近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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加納 明弘 加納 建太『お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ! 』ポット出版

「肺がんで死にかけている団塊元東大全共闘頑固親父を団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!」

まず最初に、あとがきで息子氏が少し書いておられるが、親父氏の術後は良好であるとのこと。肺がんの怖さは私も骨身に染みているので、それを聞いて、ひとまずほっと胸をなで下ろした。

親父氏は、東大文三に入学し、東大の中核派のリーダー格であったそうだ。当事者だけあって、全共闘やら民青やらの説明、あの時代の空気の説明は、簡潔にして要諦をとらえており、わかりやすい。しかし1967年10月7日、法政大学で中核派が、社青同解放派の指導者をリンチした。その報復として、親父氏は駒場で社青同解放派にリンチされた。親父氏はミニマムな差しかない中核派と社青同解放派の間でおこった暴力事件にショックを受ける。

息子 それで運動からちょっとの間引きこもったわけだ。
親父 そう、それで、引きこもったけど。しかし、どうしても反戦学生運動はやんなきゃいけないと思っていたからね。だから、佐世保のデモにも参加してデモ指揮をしたし、王子野戦病院のデモにも参加した。けれども、最終的にこれは中核派ではやっていられないなって決心して、セクトをやめたのが68年の5月ごろだったのね。

http://www4.hp-ez.com/hp/eastedge1946/page10より引用。以下の引用も左に同じ。

中核派を抜け、学校も退学した。

親父 そういうことじゃないんだよ。なんか3派全学連っていうのは、要するに革マル全学連でもなく民青全学連でもなく、3派全学連っていうのが1種の、要するに日本の社会運動の未来を担うっていうふうな存在だったんだよ。ここのところは当時を知る者にしか説明できないことなんだけどね。そういう希望に満ちた存在が、けっきょく壊れちまうっていうさ、そこのところだよ。壊れちまったことに行きつく先に、たとえば革マルと中核の殺し合いとか、社青同と革マルの殺し合いとかっていう図を直感させるような出来事だったんだよね。
俺はやっぱり、本質的に田舎育ちのお坊ちゃんなんだよ、元々。比較的豊かな家庭に生まれて、比較的良質な教育を受けて、中学時代ころから色々な本も読んで育ってきた。そういう根っからの中産階級育ちの人間にとっては、暴力で仲間内の問題を解決しようという発想が組織のなかに存在していたことがショックだったんだよね。美化していえば、暴力を受けたことより、こっちが、最初に暴力を振るう側になったことがむしろショックだったんだよね。



本書を読んで驚くのは、親父氏の博識さである。(HPの方では息子氏ももっとしゃべっておられたような気がするが)親子が温泉で座談したものなので、百科事典繰りながら話したわけでもないだろうに、歴史の話がスラスラと出てくるさまは、自分の最近の健忘症ぶりも相まって、感心してしまった。要するに知識が血となり骨となっているからだろう。変な表現だが、昔の秀才の凄みを感じた。少し前に中江兆民の息子について、ここで書いたが(これも名前がパッと出てこないんだよ)、彼に一脈通じるように思った。

追記
10月5日にジュンク堂新宿店でトークショーをされるそうです。
http://www4.hp-ez.com/hp/eastedge1946/page4/bid-78918

『お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!』(ポット出版)刊行記念トークショー

1981年生まれの気鋭の批評家・荻上チキは、
1968年の全共闘運動をどう読むのか?
1960年代後半、全共闘は何と闘っていたのか。
そして、全共闘は2010年に、何を残したのか。
気鋭の批評家荻上チキが、かつての全共闘リーダーを鋭く追及する。

荻上チキ(おぎうえ・ちき)さんの履歴
1981年生まれ。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。テクスト論、メディア論を専門とする批評家。人文系ニュースサイト「トラカレ!」を 運営。共著に『革命待望!─1968年がくれる未来』がある。

