近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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新京の関東軍司令部は、磯谷参謀長が陸相になると勘違いして大喜びで飯沼人事局長を迎えました。しかし飯沼から、陸相は磯谷ではなく、関東軍隷下の第三軍司令官多田駿中将であると聞き、一転憤激します。そして飯沼を新京に足止めし、次のような趣旨の電文を板垣陸相に送りました。

大臣辞任の件は、いずれの点より思考するも、この際適当と認められず、特に陸軍として従来の意見に変化なき限り、新内閣に留任すべきは、他の閣僚と趣きを異にするは当然

それに対し板垣は、情勢からいって留任は絶対不可能であるし、大命は今夜にも降下するので、至急人事局長を牡丹江の多田の下にやって欲しいと返電しました。それを受けた軍司令官はまた次のように返しました。

関東軍一般にわたる当面の情勢より見て、この際、軍内部の軍司令官ならびに三師団長の異動は、波及すること統帥上相当の衝動を与える恐れあるをもって、しばらくは絶対に避けられたし。(中略)陸軍大臣留任やむなく多田中将後任として転出の場合、関東軍の現状に鑑み、他に動揺を極限するため、ぜひ板垣中将を多田中将の後任に充当せしめられたし。

もしどうしても多田を出すなら、多田の後任には板垣自身をという、いちゃもんに近い要求でした。板垣は

まげて本職希望の通り至急配慮願いたし

と平身低頭して頼みます。このやり取りの間、飯沼は新京駅で留め置かれました。

このやりとりが示唆するものを見ていきます。まず第一に、中央部では、磯谷中将はノモンハン事件の責任者であり陸相の資格無しと考えていたのに対し、関東軍では責任は軍司令官の植田大将一人が取ればよいもので、磯谷は陸相の資格有りであると考えていたということです。尤もこれは関東軍に限った話ではなく、陸軍省でも飯沼の部下であった額田坦や榊原主計が、「(磯谷で)よかったですナー」と喜び合っています。しかし結局磯谷はこの後、植田共々予備役に編入されました。

第二に、関東軍の多田に対する見方です。電文をそのまま見れば、大変な情勢下で(ノモンハンとは方面が違うが)前線の軍司令官を異動させることに反対であると、つまり多田が陸相になることに反対なのではなく、異動させることそのものに反対していることがわかります。しかし飯沼の到着を、磯谷陸相の誕生と思い込んで、大喜びしたというのが事実なら、これは額面通りには受け取れなくなります。つまり一旦は新陸相を喜びながら、実は磯谷ではなく多田と知って、やっぱり板垣が留任しろと言い出したことになるからです。そして私はやはり、多田の陸相就任そのものに対し、関東軍司令部に忌避する感情が濃厚にあったと見ます。

多田は参謀次長として、支那事変の拡大に消極的でした。一方関東軍は一貫して、強硬に武力解決を支持していました。その空気は、多田が東條と喧嘩をして、関東軍隷下の第三軍司令官に”栄転”してきたときも変わっていません。また彼は、軍司令官としても持ち前の慎重さを発揮しています。昭和14年4月、関東軍隷下の兵団長会議が行われ、その席上で(辻政信の手による)有名な国境紛争処理要綱の骨子が説明されました。その内容を危惧した多田は発言を求め、

「お示しの通りにやると、あるいは思わざる結果を起こすかもしれない。少し考慮の余地を与えられたい」

と述べました。しかし植田大将は

「そんな心配はご無用だ。それはこの植田が処理するから、第一線の方々はなんら心配することなく断固として侵入者を撃退されたい」

としてこれを斥けました。多田は会議の後、第四師団長として列席していた沢田茂を捉まえて

「植田軍司令官はあんなことを言われるが、まことに心配に堪えない」

と密語したそうです。問題の処理要綱はこのすぐ後に、これ以上ないくらいの”思わざる結果”を惹起しました。参謀次長としてノモンハン事件の後片付けをした沢田にとって、この多田の発言は印象的でした。しかし関東軍司令部が、このような多田の態度を面白く感じていた筈は無く、その感情は事件後にも改まったとは思えません。植田はまだしも磯谷という人は、必ずしも物が見えない人物ではありませんでした。これが関東軍の魔力でしょうか。私には関東軍が一個の意思持つ有機体に思えます。あの今村均ですら、関東軍時代はもう一つ冴えませんでした。

最後に、足止めを食った飯沼少将が、本当に牡丹江の多田の所まで行く気があったのかという点です。陸軍省の中堅以下には東條支持者が多かったことは既に述べました。では飯沼はどうだったのでしょう。これは要するに、柳条湖事件の前の建川美次のような態度ではなかったかという意味です(建川は柳条湖事件直前、陰謀の匂いを感じ取った中央部から、”止め男”として派遣されましたが、彼自身が半分陰謀一味のようなものでしたので、酒を飲んで寝てしまい、その役目を果たしませんでした)。この点飯沼は、ちゃんと大臣の命令に従う気があったと、私は見ます。理由は、本書でも引用されている町尻量基軍務局長と彼との間で交わされた会話です。それは次のようなものでした。私は町尻量基追悼録から引用してみます。

十四年の夏、板垣大臣が辞任される際、後任大臣のことで私を呼ばれた時、たまたま町尻君と廊下で会ったら「軍務局の若い連中は、後任大臣は東条さんがいいといっている」というので、私も黙って承っておけばよかったのだが、平生から町尻君とは全く腹蔵なく話し合っていたものだから「僕は東条さんは大臣に適しないと考えている」と答えたところ、町尻君は「うん、そうか」と至極あっさりと打ち切ってしまった。

二人は同期生でした。飯沼は、町尻があっさり引き下がった点から、彼もまたあんまり東條に乗り気でなかったのではないかと推測しています。当時の陸軍省において、こういう意見をはっきり言う飯沼は、やはり板垣の命令を遵守する気持ちを持っていたと思います。

とにかくそうこうしていうるうちに、東京でも動きがありました。

続きます。


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第6章 阿部内閣における天皇指名制陸相の登場 ―畑陸相就任の衝撃―
この第6章こそ、多田駿マニアの私にとってはメインディッシュです。この件に関しては以前にも触れています。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-66.html
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel02/tada.html
が、改めて簡単にことの経緯を見てみます。

当時日本は三国同盟を巡って延々と五相会議を繰り返していました。そんな中、独ソ不可侵条約が突如結ばれ、平沼騏一郎首相は”何これ、イミフww”と総辞職してしまいます。同盟締結に邁進していた陸軍もショックを受け、同盟は一時棚上げとなりました。陸軍は、次の内閣は、賛否を問わず同盟問題に関わりのあった人を避けるべしという方針を決めました。これは即ち賛成派の小磯国昭拓相、反対派の米内光政海相、荒木貞夫文相といった人々を指しています。すったもんだの末に大命は阿部信行に降下しました。そこで陸軍首脳は恒例の三長官会議を開き、阿部新内閣の陸軍大臣の詮衡を行いました。

