近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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1919(大正八)年前半
この年宇都宮太郎は、年始から天道教の幹部と会ったり、朝鮮人軍人の待遇改善を要求したりと、鮮人悦服を目指し余念が無かった。そんな中で三・一事件が起こる。

三月一日 土 晴
 午前、秋山大将、野田逓相、古賀長官を朝鮮ホテルに往訪。
 古賀廉造重ねて来訪、午餐を与にす。
 午后三時頃、電話で警務総長より、形勢不穏に付歩兵一中隊の出兵を請求し、直に之に応じ、予て計画せる中の一中隊を京城に派遣し、憲兵巡査と協力せしむ。
数日来益々不良の形勢を現はし来りしが、本日午后に至り基里蘇土学生等を基幹とせる数干(後には万以上に上りしこともありしが如し)の群集は、独立の宣言書を撒布し、独立万歳を叫びつつ街路を練り歩き、一部は昌徳宮、大漢門内にまで闖入するに至り、歩兵隊(朝鮮歩兵隊)、憲兵隊などにて辛ふじて駆逐せり。形勢此の如くにして逐次兵力を増加し、歩兵七中隊、騎兵一小隊を使用するに至れり。併し夕景より漸次鎮静に帰し、夜に至り歩三中を残し他は引揚げたり。此日は宣川、平壌、元山等にも騒擾あり、人心一般に不穏なり。按ずるに此度の独立運動は、内外広く気脈を通じ組織的にして根底あり。耶蘇教徒、天道教(これは味方にせんと思ひ居りしに、来て見ればすつかり敵方に駆逐しありたり)徒、学生等、新進有為の分子主動と為り、外国人、殊に宣教師(現に本日も自動車にて示威行列を押伍せり。其外証跡少からず)の後援を得て(恐くは米国の如きは、少くも官憲の一部にも引援者ありと認めらる)蜂起せしものにて、此度は勿論鎮圧し得ることは疑なき所なれども、其根底は頗る深く、将来の形勢は甚だ憂ふべきもの無きにあらず。これ畢竟彼等一派の誤れる対韓根本政策(無理に強行したる併合)、これは納得せざる婦女と無理に結婚せしが如く、彼等は甚だ誤れり。今暫く忍耐して道を尽せば婦女進で婚を請ふべく、然らざるも無理なく得心せしならん。返す々々も残念なり。これが為め支那以下東方諸邦の心を失ひ、帝国開発膨張の前途を困難にし、鮮人悦服の大障碍と為り、朝鮮統治の大面倒を胚胎せしこと返す々々も遺憾なり。今日鮮人の怨嗟動揺は自然の数なり。加ふるに爾後の施政も有形上の施設にのみ急にして、人心の収攬は丸で閑却し、第一鮮人を馬鹿にし、社交上(殆んど社交なく、殆んど没交渉也)にも、又た俸給や任用等にも極めて愚劣なる差別不公平を極めて無分別に現実し、上下平然として泰平の夢に酔ひつゝあるが如き、誠に非常識の極みなり。此等根本的の改善を断行するにあらざれば真の統治は得て期す可らざるなり。而して之を治むるに道を以てすれば、今日と雖ども為して為し得ざるにはあらざるべきを信ず。例へば無理に結婚せし不得心の妻女も、夫にして爾后誠心誠意之を遇せば、終には彼も心を動すべく、其中には子供も出来真の夫婦の情合も発生せざることあらざるべく、余は必ず斯くあらせ度く熱望し、又だ其途あるを自信するものなり。

