近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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正確に言えば逆で、軍部大臣現役武官制廃止の効能ですか。

広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、その直後に宇垣一成が組閣の大命を拝しながら、陸軍大臣を得ることができずに、泣く泣く大命拝辞するという事件が起こりました。この件については以前
香月清司中将について(1)
林弥三吉中将重大声明
で軽く触れましたが、それではこのとき、軍部大臣現役武官制が復活していなければ、宇垣は無事組閣出来たでしょうか?確かに彼に協力する予備役の大将、中将は数名いましたが、しかし、大臣も出さないというくらい(陸軍に)反感を抱かれている内閣に入閣するぐらいの意気の有る人は、いたかどうか(この話は本来、『昭和十年代の陸軍と政治―軍部大臣現役武官制の虚像と実像』を読んだ上でやるべきなのでしょうが、残念ながら私はまだ読めていません)。

宇垣から電話で依頼を受けた小磯国昭は、三長官の推薦が無いなら、仮に自分が受けたとしても、朝鮮海峡を渡っている間に(彼は当時、朝鮮軍司令官)、電報一本で予備役に編入され駄目になると答えたそうですが、仮に現役武官制が無ければ、彼は予備役編入覚悟で宇垣と心中したでしょうか?後述するように、彼はかなり現役に執着していましたので、どうもその可能性は薄そうな気がします。

「新聞で大体は承知してゐました。一体どうした訳なんですか?」
「困った。陸軍大臣を受けるものがないといふのだ。君一つ受けて呉れ」
「さうですか、それは御察しします。然し三長官からの推薦も受けないのに、閣下からの直接交渉に対し私一存で諾否は申せませんな」
「さうか、困ったな」
「閣下、寺内君にもつと強硬に交渉したらどうです。大命が降下したんですからね。何とかならうぢやありませんか」
「うゝ、寺内に言うても駄目なんだ。まあ一応電話を切らう」

小磯国昭『葛山鴻爪』より抜粋

尤も小磯自身は、別段宇垣に出馬に反対というわけでもなく、彼のことも、最近は余程大物になったと評価していました。小磯は本来、二・二六事件後の粛軍で予備役になるはずだったところでしたが、建川美次が、小磯はもう少しだけ現役で置いておいてくれと頼んでくれたおかげもあり、少しだけ現役生命が延び、その間に大将にも親任されました。しかし知らぬが仏、昭和13年7月に参本附となったときも、彼はこの人事に大不満で、閑院総長宮の前で

小磯は本日、着任致しました。参謀本部附として最後の御奉公を殿下の麾下に勤め得ますことは小磯の光栄とする所であります。唯、今回近く待命になる趣でありますが、其の真の理由に就いては何も承知して居りませず、又強いて承らうとも思つて居りません。然し坊間評判する所に依りますと、三月事件の関係者であつたが為であるとか、統制派の一人であるが為とか・・・・・・

小磯国昭『葛山鴻爪』

と、侍立する多田駿参謀次長がそんなこと言うなという顔をしているのを尻目に、くだくだと喋くりました。しかしそれに対する殿下のお言葉は

種々と御苦労だつた。尚、毎日出勤には及ばない

の一言でした。その後も、なかなか予備役願を出さなかったので、人事局課員は随分困ったそうです(慣例として、体が悪いので現役に堪えないという文書を出す)。この態度に、阿南惟幾人事局長は、大将だからとて特別扱いする必要は無いので、予備役に入れてしまえと怒ったそうです(額田坦『陸軍省人事局長の回想』)。


では一方陸軍は、この軍部大臣現役武官制にどう向き合っていたのかというと、松村秀逸の『三宅坂』に”陸大にも文官陸相論”という話が載っています。彼が陸大三学年のとき、軍事課長と兼任で陸大教官もやっていた梅津美治郎が、「陸軍大臣は文官がよいか、武官がよいか」という質問をしました。若い方から順次答えていきましたが、10人目で文官が8人、武官が2人だったので、梅津教官はこの質問を打ち切りました。10人目がちょうど松村だったそうですので、残りの9人のうちには、松村知勝田中弥が含まれていたと見て間違いなさそうです。もう少し進めば、片倉衷桜井徳太郎長勇といった人々まで回っていました。勿論これが陸軍を代表する意見というわけではありませんが、若手のホープの中に、予備役将官どころか非軍人の陸相をも容認する意見があったというのは、中々面白いではありませんか。休み時間の雑談では「犬養あたりにやらせるが、一番よいよ」というような意見も出たそうです。案外、軍部大臣に非現役武官も認めるという制度に、馴染み始めていたのかもしれません。この翌年、満洲事変が勃発し、総ては転回します。