■2010年10月5日(火) 18:30開場、19:00開演
☆場  所  ジュンク堂 新宿店 8Fカフェ
☆入 場 料  1,000円 (1ドリンク付き)
☆定  員  50名
☆予約受付はジュンク堂7Fレジカウンターで、またジュンク堂新宿店への電話でも予約できます。

ジュンク堂書店 新宿店 TEL 03-5363-1300

トークショーのポット出版による告知は
http://www.pot.co.jp/news/20100910_133806493919432.html

ジュンク堂による告知は
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/evtalk-shinjyuku.html#20101005shinjuku

なお、当日は当日ustreamでトークショーがを生中継されます。
ustreamによる生中継は
http://www.ustream.tv/channel/potpub



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半藤一利 秦郁彦 保阪正康 井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社

半藤、秦、保阪という代表的な現代史の書き手に、富田メモをスクープした日経新聞の井上編集員を加えた4人で、BC級戦犯裁判を語るという本書。取り上げられている事案は次の通り。

泰緬鉄道F軍団事件--イギリス軍シンガポール裁判85号
サンダカン死の行進--オーストラリア軍ラブアン裁判14号
ランソン事件--フランス軍サイゴン裁判39号
カーコニコバル島住民虐殺事件--イギリス軍シンガポール裁判12号
シンガポール華僑粛清事件--イギリス軍シンガポール裁判118号
スマラン慰安所事件---オランダ軍バタビア裁判69号
花岡事件--アメリカ軍横浜裁判230号
武士道裁判--アメリカ軍横浜我利23号
ガスマタ豪軍飛行士介錯事件--オーストラリア軍香港裁判13号
百人斬り競争--中華民国南京裁判21号
海軍生体解剖事件--アメリカ軍グアム裁判17号
父島人肉食事件--アメリカ軍グアム裁判11号
ニューギニア人肉事件--オーストラリア軍ウエワク裁判1号
東海軍司令部B29搭乗員処刑事件--岡田ケース(アメリカ軍横浜裁判261号)
伊藤ケース--アメリカ軍横浜裁判233号

いずれも比較的有名な事件だが、これらについて、事件の内容から裁判の内容までが、かなり詳しく紹介されており、それが一冊にまとまっていると言う点では、なかなか良い本だと思う。4人での座談会部分では、秦先生が、随所に、(シャバでは役に立たない豆知識を織り交ぜながら)キラーぶりを発揮しており面白かった。勿論中には軽口が過ぎると思う場面もあったが。

 秦 大本営の作戦課長だった稲田正純大佐が満州へ赴任して、「満ソ国境突破戦に自信ができた」と発言しているんですよ。毒ガスでやるつもりだったんです。マルタを実験台にして青酸ガスを大規模に北満の荒野で試してみて、効き目があると確信した。青酸ガスというのは、日本軍独自の兵器なんです。
 保阪 サリンなどは、まだ日本ではつくれなかったということですね。
 秦 日本は最後までサリンとかタブンのような神経ガスの開発はだめでした。作ったのはドイツだけです。日本もいろんな試作品を百種ぐらいつくったけれども、いずれも物にならなかった。唯一物になりかけたのが青酸ガスです。これも放射実験をやって、それを手投げ弾式にしたのが「チビ弾」というやつで、これでトーチカとソ連軍の戦車をやっつけようとした。
 何でチビという名前がついたかというと、ノモンハンでBT戦車というのが出てきて日本軍がやられましたね。それで、BT戦車をやっつける方法はないかということで、青酸ガスを小型のガラス球につめてぶっつけようと考えた。BTをひっくり返すと、TBになるのでチビになったという話がある。


 秦 わたしはいろんな戦記を読んできましたが、国際法についてちゃんと発言している例を見たことがないんですよ。わずかに一つだけ例外かなと思うのは、ビルマに派遣された日赤看護婦の和歌山班です。ゲリラに襲撃されて敵中突破するときに「堂々と赤十字の旗を立てて行きましょう」と婦長さんが主張するんですよ。


