近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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石川正俊『鵜沢総明』技報堂


光市事件の影響で鵜沢総明の伝記を読んだが、これが瓢箪から駒。鵜沢博士といえば相沢三郎の弁護に立ち、東京裁判では弁護団長を務めた人。これだけを見たらちょっと皇道がかったお爺くらいに思えるが、どうしてどうして。その弁護士人生は中々味がある。

鵜沢は幼名を惣市をいったが、惣市が12歳のとき、父が無実の罪で入獄した。しかし惣市の父は、決して罪を認めず、過酷な未決囚の生活に耐え、3年半後に無実で出獄した。この辺りの話は、『寄生木』の小笠原善平の父親とそっくりであるが、当時はよくあった話なのだろうか。惣市は父の入獄のお陰で進学を諦め、高小を卒業すると母校の先生になった。しかしその才能を惜しんだ校長の斡旋で、太田和斎という人の塾に通えるようになった。

父が出獄すると、惣市は東京に遊学に出た。このとき弁護士になりたいと父に言ったら、父は「弁護士になるなら、無実の罪で監獄に入っている者の心で、法律を修めるがよい」と言って、許可してくれた。東京遊学1年で一高にパスすると、病気で1年延期するもこれを卒業し東京帝大独法に進んだ。このとき名前を総明に改めている。また一高在学中に植村正久に出会い、クリスチャンになっている。

卒業後、帝大の恩師レンホルム教授の法律事務所で働き始めるが、自分の保証人でもあり、父の弁護人でもあった長谷川深造(長谷川時雨の父)が東京市参事会員の涜職事件に関与したため、独立してこれの弁護に当たった。このときの弁護は「非公吏論」というもので、この弁論を聞いた星亨は「本当の弁護論だ」といって賞賛した。

その後も日比谷焼討ち事件、幸徳秋水の大逆事件、岩下清周事件、朝鮮総督暗殺未遂事件、京都ブタ箱事件、虎ノ門事件、北九州事件、松島遊廓事件、佐郷屋留雄事件、帝人事件、尾崎行雄の不敬事件など多くの事件で弁護人を務めた。

衆議院議員としては政友会に属し、原敬や西園寺公望の信頼厚かった。しかし、朝鮮に関する制令はすべて法律案によらず緊急勅令で律しようとする勅令三二四号には烈火のごとく怒った。原との対談ではこれを千古の悪法と断じ、六法全書を机に叩きつけて議論したため、六法の綴じが割れてばらばらになったという。新米の癖に党議に逆らうものは除名してしまえと院外団が殺気立ったが、朝鮮人の人権の根本に関する問題であるとして断固反対を貫いた。穂積陳重これを聞いて鵜沢に次のような手紙を出している。

貴兄は固く法律家の節操を守り 毅然として不動 ついに堂々たる大政党をして反省せしむるに至り 学者の面目を全うせられ候趣
小生はこれを聞いて欣然雀躍致候事にござ候

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大山柏『金星の追憶』

当時陸大兵学教官で最も口の悪い工兵出身の高○中佐(十七期)がいた。この人は頭が余りにも鋭ど過ぎて剃刀の様で、常に辛辣な批判をするので往々誤解を受け、為に有為の材を持ちながら陸軍生活も短命に終った人であり、「口は禍の元」を地でいった人である。しかし不思議なことには私とは別懇の間柄で、今以て(昭和三十八年)尚音信を通じ、同氏の居所を十七期会に通報したのも私なのである。
 さて私が殿下に御供しているときは、よく金武官と並んで歩く。すると例の高○中佐、何んでこれを見逃そう。私共が行遇った途端に大声で私に向い「銀武官!」ときた。並みいる連中ドット笑う。なる程にわか分限の御附きだから、本職の金武官に対し銀武官は誠に当意即妙。いや皆んなが悦ぶのなんの。それからは皆んなで私を銀武官と渾名してしまった。だが殿下だけは全く御存知なかった。

今その場所をハッキリ記憶していない。恐らく富山近所だったかと思う。在郷軍人会の面々が殿下に御手植の御願にきた。担任教官(香月中佐と記憶する)と交渉、これは私がした結果、某月某日昼食休憩時に行われることになった。その日がきた。私が丁度折悪く殿下の御側にいた時だった。在郷軍人分会長の中尉殿、直立不動の姿勢も厳格且つ大声に「銀武官殿! 御手植の準備が完了しました」ときた。これには殿下御自身が余程驚かれたらしく、私が未だ嘗て聞いたことがない怒声を以て「ここにおられる方は銀武官ではありません。大山大尉です」で、気の毒したのは分会長、目を白黒している。彼氏は私を銀と堅く信じ、何んの疑もなかったのだ。