陸軍省の中堅層の支持は、前次官で現在航空総監の東條英機に集まっていました。しかし上層部の考えは違っていました。陸軍次官の山脇正隆は、参謀総長閑院宮殿下の邸で行われた三長官会議での、陸相詮衡の模様について次のような証言を行っています。

一、東条案
 これは防共協定が不可能となり、陸軍の今後の動向も考慮してこの際、向う意気の強いのが必要である。しかし東条さんは人事に対する意見があまりに一方的にはっきりしており、国内に対する評判も心配がある。あまり強硬な主張をすると、かえって諸問題の成功を阻むものであるから、との理由の下に板垣さんも我々も同意見で反対をした。
二、西尾案
 これはやむを得ない時は西尾(寿造大将)さんという案も出るだろうが、今は支那総軍司令官の引当てになっている。また中級将校には西尾さんに反対意見が多い。
三、磯谷案
 これは誰もが第三案に挙げる案であったが、最近のノモンハン事件の当面の責任者であり、また軍司令官の責任処罰をすることになるかも知れないのだから、この際問題とすることができない。
四、多田案
 これはとくに人事に於いて、東条案と反対で普遍的であるがその周囲の人選がよければ、公平な人事を行ない得ることができるだろうから、他に人がなければ仕方がなしこれで行く外はない。


一つ一つ見ていきましょう。東條は陸軍次官時代、支那事変などに対し非常に強硬な姿勢を取っていました。彼自身はそのせいで陸軍次官を辞めざるを得なくなるのですが、それによって中堅若手の心はがっちりつかんでいました。元々は板垣陸相も東條を信頼していたと思います。そうでないと、自ら自分の次官にと望まないでしょう。しかし浅原事件などを経て、この頃の彼の東條に対する感情は、相当に悪化していました。浅原事件のとき、兵務課長の田中隆吉が、石原莞爾を軽い処分に処した方が良いと進言しました。それを聞いた板垣は血相を変え、

「何たることを言う。こういう陰謀は許されない。この陰謀を行った連中はそれが航空総監たると、憲兵隊長たるを問わず、断固として解雇する」

と田中を叱りつけたそうです。航空総監は東條を指します。憲兵隊長というのは、東條の腹心と言われる加藤泊治郎のことです。要するに板垣は浅原事件を、石原や更には多田及び自分までもを陥れる陰謀と見ており、その策源地は東條であると考えていたわけです。そういう経緯もあって彼は東條案に反対しました。他のメンバーもこれに同意であったようです。ちなみに「人事に対する意見があまりに一方的にはっきりしており」という分析は、好き嫌いの激しい東條の性格をよく把握したものと言えるでしょう。


西尾寿造は4人の中では一番の先輩であり、この当時は三長官の一である教育総監でした。しかしいくらなんでも本人がいる席で「中級将校には西尾さんに反対意見が多い」などという話はされないでしょうから、会議には出席していないのでしょう。彼は非常な能吏(それこそ東條以上の)でしたが、部下にも同じだけを求める人で、その峻厳さは陸軍部内で定評がありました。「中級将校には西尾さんに反対意見が多い」というのはそのことに由来します。彼が教育総監部の第一課長から平壌の旅団長に栄転するとき、送別会の席上で当時部下だった武藤章が、

「課長は今度目出度く進級し、田舎の旅団に行かれるが、部下の頭と鋭敏極まる御自分の頭とを同等と考えられ、あまりやかましく云われると、皆逃げ廻って、なつきませんよ!!」

と冗談めかして忠告したことがありました。が、持って生まれた性格は変わらず、平壌でもビシバシやったため、部下は逃げ廻っていたそうです。しかし何よりも、彼は新たに編成される支那派遣軍の総司令官への就任が予定されていました。日露戦争の大山巌以来の”総司令官”という重職の人事はそう忽せには出来ません。ですのでこの案も却下となりました(ちなみに総参謀長には陸相を辞めた板垣が就任したことからも、その重さが分ると思います)。

磯谷廉介は所謂支那通でありながらも、軍務局長などの中央部の要職を歴任し、往く所可ならざるなき人物で、本来なら陸相の資格がありました。しかし山脇も言うとおり、彼は関東軍参謀長として、ノモンハン事件の当面の責任者でしたから、この時点での陸相就任は論外でした。

多田駿も磯谷と同じく支那通でしたが、上記三人とは違い一度も陸軍省に勤務した経験が無く(この点は板垣も同様)、本来なら陸相候補に名前が挙がる人物ではありませんでした。しかし時代の巡り合わせという奴でしょう。彼は東條のように偏った性格でもないので、補佐する人がよければ、まず無難であろうということでした。補佐役というのは誰を念頭においてのことか勿論知る術は有りませんが、あるいは板垣の頭には石原のことがあったかも知れません。陸相を辞めていく板垣にとって、石原の今後は心配事の一つでした(後に石原が遂に予備役に編入されたとき、そのニュースを板垣に伝えた幕僚が、「これで閣下も肩の荷が降りましたね」といったところ、板垣は「そんなことではないんだよ」と心底寂しそうに答えたそうです)。しかし多田なら、其の点は何の問題もありません。多田は板垣と並ぶ石原の数少ない庇護者でしたから。ちなみに、当の石原はこの二人について、先輩として敬愛はしつつも、自分がいないと駄目な人々と看做していた節がありますw彼は死の床で、

「多田さんや板垣さんが先に逝かれたが、寂光への道でウロウロしてはいかんから早く行って案内してやりたいと思ったりしています」

と、彼一流の諧謔で二人への気持ちを表現しています。

また多田は新首相の阿部と同じ砲兵科でした。圧倒的多数を占める歩兵以外の兵科は、その兵科内での繋がりが強く、二人も自然親しい間柄であったそうです。更に阿部の娘婿の稲田正純は、その兄が多田の師匠である坂西利八郎の養子である関係から(亦彼も砲兵)、多田に可愛がられていました(本人談)。そういった人間関係も考慮され、三長官会議は、全員一致で多田を次の陸相に推薦することを決定し、人事局長の飯沼守を満洲の多田の下へ派遣しました。

長くなるので続く


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平木國夫『バロン滋野の生涯 日仏のはざまを駆けた飛行家』読了。
これで徳川好敏日野熊蔵、滋野清武と、日本航空界の草創期を彩った三者の評伝を読み終えた。日野少佐については、少しだけ以前触れている。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-198.html
滋野清武フランス陸軍大尉についてはWikiが結構充実している。
滋野清武 - Wikipedia