 秦 あの名誉棄損故判で一番得したのは福井県の女性弁護士です。わたしは一審の判決が出たときに東京地裁行きました。 控室に関係者が集まっていて、通常は弁護士が「皆様のご支援にもかかわらず、力至らず……」とかおわびするんですが、そうじゃないんですよ。
 その女性弁護士が「選挙に出る決意をいたしました」と宣言して、選挙の前祝いみたいになってしまった(笑)。裁判はどこかへ消し飛んじゃった。自民党の保守派にとって「百人斬り裁判で名前が売れているし、ちょうどいい」ということだったんでしょう。敗訴した責任者がこれをジャンプ台にして国政に出るとという妙な展開になった。


 井上 名誉棄損裁判では「日本刀で百人を斬り得るか」ということで論争になりましたね。
 秦 これもトリックなんです。山本七平が雑誌で日本刀の切れ味について延々と書いていたでしょう。刀工の何とかさんはこう言っているということで、日本刀についていろいろ考証して、結論はそんなに斬れないということにしている。しかし、据え物斬りならば何人でも斬れるんです。


 保阪 偕行社版の『南京戦史』では虐殺の死者は二万人でしたかね。
 秦 戦史家の板倉由明氏があの偕行社本の中心です。使っているデータはわたしと同じですが、わたしのほうが被害者が二倍になっている。なぜかというと、向こうは減耗率を掛けているんです。どういう減耗率かというと、勲章をもらうためには戦果を過大に報告するのが慣習で、戦闘詳報で何人と書いてあるのは〇・五を掛けなきゃいかんと。


 秦 「まぼろし=ゼロ」のグループに呼ばれて話をしたことがあるんです。彼らは「とにかく数が多い」と怒るんですよ。「じゃあ、おたくでは何人ぐらいなら満足するんですか」と言ったら、「本当はゼロだけれども、一人か二人だ」と言う(笑)。わたしが「しかし、戦闘詳報に七千人掃討とか数がいろいろ出てくるでしょう。あれはどうなんですか」と聞いたら、「あれは便衣兵だから虐殺のカテゴリーに入らない」と言う。
 半藤 便衣隊を殺しても通常戦闘だから虐殺じゃないというわけなんですね。
 秦 だけど、便衣兵を全部無条件にオミットしたとしても、当然そのそばづえを食った人たちがいるわけでしょう。「難民区の中から引っ張り出してきては便衣兵に見えるという理由で処刑していたが、あの中に無実の人間も入っていたんじゃないですか。それはどうするんですか」と聞いたんです。
 そうしたら、「そんなところに一緒にいたのが悪いんだ」と言う(笑)。わたしはこれはどうにもならんなと思ったんです。百人斬り訴訟もそういう雰囲気ですよ。一人か二人は斬ったかもと陰では言いあうかもしれないが、やっぱり建前はゼロなんでしょうね。
 半藤 そうなんでしょう。数ではなく、事実がないという主張ですから。
 秦 日本刀ではそんなに斬れないなんて、高校生でもおかしいと思うようなトリック論法が横行するんです。いくら言ってもだめ。



追記
ランソン事件について、軍司令官だった土橋勇逸が、あの長大な回顧録で一言も触れていないのは不自然だと、秦先生がおっしゃっておられたが、これは私も同感。明号作戦がいかにうまいこといったかについては、得々と書いているのに。当時はともかく、回顧録を書いたころになっても、事件について知らなかったなどということは、明敏な土橋に限って有り得ないと思うが。


池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』新潮文庫

数年前に映画の方が少し話題になった『蟻の兵隊』が文庫で出た。数年たった今でもこの問題、つまり山西省残留日本兵への補償問題は全然解決していない。少しでもこの問題の周知に資するならと、取り上げる。

山西王とも言うべき閻錫山は、日本兵1万人は中国兵10万人に匹敵するという考えの持ち主だった。迫りくる中共軍を前に、己の弱卒をながめれば、日本兵の獲得は必須であった。