最後に広田弘毅氏について。矢次一夫の『昭和動乱私史』に興味深い話が載っています。昭和19年7月、大命を受け、宮中から退出しようとする小磯を、広田は「小磯君、大事な話がある」と呼び止めました。そして次のように言ったといいます。

「後任大臣を決めるのは、三長官会議のすいせんを受けなくともいいのだよ。これは、僕の内閣時代、軍部大臣を現役制に決めたとき、代りの条件として、取り交わしたものだ。どうか大事の問題だから忘れないように、とくに注意しておくよ」

矢次一夫『昭和動乱私史』下巻

ようするに、従来次の陸軍大臣は、三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の詮衡によるという”慣例”でしたが、現役武官制を復活させるのとバーターで、首相は必ずしも三長官の推薦を受けた人を陸相にしなくても、自分で選べるようにしたと言うのです。これを湯沢三千男から聞いた矢次は、色々調べたそうですが、結局裏付けはとれませんでした。後世史家の調査に期待したいと書いていますが、果たして調べている人はいるのでしょか?


  
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朝日新聞大阪版2月27日朝刊より

 相沢中佐は陸軍部内の皇道派の急進派で、事件直前まで広島県福山市の歩兵第四十一連隊に所属。台湾への転出が決まっていたが、赴任前に上京して事件を起こした。
 資料は全15回分の公判記録をとじた230ページのファイルで、東京の憲兵司令部から旧満州国新京市(現・長春市)にあった関東軍憲兵隊司令部に送られた。当時の司令官は後に首相となる東条英機で、決裁欄に「東条」の印が残る。戦後、同司令部の庭に埋められていたのが見つかり、吉林省當案館が保存していた。
 相沢事件の公判は原則公開のもと、36年1月28日から2・26事件前日まで計10回聞かれた。事件後、完全非公開で同年4月22日に再開され、同年5月7日の第15回公判で死刑が言い渡された。
 文書によると、相沢中佐は犯行の動機を、「自分カ決行セハ悪イ者ハ皆悔悟シテ新シキ世ノ中トナル」(2月4日第4回公判)と供述。「官民一体トナリテ大御心(天皇の心)ニ副ヒ奉リナハ昭和維新ハ招来スルモノト思料ス」(2月6日第5回公判)などと説明し、天皇周辺や軍内部から財閥や政党の影響を排除するよう訴えている。
 第10回公判までの弁護は、陸軍大学校教官の満井佐吉中佐や、法曹界で国家主義運動の中心的存在だった鵜沢総明・貴族院議員が担当した。
 2月25日午後、満井中佐の弁論は3時間に及んだ。「今ヤ農村ノ負債ハ60億(円)以上ニ達シ然モ農村一人ノ所得収入ハ年平均百八十円内外(物価指数の比較で現在の11万円程度に相当)」と述べ、多くの兵の出身地である農村の困窮を強調。 「是等兵卒ノ直接教育ニ任シアル青年将校カ農村救済ノ革新的念願ヲ生スルコトハ必然的」としたうえで、「危局ヲ打解スル為メニハコノ行詰リノ『癌』タル大財閥ノ独専支配ヲ廃シ国家全体本位ノ経営ニ入ルヘキナリ」などと論じた。
 中断後初の第11回公判は、2・26事件の青年将校を裁く特設軍法会議の初公判の5日前の36年4月22日だった。相沢中佐は永田軍務局長について 「陸軍大臣補佐ノ責任乏シキコト」「青年将校ノ会合ヲ禁止セルコト」の理由で殺害を決意したなど改めて供述。一方で皇道派の真崎甚三郎大将は
「実ニ尊イ方テ皇軍中今後不世出ノ人格者テアル」と称賛したと記した。
 結審した5月2日の第14回公判。弁護人による弁論の後、裁判長から言いたいことがないかと問われた相沢中佐は「尊皇絶対ノ信念ニハ変リナク益々皇室ノ弥栄ヲ析リマス」と述べ、涙を流しながら手記を朗読したと書かれている。
 当局側の記録としては、36年と38年に作られた内務省警保局の部外秘資料があるが、今回の資料より簡略だった。


他に須崎愼一教授が、(相沢中佐が)意外に冷静だとコメントを寄せている。同教授に関しては、『二・二六事件―青年将校の意識と心理』は大変良かったのだが、藤原書店の『二・二六事件とは何だったのか』は案外な内容でがっかりしたものだ。

  
安藤輝三大尉が鈴木貫太郎大将を訪ねたのは、二・二六事件の2年前の昭和9年1月下旬のことでした。このとき大尉は日頃の所信を大将にぶつけました。その中で当然、農村の疲弊も訴えました。それに対し大将は、次のように答えました。