三者のうち最大の成功者は、一般的価値観でいえば徳川大尉だろう。中将にのぼり、爵位も取り戻した(男爵だが)。自然、残りの二人の評伝は、徳川大尉に厳しくなる。特に滋野の評伝は、より攻撃的である。日野少佐と徳川大尉は、少なくとも表面的にはお互いを尊重し合っていたようだが、本書に依れば、滋野男爵と徳川大尉は、当時から結構対立的であったようだ。陸軍プロパー、それも当時航空を独占していた工兵科の将校である徳川と、陸軍幼年学校を中退し、音楽学校を経て単身渡仏して飛行術を学んだ滋野では、例え飛行家としての腕は断然滋野でも、陸軍がどちらに便宜を図るかは火を見るより明らかだろう。結局滋野はフランスで軍人となり、レジオン・ド・ヌール勲章を受ける。撃墜は5機程度らしい。WW1の撃墜王は言うまでも無くレッドバロン、ドイツの2位はWW2で自決したウデットである。ついでに言うとウデットと諍いのあったふとっちょ元帥も20機弱ほど落としている。

滋野夫人がフランス人であったため、彼の死後、長男の襲爵を巡って問題が発生した。何となれば、宮内省が二人の結婚を認めておらず、子供達は庶子扱いとなっていたからだ。残された夫人は、一時フランスに追い返されそうになり、ポール・クローデル大使(ロダンの愛人だったカミーユ・クローデルの弟)に助けを求めている。幸いにして夫人も子供も一緒に日本で暮らせるようにはなったが、滋野男爵家は廃爵となった。親戚一同が押捺する必要のある書類に最後まで印を押さなかったのは、滋野の義兄河野恒吉少将(7期)であったそうだ。河野は少将で予備役となると、朝日新聞の軍事顧問となり、戦後は『国史の最黒点』という1000ページを越える大著を残しているが、存外((C)大坪元雄)偏狭な人間だったようだ。

長男のジャック滋野氏は、ピアニストとして有名な方だそうだが、不慮の事故で亡くなられた。

私は未読なのだが、志賀直哉の『人を殴つた話』で、志賀たちに殴られるSというのは、清武のことだ。清武がよく華族女学校の正門前に立ち尽くしているというのが理由なのだが、彼からすればそれは、妹たちの送り迎えをしているだけであった。『人を殴つた話』は、ジャック氏の友人の抗議の手紙を受け、志賀の生前は全集に収録されることはなかった(死後に出た第七巻に収録)。

あとがきによれば、著者は日野熊蔵にも興味を持っており、日野熊蔵伝の著者渋谷氏とは同郷で、彼の取材にも協力したそうだ。道理で、特に日野に関する筆致が、日野の評伝と似ているはずだ。得心がいった。

   


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佐々木二郎『一革新将校の半生と磯部浅一』より

裁判長若松只一中佐は、
 「大蔵大尉ともあろう者が、先に肯定したものを今に及んで否定するとは、どういうことか」
 ときめつけた。この文句は、それこそ若松中佐ともあろう者の言ではない。このような、人を辱しめるごときいい方は、ことに裁判において、誇り高き武人に対してするものではない。返事のしようもなく、ただただ罪に陥れんがための悪魔の言葉になるのだ。
 「ちょっと待って下さい」
 と、大蔵は考え込んだ。やおら顔をあげた大蔵は、
 「戸山学校時代、校長渋谷中将は(大蔵は手でその恰好を示しながら)世の中はクルッと小さく早く変るものじゃなく、大きくゆっくりと変るものじゃと私にいいました。今度私か東京に護送される途中、京都駅で求めた新聞で満州にいた中将の逝去を知り、感慨無量でした。-どうですかわかりましたか」 「否、さっぱりわからん」
 若松裁判長の答えに判士以下、しばらくは笑いを噛み殺すのに苦労した。しかし大蔵なればこそ、この名答弁ができたのだと、私は笑いながらも思った。

上記は私の好きな一節です。
「世の中はクルッと小さく早く変るものじゃなく、大きくゆっくりと変るもの」
いい言葉です。小学館の『二・二六事件秘録(三)』にこのやりとりが載っているかなと思って、開いてみましたが、どうも省略されているよう。ちなみに第五回の公判で大蔵大尉は、例え話が多く話が冗長であると若松裁判長から注意を受けています(笑)。勿論そんなもの意に介する大蔵大尉ではありませんが。
第5章 第一次近衛内閣における首相指名制陸相の実現 ―杉山陸相から板垣陸相へ―
トラウトマン工作打ち切りの模様については以前に書きました。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-238.html
まあそうやって自分で戦争続行に舵を切った近衛文麿首相ですが、元来が平和志向の上に、事変も軍部の一撃論者の言うほど簡単に行きそうもないと、すぐに気付きました。陸軍大臣の杉山元は、北支へ出張するときも何をしに行くのか全然言わない。そういう態度に嫌気がさした近衛公は、彼を更迭しようと思い立ちます。後任候補に思い浮かんだのは、板垣征四郎でした。公は板垣と殆ど面識がありませんでしたが、板垣がかつて事変の不拡大を唱えた石原莞爾と極めて近い考えであるらしいという点が気に入りました。

ちょうど参謀本部でも杉山陸相に対する不満が高まっていました。参謀総長の閑院宮殿下も、近衛公の希望を支持しました。そこで風見章は、第五師団長として北支にいる板垣と連絡を取るには、多田駿参謀次長に頼むのが一番の早道と考え、彼にそれとなく相談してみました。しかし多田は、杉山の更迭には賛成も、後任には序列から言って古荘幹郎台湾軍司令官が順当ではないかと言い、風見が「板垣はどうだろう」とそれとなく聞いても、あまり気乗りがしない態度でした。これは多田が風見を警戒してのものなのか本心なのかは分りませんが、困った風見は、多田に頼むのを諦め、別のルートを探しました。白羽の矢が立ったのは、風見のかつての同僚で同盟通信の古野伊之助でした。通信社の人間なら、戦地に板垣を尋ねても怪しまれないし、古野は板垣と面識があり、そういう意味でも適任でした。早速彼は青島に向けて出発しました。

一方中支の視察から帰ってきた杉山は、閑院宮、梨本宮両殿下に呼び出され、陸軍大臣を辞めるように言い渡されました。これは近衛公の希望で、天皇陛下が閑院宮殿下に頼んだことでした。びっくりした杉山は、帰って梅津と相談しました。自分たちが言ったのだから、杉山はすぐに辞めるだろうと考えた閑院宮殿下は、すぐに近衛公に連絡しましが、案に相違して、杉山はすぐには辞表を出しませんでした。5月に入り辞任することは認めましたが、後任には古荘を推しました。参謀本部は健康上の理由(脳溢血?)でこれを撥ね付けましたが、杉山はかなり粘りました。

山東省の陣中で板垣と会った古野は、陸相就任を要請をしました。驚いた板垣は、容易に首を縦には振らず、多田駿を代りに推薦したりしましたが、結局古野の熱情に絆され、承諾しました。古野は出発前に3つの条件を近衛公から聞かされており、それは「日本軍の華北撤兵」「日中戦争の収拾」「東条次官任命」でしたが、板垣はこれを飲んだそうです。

古荘を推して粘っていた杉山ですが、教育総監の西尾寿造も板垣支持にまわったため、2対1で押し切られる形で辞表を出しました。このことについて杉山は原田熊雄に次のように漏らしています。

