近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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引き続きサントス殺害事件について。田々宮英太郎氏の『参謀辻政信・伝奇』にも、この事件は出てくる。田々宮氏は一応、和知の証言と並行して、林の主張も前掲の著作から引用して載せている。しかし最終的には、第三者の意見として、門松正一大佐の著作『絞首刑』の一節を引用して、まとめてしまっている。しかし門松の著作に載っている事件の概要が、第三者の意見と言えるかというと、それは無理だろう。田々宮氏の引用部分は次の通りである。

 もともとサントス事件は比島の内政事項であったので、逮捕した川口少将は林軍政部長にひそかに連絡をとり、その処置について指示を仰いでいたが、当時林少将もこれを処刑すべきか、活用すべきかを遅疑逡巡していたのであった。
 そこへ偶然にも飛びこんできて、林を叱咤激励し、とうとう処刑の決心をかためさしたのが、杉山参謀総長の随行参謀で、バタアン作戦を視察中の辻政信大佐であった。
 それにまた因果なもので、林と辻とは刎頚の友であった。林の台湾軍司令部南方調査班長時代に、辻は班付として一緒に勤務し、南洋方面の先鞭者としてお互いに認め合っていた同志だった。
 辻の自我を通さねばやまないあの気勢で林を煽動したから、元来性格が温順である代りに確固たる信念に欠けていた林は、辻の処刑意見についに同意してしまった。
 ここに現在の禍根があった。
 「ある日、俺が参謀部の留守中の仕事をするためにマニラの司令部に戻っていると、林がサントスの処刑命令にサインせよというものだから、よく内容も見ないで盲判を押したわけだ……。そして軍司令官の代印までさせられたのさ……もちろんそれまでの経緯は深く聴きもしなかったが……」
 私は、和知氏の豪放磊落であるその性格をよく知っていたので、同期の林を全面的に信頼して盲判を押した、当時の心状が分かるような気がした。
  一方林は、今日になってその処刑命令の実際の責任者であるにもかかわらず、「あれは軍司令官代理として参謀長が処刑命令を発信したのだから、俺の関知しないことで責任はない」と検事に主張した。

一読して分るとおり、門松の語る事件の概要は、完全に和知・川口サイドのストーリーと一致する。それもそのはずである。門松は確かに事件に直接関わりのないということでは、第三者といえる(事件当時大本営参謀)。しかし戦後、マニラに収監されてから、和知に相談事を持ちかけたり親しくしている。そして和知について次のように書いている。

 和知氏は、比島要人サントス処刑事件や比島側要人戦犯裁判の取り調べのためにここに収容されたが、検事の訊問の際の態度が立派であったので、みんなから尊敬されていた。
 比島側検事の訊問に、 「比島政府要人には罪はないのだ。みんな当時の参謀長だった俺の責任だ。俺が指導したのだから俺を絞首刑にして、要人を釈放してくれ」と堂々いってのけた。
 和知氏のような人は旧将軍徒輩には絶対に見られないことで、私は心ひそかに和知氏を畏敬していた。(門松前掲書)

推測するに、門松は事件の概要を和知自身から聞いたのではないか。この人を「第三者として、醒めた眼でこれを見ることのできた数少ない一人」ということができるだろうか?
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林義秀『日本武士道の成れの果て』

これはエライ本である。何がどうエライかと言われると、うまく説明できないが、とにかくエライ本である。林は陸軍中将(26期)であり、フィリピン攻略時の第14軍参謀副長兼軍政部長であった。終戦時はビルマで師団長をしており、本間雅晴の裁判には出廷していない。林に言わせればこれが運の尽きであった。林と同期で14軍の参謀長をしていた和知鷹二が、何もかもの責任を林に擦り付けるように仕向けたという。中でも重要な案件が、ホセ・アバト・サントス殺害事件の責任であった。一般的には、サントス殺害は、辻政信にねじを巻かれた林が立案し、それが何とは無しに通ってしまった結果という感じで書かれることが多い。本書は、和知や川口清健(やはり同期)らの証言記録に対して、林が反駁していくという形式を取っている。勿論林自身の証言や、また彼の日記も収録されているが。少し本文を紹介する。

Q、和知さん昭和十七年四月十八日のホセ・アバト・サントス処刑の命令を見た事を覚えてるか。
A、只サントスと書いてあった。
Q、その命令は何所から貴方の所に来たのか。
A、その命令は林の所で立案されたものです。そして軍政部の関係のある皆の印を捺してあり、軍政部長林の印もあった。
Q、貴方がその命令を見た時林と云う印があったか。
A、ありました。