第一軍司令官澄田ライ四郎(ライは貝偏に来)はフランス駐在経験もある理性的な軍人で、北部仏印進駐の後始末を任されたこともあった。第一軍参謀長山岡道武は一貫してロシア畑を歩んだ人物で、ソ連がその身柄を欲していた。二人とも日本軍人であるから、赤化防止ということには一定の考えがあっただろうが、それにしても身命を賭してまで八路から山西を守ろうという信念はなかった。彼らが閻に協力したのは、一重に我が身かわいさからであった。

山西産業社長だった河本大作は、上記の二人よりはずっと積極的であった。彼の場合は、日本に帰っても身の置き場がないということもあっただろうが、結局脱出せず、落城まで太原に留まった。もっとも甥の平野零児は、彼が中共の虜囚となった後、収容所で「台湾侵攻作戦の手伝いをしたい」というような軽口を叩いているのを聞いている。軍人としての不完全燃焼感がこういう発言に繋がるのだろうか。

部隊長級で積極的に残留を推し進めたのが、元泉馨であった。彼については、交流のあった楳本捨三が評伝を書いているが、資料としてはちょっと使い難い。あの本がある程度核心を突いているとすれば、戦後の元泉はやや捨て鉢になってたような感じもするが。しかしそうであるなら、巻き込まれた兵隊はたまったものではない。後に敵の包囲下で負傷し、部下に自らを討たせた。

若手でありながら、重要な役割を果たしたのが、岩田清一と城野宏だった。岩田は職業軍人だったが、城野は素人だった。岩田は捕虜となり、収容所で病死したが、城野は長い抑留生活を生き抜き、帰国した。

上記の人々に比して、比較的好意的に描かれている人物もいる。後に十総隊司令となる今村方策である。彼については、オリンピックの乗馬の代表選手であったという記述があるが、これは今村安と取り違えている、と思う。どちらも今村均大将の弟であるが。今村は暖かい人柄で、指揮能力も高く、人望があったという。彼ほど高い地位にいた人物でも、手紙を検閲され、情報統制を受けていたことが、彼が妻へ送った手紙から伺える。統制をかけていたのは、澄田や山岡であった。太原陥落時に毒を呷った。最後に「閣下に騙された」と言い残したとも伝えられる。

第4章の主役は宮崎舜市中佐である。総軍から派遣された宮崎参謀は、閻錫山と第一軍の計画を見抜き、これを阻止しようと奮闘した。第一軍幹部との連絡会議に臨んだ宮崎は、全員の帰国を強く訴えた。それに対し山岡少将は、受降長官である閻錫山の命令がなければ動けないと言を左右にした。遂に堪忍袋の緒が切れた宮崎中佐は、「参謀長閣下、閣下は閻錫山が天皇を殺せと言えば殺すおつもりですか」と、激越な一言を放った。一座は粛然とした。澄田軍司令官はその間一言もなく、残留を主導していた岩田参謀もまた同じであった。連絡会議に出席した北支方面軍の笹井大佐は、「軍司令官が自ら決心して戦犯として残るという確固たる決心があれば、残留者は多くは出なかったろうと思われる」と書いている。会議の最後に宮崎は次のような演説をしたという。

いま、軍司令官以下第一軍首脳の最大の任務の一つは、隷下兵団を完全無欠の状態で速やかに復員させることである。これが陛下の赤子をお預かりし、必勝を信じて戦ってきた派遣軍の最後の務めであると信じている。言い換えれば、兵隊をその妻子親兄弟のもとに無事届けることである。もし、終戦後における中国の内乱の渦中に投じ、戦死者、戦病死者が出たような場合は、何と言ってお詫びしたらよいのか。
 部隊長が残留を希望するような場合には、その部下の大隊長、中隊長が義理で残留することになり、またその部下も義理を立てて残る。本当のところ帰りたいという兵隊まで残るということになるが、それは罪悪である。部隊長として残留を希望するならば天津まで部下を連れて出て、その部下が無事に復員船に乗船するのを見届けてから、再び山西に取って返し自分の志を果たすべきである。
 帰還に関する限り、軍司令官から一兵卒に至るまで、思想を統一して相手側と交渉すべきものと思う。このようにしなければ、到底順調な帰国はできないと信じる




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