元来梅津にしろ自分にしろ、なんとかしてこの陸軍の統制を回復することに専念しておったのでありまして、そのために非常に評判が悪かったのでありますけれども、評判の悪い方が実際はよいのでありますということをよほど申し上げてみたが、どうしてもおきき入れにならん。どうも近衛総理は伝法肌の人が好きなんで、自分達なんかはとても駄目なんだ。

次官の梅津美治郎も非常に怒っており、滅多なことで感情を面に出さない彼が、海軍次官の山本五十六に、近衛公に対する怒りを吐露しています。また彼の数少ない郎党であった軍務課長の柴山兼四郎が、近衛公の秘書官の岸道三のところに怒鳴り込んだりもしています。柴山は、支那事変初期に於いて、不拡大派として頑張っていた人物です。

さて最後にこの問題で一番の論点、東條英機の陸軍次官就任問題についてです。筆者は東條の次官就任の原動力として4つの説があることを示しています。
(1)杉山説(2)梅津説(3)板垣説(4)近衛説
このうち杉山と梅津は同腹のため1つに収斂できます。板垣も、近衛公の意を受けてのものであることが、古野の回想で分ることから、1つにできるでしょう。結局この問題は、辞任させられる杉山ー梅津ラインの人事か、近衛ー板垣ラインの人事かということになるかと思います。そして戦後流布する説は前者、つまり板垣ー多田ー石原のラインに掣肘を加えるための、杉山、梅津の置き土産であるという説が圧倒的です。近衛公自身そのように人に話しています。ところが当時人事局長であった阿南惟幾は、板垣が東條の次官就任を強く望んでいたと述べています。そこで筆者は結論として、板垣東條はワンセットで近衛公の希望であったのではないかとしています。

【感想】
板垣陸相は何も為すところが無く、東條次官も喧嘩の種にすぎませんでした。結局苦労したこの内閣改造は、大失敗だったわけです。そこで公は十河信二から言われます。
「板垣には石原を付けなきゃいけない。東條なんか付けるから駄目なんです」
なるほど東條が悪いのか。板垣が悪いとなると(ホントは彼も問題なのだが)、これを強く望んだのは自分なのだから責任の持って行きようがないが、東條なら、(これもホントは公が望んだことだが)杉山も梅津も反対しなかったので(と思われる)、彼らの責任にできる!まあこんなところでしょうか。少々公にとって酷すぎる想像ですが、しかしこういう節があの方の性格にはあります。

それでは東條という個人名はどこから出てきたのでしょう。板垣を取ると決めた公は鈴木貞一に相談し、彼から「板垣にはしっかりした人を補佐につけなければいけない」というサジェスチョンを受けています。このとき鈴木が東條の名前を出したかどうかは知りませんが、16期の板垣の下で次官が出来る(大臣次官が同期という例も無いことはないが)有能な軍事官僚というと、確かに東條(17期)か山下奉文(18期)しかおらず、東條が候補となるのは自然で、違和感は無いですね。当たり前ですが当時の東條は首相にも参謀総長にもなっておらず大東亜戦争もやってません(個人的には兵務局長今村均の抜擢も面白かったと思いますが、18期の阿南が人事局長をやっている以上、無理な人事でしょうね)。

結局のところこの時点では、東條の次官就任は、杉山、梅津からしたら板垣や後ろで糸を引く石原を抑えるために、板垣にとっては行政に疎い自分の有能な片腕として、近衛にとってはこれまた、石原派が力を持ちすぎることを防ぐために(この、妙にバランスを取ろうとするやり方は、彼の典型的手法)、四者四様ながら歓迎されていたと見て良いと思います。尤も参謀次長の多田は、石原の次官起用を望んでいたらしく、あるいは不満に思っていたかも知れません。東條と多田はこの後、激しく争うこととなります。

余談:風見章の日記が刊行されるそうですね。この問題の渦中の人物だけに楽しみです。また古野伊之助の評伝を注文しました。やはりあのあたりの人も抑えておかなくてはいけないと思うので。


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第4章 林内閣の組閣 ― 梅津次官と石原派中堅幕僚の抗争
林銑十郎には、浅原健三という私設秘書がいました。浅原は有名な労働運動家であり、元無産政党の代議士でしたが、森恪に気に入られ、その紹介で陸軍に近付き、林の側近に収まっていました。森は、陸軍で話せるのは石原莞爾小畑敏四郎だと浅原に語り、彼に石原と会うよう薦めました。森に薦められ石原と会った浅原は、すぐに意気投合しました。林を担いだのは、民間ではこの浅原と宮崎正義、そして興中公司の十河信二、陸軍サイドでは石原のほかに軍務局長の磯谷廉介片倉衷といった人々でした。十河が組閣参謀長として、四谷の組閣本部に入りました。彼は書記官長に就任する予定でした。別に石原たちは林を尊敬していた訳ではありませんでした。むしろ逆に、自分たちの思うままに操りやすいと考えてこれを推し、宇垣を潰したのです。

他に、林には白上祐吉という弟がいました。彼は汚職で逮捕されたことがある札付きでした。林は陸軍大臣時代、この弟の逮捕を理由に、大臣を辞職するしないで、一騒動起こしたことがあります。白上は四高の同窓生の大橋八郎や河田烈を味方に、石原派に対抗しました。

更にもう一派、アムンゼンとスコットの争いに割ってはいる白瀬矗の如く、この両派の争いに介入していたのが、平沼騏一郎の手先の政治浪人成田努でした。平沼は、自分が辞退したおかげで林にお鉢が回ったのだから、自分には組閣に口を出す権利があると考えていたようです。しかし成田は、海軍大臣に小林省三郎を要求したことで林の憤激を買い、組閣本部から追放されました。小林は、米内光政が「小林は海軍の黒星付きだから」と反対していました。

組閣本部は以上三派に政治浪人や報道陣も含め、数百の人でケイオスでした。十河は、林を二階に上げて、それらの人々から隔離しようと努めましたが、林は便所に行く振りをして、いつの間にかこっそり下に降り、彼等と会っていました。

石原派の一番の要求は、板垣征四郎関東軍参謀長の陸軍大臣起用(万已むを得ざるときは杉山元でも可)でした。それに対する寺内寿一の回答は、三長官会議の決定で中村孝太郎を推薦するというものでした。林は、中村は同郷だから遠慮したいと、弱弱しく拒否しますが、今時同郷とかは問題ではないとばっさりやられ、一旦組閣本部に戻りました。林の報告を聞いた十河は、自ら寺内を尋ねました。寺内は十河に、杉山、中村、小磯の三人の候補がいたが、杉山、小磯は三月事件に関係が有るので、適任者は中村しかいないと説明しました。そして板垣は若すぎて全軍の統制には不適任であると、十河の要求を斥けました。

このとき寺内は「杉山、中村、小磯」の三人が候補であったと十河に言いました。しかしほんの10日前の宇垣の組閣時は、「杉山、中村、香月」が候補でした。筆者はここに注目し、とにかく何が何でも中村を候補にするために、三月事件に無関係の香月を小磯に入れ替える詐術を用いたと述べています。中村推しと板垣反対には当然梅津美治郎次官の強い意志が働いていました。