著者は大山元帥の跡取りで母は山川捨松。文中の殿下は王世子李垠殿下のことであり、金武官というのが、宇都宮太郎に育まれた金吾こと金応善である。というわけで、ぼつぼつ宇都宮日記第三巻に取り掛かりたい。
筒井清忠『二・二六事件とその時代』ちくま学芸文庫
圧巻はなんといっても第四章・昭和陸軍の原型(プロトタイプ)ーバーデン・バーデンから一夕会までーです。二葉会、木曜会、一夕会のメンバー表や出欠、討論の内容にいたるまで、非常によくまとまっており、脚注も含めて読み応えがあります。入手も容易ですし、お奨めの一冊といえるでしょう。

磯部夫人をモデルにしたオペラがあったらしい。
三枝成彰 新作モノオペラ「悲嘆 Grief」

舞台は1936年、東京の簡素な家の寝室。着物を着た若い女、トミコが夫の亡骸の傍らに座っている。その夫は226事件の首謀者の一人として捕えられ、刑死したのだ。夢のように幸せだった結婚生活はたった半年で終ってしまった。トミコは、夫を裏切り刑死に追い込んだ人々を呪わずにいられない。

ふたりが出逢ったのは、トミコが15歳、彼が23歳のときだった。大恐慌で父の事業が破綻、舞妓となったトミコは老人の愛人となることを強いられる。その苦境から彼女を救い出してくれたのが彼だった。運命に導かれるように恋におちた二人はまもなく結婚。トミコは幸せの絶頂に酔いしれる。しかし、幸福は長くは続かなかった。

■指揮:森本恭正
■ソプラノ:中丸三千繪
■演奏:
 オーボエ:庄司知史  クラリネット:野田祐介、有馬理絵、伊藤圭
 パーカッション:永曽重光  シンセサイザー:岩井美貴
 ヴァイオリン:甲斐史子、花田和加子、友永優子、田中園子、
 横山和加子、上野真理、佐藤まどか、宮本恵、小松美穂、宮野亜希子
 ヴィオラ:木佐貫美保、吉田有紀子、阪本奈津子、佐藤佳子
 チェロ:大友肇、松本卓以、多井智紀

見に行った方いらっしゃいますか?
第7章 米内内閣倒壊 ―畑陸相辞職と近衛文麿の役割
本書の三分の一を占める第7章なので、さくっとまとめますと、
  • 米内内閣の倒壊の一番の原因は近衛の新体制運動であり
  • 畑の辞職も結局はそれと無縁ではなく
  • 米内が、畑の辞職に全く感付いていなかったわけはない
という感じです。

もう一点、畑陸相が統帥部から辞職勧告を受けた経緯について。畑日記では

午后次長来訪、(中略)此申出なるものは覚書とて総長宮殿下の捺印あるものなり。こゝまで追い込まれては余として当然身体を明にせざるべからざることゝなれり。

と、沢田茂次長から直接、閑院総長宮の署名入りの『大本営陸軍部参謀総長より陸軍大臣への要望』という書付を渡されたことになっています。一方沢田中将は、書付は阿南次官に渡したのであって、直接大臣には会っていないし、署名は自分のもので、断じて総長宮殿下ではないと回想し、食い違いを見せています。この点について著者は、東京裁判での沢田の口供書を見つけ出し、事実は畑の日記通りであり、沢田は、東京裁判では畑を救うために真実を語ったが、ずっと後年の回想録では、今度は閑院宮の責任を免ずるために、手のこんだ虚偽の回想をしているのではないかと、指摘しています。

この一件は「豆絞りの手拭を被った」武藤章の陰謀であるという田中隆吉の著作の威力はまだまだ強いですが、実際は近衛と陸軍の合作で、そこに米内の淡白さが加わった結果といったところでしょうか。

via http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-555.html
辻政信の『潜行三千里』が毎日ワンズというところから再販されているそうだ。元々毎日新聞社から出ていた本だけに、その系列なのだろう。辻は戦後多くの著作を出している。出版順ではなく中身の時系列で並べると