反駁、馬鹿者、何を吐かす、昭和十七年四月十五日バターンの戦闘司令所で俺が、貴様にセブでサントス云う者を捕えた相だなと云った時、貴様はうんひっつかまえたよ、彼奴はあの方面の反乱軍の首魁だ、それに紙幣を乱発して居ったので、川口に処刑せよと云ってやったよとぬかしたじやないか。自分で発令しておき乍ら今更白ばくれるな、更に仝年五月中旬川口がサントス処刑を本間に誥り且参謀部第一課で命令録を見せて貰った処、はっきり参謀部から発令されて居るのを見たと云ってるじやないか。

Aが和知、反駁が林である。

Q、直接訊問でサントスの処刑命令を見た時、之は単なる草案と見たと云ってるが。
A、途上のもの、軍政部の皆の印があった、私は橋渡しの印を捺いた。軍政部は決裁を経たものです。
Q、つまり第十四軍司令部に関する限り未だ最後的効果を持たぬであろう。
A、そうです
Q、何時効果を発生するか。
A、軍司令官の最後の印を取った後です。
Q、あんたの印は必要はないのか。
A、不賛成乍ら見たと云うだけ、参謀長に命令権なし。
Q、つまり印を捺いたのは見たと云う印か。
A、佐方繁樹が紙片を待って来て人の命を取るとは怪しからぬ、林と本間とが膝つき合わすべきもの、林は予てサントスの取扱を云われてる、印があった方が林が本間の所に行き易いと思うた。

反駁、何をぬかす、人の命を取る重要な命令を軍司令官に黙って出しだのは貴様じゃないのか、軍政部は此の命令には絶対に何も関係しとらん。又佐方はこんなものを持ってバターンに行った事はないぞ。

Q、自分の質問は貴方の印は簡単な言葉で、見たしるしだけで、第十四軍参謀長と云う重い役目の印でないのかと云うのだ。
A、命令権のない者の印です。

反駁、命令権のある重要な印であればこそ之を受けた川口はサントスの死刑を執行してるのだ。

Q、若しも貴方の印を捺いた事が、林、本間の会見を促進するものなら、一番実際的な事は貴方が本間に電話するか、林を呼ぶべきかである。
A、故に林に自ら来いと云うた。佐方お前帰れ、お前の来た事だけは本間に云う、お前では本間に失礼、サントスにも失礼だと。

反駁、ナニ失礼だと、口幅ったい事をほざくな、此の破廉恥漢奴貴様の不法な処刑命令のお陰で本間さんは死刑になり、サントスは軍法会議にもかけられず、恨を呑んで死んで居るのだ、馬鹿垂れが。

大体全編に渡ってこんな感じである。林の主張は一貫して、サントス処刑に関して軍政部は全く無関係であり、それどころか林自身、和知から直接サントスを処刑したことを聞いたというものである。
また次に引用するように、ロハスへの処刑命令についても、通説とはやや違うことを述べている。

Q、ロハス将軍の処刑に貴方は参謀長と云われる者から処刑命令が出たと云われてるが。
A、当時私は上京中、命令には参謀長の職印が押されてあった、参謀長の代理は林。

反駁、参謀部で発令しておき乍らまだうだうだぬかす、当時の実情はこうだ、昭和十七年六月十七日ミンダナオ島の戡定作戦から帰って来た中山源夫作戦課長が、同日私の所に挨拶に来てミンダナオ島の方は御陰で片がつきました、時に反乱軍の首魁のでロハスと云う者を捕えて居るのです。之が処置を明十八日現地部隊に指令してやらねばなりませぬ、参考にし度う御座いますから副長閣下の御意見を聞かして頂き度いと云うので、勿論あんたの方の仕事だが四月四日の杉山さんの御指示がある、之を参考にされては如何かねと答えた、参謀部の方の意見を纏め、和知の承認も軍司令官の決裁も得て十八日処刑の命令を生田部隊に出されたのである、然し生田部隊長はロハスを殺さなんだ。
 和知は此の処刑命令に参謀長の職印が押されて且参謀長の代理は林と云って居るが、真紅な嘘ぞある、処刑の命令の様なものに職印なんか捺す事は絶対にない又参謀長の代理は林と云って居るが、軍司令部が五月中旬バターンからマニラに帰還してからも続いて林は軍政部長専念で、参謀副長の仕事には帰らなんだ、和知の上京中の代理は作戦課長の中山源夫大佐だった。本件は後述の秋山紋次郎大佐の証言でも明である、和知の上京は六月二十二日だ、十八日の発令当時は和知はマニラに居た。
 それから此処に一言し度いのは本間さんの決心変更である、六月二十二日軍政事項報告の為本間さんの部屋に行った処、林君、儂は此の十八日参謀部から出た、ロハスの処刑命令を許可しておいたが、儂はロハスを助けようと思う、之を参謀部に伝えて呉れと云われ、中山に之を伝えた事がある。即ちロハスを助けたのは本間さんである。