今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておって後顧の憂いがある。この後顧の憂いのある兵をもって外国と戦うことは薄弱と思う、それだから農村改革を軍隊の手でやって後顧の憂いのないようにして外敵に対抗しなければならんといわれるが、これは一応もっとものように聞こえる。しかし外国の歴史はそれと反対の事実を語っており、いやしくも国家が外国と戦争するという場合において、後顧の憂いがあるから戦ができないという弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい、しかしながら事実はそうではないのだ、貴君はフランスの革命史を読んだことかおるかと反問したら、それはよく知りませんという、それではそのことの例を引いてお話しましょうと、フランスの帝制が倒れ共和制になったので他の国々は、それがうつっては困るというのでフランスの内政に干渉し軍隊を差し向けた、フランス国民はその時どうしたかといえば、たとえ政体はどうでも祖国を救わなければならないと敵愾心を振るい興こし、常備兵はもとより義務軍まで加わって国境の警備について、非常に強くまた勇敢に列国の侵入軍に対抗した、その時のフランス兵の一人一人について考えてみると、自分の親兄弟は政治上の内訌からギロチンに臨んでいるものもあり、また妻子が飢餓に瀕している者もあった、ナポレオンが太っているのを見て、お前はそうふとっているがお前は私に食を与えよと強要した一婦人もあるくらいでしたが、フランスの国境軍は熱烈に戦闘した、それが祖国に対しての国民の意気であった、そしてついにナポレオンのような英傑が出てフランス国民を率い、あれだけの鴻業を建てた、これはフランスの歴史において誇りとしているところである。
 しかし日本の民族が君がいうように、外国と戦をするのに、後顧の憂いがあって戦えないという民族だろうか、私はそうとは思わない。フランスくらいのことは日本人にできないはずがない。その証拠に日清、日露の戦役当時の日本人をご覧なさい、あの敵愾心の有様を、親兄弟が病床にあっても、また妻子が飢餓に瀕していてもお国のために征くのだから、お国のために身体を捧げて心残りなく奮闘していただきたいといって激励している、これが外国に対する時の国民の敵愾心である。しかるにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどということは、飛んでもない間違った議論である、私は全然不同意だと。

安藤大尉はこれを聞いて、非常に納得して帰ったといいます。しかし結局のところ、この答えは大尉にとって50点だったのではないでしょうか。勿論彼がこういう聞き方をしたから、貫太郎大将もこう答えたのですが。安藤大尉は、除隊していく兵隊のために、自ら就職先を探してやるような人でした。大尉は、一朝有事の際、召集された彼らが心置きなく戦い、死ねるようにと、そのようなことをしていたのでしょうか。勿論軍人ですからそういった考えも持っていたでしょうが、もっと素朴に、目の前の貧困に対する苦悩もあったのではないでしょうか。貫太郎大将の言葉の正しさは、後に大東亜戦争が証明しました。貧しい家々から召集された兵隊達は、人間の限界を越えた艱難辛苦の中、戦いました。しかし、今現在目の前で苦しむ貧しい家の兵隊達を預かる安藤大尉にとって、それはすべての答えにはなり得なかったのではないかと思います。

「前島、お前がかつて中隊長を叱ってくれたことがある。中隊長殿はいつ蹶起するんです。このままでおいたら、農村は救えませんといってね。農民は救えないな、オレが死んだら、お前たちは堂込曹長と永田曹長を助けて、どうしても維新をやりとげてくれ。二人の曹長は立派な人間だ、イイか、イイか」



事件当日、鈴木邸を襲撃した安藤大尉は、とどめをさそうとする部下を制し引き上げ、奇跡的に一命を取り止めた鈴木は、後に首相として大東亜戦争の幕を引きます。事実は小説より奇なり。しかしそのあまりの数奇さゆえに、二人の間に過剰なストーリーが出来ているのではないかなと、ふと思い、つらつらと書きました。72年前の午前零時、安藤輝三大尉は第六中隊に非常呼集をかけます。


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『二・二六事件秘話 同期の雪 林 八郎少尉の青春』小林友一
『小林友一追悼録』刊行会(編纂委員長 山口 立)

二日早いが関西でも雪が降った。

小林友一少佐の同期(陸士47期)からは数名が事件に参加したが、特に刑死する林八郎とは格別の間柄であった。そのため記述はどうしても林寄りになる。そうすると割を食うのは栗原中尉だ(またか!)。まあそれは良い。事件当日、彼が安藤大尉と交わした会話は中々興味深い。