「これ畢竟彼等一派の誤れる対韓根本政策」の彼等とは、韓国併合を強行した勢力(大体宇都宮と敵対的な長州閥と考えてよいだろう)を指している。

三月二日 日 晴
 京城は本日は割合に静穏にて、午后約四百米の労働者、学生の一団、独立万歳を唱へつつ鐘路警察署前に至り、主動者らしき者約二十名程捕縛せられ四散せし外無事なりしも、地方に於ては祥原(中和の東方三哩)に於て暴徒警察を襲ひ、署長以下を捕縛し武器を奪ひしを始めとし、義州、鎮南浦等数ケ所に小紛擾ありたり。
 夜に入り、京城にても二、三学校の学生寄宿舎を脱し、多人鮮人と共に南山に集合するの模様ありとて、総督府、警務総監部等の照会により、将に撤退せんとせし歩兵三中隊(一部は残り、他は新に派遣す。本日も朝より七中隊を使用せり)を引続き駐派(京城に)、明三日の警備までも続勤せしむ。又総督の命に基き、第十九師団長に、平壌の部隊を以て平壌付近の暴徒(祥原等)鎮圧を下命す。

以上は二日目の描写。

三月九日 日 雨
 此日、京城の電車々掌、運転手、同盟罷業す。
 地方は各地に妄動断続す。
 京城及平壌には、明十日を期し大妄動を為すとの情報あり。京城の鮮人商店は本日より殆んど全部閉店、形勢陰鬱なり。京城に現在せる歩兵一中隊の外、歩三中隊、騎二小、砲一中を明日(一部は今夜)京城に入れ、示威鎮圧に任ず。
 此度鮮人の運動は、朝鮮独立を標榜し、一寸人聞き好く、生まじいの議論にては対抗やや困難なり。之に対するには、余が年来の主張を以て大に同志を結合し対抗の必要を感じ、之を左の如く記述し、
    大本願
凡そ物合すれば則ち強く、分るれば則ち弱し。是れ天地の真理なり。而して世界は未だ強弱無差別一切平等の黄金時代に達せず。吾人は合同共存、吾人共同の福祉を開拓増進し、融合和楽真に世界太平の民たらんと欲す。是れ吾人年来の大本願なり。同憂同感の士女来て吾人の志業を助成せよ。
 漢文訳略す。
 鮮文其他に訳せんとす。
 先づ金応善を招き、改めて余の精神を告げ、此文字を示して其中心よりの賛成協力を求め、其同意を矢ふを認め、其妻女トシ子を正式に入籍せしめ、要すれば余が妹として一旦余が籍に入れ、更に転籍せしむるも苦しからざることを告げ、是れより一層此本願達成の為め同心協力すべきを求め、次に参将李煕斗を招き、同く此大本願を示して同心協力を盟はしめ、次に鮮人内に同志を拡張することを相談し、先づ近日中に元と総理大臣李完用を同伴来訪せしむ

以後、宇都宮は、日鮮を問わずこれと思った人に、この大本願を示し、協力を求めている。

三月十一日 火 晴
 朝鮮の騒擾は益々蔓延、北は義州、会寧より、南は光州、釜山に及び、最早姑息の防圧手段にては到底奏功し得可らざるものと判定し、一般的区処の必要を感じ、職制上之に関する総督の命令を必要とするを以て、自ら之を相談するの決心を固め、午前に先づ大野をして村田少将を説かしめ、村田をして長谷川総督に説かしめ、余は午后総督を往訪せんと手配せしに、大野の説破にて村田先ず同意し、両人にて総督を説きしに、此度は案外容易に同意し、余は殆んど行くの必要なかりしも、既に往訪を申上ありし故往訪、其上の打合を為、帰途山県政務総監を訪ひ、一般に軍隊を使用するの自由を得たるに付き、地方官憲等との打合を為し帰邸す。総督の命令は、
  一、目下の騒擾は尚は蔓延の兆あり。
  二、朝鮮〔軍〕司令官は所要の兵力を使用し之れが鎮圧を図るべし。
                    総督署名
 此命令に依り軍隊の行動初めて自由と為り、鎮圧の奏功も有望と為れり。

