近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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秦郁彦『現代史の対決』文藝春秋

お盆の古本祭りで購入。1998年から2002年に主に『諸君』に掲載された文章を纏めたもの。この頃は、”自虐史観”に対する”自由主義史観”が台頭して来ていたが、まだ”自虐”側もそれなりに頑張っており、そして何より田母神や在特会といったモンスターが現出していなかった。そういう時代の空気を反映して、先生も随所に筆が滑っている(要するに足元を気にせず心置きなく自虐側をおちょくれた時代ということだ)。例えば件の女性国際戦犯法廷でインドの判事が欠席したことについて

東京裁判で唯一人、少数意見を書いた有名なパル判事の”亡霊”に叱られたせいかもしれない。

なんてのは全く書かずもがなだし、天皇訪英時の元イギリス人の要求について、”『戦場にかける橋』のアレックス・ギネスが聞いたら何というだろうか”などと言うのは全く意味不明だ。シドニー五輪に際しての

オーストラリア政府がなんとかアボリジニのご機嫌をとってオリンピックだけは無事に乗り切りたいという苦心の表れとみれば、あのバカバカしい開会式の大騒ぎも同情する気になりました。

と言う文章など、皮肉のつもりなんだろうけど皮肉になってない酷いものだ。所詮『諸君』への投稿なんだし、そんなに目くじらを立てなくてもという意見もあろうが、私は秦先生のためにこれを惜しむ。
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ほぼ恒例といってもよい糺の森の古本祭りに行ってきました。灼熱の太陽と舞い上がる砂埃で炎熱地獄のような例年と較べると、今年は下が湿っており、格段の涼しさ。実際、午後2時から6時まで歩き回りましたが、殆ど汗をかきませんでした。収穫のほうはぼちぼち。金額的にも冊数も例年よりは少なく、自分で手で提げて帰ってきました。
090814_2113~01

田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』岩波新書

引用したい箇所が多すぎて逆にこういう手抜きレビューになっているが、文句なしに面白く、非常に読み応えがあった。


森久男『日本陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか』講談社選書メチエ

今日、会社でこの本を読んでいて次の部分にウギャッとなった。

 五月一日、田代皖一郎中将が支那駐屯軍司令官に就任した。佐賀閥である田代は、参謀本部支那課長や中国公使館付武官を歴任した古参の支那通で、八月に同軍参謀長に着任した橋本群少将とともに、中国に対して穏健な考えをもっていた。八月二三日、田代は川越茂大使と会見し、華北工作を差し控える方針を伝達している。
 二七日、板垣参謀長一行は天津に到着した。板垣参謀長は軍司令官官邸で田代軍司令官と会見し、緩遠における視察状況を報告した。二八日、軍司令官官邸で関東軍と支那駐屯軍の合同幕僚会議が開かれ、支那駐屯軍から田代軍司令官・橋本参謀長・河辺正三旅団長・重要幕僚等が参加した。板垣参謀長は華北・綏東の状況と緩遠出張の経過を説明し、橋本参謀長は翼察の現況を説明した。二九日、会議を終えた板垣参謀長一行は天津から飛行機で長春に戻っている。
 当時、支那駐屯軍参謀であった池田純久中佐は、戦後の回想録において、関東軍側の申し入れを次のように紹介している。「今度蒙古が反共を旗幟として独立を策し、反蒋運動を起こすことになった。そのとき傅作義将軍もこれに呼応して反蒋運動を展開することに話がついた。もちろん関東軍はこれを支持するが、天津軍も協力されたい」。この時、池田は「傅作義将軍が反蒋運動に乗り出すことは考えられない」と反論し、田中・花谷参謀等の「”支那通”認識が、いかに低級単純であるかに、いまさらのように驚いた」と記している。しかし、関東軍での勤務経験がある支那駐屯軍の支那通幕僚(和知鷹二・専田盛寿両中佐等)は、支那駐屯軍司令部で対中国強硬意見を唱えていた。

私は勿論この池田の本は持っているし、それだけではなくこの合同幕僚会議については何度かWEB上に書いている。何故なら、このとき関東軍の内蒙工作を否定する池田を支持した支那駐屯軍司令官は多田駿であると書かれていたからだ。池田はご丁寧に「北支駐屯軍司令官多田駿中将(理解ある支那通)も列席した」、「そのとき多田駿中将が『関東軍の言い分はわからんでもない。しかしきょうのところは池田参謀の意見に同意だ』と、断を下し、私に助け舟を出してくれた」とまで書いている。それで私もあまり深く考えずに、多田原理主義者としてこの話に飛びついたのだが、このたび改めて池田の『日本の曲がり角』を読んで、二度ウギャッとなった。彼はこの会議は綏遠事件の数週間前に開かれたと書いている。これが正しいなら、支那駐屯軍の軍司令官が多田の筈は無い。貴重なエピソードが・・・・全く罪だぜ池田さんよ。