「安藤さん。これからどうなるのですか。どうするつもりですか」

「それは山下奉文少将に委せてある。山下閣下が出て来て、われわれの希望する方向に後始末をしてくれるはずだ」

「独自の計画は持っていないのですか」

「何も持っていない」




幼年学校時代の生徒監は千田貞季大尉(後に少将)であった。この人は後に硫黄島で戦死するが、教育者として大変立派な人物であったようで、悪く書かれているのを見たことがない。小林も彼の薫陶を受けた。同期の常盤稔は当時体が弱く、よく医務室で寝ていたが、小林は必ず何かをジャンクして見舞いに来てくれたという。以前少し書いたが、小林(と林)には心酔する二人の先輩がいた。一人は自決してしまうが、もう一人の山本春一氏は、空挺部隊の部隊長として南方で終戦を迎えた。この人には凄い逸話がある。

 彼が南支の独立混成旅団の歩兵大隊長の時である。討伐作戦から帰還して、その報告のため旅団長のところへ出頭した。旅団長加藤少将は、彼の大隊の損害(戦死傷)の少なかったことを詰問した。
 損害の多いほど、その部隊は勇戦奮闘したものと考えるような上司が、時にはいたのである。大切な天皇の赤子を、なるべく損なわずに戦果をあげることこそ真の指揮官である。
 山本支隊長は怒り心頭に達した。やにわに旅団長を腰車でぶん投げた。そして、「かくの如き馬鹿者、少将の資格なし」と、少将の階徽章をちきりとって投げ捨てた。

ちなみにこの加藤少将は陸士22期であったが、無天ということもあり、少将のままで終戦を迎えた。

上海事変では林の父、大八が戦死した。

林の父上第七聯隊長、上海の戦闘に於て戦死せらる。なんとも言えざる押付けられし感情に打たる。賽は既に投げられ、ルビコンは既に渡られたるに増兵を遅疑して、徒らに有為の士を殺す。彼林果して如何なる感慨ぞ。

この後、事変で活躍した辻政信の講演に感激し、林と共に辻の家を訪ね、更に丸め込まれ感激を新たにし、辻の後継者たるべしと心に誓っている。後年、小林は辻を次のように評している。

「Tさんは確かに日本一の歩兵中隊長だった。しかし聯隊長、師団長、軍司令官となると然らず」

しかし陸士で辻の薫陶を受けた人の中には、戦後も彼を神様の如く尊崇している人が少なくない。戦後、逃亡から帰ってきた辻政信は、次々と本を書いたが、その本を出版した亜東書房というのは、小林が設立したそうだ。後に二人はこの事業をめぐって大喧嘩した。

事件当時、近衛の聯隊長であった田中久一は小林の事件への関与を疑い、大隊副官に任命して、一種の軟禁状態においた。小林はそれが不満であったが、後年、再び田中に仕えることとなり、その真の人柄に触れ、深くこれに感動し、陸軍省人事局にいた先輩に宛て

「田中久一こそ、絶対に大将にすべき将軍である」

と私信を送った。

小林は陸士47期のトップで恩賜の銀時計を賜った。その後、当然陸大に入学したが、そこでは恩賜を逃した。ここに椿事がある。陸大には二つだけ銅像があった。一つは開祖のメッケル、もう一つは名教官といわれた石田保政。卒業を間近にひかえたある日、小林はメッケルの銅像に上って放尿をした。いくら操行点の無い陸大でも、これは問題になり、幹事の四出井綱正の取り成しで放校は免れたが、当然恩賜は無理であった。小林が敢えてこういう行為に出たのは、旧態依然とした陸大の教育内容に対する怒りがあったからだと、彼を知る人は考えているようだ。これをメッケル銅像事件という。

昭和26年の警察予備隊設立前後、次のようなことがあった。

 某日、二人の先輩がそろって訪ねて来られた。大本営作戦課、陸軍省軍務課と中枢で活躍された、軍内で著名な中佐である。
「警察予備隊には旧軍人は一人も入るなという運動を、お前すぐにでも開始しろ」
「どうして私にやれというのですか」
「お前は全国の状況にも通じているし、若い連中には一番顔が広いからだ」
「お断りします。やるならばお二人でやりなさい」
 私は即座にお断りした。
「現在の予備隊は、皇軍建軍の理想から見れば、それは遥かに遠いものでしょう。しかしながら、現在の国際情勢、日本の国情、世相を考えれば、お二人のいう理想論はまさしく夢物語りに過ぎません。漸を追うて前進すべきでしょう。
 現在、旧軍人が世間でどういう状況にあると思いますか。本当に食うや食わずの窮状にある人がたくさんおります。その人達が、妻子のため食わんがために予備隊へ入りたいというのを、何の権限があってやめさすことが出来ますか」
 ただこれは、先輩に対する私の詭弁の一種であって、実際に予備隊へ入隊した人達は、軍再建の理想に燃え、国家奉仕の熱情に根ざした純粋な気持ちであったことを付記する。