以下は浅原の評伝『反逆の獅子』に載っている話ですが、十河の報告を聞いた石原は、もう一度林を寺内の元へやるように言い、一方で寺内を梅津と引き離して缶詰にするよう、磯谷に連絡しました。磯谷は軍務局課員を引き連れて陸相官邸に乗り込み、寺内を取り囲んで板垣陸相を認めるよう迫りました。この異様な行動に驚いた寺内は

「軍務局長は陸軍大臣の命に服しないか」

と大声を出しましたが、磯谷は

「服しません」

と答えたそうです。

所が林のほうは、もうこの頃板垣陸相に対する熱意を失っており、それより自分の組閣を第一に考えるようになっていました。組閣本部での十河への風当たりも強くなっており、岩田愛之助などは、

「十河は林内閣を毒殺するんだろう。今日中に組閣本部から退かなければ殺す」

と言っていたそうです。また林自身、ひそかに憲兵隊の大谷敬二郎に連絡し、十河の処遇についてアドバイスを受けています。大谷に語った

「陸軍大臣だって誰でもつとまる。三長官の推す中村君で結構なのだ」

というのが、彼の本音でした。

そのような状態で、林は寺内に会うため組閣本部を出発しますが、彼は真っ直ぐ陸相の元へは向かいませんでした。慌てた十河らが憲兵に頼んで探したところ、林は閑院宮邸に居ました。林の後をつけていた記者からこの情報をつかんだ松村秀逸は、官邸の玄関に近い部屋で一人でストーブにあたっていた梅津に報告しました。梅津は、林が閑院宮にすがって板垣陸相を通そうとしていると判断し、

「陰謀だ。よくわかった」

とすぐに立ち上がって部屋を出ました。その後、梅津の指示で、秘書官が別当の稲垣中将に電話で会談の内容を確かめたところ、単なる挨拶であったという答えでした。

しかし陸相官邸から帰ってきた林は、十河に対し、

「宮様から三長官会議の決定をなぜ素直にうけないのかとえらく叱られた。自分は陸軍出身だから宮様の御意見にそむくわけにはいかないのだ」

と内話しました。それを聞いた十河は

「宮様が出て来ては万事終わりである」

と感じたのだそうです。この点について筆者は、林は石原派を振り払うために宮様の権威を利用したのではないか、つまり実際叱られたかどうかは別にして、「叱られ」ることが目的で(閑院宮邸に)行ったのではないかと考察しています。これは梅津の観測とは逆ですが、非常に面白い考察だと思います。

翌日改めて陸相からの電話で、中村陸相が正式に決定すると、十河と浅原は組閣本部を離れました。書記官長には大橋がなりました。浅原の報告を聞いた片倉は

「林に欺かれた。よし!たたきつぶす」

と怒鳴ってアジトを出て行きましたが、その周りには憲兵の姿がありました。石原は、民間人の浅原と宮崎を陸軍省と参謀本部の代表として、二人に絶縁状を持たせて、林のところへ挨拶に行かせました。車に乗り込む浅原に、石原はこう言ったそうです。

「はっきりと縁を切って、林内閣はつぶす。そう明言しておいた方がいいですよ」



組閣の成った後梅津は、「片倉少佐のやったことはけしからん」と怒り、皆の意見を聞きましたが、皆が片倉を支持するので「皆がそういうなら私の言ったことは取り消す。しかし君のやったことには同意しない」と述べるにとどまり、片倉への処分はありませんでした。

【感想】
閑院宮邸に寄ったのは、板垣板垣としつこい十河を振り切るための”林自身の”陰謀ではないかという筆者の考察は、なかなか面白く、林なら有り得ると思わせます。そこで思い出すのが、深酒で体を壊した荒木陸相の後任に真崎を据えるため、教育総監だった林と陸軍次官の柳川が閑院総長宮を訪れたときの話です。宮様が、「真崎は嫌だ、林お前がやれ」と怒ったため、これには真崎命の柳川もどうすることもできず、林が陸相となりました。まさかこれまでも、宮様の真崎嫌いを計算に入れた林の策謀とは思いませんが、案外この件がヒントになっているかも知れませんね。林は解散総選挙で敗れて僅か4ヶ月で桂冠しますが、これは建川美次や小林省三郎に唆されたものであると河野恒吉は書いています。





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第3章 宇垣内閣の流産 ―「軍の総意」による「反対」
昭和12年の1月23日に広田内閣が総辞職し、宇垣一成大将に組閣の大命が下ります。そこから大命拝辞までの流れは、色々な本に載っていますし、何より本書も詳しいのでそちらを読んでいただくとして、ここでは個人個人にスポットを当てます。
香月清司中将については下記URL
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-210.html
小磯国昭については下記URL
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-245.html
で触れているので、今回は省略します。

宇垣反対のムーブメントの中心にいたのが石原莞爾であることは衆目の一致するところです。当時彼は参謀本部の第二課長でしたが、その権勢は下手な大臣をしのぐくらいのものがありました。「魔力があった」と表現する人もいます。また陸軍省の兵務課長田中新一や軍務局課員片倉衷も石原に追随していました。彼らの反対理由は、表向きは三月事件でしたが、実際はかつての軍縮に現されるような宇垣の豪腕を嫌がってのものだと言われています。この頃石原は独自の五ヵ年計画を腹蔵しており、それにはうるさ型の宇垣では都合が悪かったのでしょう。

軍務局長は磯谷廉介でしたが、彼も格別石原たちの動きを止めるようなことはしませんでした。この人の本心は良く分りません。憲兵司令官の中島今朝吾は派手に動きますが、この人に関しては別に書くときが来ると思うので、今回は省略です。

さて本題は下から突き上げられる立場にあった人々です。まず三次長。

教育総監部本部長の中村孝太郎は、陸軍が形式的に出した陸相候補の一人でしたが、正直彼がどういう考えであったのかは、全くわかりません。経歴的には宇垣の部下だったこともあり、当然知った仲ではあったでしょう。

参謀次長の西尾寿造は若い頃から非常な能吏として知られ、彼が見た文書は、宇垣も盲判を押したと言われています。つまりそれだけの信頼関係があったということです。彼は石原の動きを追認したように見えますが、本心がどうであったのかは分りません。

陸軍次官の梅津美治郎は、上記二人よりさらに宇垣と縁の深い人物でした。私生活では仲人もしてもらっています。梅津はその性格から言っても、石原たちの動きに不快感を持っていた節があります。しかしこのときはまだ、何も言いませんし動きません。明哲保身の人として、宇垣も不快感を日記に綴っています。

三次長の上の三長官。

陸軍大臣の寺内寿一は、かつて予備役入りのところを、宇垣にすがって助けてもらったことがあります。宇垣が思うほど、当人がそのことを恩に感じているかは分りませんが、彼個人が宇垣に悪意を持っていないことは確かです。某筋から、「そろそろ宇垣は(首相に)どうだろうか」と聞かれて、「もうそろそろいい時分でしょう」と答えています。しかし自他共に認めるロボットである彼は、部下に言われるままに宇垣を訪れ、大命拝辞の勧告までしています。

