近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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随分前に読んだ本だが、時節柄。
著者は仲乗匠。サブタイは二・二六事件秘話「宮城 坂下門内の変」

 その時であった。いつの間にか長身の将校外套の男が一団をすりぬけて中橋の前に出た。その襟章は「1」、赤坂第一聯隊の将校である。
「お帰り―」男は一言、それだけ言うと黙したまま、中橋と握手をし、互いに見合っている。近歩三の将校は、この男二人の奇妙な応対に気圧されていた。ややあってその間隙をぬうように、中橋が告げた。
「申しわけありません。隊にはのちほどうかがいますので、一足先に始めておいてください」
 そして二人は、まるで余人は眼中にないかのように、返事も待たずに出口の方へ歩き出していた。

本書は刑死した中橋基明中尉に関して、弟氏の思いを中心に描いている。中橋は埼玉青年挺身隊事件に関わったせいで近歩三から豊橋の一八聯隊に異動となった。この未遂事件の首謀者は、中橋の中学以来の親友栗原安秀中尉。中橋が聯隊の見習士官に話したところによると、首相には柳川平助、陸相には小畑敏四郎を据えるという計画であったそうだ。柳川は栗原にとって同郷の大先輩であり、父勇大佐の同期であった。上はその中橋が、歩一八から原隊である近歩三に復帰することとなり、日本に帰ってきたときの描写である。聯隊の将校を差し置いて中橋をさらったのは勿論栗原。二人は中学の同窓であり、おなじように高級軍人を父に持ち、端麗な容姿と多彩な趣味、共に下戸であるところまで良く似ていた。栗原もまた中橋に先立ち原隊である歩一に千葉の戦車聯隊から復帰していた。これらの人事を為したのは、荒木派と目された補任課長小藤恵大佐であった。小藤大佐が池田俊彦少尉に語ったところによると、栗原に関しては、戦車を持ち出して暴れられては困るということで、どこかへやるということであったが、どこも受け入れる聯隊が無いので、自分が次の聯隊長になると内定している歩一にやったとのことであった。著者は、外の小藤人事の例として、武力発動に否定的であった菅波三郎、大蔵栄一、大岸頼好を遠隔地に逐ったと書いているが、この表現には疑問が残る。

似たもの同士の中橋栗原であったが、事件後の両者の父親の態度には差があった。栗原勇大佐は、遺族の世話人のような役を務めた。在郷とはいえ陸軍大佐であるから、他の遺族は心強かったのではないだろうか?一方中橋の実父垂井明平少将は、少なくとも表面上は中橋を突き放した。陸大にも進まず、ダンスやスケートに明け暮れ、あの”フロリダ”にまで出入りしていた息子に失望していたのだろうか。末弟の武明氏はそのような父の態度に飽き足らなかった。ただ、氏も「兄は国家革新なんてガラじゃなかった」と考えていたようだ。こういう人は他にもいる。高橋太郎少尉の弟治郎氏もそのようなことを書いておられたと思うし、事例は違うが田中静壹大将の奥様は、宮城事件のとき大将が蹶起将校を大喝したというのが信じられないと言っておられたそうだ。しかし軍人は大声を挙げるのが仕事だ。例え家でどれほど穏やかな人であろうとも。西郷さんの奥さんは上野の銅像を見て、「主人はあんな格好で外出しない」と従道さんに言ったそうだが、これはちょっと違うか。ともかく家庭での姿はその人の重要な一面であっても総てではない。

性陰険にして明朗を欠き、口舌巧にして外容の華美を好むこと甚だしく、性行浮薄にして自尊心強く、何事も自己一人の功績の如く他人に誇る傾ありき。


こんな酷いことを書かれている人は他にいない。処刑のときも中橋だけ三発の銃弾をくらっている。それについても何かあるんじゃないかと勘ぐりたくなるほど、酷い扱いだ。それほど中橋という人は陸軍村では浮いてしまっていた。しかし残された文章などを仔細に読むに、決して彼は格好だけの惰弱な人間ではない。国家革新への情熱の炎は確かに彼の中にはっきり燃えていたと思われる。


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