村田少将というのは、総督府付武官の村田信乃のこと。大野というのは自分の参謀長であり同じ佐賀の大野豊四。ことここに至り、最早武力介入は不可避と、宇都宮も遂に決断を下した。武力使用の許可を総督たる長谷川好道から得るために、まず村田を口説き、その足で総督の許可も得た。長谷川は武断派として名高いが。

三月二十三日 日 晴
 早朝、内野少将来訪、暴徒鎮撫の為め其管区内の兵力不足を訴ふ。
 午前、歩兵第七十八連隊(長、大佐堀田信直)第一期検閲を視る。二中隊を視しが、内地にては先づ中等やや下る位の程度なり。
 此不在中、山県政務総監来訪(口演要旨を返却す)。
 京城、平壌等は一、二小運動は無きにあらざるも、大体に於いては表面は概して平穏、今や南鮮尤も騒擾に付き、本日歩兵第四〇旅団長に其旅団(一大隊欠)を以て之を鎮圧すべきを命令す(忠清南北道、黄原道、慶尚南北道、全羅南北道の七道)。
 支那と交渉中に付、臨機の出兵(間島へ)は見合せられ度しとの陸軍省の電報、総督府に達す。又琿春領事よりも出兵請求を取消し来りたる旨の電報、第一線隊より転宅し来る。
 夜十時過に至り、京城並に付近村落暴動の報あり。京城屯在三中隊の外一中隊を出動せしめ、夜十二時頃には概ね鎮定。一中隊も一時過には主力は帰途に就けり。此暴動は京城の周囲諸村落略ぼ同時一斉に起り、同一の計画に基くものなるには明瞭なり。地方にても此二十三日は期する所ありしものの如し。

蜂起が計画的であることを認識している。

四月一日 火 晴
 午前、高島師団長、内野旅団長を官邸に招き、兵器使用等に関する余の希望(心持強硬に)を述べ、要旨の筆記を与ふ。
 日本に同情を有すると云ふthe Associated Press通信員J.E.Sharkeyなるもの(参謀本部よりも紹介あり)来訪、暫時対談。大野少将、山本中佐をして細部の応答を為さしめ、明日午餐に来るべきを約し、余は席を外づす。三月十二日の訓示及希望事項(余自ら起稿のもの)を与ふ。
 先日来京城は此日も無事、但し軍隊の警戒は厳重を継続す。
 夜十時過、長谷川総督自ら電話口に出で、上京中の山県政務総監より、内閣より速かに朝鮮の妄動を鎮圧する為め増兵の必要有無問合られたりとの電報来れりと相談あり。目下の兵力のみにても鎮圧は出来る見込なるも、十分に増兵、迅速に鎮圧するの必要(最初よりの余の持論)なることを答へしに、明朝来府せよとのことにて電話を切る。

兵力増加の必要性を聞かれた宇都宮は、目下の兵力でも鎮圧できないことはないが、兵力増強を断る謂れもないという態度。

四月二日 水 曇後晴
 早朝、余の意見を言表はすべく下記電報案を起草し、参謀長を招き一見せしめたる上、自ら携へて総督に出せしに快く同意、之に内地より憲兵二百の臨時派遣を希望することを付記し、総督の名を以て本日発送せられたり。
  目下ノ兵力ノミニテモ鎮定シ得ル見込、併シ此際十
  分ノ兵力ヲ用イ迅速ニ平定ノ効ヲ挙ケ、且ツ当分之
  ヲ威圧シ置ヲ必要ト信ス。之カ為メ歩兵約五、六大
  隊ノ増派ヲ得ハ幸ナリ。委細八本日出発上京ノ軍参
  謀長ヲシテ陳述セシム。
Sharkey、山本参謀、古城副官と与に午餐、大に打解け談笑、午后三時に至る。