『亜細亜の共感』・・・彼が従軍した上海事変に始まり、支那総軍参謀時代の東亜連盟運動やら蒋介石の母親の葬式の話やら。

『ノモンハン』・・・これは関東軍参謀として臨んだノモンハン事件の話。

『シンガポール』・・・大東亜戦争緒戦、マレーからシンガポールまで、第二十五軍参謀時代の話。

『ガダルカナル』・・・大本営作戦班長として現地に赴いたガダルカナルでの話。

『十五対一』・・・インパール作戦後のビルマ、第三十三軍参謀として遂行した断作戦の話。拉孟、騰越は玉砕した。

『潜行三千里』・・・終戦と同時にタイから中国に逐電したときの話。

戦後の話は『これでよいのか』ほか数冊。

現代では総じて評判の悪い辻だが、かつては彼を高く評価する人は結構いた。元上官の磯谷廉介は、辻の悪口を聞くと機嫌が悪くなったというし、新聞記者でも高宮太平、田村真作(以上朝日)、中所豊(大阪)といった人々は、戦後に出した軍閥暴露モノの中で辻を褒めている。
石橋恒喜『昭和の反乱 三月クーデターから二・二六事件まで』上下 高木書店
著者は東京日日新聞の記者で、平野零児の後を襲って陸軍担当となった。立場的には青年将校に近く、特に二・二六事件の蹶起将校たちより一段上の山口一太郎柴有時と親しかった。定番の本なのだろうが、恥ずかしながら私は今年に入ってから入手した。陸軍造兵廠長官植村東彦中将の逮捕というのが、二・二六事件後に逮捕された山口一太郎の告発に端を発したというのは、この本で知った。この事件は、先の防衛事務次官の件と同じく妻まで関与した汚職だったそうだ。
評伝川島芳子―男装のエトランゼ (文春新書 625)
紹介するのが遅れましたが、なかなか良かったと思います。写真もふんだんに使われており、特にカンジュルジャップがえらく好男子なのには驚きました。またこのブログでは常連ですが、従来の川島芳子本ではさらっと触れられるだけの多田駿について、そこそこ紙幅を割いているのも、私的には高ポイントです。

右が著者のHPです。http://www.tblegs.com/terao/win/home.html
ちなみに私は掲示板の方にチラッと感想を書かせていただきました。

多田が北支方面軍司令官時代に、芳子暗殺指令を出したという話は、芳子からそれを聞いた笹川良一の回想などで知られた話ですが、指令を出したのが多田自身なのか、部下の参謀なのかは曖昧です。実際に指令を受けたという中野学校出の将校は、次のように書いています。
日下部一郎著『謀略太平洋戦争』弘文堂より

ある日、久村は、茂川中佐から、東城の無量大人胡同にある中佐の公館に来るようにいわれた。約束の時間に公館を訪れると、すでに先客があった。特殊情報の機関長である日高中佐であった。
(何かあるな)
久村はとっさに感じとった。果して、日高中佐と久村を前にした茂川中佐は、
「実は、参謀長閣下から内命があった」
と単刀直入に切り出した。
「川島芳子を始末せよ、とのことだ」
思いもかけぬ内命だった。日高中佐と久村は思わず顔を見合わせた。

「君たちも聞いてはおるだろうが、最近の川島芳子の乱行ぶりは目に余るものがあるのだ。軍司令官閣下の名を濫用して中国商人から多額の金品を詐取したり、満州国皇帝を侮辱するかと思えば、汪新政府をみだりに批判したり、傍若無人の振舞はつのるばかりである。このまま放置して、軍司令官閣下に迷惑のかかるような事態でも起これば、取り返しはつかぬ。今のうちに始末するようにとの参謀長からの内命なのだ」久村は内命の実行者たること、日高中佐はこれを側面から援助することを、茂川中佐は強い調子で言い渡した。

命令を受けた久村は、川島邸への威嚇射撃を行い、何とか芳子が自発的に北京から離れるよう仕向けたが、そこは芳子もさるもので、全く気にした様子がない。そこで久村は思い切って北京飯店に自ら赴き、単刀直入に談判に及んだ。

