近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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これまで

また話が逆戻りしてしまうが、北一輝、大川周明と並ぶ重要人物である満川亀太郎の本を紹介する。この『三国干渉以後』は、昭和10年に下中弥三郎の平凡社から出版された自伝めいた書である。昭和10年に出たということを念頭に置いて読むと、中々感慨深い。論創社から再販されている。戸部先生の『ピースフィーラー』といい論創社GJ



満川は大阪に生まれ、京都で育った。小学生のときに再び大阪府豊能郡池田町(今の池田市)に引越し、更に池田から南に一里半の北豊島村に移った。この北豊島村というのは今の阪急宝塚線の石橋駅のある付近であり、当時は池田より見れば草深きド田舎であったそうだ。私事で恐縮だが、私は大学の関係でちょうどこの辺りに住んでいた。満川もまたあの辺りで育ったのかと思うと、なお一層の親近感が湧く。高等小学校に上がると、教師をしていた兄にくっついて京都に戻った。この頃、北清事変において発生した馬蹄銀事件を聞き、軍人から泥棒が出たと深いショックを受ける。星亨が殺されると、校長は生徒を集めて、星の罪悪を並べ立て、伊庭想太郎を賞揚した。渡良瀬の鉱毒事件に胸を痛め、近衛篤麿の国民同盟会就任に、日露開戦近しと、心を躍らせた。

余談だが、北清事変に出動した第五師団長の山口素臣が死んだとき、それがどうしたことか山縣有朋の訃報として伝わった。それを聞いた小村寿太郎は「それはどうもおかしいな。山縣大将とは今朝お目にかかって話をしたところだが」とつぶやいた。間もなく誤伝が明らかになると、小村外相は「ウム、死んだのはアレか」と言っただけで、弔問の使者さえ出さなかったという。

小学校を卒業した満川は、中学校には進まず、日本銀行京都出張所に就職した。入行当時の総裁は山本達雄、副総裁は高橋是清であった。間もなく京都出張所の所長が替わり、大阪支店より井上準之助が赴任してきた。日露戦争の最中、広瀬武夫の詩に感銘を受けた満川は、日銀を辞め、中学に進むことを決意した。ところがそこで入った中学が、私立吉田中学校というとんでもないインチキ学校で、一日も出席しないものに卒業証書を売ったなどの悪行がばれて、文部省から閉鎖を命じられてしまう。卒業を間近に控えた五年生は、生徒大会を開き、陳情団を東京に送ることを決定した。イの一番に最も悲壮なる演説をした満川は5人の陳情団の筆頭に挙げられ、2名の教師に付き添われ上京した。「国家の柱石たらんことを望めばなり」とか「社稷は常に俊傑によりて維持せらる」といった大人ぶった陳情書を文部省(大臣牧野伸顕)に提出したところ、「君等は学業をおろそかにして何をしに来たのか。陳情など学校当局がやることだ」といって相手にしてくれない。それでも、具体的な方法を案出してくれない限り、手ぶらでは帰れないとごねていると、西園寺公望の秘書官であった中川小十郎が、まとめて面倒を見ようと言ってきてくれた。それが清和中学校、後の立命館である。

中学を卒業した満川は、上京し早稲田に入学した。東京に着いて直ぐに読んだのが、幸徳秋水の平民新聞だった。また彼は、宮崎寅蔵らの革命評論も愛読した。早稲田に入ったものの、大隈のことはどうしても尊敬する気になれなかった。日本に革命を起こさなければならないと考え、部屋の壁に「革命者善也」と赤書して人を驚かせた。また学内の図書館に入り浸り、北輝次郎の発禁書「国体論及び純正社会主義」を借り出し、五日間で読了した。

間もなく、食べるために民声新聞に原稿を書くようになった。民声新聞社は星亨が創刊した新聞であり、かつては横川省三や国木田独歩が編集長を務めていた。満川はこの仕事を通じて小栗孝三郎や床次竹二郎と知り合った。

大逆事件が起こると、満川は記者としてその判決が下されるのを傍聴した。彼はこのような事件が起こったことの責任は、官僚閥族にもあるとして、金権に阿附する政治を憎んだ。このことを床次にぶつけると、彼もまた桂さんの責任は大であると述べたという。

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