参謀総長は閑院宮殿下でした。殿下は基本的にお飾りで、普段は次長が職務を代行することが多いのですが、このときの三長官会議には、殿下直々に出席されておられます。これは殿下の権威を利用しようとする石原の差し金であったと言っている人がいるようです。殿下の三長官会議出席を後で聞いた別当の稲垣三郎中将は、

同宮邸に奉仕すること十数年の永きにわたりながら、最も大切の時機に、同邸におらざりしために、飛んだ事態をかもしたり

と残念がったとか。これを見ると、稲垣中将は宇垣内閣に賛成であったととれますね。この話は私は本書で初めて知りました。またこの殿下の動き(宇垣排撃加担)に抗議して、第一師団に閑院宮殿下の「死亡通知葉書」を投げ込んで逮捕された新聞記者もいたそうです。

最後に問題の教育総監杉山元。杉山は宇垣の下で軍事課長、軍務局長、陸軍次官を務め、彼との縁の深さでは、当時の陸軍で右に出るものはいないといっても良いでしょう。宇垣が大命を拝し、宮中から四谷の自宅に戻ったのは25日の午前3時前でした。出迎える人の中には和服を着た杉山大将の姿もありました。勿論彼はその時、大命拝辞についてなど何も言いません。それを見た人々が、杉山は大臣をやるつもりだなと思ったとしても、無理は無いでしょう。よもやこの先生が、翌26日に近衛師団長の香月中将(杉山中村に次ぐ第三の候補)を伴って記者会見を開き、「自分は絶対に宇垣内閣に入閣しない」言い放ち、更にその足で宇垣を尋ねて大命拝辞を勧告するなど、神ならぬ身では分るはずも有りません。26日、大命拝辞を勧告しに組閣本部の宇垣を尋ねた杉山は、逆に宇垣に言いこめられ、(´・ω・`)として帰ります。そもそも彼がどういうつもりで、私服で宇垣を出迎えたのか分りませんが、こういうことをしているから、「便所のドア」(どっちにでも開くの意)などと呼ばれるのです。宇垣としても泣くに泣けない心境だったでしょう。

【感想】
著者は、宇垣反対は陸軍の総意であり、それ故に例え軍部大臣現役武官制が復活していなかったとしても、陸軍大臣を求めるのは難しかったであろうとしています。この点は私も同意見です。タイミング的に、現役武官制復活の直後に起こっただけに、惑わされやすいですが。しかし宇垣は後備の大将です。現役武官制が無ければ、法制上は彼自身が陸軍大臣を兼摂することが可能でした。勿論このような状況で、彼が陸軍大臣になったとして、何が出来たかというのはあります。しかし何か出来たかもしれません。そういう意味で、私はある程度、軍部大臣現役武官制の威力を認めるのです。


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第2章 軍部大臣現役武官制の復活
軍部大臣現役武官制は山本権兵衛内閣で廃止されました。その経過については、当時の陸相木越安綱の項などでも触れています。この官制改正を飲んだ陸軍は、その対策として陸軍省、参謀本部、教育総監部関係業務担任規定を改正しました。具体的に言えば、統帥命令に関する権限、編制動員業務に関する権限を参謀本部に移管し、陸相の専管事項であった高級人事も、三長官の合議制にするというもので、要するにそれらは陸軍大臣の権限を制限するという目的を持っていました。

広田内閣は、この軍部大臣現役武官制を復活させましたが、これを推し進めたのは、新たに陸軍次官に就任した梅津美治郎でした。梅津は二・二六事件において、断固討伐を訴えた数少ない師団長の一人でした。現役武官制復活の表向きの理由は、事件で追放された皇道派将軍の任用を防ぐということでした。これは、皇道派の将軍に深い信頼を寄せる近衛文麿の存在が念頭にあったかもしれません。しかし彼にはもう一つの目的がありました。それは、三長官に分散した人事行政の権限を、再び陸軍大臣に一元化するというものでした。つまりそれは三長官合議制の廃止を意味します。

ずっと後年、小磯国昭が大命を受けたとき、広田に呼び止められた話は、以前しました。この話はかなり広まっており、宇垣も戦後、聞いたそうです。

 私が最近聞いた話によれば、当時〔宇垣内閣流産事件の頃〕既に三長官会議の決定なるものは政府によって無効であった、との事。即ち小磯内閣成立の為の重臣会議を終えて・・・・・(後略)

文藝春秋臨時増刊 昭和メモ

ところが、宇垣は戦後知ったと言いますが、本書によれば、昭和11年5月18日の読売新聞にはっきりと、三長官会議は廃止されたという記事が載っているのだそうです。またこの頃、議会に於いて軍部大臣の選任方法について、植原悦次郎議員から質問を受けた広田は、

大命を拝しました本人は、例えば軍部に於きましては自分の適当と認める人を陛下に奏薦することが出来ると思うのであります

と答弁しています。これを聞いた椎原は、その後二度に渡って”そんなはずは無いだろう”というような趣旨の質問を繰り返したますが、広田は、軍部大臣は首相が選任できるという趣旨の答弁を繰り返し、最後には

私が申した通りに御信用願います

と言い切っています。議会には当然陸相とそのスタッフがいましたが、この広田首相の答弁が、その後問題になった形跡はないため、少なくとも寺内と広田の間では、三長官会議の廃止は合意されていたようです。後年広田が小磯にいったことは、満更の出鱈目でもなかったということです。

しかし梅津次官の人事一元化は、参謀本部の強い反対に阻まれ挫折します。また三長官会議もその後惰性的に開かれ、結局現役武官制が復活しただけと相成りました。

【感想】
広田弘毅はA級戦犯として処刑されました。故に、広田の中から、それに相応しい罪状を搾り出そうとする人々がいます。そしてそういった人々が必ず挙げるのが、この軍部大臣現役武官制の復活です。しかし著者は、軍部大臣現役武官制が無くとも、軍部は既に内閣の死命を制する力を持っており、この官制の復活を過大視するはおかしいと主張します。
軍部大臣現役武官制の復活は、あくまで陸軍の内部事情に依る所が大きく、しかし外から見れば、軍部が政府に圧力を掛けているように見える。この構図は何かに似ていないでしょうか。そうです、やはりこの時期にあった支那駐屯軍の増強です。あれも、関東軍の北支への容喙を防ぐという陸軍の内部事情に依りました。しかしそういった事情は、国民政府には当然分らないわけで、自分たちへの圧力と受け取ったのは当然のことだったでしょう。
梅津という人は、大変統制を重んじる性格でした。彼は、統帥権という秘剣を持つ参謀本部の力を、少しでも削いでおきたかったのではないでしょうか。つまり、二・二六事件で統制派と皇道派の争いは一応解消しましたが、梅津・石原という二大巨頭の新たな争いが、このとき既に始まっていたというわけです。