ロハス殺害命令が参謀部から出たことは和知も認めている。しかしそれは和知の不在時で、不審に思った生田部隊の神保中佐が機転を利かせて処刑を行わず、東京から帰ってきた和知に確認を取って事なきを得たというのが、通説である。更に言えば、和知の留守中に処刑命令を出したのは、林であるようなことまで、和知は仄めかしている。しかし林に言わせると、処刑命令は、和知がまだフィリピンに居る時に出たもので、之を変更したのは軍司令官の本間自身であるとのことである。

一方最近出た『笹川良一と東京裁判2 「戦犯者」を救え』に、処刑の実行責任者である川口少将の手紙が収録されている。彼や和知がこの事件をどう捉えていたかがよくわかるので以下、紹介する。

(前略)小生は何故6年にもならなけれはならなかったか?それには種々ワケがある。
其一は当時小生に命令を下したH中将か本日になって知らぬ存せぬの一点張りであったこと、(中略)
其の三は貴兄か獄中記で筆を極めて嘲って居られる彼の妻と遊んで許り居た比島元軍司令官K中将がHの為証人台に立ち、実に臆面もない偽証をして小生を罪に陥れんとした。何故Kは斯る破廉恥を敢てせしや。それには二つ理由がある。
一は小生か断った弁ゴ士は偶々Kの弁ゴをもした。此男は仲々のやり手ではあるが、私が断った為に面子を失った。又前記の様に一般の評判は私の方に同情が集った。それでKは小生をやっつける事に依って其の弁ゴ土の御機嫌を取り、自己の再審其他を有利にせんとした。今一はKといふ男位嫉妬心の強い男はない。裁判の初期、私は無罪かも知れんといふ評判が高かった。それが彼にやけてしようがない。何でも川口を罪にし度い。之か彼の念願である。洵に以て情ない将軍ではある。斯くの如き奴か日本軍の上層部に居たから敗戦となったのだ。
尚は和知は小生に与へられた処刑命令の最後の文案に捺印した。之は全く盲判である。何となれば此時はコレヒドル作戦で参謀長たる和知は夢中になって居た。それで何の気なしに判を押した。然し法律上は盲判では通らない。けれども彼はロハス前大統領が矢張りHの独断命令で死刑執行されんとするのを聞き、ロハスを救助した。ロハスは其の恩義に依って和知を不起訴にした。積善の家に余慶ありである。当然なことと思ふ。然るに小生の部下に依って処刑されたサントスといふ比島大官は其の最后か実に立派であった。弁ゴ士か私の発言を抑へんとしたが私は此の美事な行動を是非天下に顕彰し度いといって弁ゴを断ったが、此のサントスは今や比島の新英雄となり、毎年五月十五日を以てサントス日となし、国民精神作興に努めて居る。比島としてはサントスの為和知を不起訴とし、其上に尚ほ私をも不起訴に出来なかったのであろふ。
尚ほ小生か軍に対し三度サントスを助けろと意見具申したに拘らす、H中将は何故に小生の意見を容れさりしや。実は巣鴨に入る迄疑問であった。然るに和知から聞きやっと真相か分った。夫は私か最初にサントスを助けろといふ電報を打った時に大本営から辻〔政信〕参謀か来て居て、H中将に対し直に殺して了ヘと指示したのだ。Hは辻の御蔭で比島軍の軍政部長になって居たので、自分の後輩たる辻に対し頭か上らんのであった。Hといふ男はKと同様実に卑劣な奴で、又オッポチュニストでもある。

文中のH中将というのは林を指す。K中将というのは黒田重徳のことである。黒田の証言は林の本にも収録されており、林に有利な証言をしたということで、彼も感謝を捧げている。非常に饒舌な人物で、第14軍司令官としては、兎角評判のあった人だが、それはおいておく。辻と川口はこの後、ガダルカナル島において、決定的な破局を迎える。辻に対する軍人仲間の評価は、戦後においても、高く評価する人とぼろ糞に言う人に二分されるが、林は前者、和知・川口は後者に含まれる。
中野不二男『カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットはなぜ死んだか』文春文庫
オーストラリアにおける日本軍POW1号にして、カウラ事件で文字通り突撃ラッパを吹き鳴らし、”戦死”した零戦パイロット”南忠男”。彼は本当に事件の首謀者なのか。

著者の丹念な調査は、遂に最後には南の生家まで辿り着く。

この時代に興味のある人なら読んでおいて損は無いでしょう。昨晩読んだ私が言うのも変な話ですが。



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