「きょう伺ったのは、陸軍将校としてではなく、あなたと面識のある者として、個人的な立場で、あなたに重大なお願いをしようと思ったからです。この私の願いは、是非、ききとどけてほしい。押しつけがましいようだが、これはあなたの生命に関することなのですから……」
芳子の表情から媚が消え、その大きいつぶらな眼はいっそう大きく見聞かれて、久村の顔をじっとみつめた。
「川島さん、この北京を一時離れていただけませんか。急にこんなことをいい出して、不審がられることでしょうが、いや、聡明なあなたのことだから、理由はもうお察しになっているかもしれない。とにかく、この際、北京にとどまっておられることは、大変ご迷惑な結果を招くことになるのです。」
ここまで一息にいうと、久村も言葉を切って、相手の真剣な眼を見かえした。
重苦しい沈黙がつづいた。二人とも視線をそらそうとはしない。二つの視線は、まるで真剣勝負のように、空中でするどく切り結ばれた。緊張の数秒が長く感じられるような空気を突然破って
「よくわかりました」
川島芳子の唇がやっと聞かれた。
「あなたのおっしゃる意味は私にもよく解っています。だからこそ、私は意地でも北京を一歩も動くまいと考えていました。しかし、そんな意地を捨てて、あらためて進退を考えてみましょう」



ちなみに楳本捨三氏は山田乙三大将の伝記『将軍の四季』で彼女の振舞を次のように書いています。

今日はちょうど彼女の誕生日であり、北京在住の朝野の名士が招かれて、そのパーティーに華やかなものであった。
集まってきた顔ぶれは、華北政務委員会情報局長管翼賢、北京に公用で来ていた満州国の軍事部大臣(終戦時前)刑士廉上将(大将)、満州建国当時の実業部総長(のちの経済部大臣)の張燕卿、三六九画報社長朱書紳、新聞、雑誌界の知名土、名優馬連良をはじめ、梨園の名優たち、北支方面軍司令部の参謀肩章を輝やかせた軍人たちの姿など。なぜ、こんなに知名士が集まるのだろう?とだれでも不思議に思うに違いない。しかし、その疑問は、すぐに解くことができた。玄関正面を入れば、ぱっと目につくところに、銀色まばゆく輝く大きな楯がれいれいしく飾りたてられてある。
  祝誕生日 川島芳子ヘ 北支那方面軍司令官多田駿
と刻みこまれた大文字が、人々の目を剌したからである。

楳本氏は芳子だけでなく、彼女をほったらかしていた多田にも批判的です。

芳子は口をひらくと、”お父さま”と多田駿を呼んだ。中国でいう乾らい、いわゆる義理の父という意味である。当時、日本軍の占領地で、その方面軍司令官といえば、神さま同然の権力者である。現代の若い娘が中年男を、パパ、パパと呼ぶ、男と女の関係、そんな仲でなかったと思うものはひとりもいなかった。
芳子は、いちばん長く多田駿を利用した。満州国が建国され、多田少将が満州国軍(そのころは軍政部)の最高顧問だった時代からであり、多田の名がいかに芳子に利したか、その時代から多くの中堅将校(のちの将官連)に聞かされたことである。

次の文は当時北支方面軍参謀長だった笠原幸雄中将から楳本氏へ宛てた手紙の一節です。

『このたびは、また川島芳子の御著書御恵贈を辱うし有り難う存じます。まだ読みませんが、川島芳子に関しては、極端なる長短両面あり、小生には苦き思い出があります。昭和十四年ごろ、小生、北支方面軍参謀長(司令官多田駿大将。当時、中将)時代、川島芳子北京に来りあり、多田閣下の芳子の名付親(?)たりし関係を利用し、その名を利用し種々策動--また、芳子の策動に因して、方面軍司令部の有能の参謀をして、物資融通の過を犯さしめるに至り、小生、涙を呑んで、その参謀を停職に処分するに至り、それに関連して芳子に断乎、北支退去を命じた苦き思い出を思い出し、感慨無量なるものがあります。』



何となく話が見えてきますね。ちなみに芳子は獄中で多田について「沈静で品格も高尚」と供述しているそうです。


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昭和天皇独白録 (文春文庫)ではこの阿部内閣の陸相人事について次のように書かれています。

当時新聞では陸相候補として磯谷中将外一名が出ていた。この両名では又日独同盟をもり返えす怖れがあるし、又当時政治的に策動していた板垣系の有末軍務課長を追払う必要があったので、私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据える事を阿部に命じた。