第3章へ続く


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第1章 広田内閣における陸軍の政治介入
二・二六事件の後、元老西園寺公望に首班として指名されたのは近衛文麿公爵でした。しかし近衛公は何かと理由をつけてこれを辞退。重臣達は困りますが、一木喜徳郎の推薦で広田弘毅に大命が降ります。
広田の組閣振りを注視していた陸軍は、その面々に不満を抱き、入閣予定であった寺内寿一をして、入閣を拒絶させます。このとき陸軍が忌避した人々は一般的に次の五名とされます。

  1. 牧野伸顕の女婿吉田茂
  2. 朝日新聞の下村宏
  3. 民政党の川崎卓吉
  4. 国体明徴の観念に疑義があるとされる小原直
  5. 軍需産業と繋がりの有る中島知久平
著者は、更にこれに永田秀次郎も加えた六名にクレームがついたとしています。

一方このとき陸軍省において協議に参画したのは、新大臣候補の寺内大将のほかに、現大臣の川島義之、次官の古荘幹郎、軍務局長の今井清、軍事課長の村上啓作、調査部長の山下奉文そして軍事課課員の武藤章高嶋辰彦といった人々でした。大臣、次官は勿論山下、村上の二人もいずれ事件の責任を問われる身であり、今井清も、皇道派ではありませんでしたが、この後一時的に兵本附となります(責任を問われたのか体が悪かったのかは不明)。当然、一連の流れを取り仕切ったのは、一番階級が下の武藤たちであったろうことは想像できます。特に武藤は、広田の組閣本部と直接の交渉にあたったため強い印象を与え、一連のクレームは、武藤一身から出たものであるというようなことすら言われます。武藤の持つ強大な才能もまた、人々の思い込みを補強します。しかし彼のブレーンであった矢次一夫は、むしろ武藤はより強硬な意見を持つ連中から突き上げられ、それを抑えるのに必死であったのだと書いています。

広田陣営は、陸軍の意向を汲みながらリストを作り上げましたが、最後の段階でまた陸軍が、政党人は一人にしろとクレームをつけてきました。それをうけて組閣参謀の藤沼庄平は、寺内に直接電話をかけて、「陸軍のせいで組閣が出来ないと明日新聞にぶちまける」と言いました。それを聞いた寺内は「ちょっと待ってくれ」と言い、「特使に持たせる一文に同意してくれるなら、明日の組閣に同意する」と答えました。特使としてやってきたのは武藤でした。その内容は随分陸軍本位なものでしたが、広田サイドは我慢してそれを聞き、何とか組閣にこぎつけました。

【感想】
個人的にへ~と思ったのは、永田秀次郎の件でしょうか。著者はまずこの第1章で、軍部大臣現役武官制が復活していない状況にも関わらず、広田内閣が陸軍の反対で流産しかけたという点を指摘します。

第2章へ続く




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先月読んだ本の書評。済ませごとみたいであれだけど。

『レイテの名将 片岡董』細田 昌
レイテの第一師団長片岡董中将の評伝。彼の実家は城崎の旅館、三木屋
志賀直哉は片岡の実家に逗留して『城崎にて』を書いたそうだ。
戦後、レイテで彼の師団と相対した米国軍人が、わざわざ訪ねてきたが、その名前をフルベッキといった。彼の祖父はあのフルベッキ

『町尻量基追悼録』
インドシナ駐屯軍司令官町尻量基中将の追悼録。中将は壬生家の三男で、大正3年に町尻家を継いだ。実父は七卿落ちの壬生基修。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mibu_mo.html
長女は天覧試合優勝の野間恒に嫁いだが、野間は夭折した。
http://episode.kingendaikeizu.net/26.htm
小学生のとき京都から、学習院に転校してきた。学習院そばの石光真臣(真清の弟)の家にピンポンダッシュをして遊んでいたら、ある日門内で待ち伏せされて、みんな捕まったということがあった。
温厚で頭脳明晰な君子人のため、少し難しい役職に、火消し的に使われることがまま
あった。同期の石原莞爾とは大変仲が良かった。頬のコブが命取りとなり、終戦後まもなく逝去。

『荒木将軍の実像』橘川学
荒木貞夫の評伝。高宮太平の『昭和の将帥』に、林銑十郎が陸軍大臣を辞める辞めないで騒ぎになったとき、偶々彼(高宮)が真崎邸で、真崎甚三郎と荒木の電話を盗み聞きしたときの話が出てくる。しかし、この本の著者は、あれは高宮が最初からそのつもりで、酔った振りをして真崎邸の押入れで狸寝入りを決め込み、他の記者が帰るのを待っていたと書いている。まあどっちでもよい話だが。
ちなみに荒木家は無茶苦茶貧乏だったが、彼が醤油屋の丁稚をしていたというのは嘘との事。

『8月17日、ソ連軍上陸す』大野芳
まだ精読はしていない。
題名の通り占守島の戦いの話だが、それだけではなくアッツの玉砕など、あの方面の戦いは一通り触れられている。占守島の戦いは当ブログでも何度か触れてきたが、改めて、なかなか難しいなと思った。遺された方々の間には、記憶にも感情にも行き違いがあるようだ。





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このエントリで、”この話は本来、『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』を読んだ上でやるべきなのでしょうが”と書きましたが、全くその通りでした。昨日手に入れて、軽く読んだのですが、内容の被ってること。しかしさすがプロ。私の知らない話も散見します(当たり前!)。とりあえず章立てだけ書いておきます。いずれ詳細なレビューをするつもり。
昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像
第一章 広田内閣組閣における陸軍の政治介入
第二章 軍部大臣現役武官制の復活
第三章 宇垣内閣の流産 ― 「軍の総意」による「反対」
第四章 林内閣の組閣 ― 梅津次官と石原派中堅幕僚の抗争
第五章 第一次近衛内閣における首相指名制陸相の実現 ―杉山陸相から板垣陸相へ―
第六章 阿部内閣における天皇指名制陸相の登場 ―畑陸相就任の衝撃―
第七章 米内内閣倒壊 ―畑陸相辞職と近衛文麿の役割



録画してある「その時歴史が動いた 第316回 軍服を脱いだジャーナリスト ~水野広徳が残したメッセージ~」を見ようと思っていましたが、今やってるNHKが面白いので後回し。水野大佐に関しては一冊だけ、うちの本棚にもありました。
錨と星の賦―桜井忠温と水野広徳 (1980年)

陸海こそ違え出身地、出身校を同じくするニ軍人、桜井忠温と水野広徳は日露戦争従軍記『肉弾』と『此一戦』で共に盛名を馳せた。以後の二人の対蹠的な歩みを綿密な取材と資料で浮彫にした話題の力作!!