結局兵の増加を求める電報を打つ。

四月十八日 金 晴 
夜総督を訪ひ、丁度大島副官の復命に依り、十五日水原郡発安場付近提厳〔堤岩〕里に於ける有田中尉(12/79俊夫)の鎮圧に関する真相を聴き、帰て軍より差遣せる山本参謀の詳報に接す。即ち中尉は同村の耶蘇教徒、天道教徒三十余名、耶蘇教会堂内に集め、二、三問答の末其三十二名を殺し、同教会並に民家二十余戸を焼棄せるの真相を承知す。児島警務総長(巡査、巡査補も参加せる故)も来会、浄法寺師団長、大野参謀長、山本参謀と凝議、事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども、斯くては左らぬだに毒筆を揮ひつつある外国人等に虐殺放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益と為り、一面には館内の暴民を増長せしめ、且つ鎮圧に従事しつつある将卒に疑惑の念を生ぜしむるの不利あるを以て、抵抗したるを以て殺戮したるものとして、虐殺放火等は認めざることを決し、夜十二時散会す。

宇都宮日記刊行前の朝日新聞の記事でも、一番大きく扱われた堤岩里事件というのが、これ。

四月十九日 土 晴 
 早朝総督を訪ひ、政務総監の列席を求め、提巌〔堤岩〕里事件に関する決心其理由等を述べ、総督の同意を得るや、総督府各部諸機関に於ても此件に関する答弁等は全然同一歩調に出で度き事を請求して、総督、総監の承諾を得て帰る。
 然るに午后に至り、総督より再び会ひ度しとのことに往訪せしに、今周知の事を全部否認するは却で不利なる無らん乎、其幾分は過失を認めて行政処分にても為し置くこと得策にはあらざる乎とのことに、此夜大野をして前決心を遂行し度内意にて明日往訪せんとするの意あることを内談せしめしに、総督は矢張行政処分丈は為し置を可とする旨復命せし故、来合せたる児島中将、大野、山本等と相談中、浄法寺、内野も来会し、虐殺放火は否認し、其鎮圧の方法手段に適当ならざる所ありとして三十日間の重謹慎を命ずることに略決心、散会せしは午前一時近かりし。

処分するのは簡単だが、状況がそれを許さないので、致し方ないから有耶無耶にしようとしたのは宇都宮で、それに対し行政処分だけでも下すように求めたのが長谷川好道の方だった。

四月二十日 日 晴
 午前十時、浄法寺師団長、児島憲兵〔隊】司令官、内野第四十旅団長、大野参謀長、山本参謀を官邸に会し、提巌〔堤岩〕里事件善後策を再議し、各人の意見を徴し、其以上の決心は保留し総督と熟談決定することにして散会、午后総督を訪ひ左の如く決定す。
  虐殺、放火は飽まで否認し、唯だ鎮圧の手段方法其
  当を得ざりしものとして重謹慎(大隊長にて二十日、
  連隊長にて加罰十日、計三十日)に処すること。
 浄法寺、児島、内野、大野、山本等再会、東京への電報案等研究、夕刻散会。

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坂本龍彦著『風成の人 宇都宮徳馬の歳月』 岩波書店

宇都宮太郎の長男徳馬の生前に出た評伝(?)。東京府立一中から陸軍幼年学校予科に進んだが、幼年学校卒業後、陸士ではなく旧制水戸高校へ進んだ。関東大震災での朝鮮人虐殺や大杉栄の殺害に強い衝撃を受けたからだという。そのとき既に父太郎は病死していた。

徳馬が東京府立一中に入学したとき、太郎はひどく喜び、初めて銀座に連れて行ってくれた。

だがカフェーライオンをレストランと間違えて入り込み、女給のいる薄暗い席で、苦虫をかみつぶしたような顔をして、洋食をご馳走してくれた、という。

徳馬の府立一中合格は、太郎が三・一事件の始末に苦慮していた時期だったが、日記には「万歳万歳万々歳」と書いて喜びを露にしている。しかし太郎の真の願いは徳馬の幼年学校入であり、これまでにも何人もの旧部下を、家庭教師にしている。このとき、いわば総仕上げとして家庭教師を頼まれたのは、歩一時代の部下阿南惟幾大尉であった。