この二人は所謂服部グループの誰かであろう。こうは言ったが、彼自身は自衛隊に入ることは無かった。

靖国神社の看板や説明の英語化は、堀江芳孝が小林に半ば命ぜられてやったものだが、そのとき関わった人々の間で次のような雑談があったそうだ。

早速、松平宮司が、小林、杉田、大井と私の四名を昼食に招待され、四方山の話が出た。
大井「西郷さんは祭られていますか」
宮司「賊軍の大将ということで祭られていません」大井さんは「鶴岡藩の恩人なのに」と言って泣き出した。
杉田「東条さんは」
宮司「祭られています」……

大井とは海軍の大井篤少佐のことである。

「百歳まで生きて、貴様らの面倒を見てやる」が小林の口癖であったが、人並み外れた酒量のせいもあってか、これだけは果たされず、昭和59年永眠。



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半藤一利、保阪正康両氏の対談をまとめた『昭和の名将と愚将』という本が出ていた。取り上げられているのはいつもの面子なので、立ち読みで済ませた。

しかし文句ばっかり言っていてもあれなので、自分でも私的(わたくしてき)昭和の名将をリスティングしてみる。名将といいながら、将官に拘っているわけではなさそうなので、遠慮なく尉官からも選ぶ。

どう見ても好みで選んでます。本当にありがとうございました。


石射猪太郎の文章は、どうも東亜同文書院特有の嫌らしさが感じられて、好きではない。まあそれはともかく、あの本で一番面白いのは、中国側が日本の要人の印象を書いたメモを、彼が手に入れたときの話。石射自身好意的評価を受けていてご機嫌なんだけど、それより渡兄弟に対する評価が、”兄弟揃ってアゴが長い。特に弟の方が長い。”というもので、石射もこれはうけたらしく、特に日記に書き写している。

兄の渡久雄は、北支事変発生時、参謀本部第二部長の要職にあったが、病気のためなすところなく本間雅晴と交代した。彼は陸軍内英米通の代表格であったため、ずっと後輩の杉田一次も、彼の早い死を惜しんでいる。東條英機と同期で、彼に意見できる存在であったというのも、その理由の一つだが、こればっかりは果たしてどんなものか。

兄・渡久雄


弟・渡左近


意味なし

http://www.kadokura-ken.com/index.html
先のエントリで突然、昭和13年1月15日の大本営政府連絡会議の模様を取り上げましたが、別に深い意味があったわけではありません。ただ外交というのは難しいなあというだけです。十分現在でも参考になる話ではあると思いますが。

で、三つ前のエントリでは棚橋茂雄と、彼がやっていた(と称する)対米工作についても書きました。(棚橋曰く)これを最も妨害したのが岩畔豪雄であったということも。しかし運命というか、その岩畔も昭和16年に対米交渉の最前線に立つことになります。この、井川忠雄と彼の工作は、棚橋のそれよりずっと有名なので、御存知の方も多いと思いますが。

というわけで今日の一冊はこれ。

著者は岩畔少将の親戚だそうです。ですので3分の1ぐらいは少将の伝記のようになっています。肝腎の日米交渉についても良く纏まっていると思います。武藤章こそ、陸軍内で数少ない彼らの後援者であったと著者は書いておられますが、この点は私もその可能性が高いと思います。ちなみに私は、武藤と岩畔は、性格の違いはともかく、その閲歴からその蹉跌に至るまで、共通点の多い二人だと、以前から思っていました。二人の良さというのは、思い切った方向転換ができる点にあると思います。陸軍が続いていれば、いずれも陸相になったでしょう。大事な時期に、二人ともが東京から遠く離れた場所に居たのは、残念です。ついでにいうと、武藤の近衛師団長転出も、岩畔と同じく、一種の左遷風味の人事であるとする人もいます。



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昭和13年1月15日

午前9時 大本営政府連絡会議開会。

午前10時 閑院、伏見両総長宮ご着席。

----まず広田弘毅外相から日支和平交渉に関する経緯につき説明。以下質疑開始。

★ 軍令部総長宮(伏見宮博恭王)--講和の話を耳にしたのは、昨年十一月八日(恐らく十二月八日の誤りであろう)と思うが、一体この話はいつ頃から始まったのか。

★ 広田外相--成るべく速やかに支那事変をまとめんとして、英の意向を探っていた。そのうちに杉山陸相から、支那側の意向を質して貰いたいという話があったので、英国側から探りを入れたが、蒋介石の意向はよくわからなかった。当時九ヶ国条約の会議中で、これが英米独伊に対し事変の解決は、日支直接交渉の方法以外はとらない旨の内意を通じておいた。その後英米に斡旋してもらっては如何という問題が起こったが、当時英に対する日本の空気は甚だ不良だったので、英米からは斡旋を受けずと答えた。

