが、真面目に彼を殺そうとした話は寡聞にして知らない(松浦少佐が不真面目というのじゃないが、もっと計画立ててという意味)。あるいは阿南の抑止力が働いていたのだろうか。

追記
末松大尉の『私の昭和史』繰ったら松浦少佐に関してちゃんと載ってた。

”彼はしかし二・二六事件にも連累しなかった。終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、いよいよ日本の敗戦が決定的となたっとき「僕は五・一五でも二・二六でもなにもしなかった。こんどこそ僕の番です」といって、倒れんとする大廈を支える一木たらんとして、懸命に奔走を続けたのだった。”

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