この部分昭和天皇二つの「独白録」 (NHKスペシャルセレクション)ではこうなっています。

新聞は候補者として二人の名をあげた。その一人は磯谷中将(現在は巣鴨拘置所にいる)だったが、他の一人の名は思い出せない。日独同盟に同意する方向に進むおそれのある将官を陸軍大臣に据えることは何としても避けたかったので私は畑大将と梅津中将の二人の名を持ち出した。畑、梅津ともに日本がドイツと同盟を結ぶことには反対であると私は確信していたからだ(畑が侍従武官長にする前、私は宮内大臣の松平に、畑が日独同盟についていかに考えているか調べるよう命じ畑が同盟に反対だと知ったあと、畑を侍従武官長に選任した)どうしたらよいか苦慮した阿部が板垣大将に相談したところ板垣は梅津起用に反対した。その結果当時私の侍従武官長だった畑を任命するほかなくなり、畑が陸軍大臣に据えられた。

御前で阿部の口から出たのは多田だったはずです。しかし陛下は多田の名前は忘れておられる。これだけを見ると確かに、佐野氏が言うところの東條憲兵の謀略的リークは成功しているように思えます。阿部が参内してくる以前、新聞報道を見た時点で陛下は、阿部の持ってくる陸相案に反対する肝を固めておられたようですから。しかし同時に多田や磯谷が忌避された理由もはっきりします。陛下には、日独同盟に反対するであろう梅津という意中の人物がいたわけです。ですからこれは想像ですが、仮に板垣が多田ではなく東條を推薦していたとしても、陛下はこれを却下されたのではないでしょうか。

、梅津がいずれもドイツ駐在組で、多田、磯谷がドイツに縁もゆかりもない支那通というのはちょっと皮肉なものです。私自身は梅津がそこまで日独同盟に反対であったという確信は持てませんが、殊の外軍人に目を配っておられた陛下のことですから、何かつかんでおられたのかも知れません。一方、多田や磯谷が日独同盟をぶり返すような人物であったという確証も無いですが、これは彼ら個人の資質の問題というより、陛下の(現陸相)板垣に対する怒りと、阿部内閣の出自そのものへの不信感に起因するとばっちりではないかと考えます。

五相会議に於ける板垣の粘りは語り草です。彼個人がどこまで日独同盟に拘りを持っていたのかは疑問なのですが、枢軸派の部下の要求通りにしつこくしつこく粘りました。日独同盟が嫌で堪らなかった陛下にとって、これは本当に頭にきたと思います。その板垣が推している、それも彼と同類っぽい人物というだけで、陛下的にはOUTだったのではないでしょうか。平沼内閣が総辞職するとき、板垣も他の閣僚と同じように形式に則った辞表を呈出しましたが、それを読んだ陛下は、侍従武官長の畑を呼び、

陸軍大臣の辞表は形式とはいえ他の閣僚と同一通り一遍のものなり。不満に思う。

と憤懣を述べられております。

また陸軍で阿部信行への大命降下工作に活発に動いていたのは、軍務課長の有末精三大佐とその部下の富田直亮中佐、牧達夫少佐の「枢軸三人男」でした。有末はムッソリーニと親友であるというのが自慢の種の男で、自伝では誤魔化してますが、このときかなりえげつない工作をやっているようです。そのお陰で彼の宮中での評判は最悪で、まだ阿部に決定する前、「宇垣山を降る」という情報を得て、侍従武官長の畑に問い合わせの電話をしたとき、畑から

「君いい加減にし給え、君は宮中で評判悪いよ」

と剣もほろろに突き放されています。またその後陸相に就任した畑から、「阿部総理は勿論他の閣僚に話しかけてはいかん」と、政治に関わることを禁止されています。ただ彼が板垣系というのは間違いで、彼は典型的なオポチュニストです。

有末が阿部内閣についてどう考えていたかは、次の挿話がよく顕しています。彼は北支方面軍参謀に転任することになり、赴任前に宝亭で家族と食事をとることにしました。彼が麹町の宝亭に赴くと、「武藤様御席」という札が掛かっており、挨拶をしようと顔を出すと、武藤章の他に秋永月三、河村参郎池田純久岩畔豪雄の4人がいました。