読んだのはちょっと前ですが、水野と比べたら桜井は、良くも悪くも普通の軍人だなあと思いました。


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『追想 陸軍少将 谷川一男』
昭和29年に55歳の若さで逝去された谷川一男少将の追悼録。発行者は御子息。追悼文を寄せている旧陸軍軍人の面子がなかなか豪華。

少将は元来文学や哲学を愛好する人であったが、家計の関係から官費の陸士に進んだというのは、小倉中学の同窓、吉田敬太郎氏(若松市長など)の言葉。この話は、谷川が2年間仕えた第八方面軍司令官今村均大将とも共通する。今村もまた、父の死で二高を諦め、陸士へ進んだ。


少将は陸軍航空の開拓者として、特に部隊運用に関して非常に大きな足跡を残した。そのため人は彼を、陸軍大学校の基礎を作ったヤコブ・メッケルなぞらえ、谷川メッケルと呼んだ。

二・二六事件では、判士として被告を裁く一方、彼らのために弁明書を書くなどしていたそうだ。

「あんなに愛国に志した若者をむざむざ処刑する羽目になって」

という言葉を、ソ連で一緒だった森正蔵夫人が覚えている。

次の「星夜雑感」という文は開戦当初、南方軍参謀であった時に書かれたものである。

 南国の星夜宿舎の屋上に坐して想念遥かなり。北極星地平に近く南十字星光燦たり。此の作戦も幸に極めて順調なる進展を見たるが、残るはただバタンとビルマのみ、バタンは時機の問題たるべくビルマは如何にしてマンダレー殲滅戦を鮮かに手際よく指導するかに顧慮あるのみ。
 帝国将来の経綸は如何。次で来るべき戦争指導の方案は如何。
 濠州、印度、ハワイの攻略の要否能否、北方ソ連に対する見解、支那事変の今日における意義と其解決の方途如何。
 地図を凝視すれば本作戦を契機とし僅か三ケ月に時勢一転し舞台改まり、三千年の歴史を通し情勢未曽有の変転を果せるに、自ら深き驚異を感ずるものあり。而かも一脈沈痛なる気持の我が胸を圧するものあり。万有は流転す。世に常住あるなし。栄ゆる者必ず衰うるは歴史の示す不滅の鉄則なりとすれば、流転の中に拠て以て立つ不変の真理は何ぞや。伸展せし国力を歴史の教ふる運命の流れに抗して、永遠不朽に生々発展向上せしむる事可能なりや。帝国のみ歴史の例外たり得べきや。可能なりとすれば其方途如何。我子孫の何れかの時機に、今日の国力の進展が圧迫退縮せしめらるる時ありとすれば之果して忍び得べき事なりや。或は謂ふ、永遠に発展するの途は「道義」立国にありと。帝国の拠て以て立つ道義とは何ぞや。深思省察真に思を砕くべき事項なりとす。
 人或は帝国の「神秘性」を謂ふ。或は然らん。世に奇蹟なしとは断じ得ざればなり。然れども万有流転の不滅の鉄則は、厳として我が心を圧するものあり。
 不滅とは何ぞや、永遠とは何ぞや、沈痛切なるものあり。
 順調の秋必ず逆境を思ふことを忘るべからず。敗戦の味を知らざる将帥は、断じて名将に非ず。

原四郎中佐の追悼文より抜粋



ラバウルで田中耕二は、

「この戦争は残念乍ら負けるだろう。然し誰が総理であったとしても、恐らく日本はこの戦争に突入したであろう」

という少将の言葉を聞いている。昭和20年に大本営参謀に転補されると、聨合艦隊参謀副長も兼任した。



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小磯の自伝をぱらぱらと読み返した。獄中で書かれた900ページを越える大著だ。装丁や外箱まで自分でやるなど芸が細かい。

日韓トンネル議連とかいうのがあるらしいが、日韓トンネルといえば小磯である。彼は少佐のときに、対馬海峡隧道案というのを書いている。

陸士12期の同期生である杉山二宮の三人とは若いころ非常に仲が良かった。よく4人で小磯の家に集まり、宴会をしていたため、小磯家の小さい娘が、杉山の真似をして、床の間に上がって金盥を叩いて踊るので、困ったという。一番早く予備役に入れられた二宮は、最後まで小磯と行を共にしたが、残りの2人は元帥となり、小磯たちとは、やや袂を分かつこととなる。

小磯の人生で最も大きなトピックは、勿論首相就任であろう。彼の内閣時代には捷一号作戦や繆斌工作があった。どちらも彼が力を注いだものだが、前者は特に無残な結果となった。

三月事件も大きい。一連の革新運動の口火である。宇垣は、小磯こそがこの事件の責任者であると考えており、この事件によって苦境に立たされている今(組閣時のこと)、小磯は当然自分に協力すべきだと考えていた。しかし前エントリの通り、小磯はこれを断った。宇垣の日記にはこれに対する怒りが綴られている。

小磯の台頭が炎となり小磯の軽挙が招来したる三月事件が其の口実に利用せらるるなどは、奇しき因縁と謂つべきなり。彼の今後の運命は風前の燈火の有様なり。彼自体夫れを承知して居る筈なれば彼の捨身的奮起を促し見たりしが、彼も凡庸儕輩と等しく明哲保身以外に立ち得ざりしは可憐なり矣。(一月二十七日)

『宇垣一成日記 2』



大尉時代には内蒙に潜入して、宗社党への工作を行っている。これは宇都宮太郎の後任の参本第二部長福田雅太郎の方策であったが、結局中途で中止となり、小磯は梯子を外されたような状態となった。

最後に面白い話をひとつ。大正9年、師団対抗演習の準備のため、大竹沢治大佐、小磯少佐、阿南惟幾大尉の三人が東北を回った。酒田駅についたとき、年少の阿南大尉が明日の切符を買っている間に、二人は宿屋を探した。よさそうな宿屋を見付けたので、小磯が交渉のため入ろうとすると、大竹大佐が、

「おい小磯、待て待て、貴公の顔じゃ宿屋が上げないよ」

と言う。小磯は内心、

「あなたより物騒じゃありませんよ」

と思ったが、さすがにそれを口に出すのは憚られたので、

「戯談をいっちゃいけませんよ」

とだけいって宿屋に入った。結果は果たして大竹の言ったとおりで、宿屋は、満室だといって小磯のたちの宿泊を断った。憮然として戻ってきた小磯を見て大竹は、

「小磯、それ見ろ、いはんこっちやないじゃないか」

と嬉しそうに笑う。そこへ阿南大尉が追いついてきて

「どうしたんです」

と聞くので、

「此の宿は一杯で泊められないといふんだよ」

と答えた。それを聞いた阿南は、宿屋の帳場に行って、

「他に良い宿屋があったら教へて下さい」

と頼んだ。小磯とは打って変わって、若く眉目秀麗な大尉に、宿屋も好意を抱いたが、小磯に対し満室ですと言った手前、今更彼らを泊めるわけにもいかず、結局他の宿屋に案内してくれた。こうして一行は、其の晩、無事に宿泊することが出来た。その後一切の投宿交渉は、阿南大尉に一任された。大竹沢治は新潟出身で、非常な逸材といわれ、この後参本第一部長まで務めるが、少将のとき病没した。


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