★ 参謀総長宮(閑院宮載仁親王)--細目十一ヶ条が、支那側に徹底しているであろうか。個条書にしては如何。

★ 広田外相--詳しく説明しておいたので、支那側もわかっていると思う。

★ 軍令部総長宮--今後例えば三、四ヵ月間において、当方の条件を全部容れて来ても、なおハネツケるか。

★ 近衛文麿首相--然り。

★ 杉山元陸相--蒋介石政権は知日派、抗日派等いろいろある。

★ 軍令部総長宮--それは判断ですね。

★ 参謀総長宮--十一ヶ条が伝わっているか。それに疑問があるを以て、短時日の期限を付して今一応確かめては如何。

★ 広田外相--そこははっきりしないけれども、大体において伝わっていると思う。

★ 末次内相--条件を書き物にして渡せば、世界に発表され内外言論のさらし物になるであろう。たとえ勅裁を経たものといえども、そこに困難があり支那側に真に和意があれば、四ヶ条を出した時返事が来るはずである。書き物として出すのは外交としても甚だ拙いと思う。これは蒋の戦術の術中に陥るものである。これは統帥作戦に影響があることだが、支那に対し和を求めることは、兵備が足らないというようなことから、ソ連から侮りを受けることになりはしないか。こうなっては、国家の前途に危険をかもすことになる。

★ 参謀総長宮--次長の意見は如何。

★ 多田駿参謀次長--この回答文を機として脈があるように、何故されないのか。第一の解決の場合(注、国民政府を対手とする場合)を求めて本当にやろうとすれば、第二の場合(注、国民政府が和を求めて来ない場合)に移行した際に比べると、その時の各般の騒擾の方が遥かに大きい。

----多田次長は広田外相の記録を述べて、これを敷衍して一々説明を求めたが、大部分は杉山陸相が恰も上官が部下に物をいうように弁駁して来た。そしてそうでなくとも、できるよう努力しなければならないと無責任な答弁をする程度であり、結局は「誠意があるか否かの水掛論」となった。

★ 多田参謀次長--新聞に声明案をもらしたのぱ誰か。このようなものをもらすが故に、連絡会議が延びれば、首脳部が内輪割れしていることを暴露し、このように大切な問題を一、二時間を争って決めねばならなくなるに至るのである。

★ 近衛首相--発表したわけでも、また洩らしたわけでもない。新聞記者が判断して書いたものであろう。

★ 古賀峯一軍令部次長--新聞発表は全く困る。戦が長びけば戦力、戦備が衰え、海軍も戦備が衰えれば、大陸経営または満州の経営も開発も出来なくなる。

★ 末次信正内相--それならば、先般ご裁可を仰いだ長期戦が出来ないというのか。

★ 古賀次長--それは言葉が足りなかった。困難になるという意味である。

----正午少し前に両総長官に退出。

★ 多田参謀次長--次のように政府に要望する。
  1. 支那側に条件およびわが方の考えを確実に知らせること。
  2. 日支間の長期戦争については、極めて慎重に考えること。
  3. それらのためには、あらゆる手段を尽くすこと。特に十一ヶ条を書き物で示すこと。
  4. トラウトマンの言は、日本の意志なることをはっきり示すこと。
  5. 人は何時までに出すのか、それとも出さないのか、はっきり返事のこと。

★ 多田参謀次長--なお尽くすべき手段が残っているではないか。

★ 古賀軍令部次長--支那側が大急ぎで返事を出した点からみて、和平の希望があるであろう。

★ 米内光政海相--交渉の見込みありや否やの判定は、外務大臣の責任である。外相が見込みなしと判断すれば、打切りの外はあるまい。

----これにて午前の会議は終了した。



午後1時 参謀本部

----午前の連絡会議から参謀本部に帰った多田次長は、戦争指導班長高嶋辰彦中佐を呼んで、会議の情況を説明した。高嶋中佐が従来の主張を述べたのに対して、次長は「それは全部午前中に述べた」と答えた。途中から本間雅晴第二部長も同席した。

★ 本間雅晴第二部長--第一案として、今一応独大使に十一ヶ条を確認し、二十四時間以内に回答を求める案、第二案として、一応打ち切り声明は二、三日延ばして内部工作する案、の二つをもって午後の会議に臨んでは如何。

★ 高嶋辰彦中佐--許大使に直接示す案、十一ヶ条には必ず前文を付ける案でなければいけない。

★ 多田参謀次長--内閣総辞職を誘発しても差支えないのは、純理論として正にそうであるが、国の内外に及ぼす影響は極めて重大で憂慮に湛えない。

★ 高嶋中佐--少なくも午後の会議においても議事を保留して、今後行なわれるであろう御前会議で、政府と争うべきです。なお、もし午後の会議で政府案に同意せらるるならば、秩父宮殿下に対し、次長より直接ご説明あるべきでしょう。