太郎の持論は、「日本人は朝鮮人と結婚しろ」というものであり、これは徳馬も聞かされたことがあった。『ヨボ』という侮蔑的な言葉の使用も厳しく誡めていた。三・一事件のときも、「宇都宮が弱腰だから朝鮮人が付け上がるのだ」という声が支配的であり、同郷の後輩であった真崎甚三郎は、強硬弾圧策を進言するため京城まで来たが、かえって「非常識」だと諭されたという。後に太郎の実弾発砲禁止命令が、国際連盟での日本の立場を有利にしたとき、真崎は初めて太郎の真意が解ったと、徳馬に語った。太郎は原敬内閣のとき、朝鮮総督に擬されたが、これは長州閥の反対で実現しなかったと、徳馬は書いている。

水戸高校から京大に進み、四・一六事件で検挙される。出獄後、トレーダーとして一財産築き、株が縁で妻も貰った。これが駒井徳三の娘であった。駒井は札幌農学校出身の大アジア主義者で、郭松齢が反乱を起こす前に相談をした相手でもあった。満州国の初代総務長官であったが、事志と違い辞任した。東支鉄道の買収も手がけたが、そのときソ連から、「ついでに沿海州も買わないか」と言われて、荒木貞夫にそのことを伝えたところ、「いずれタダでとるからいい」と荒木は嘯いたという。荒木は太郎の親しい後輩であり、そのため徳馬も彼にはそれなりの好意を抱いているが、この件については、

「荒木さんは、世間が考えているよりははるかに常識人で、冗談でいったのだろうが、一般に軍人や力の信者は、戦争の費用や国民の犠牲を無視してかかるから警戒しなければならんよ」

と語っている。荒木については他にも、戦争中に会ったとき、

「英米の捕虜を虐待したり、銀座街頭に英米の国旗を書いて足踏みにする当局のやり方は、ばかげていると攻撃していたので、見直した」

とも言っている。

トレーダーをやめた後は、ミノファーゲン製薬を設立し、戦後は代議士として軍縮にその生涯を捧げた。

三・一事件のときの太郎の態度について、徹底弾圧を企図した総督の長谷川好道に反対し、兵力の増強にも反対であったと朝鮮の史家は書いているそうだが、実際のところはどうだったのか。本人はどう書き残しているのか、日記を見てみたい。



昨日のことになるが、四天王寺の古本市に行ってきた。昼飯抜いて3時間くらい徘徊。最後は本部からダンボールにつめて宅配便にしてもらった。このサービス、京都ではいつも使っていたけど、ここでもあったのは知らなかった。以下主な戦利品。

『コタバル敵前上陸』佗美浩
内容的には、岩畔豪雄の本(『シンガポール総攻撃』)と同じような匂いがして、あまり面白くなさそうだけど、珍しいので。

『張作霖』白雲荘主人
昭和3年に出版されたため筆者は匿名だが、序文は菊池武夫が書いているので、大体どういう立場の人々かは分る。

『児玉大将伝』杉山茂丸

『プリズンの満月』吉村昭

『カウラの突撃ラッパ』中野不二男
ちょっと前に確かドラマにもなったカウラ事件についての本。

『尾崎士郎と僕たち』影山正治
組み合わせが面白かったので。

『当世畸人伝』白崎秀雄
ゴング格闘技に連載中の「木村政彦は~」に登場した、木村を完膚なきまでに投げた柔道家阿部謙四郎について一章割かれていたので。

『日露大海戦を語る』東京日日新聞/大阪毎日新聞」
陸軍編は既に持っていたが。陸軍の1.5倍くらい分厚い。

『日本武士道の成れの果て』林義秀
サントス処刑事件に関する著者と和知、川口の法廷での対決を収録していて興味深い。

次は来月の知恩寺。
前記の山西残留問題における日本側の最高責任者は第1軍司令官の澄田中将だが、その次にくるのは第114師団長の三浦三郎中将となる。三浦は数少ない(唯一?)憲兵出身の師団長であるが、河本大作による残留将校の区分によれば、彼は利権派であり、実際帰れるチャンスをつかむとさっさと帰国している。