河村が、
「オイ、久原はどうか」と私に聞く。
「なんだ、次の内閣の話か」というと、
「ウン、そうだよ」と河村は平然と答えた。
私はムッときて、
「なんだ、君等は僕らがせっかく作った内閣をつぶす気か。それなら俺も新民会をぶっつぶすぞ」と少々気色ばんでいった。
「マァマァ、そんなことをいうなよ」と河村。
「イヤ、私は明日、北支へ赴任する」と私がいうと、
「オイオイ、冗談だよ」と武藤が茶化した。

これは軍務局長武藤章回想録の一節ですが、新民会というのは武藤が北支方面軍参謀副長時代に、参謀長の山下奉文と共に作った協和会のパチモンみたいな組織です。「お前達が俺の作品を壊すなら、俺もお前達の作品を壊す」と言ってる訳で、当時の政治軍人と呼ばれる人々の意識が垣間見えます。ちなみに北支に行った有末は、潰すどころかこの新民会を「子供がおもちゃをいじり廻」すように熱心にいじり廻したため、東亜連盟系の人々から蛇蝎の如く嫌われました。

組閣直後のまだ軍務課長時代、西浦進と共に中支、北支の視察旅行をした有末は、北支で軍司令官の多田に会い、彼から「乃公の陸相候補が中止になったその真相、特に陛下御信任云々について」説明を求められ、次のように答えています。

「何も閣下をご名指しで忌避せられたのではなく、阿部大将の大命拝受の折、とかく近時における軍のやり方について、軍全般をお誡めになって越軌の行動を抑えるために、特に畑大将か梅津中将をお名指しになったのでしょう。畑大将着任の訓示が、最も雄弁にこれを説明していると思います」

どう考えても有末自身、誡めの対象であるにも関わらず、この”ひとごと”のような説明には苦笑せざるを得ませんが、彼の回答は確かにこの問題の真因を衝いていると、私は思います。

以上、本書において最も短い第6章について長々とやりましたが、ここらで終わろうと思います。


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まず一つの説を紹介します。これは当時報知新聞の記者だった佐野増彦氏が、月刊現代の1992年9月~12月号に連載した『裁かれる昭和 最後の証言=日本陸軍亡国秘録』という記事の第四回からの引用です。

 植田司令官と板垣陸相の間で、出せ、出さないとやっている間に、東条の巧妙な″多田潰し″が始まるのです。
 第一弾は八月二十八日、夕刊の締め切り間際ギリギリに同盟通信から「後任陸相は磯谷廉介中将」という情報です。これは、憲兵隊が同盟通信にリークして、新聞社に流されたものですが、各紙は大きく取り上げてしまったのです。
 僕ら陸軍省を担当している記者は、すでに後任陸相は第三軍司令官の多田駿に決まっているのを知っていましたから、この誤報にはびっくりしたものです。さすがに毎日新聞だけは最終版で「後任陸相は多田駿」と書きましたが、要するに磯谷を強く印象づけることで、多田の影を薄くしてしまおうという狙いの情報操作です。
 第二弾は、「陛下が磯谷や多田は信任しない。後任は梅津か畑だ」といったという怪情報が、陸軍省や参謀本部に流されたことです。天皇は、閣員名簿奉呈時にたまに意見をいわれることはあっても、情報段階で意見を述べることなど考えられません。まして磯谷は候補者でもなく、三長官会議で名前すら出ていない人物について天皇が「信任しない」というわけがない。これは宮中を巻き込んだ謀略です。前述したように憲兵隊は、一時間おきに板垣陸相の行動を逐一チェックしていて、全神経を集中して後任陸相の情報を取っていました。当然、後任陸相が多田に決まったということも知っているわけです。その憲兵隊が磯谷陸相を流すのはまったく謀略です。
 事実、当時の東京憲兵隊長加藤泊治郎(22期)は、二十八日夜、内務大臣木戸幸一を訪ね、多田反対の協力を求めているのです。
〔木戸日記〕昭和十四年八月二十八日
……午後八時、加藤〔泊治郎〕憲兵隊長来邸、陸相に多田〔駿〕中将云云の話あるところ、若し之が決行せらるるに於いては、陸軍部内の派閥抗争は一層激化すべしとて非常に苦慮せられ、之が防止方につき相談あり