しかし田代皖一郎中将も好きな将軍なので、それもまた可か。

 重光公使は、「とっておきのこと」を持ちだす覚悟をして、発言した。
「いま、われわれは上海における軍部と外交の最高責任者として、国家の重大事を相談しているわけである……東京の宮中においては、さぞかし天皇陛下はこのことについて御心配をされておられるでしょう。恐懼にたえません」
 白川大将は、上海に上陸して重光公使に面談したさい、出征にさいして天皇から指示された御沙汰書の内容にふれ、次のように述べていた。
 「陛下は……事態は重大であるから、お前はなるべく早く軍の目的を達して、遅滞なく軍をひきあげて帰って来い。こういうことを特に自分に申された。このことを貴下のお耳にいれておく」
 白川大将が、格別の尊皇心の持ち主であることはよく知られている。その心情にうったえる意味で、重光公使は大将に天皇の御沙汰書を想起させる形の発言をしたのである。
 効果はめざましかった。重光公使の言葉に、白川大将は眼をむき、次いで双眼を閉じて熟慮する様子てあったが、突然、起立すると、明言した。
 「白川は戦争を止めます。停戦命令をだします」
 その口調は、はるか東京の天皇に奏上するかのように荘重であり、大将は、それだけいうと着席した。
 「まことに御立派な御決断だと思います」
 重光公使も粛然と挨拶すると、参謀長田代少将も起立して述べた。
「軍司令官がお止めになるならば、田代もまったく御賛同申しあげます」

児島襄『日中戦争』より


澤地久枝『火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の反乱 竹橋事件』岩波書店

角川から出ていたものを、岩波現代文庫が再販した。実に53名もの下士官兵が銃殺された竹橋事件を描いた力作。文庫本ながら千円を超えるがその値打ちはあると思う。まあ岡本柳之助を中心人物とした陰謀論は、後の『雪は汚れていた』を予感させるに十分で、やや苦笑したが、これはもう著者の癖と思うのが良いだろう。

士官で最も重い処罰を受けたのは兵卒たちの不満に理解を示していたと言われる内山定吾少尉だった。内山は無期徒刑の判決を受け、釧路へ流された。彼には当時陸軍士官学校で士官生徒の3期生だった弟がいたが、この弟は常に同期のトップをきって昇進し、そこに兄が受刑者であるという影響は感じられない。弟とは内山小二郎大将である。事件当時定吾は既に銑という女性と結婚していた。内山家では銑を小二郎に配することにしたが、陸軍省がこの結婚を認めなかったため、二人の間の長男は庶子ということになった。これが後の中将内山英太郎である。英太郎が一歳のとき、大赦によって定吾が帰ってきた。銑がその後どうなったのかは分からないが、小二郎は田中綱常海軍少将の娘と再婚している。彼は息子に”英雄豪傑”から一文字ずつをつけたが、少なくともその長男には以上のような事情があった。英太郎は定吾の養嗣子になったと書いているが本当だろうか。これが本当なら彼を内山小二郎の跡取りとするのは間違いとなるが。

英太郎は定吾について「まことに気の毒な人生であった」と常々語っていたそうだ。毎年彼岸に青山の近衛鎮台砲兵之墓に花を手向ける人が居たが、それが途絶えたのは英太郎が亡くなった昭和48年前後のことであったそうだ。謹厳な実父とは対照的な遊び人のぼんぼんと言われた英太郎中将の以外な一側面である。



こんなに間が開けておいて閑話休題もないものだが、前のエントリで後宮大将について書いていて思い出した。若林東一にこういうエピソードがある。

若林は捕虜の英軍大尉を弾丸から護ってやるため、壕の中に退避させようとした。これを見て第一線にあったある将官が、「捕虜は退避させる必要は無い」と彼をたしなめるように言った。これを聞いた若林は「私には弾丸が当っても良いが、捕虜はそうはいきません」と、英軍大尉をかばうように壕の中へ退避させた。その将官は一言も無かったという。

この将官というのは支那派遣軍総参謀長だった後宮のことらしい。尤もその場に居たのではなく、後から若林の話を聞いて「捕虜を優遇するなどけしからん」と怒ったという説もあり、どっちが正しいのかは知らない。ちなみに同じ話を聞いた竹田宮殿下は「いい話だね」と喜ばれたそうだ。
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