遠藤三郎は戦後、軍備の撤廃や中共政府との国交樹立を訴えてまわったため、元軍人のみならず多くの人の憤激を買った。山口県での遠藤の講演を聴いた三浦もその一人で、郷友会の機関誌に、その講演の内容を歪曲した記事を載せた。

辻政信は、遠藤と片山哲が中共から4千万円を受領したと吹聴してまわった。そして遠藤に抗議されると「渡されたと言ったが、閣下が受け取ったとはいっておりません。したがって訂正の要は認めません」と言い逃れた。

MSA協定批准に関する公聴会に、先輩の酒井鎬次と一緒に呼ばれた時、批准賛成の酒井に対し、遠藤は軍備は国を守るよりも戦争の導火線になりやすいし、日本のような国は軍備では絶対に国防は不可能であるのみならず、中ソとの軍備拡張競争を激化せしむるとして、反対意見を述べた。

衆院予算委員会の公聴会では世界連邦論、自衛隊無用論をとうとうとぶちまくり、それに元スペイン公使の須磨弥吉郎が真空論で噛み付くという、戦中とは逆の珍現象も起こった。

同期生会である二六会は、遠藤への弾劾文への賛意を集めるアンケートを行った。親友の満井佐吉からおかしなアンケートが回ってきたと通報を受けた遠藤は、幹事の元を訪れて抗議したが、結局同期会への出席は取りやめ、退会者という扱いとなった。26期ではほかにも、モンスターと呼ばれた田中隆吉が同期の多くから義絶されている。

今村均は遠藤の中国訪問に反対であり、ソ連はもうすぐ潰れるんだから、中国なんか行ってもしょうがないと、中国行きの断念を薦めた。しかし人間が出来ており、遠藤が戦犯将官の遺骨を持ち帰ってくると、わざわざ空港までこれを出迎え、感謝を述べている。
米濱泰英『日本軍「山西残留」国共内戦に翻弄された山下少尉の戦後』オーラルヒストリー企画

夏からこちら忙しく、過去最悪レベルの積読状態の中、ようやく読み終えた一冊。Amazonのレビューに「本書によって山西残留事件は総括されたと言える。本書の登場で、山西残留事件は、今後、歴史として扱われるようになる。 」とあるが(このレビュアーは日華事変と山西省の管理人さんではないかと思う)、正にその評通り。山西残留問題というと、『無国籍兵団』と平野零児の著作を二冊ほど読んだぐらい、城野宏の本はずっと探しているが未だに入手できない当方にとって、この本はまさにかゆいところに手が届く内容だった。

特に私が嬉しかったのは、この件に関わった高級将校たちの人となりが、かなり詳しく描かれている点で、中でも今村方策への評価がかなり高いことには、なんともいえない感慨を抱いた。今村は太原陥落時に服毒自決したが、毒の効きが悪く苦しんでいたということを、確か平野が書いていたと思う。『無国籍兵団』の巻頭には、この「事件」を伝える当時の新聞の切り抜きの写真が載っているが、その中に、仙台在住の今村の実姉武田さんのコメントを伝える一紙がある。この方は均大将よりも上のお姉さんで、34期の武田功大佐のお母さんにあたる人(だと思う)。

それにしても宮崎中佐というと、岡村の身の回りの世話をしていた人ぐらいの認識しかなかったが、ここまでの人物だったとは。

とにかくもう少し踏み込んでみようと思い、『白狼の爪跡』を注文した。

    
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