 加藤は、東条英機が関東憲兵隊司令官当時、奉天憲兵隊長をつとめた東条の腹心中の腹心です。おそらく東条の密命を帯びて木戸を訪ねたものと思われます。
 先月号で触れたように多田と東条は、犬猿の仲ですから、東条にしてみれば多田が陸相に就任すると自分が飛ばされるのは目に見えている。東条が一派を挙げ多田潰しに奔走したのは分かります。
 板垣陸相は、こういう揺さぶりに弱く、多田の陸相案を白紙に戻して、三長官持ち回り会議で、後任陸相に畑俊六を決めました。板垣は少くとも侍従武官長を通じて、三長官会議で後任に多田を決めた事情を内奏すべきでした。三長官会議で決まった陸相候補が大臣に就任しなかったのは、後にも先にも多田中将ただ一人です。
 東条一派の工作が見事に成功したわけです。さすがに憲兵の情報工作はうまいものだなと思いました。

佐野氏は陸軍担当の政治部記者で、宇垣一成や畑俊六、永田鉄山らと親しく、特に磯谷廉介からの信頼の厚さは格別で、磯谷が香港総督をしていたとき、招聘されて彼の下で新聞班長を務めています。

まず第一弾について。これを解釈するとこうなりますか。
”多田はOKだけど磯谷にはマイナスイメージがある。その磯谷を前面に押し出すことによって、次の陸相候補そのもののイメージを落とした”
誰よりも磯谷に親近していた佐野氏の論としてはやや皮肉ですが、それでは磯谷のマイナスイメージというのは何か?ノモンハンは陸軍内部では大問題でしたが、宮中ではそれほどでもなかったようです。佐野氏は、磯谷が孫文と親しかったことが一つあるのではないかと言っています。思想問題というのが宮中では非常にセンシティブな問題であったのは確かですが、それにしてもそれだけでは弱すぎます。リース・ロス(イギリス人)の幣制改革に反対したことがありましたが、やはりアピールとしては弱いでしょう。なんぼ陛下が親英派だとしても。

第二弾についてですが、実際陛下は「後任は梅津か畑だ」みたいなことを阿部に言ってるわけです。佐野氏がそのことを知らなかったのか、或いは阿部の参内以前からそういう噂が流れていたのか。多分後者だと思うんですが、ちょっと裏付けが取れないので鵜呑みにはできないですね。僅かに額田坦がそれらしいことを書いていますが。それに加藤が木戸を訪ねたのは午後8時、阿部の参内が9時前。幾らなんでも薬の効きが早すぎます。

要するに佐野氏は、東條の計画が何から何まで図に当たり、目障りな多田、磯谷を潰したと言ってる訳です。しかし対象が近衛ぐらいなら、或いはそういうことも可能だったかも知れませんが、天皇陛下が相手ですからね。東條派が色々と策動したのは確かでしょうが、真因はそこではないように思います。次回は陛下がどう考えておられたのか探ってみます。




テクノラティプロフィール
御座所から退出してきた阿部大将は、「鼻から三斗の酢を吸ったような」表情だったといいます。宮中でのお言葉は、羽織袴姿の参謀本部第二課長稲田正純によって、陸相官邸で待機していた有末精三大佐に伝えられました。稲田大佐は阿部大将の娘婿という関係から、連絡係をやっておったのです。お言葉は「憲法の遵守、英米との協調、健全財政」そして、

「どうしても梅津か畑を(陸軍)大臣にするようにしろ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持って来ても自分はこれを許す意思はない」

というものでした。それを聞いた有末は、「電気ではねられたように」驚き、それは湯浅内府の言葉か、それとも陛下直々のお言葉かと確かめ、直々のお言葉と知って二度びっくり、慌てて西尾教育総監、中島参謀次長を招聘し、改めて協議が行われました。

ちなみに児島襄の『天皇』第4巻によれば、陛下は阿部に椅子をすすめ、

「永井(柳太郎)は排英運動をやっておったが大丈夫か。鉄道、逓信の兼任は無理ではないか」
「陸軍はやはり梅津が嫌いなんだね」
「司法大臣はあれでいいのか」

といった質問をされたそうです。

梅津か畑かと言われても、梅津は関東軍司令官としてノモンハン事件の後片付けをという話もあり、侍従武官長の畑俊六大将を下げ渡し願うことで決まりました。その間、陸軍省の空気は「惨として声なし」といった具合で、元気者の有末大佐もシュンとしていたそうです。