午後2時 戦争指導班

----他の部員らが不安気な面持で待っていた。秩父宮もやや蒼白な表情であった。高嶋中佐は多田次長からの報告を班員一同に説明した。最後に状況すでにわれに不利と判断し、あとは多田次長が何処まで頑張れるかが問題である、という結論になった。

★ 秩父宮殿下--私が直接多田次長に意見具申したいことがあるから、連絡せよ。

午後2時半 参謀次長応接室

----多田次長は秩父宮との会談に、下村第一部長病欠のため河辺作戦課長を同席させた。

★ 秩父宮殿下--大臣と次長が連袂辞職するか?

★ 多田参謀次長--良い者が悪い者と一緒に辞職する必要はないものと存じます。

★ 秩父宮殿下--(和平か戦いかの両国民族の将来に及ぼす重大性についての信念を、道義の上に立って懇切丁寧に直接多田次長に述べられ)この重大な案件を、是非とも御前会議にかける必要がある。陛下の清らかな御心の鏡にうつして、その御判決をお願いすべきである。

★ 多田参謀次長--(深刻な面持で静かに傾聴していたが、やがて感激の色を面に現わしながら)御前会議を奏請して陛下の御採決を抑ぐの件については、反対です。如何に国家の重大事とは申せ、文武当局の意見が合わぬとて、陛下の御採決を仰ぐというのでは、いっさいの責任を陛下に負わせる態度であり、輔弼の重責を放棄する違憲の行為です。如何に殿下の御意見なればとて、この件ばかりは従いかねます

★ 秩父宮--(黙然と聴かれていた殿下は深くうなずかれ)よくわかりました。他に申すことはありません。

★ 多田参謀次長--(秩父官殿下を廊下までお見送りし、やがてぽつんとつぶやくよう)ありかたいことだ。

----この頃陸軍省首脳の間では、大臣の人事職権によって、統師部首脳の更迭をやるべきではないかとの意見も出ていた。

午後2時半 戦争指導班

★ 中島鉄蔵総務部長--くだらぬことにて内閣総辞職となれば、大問題を国外に暴露し、全く蒋の手に乗るものではなかろうか?

★ 高嶋中佐--協定が出来れば一番よいが、もし出来なければ、内閣の総辞職位は問題とならないであろう。



午後3時 大本営政府連絡会議再開

----午前中の連絡会議では、支那側の誠意か否かをめぐり、主として政府側の杉山陸相と多田参謀次長の論争となり、陸軍の内輪喧嘩という珍現象を呈した。そして多田次長は、四面楚歌の中で孤軍奮闘することになった。再開された連絡会議においても、政府側の交渉打切り論に対して、多田次長の交渉継続論がむし返し論戦となった。

★ 多田参謀次長--とにかく、これは非常に重大問題であり、和平解決の唯一の機会であるから、決めた日時までに返事が来なくても、一日か二日待っていてもよいではないか。すなわち、向う側が返事をくれるまで待っていてもよいではないか。

★ 杉山陸相--期限までに返電が来ないのは、国民政府に和平を図る誠意がないのだから、蒋介石など相手にしておってはいけない。屈服するまで、作戦を継続しなければならぬ。

★ 広田外相--自分は今まで外務大臣として、将又外交官としての長い経験から、このような返事を寄こしたことは、すなわち支那側に全くこれに応ずる誠意がない。こちらの要求に応じて和平解決を応諾する、という腹がないことを示すものであると確信する。次長は外務大臣を信用せぬのか。

★ 近衛首相--とにかく、早く和平交渉を打ち切り、わが国の態度をはっきりさせねばならない。

★ 多田参謀次長--何故二、三日の余裕を与えることが出来ないのか?

★ 米内府相--外交の輔弼の責にある外相が、もはや和平交渉に脈はないというのに、統師部が脈があるというのは何故か。政府は外相を信頼している。統師部が外相を信用せぬのは、同時に政府不信任であり、これでは政府は辞職の他ない。

★ 多田参謀次長--内聞は総辞職で片付くも、軍部には辞職はない。明治大帝は、朕に辞職はないと宣われた。国家重大の時期に、政府の辞職云々は何事ぞや。

----多田次長の声涙共に下る所論に一座しんとなって、会議は一時停頓した。

★ 近衛首相--とにかく休憩して、各自帰って一度考えてから集まろう。



戦争指導班

★ 高嶋中佐--(秩父宮殿下に対し)今日のところはまず大丈大と思いますので、御別邸へお帰りになって御休息していただきたい。

★ 秩父宮殿下--大事なときなので帰るわけにはいかない。

★ 堀場一雄少佐--われわれはいかなる手段を行使しても、政府の要求は必ず防ぎます。どうか御安心下さい。

★ 秩父宮殿下--それではくれぐれも頼みます。

参謀本部

----次長は参謀本部に帰って中島総務部長、本間第二部長、河辺第二課長と凝議した。その最中、中島総務部長の元を陸相秘書官の山本茂一郎中佐が陸相の伝言を携えやってきた。