新たに陸相となった畑大将は、陸軍省の高等官以上を集め、「自分の任務は天皇陛下に御信頼して頂くことの出来る陸軍になるよう、建て直すこと」であるという、非常に厳しい訓示を行いました。その後、軍務局長、人事局長、次官は逐次転出し、新軍務局長には次の舞台の主役となる武藤章がやってきました。

関東軍は軍司令官、参謀長が共に交代、多田中将は同期の梅津の下ではやりにくかろうということで、北支那方面軍司令官に栄転、畑の後任の侍従武官長には藤江恵輔第十六師団長が推薦されました。しかし藤江中将は、不動の姿勢を取ると目眩がするという健康上の理由からこれを固辞、結局蓮沼蕃中将が就任しました。蓮沼中将は陛下の第一の意中の人物でもありました。藤江中将は参謀本部附となり、後任の師団長には石原莞爾がなりました。これは辞めていく板垣陸相の最後の心遣いでしたが、これを見て、藤江の侍従武官長推薦は石原を師団長にするためではなかったかという悪声が、海軍側からも上がったということを、畑が書き記しています。板垣は8月の定期異動で石原を師団長に推薦する人事案を出しましたが、陛下はなかなかこれを御裁可なさらず、結局しばらくは師団司令部附にして様子を見るということになっていました。しかしこの2度目のトライで、東京以外の師団長なら宜しいという許可を得たのです。同時に駐蒙軍司令官への就任が却下されていた山下奉文も、許されて第四師団長となりました。

以上がこの騒動のあらましですが、しかし何故陛下は突然そのような要求を阿部大将に突きつけたのでしょうか?次回以降謎解きです。


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東京、市ヶ谷。8月28日。
阿部信行への大命降下が確実となり、組閣に際して策動すること大きかった軍務課長有末精三大佐は、陸相官邸へ向かいました。官邸に着いた有末は、まさに帰ろうとしている山脇正隆陸軍次官と遭遇しました。そこで立ち話で現在の情勢を説明すると、山脇中将は

「よかった、直ぐ大臣に報告してくれ給え、新大臣候補も親しい間柄だからよかったネ」

と言いました。驚いた有末は、飯沼人事局長が満洲へ向かったことを聞いていたので、

「新京の方ですか」

と聞きました。すると山脇は

「イヤその先の牡丹江だ」

とはっきり答えました。新京とは関東軍司令部の位置で、同軍参謀長磯谷廉介を指し、牡丹江とは第三軍司令官多田駿を指します。急いで大臣室に行き報告したところ、板垣陸相

「ヨカッタ、ヨカッタ、新大臣候補も同じ兵科で親しい間柄だしなあ」

と喜びを漏らしました。

三長官会議の前に意見を徴され、東條が良いのではと答えていた有末は、ちょっと解せない気もしましたが、特に何も言わずそのまま自室に帰りました。するとそこに防衛課長の渡辺富士雄大佐がやってきました。そこで彼に、次の陸相が多田中将であることを告げると、渡辺大佐は

「これでは血を見ますよ」

血相を変えて言いました。そして一寸前までイタリアにいて、よく事情が飲み込めない有末に、多田中将と東條中将の確執の激しさを説明してくれました。

有末ほどの”やり手”が、本当に何も知らなかったのかという点は、やや疑問もありますが、彼は渡辺から警告を受けた後も、陸相人事について特にこれといった動きは見せていないようです。阿部内閣の事実上の生みの親である有末からすれば、とにかく組閣を終えることが最優先だったのでしょう。

一方同日午後8時、木戸幸一内務大臣の下を、東條の腹心を以て自認する東京憲兵隊長加藤泊治郎大佐が訪れ、次のようなことを述べました。

陸相に多田中将云々の話あるところ、若し之が決行せらるるに於いては、陸軍部内の派閥抗争は一層激化すべし

そのような事態を苦慮し、相談に来たという体ですが、実態は著者の言うとおり、”多田を陸相にするな”と警告に来たとするのが妥当でしょう。憲兵隊長にしてこのような言動、まさに言語道断なのですが、腰抜けの宮中勢力には、この脅しが一番効きます。

午後8時50分、阿部大将は大命を拝すため参内しました。そしてそこで驚きのお言葉を賜ります。

続く


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