★ 山本茂一郎中佐--参謀本部が承知しなければ、近衛内閣は瓦解してしまう。近衛首相も辞職の決心をもっている。何とか総務部長から善処して貰いたい。

----そこへ心配した軍務局長の町尻量基も訪ねてきた。

★ 町尻軍務局長--近衛内閣が辞職するようだが、それが内外に与える影響が非常に重大であると思う。今日の問題で次長が承諾してくれぬと、どうしても内閣は瓦解してしまう。何んとかならぬか?

----これらの意見を聞いた中島総務部長は、本間、河辺と共に次長室に戻り意見具申した。

★ 中島総務部長--この事変中に内閣をしばしば替えるということはいけない。ことに支耶側の電報一本で内閣が凡解するということは、これは国家として非常に不利だ。今日のところは、参謀本部が譲歩すれば、内閣が継続してゆくのであるからよいのではないでしょうか?

★ 多田参謀次長--交渉打ち切りは嫌だ、長期戦は嫌だ、しかし近衛内閣の崩壊はなお嫌だ。

----こうして次長は「参謀本部としては、この決議には同意しかねるが、しかしこれがために内開が瓦解するということになれば、国家的にも非常に不利であるから黙過し、敢えて反対はしない」という立場をとることに決定し、連絡会議へ戻った。その間、戦争指導班への説明は無かった。



午後5時 参謀本部

----連絡会議が終わり、多田次長が悄然と参謀本部に帰ってきた。そして高嶋、堀場両部員に本日の結末を説明した。

★ 多田参謀次長--大本営陸軍部は、本案件に関しては政府に一任した。

★ 堀場少佐--(血相を変え)ことは極めて重大であります。このような場合こそ、殿下の言われたとおり、御前会議を奏請すべきであります。

----多田次長は、再び両参謀の主張する、この時こそ統帥権独立の妙を発揮すべきものとして、近衛首相の上奏する以前に、統師部の真意を上奏すべきであるという進言を承諾した。その上奏内容は次のとおりである。
   1. 蒋政権否認に関する本日の連絡会議決定は、時期尚早にして統帥部として不同意なり。
   2. 然れ共政府崩壊の内外に及ぼす影響を慮り政府に一任せり。


★ 堀場少佐--(清水規矩侍従武官に電話で)近衛首相の参内は何時でしょうか?

★ 清水武官--7時半の予定である。

★ 堀場少佐--参謀総長宮が上奏することがあるので、必ずこれが首相の上奏の先になるようにお願いします。

----このころ首相官邸では閣議が開かれ、翌日に発表されることとなる声明文の審議が行われていた。

午後9時 参謀総長と高嶋中佐が参謀本部を出発した。

午後11時 参謀総長の上奏が終わった。しかしこれより前に、近衛首相の上奏は終わっていた。一方河辺課長は葉山の秩父宮殿下の元へ向かった。

★ 秩父宮殿下--まことに残念だが、決定してしまったのではやむを得ないですね。遅くまでご苦労でした。



昭和13年1月16日

(第一次)近衛声明が発表される。
http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s13_1938_01.html

★ 松△アナ--その時歴史が動いた。


「千万人といえどもわれ往かん」という言葉が好きなのですが、出典も良く知らず、「千万人」のところも幾千万とか百万とかあやふやなので、ちょっと検索してみました。
http://www.sanabo.com/kotowaza/arc/2003/08/post_1635.html
なるほど、孟子ですか。ということで徳間書店『中国の思想 第3巻 孟子』を繰ってみると、確かにありました。

自反而不縮 雖褐寛博 吾不惴焉
(自ら反みて縮からずんば、褐寛博といえども、われ惴れざらんや)
自反而縮 雖千萬人 吾往矣
(自から反みて縮ければ、千万人といえどもわれ往かん)

弟子の公孫丑と孟子の会話より、先生でも動揺することがありますかという公孫丑に対し、いや40越えてからは動揺しなくなったよ、という孟子。どうすればそうなれますかと聞く公孫丑に、孟子はいくつかの例を示す。そのうちの一つ、曾子が弟子の子襄にいった言葉。

『おまえは勇者になりたいか。いつかわたしの先生(孔子)から大勇についてうかがったことがある。
それによると、わが身を反省して、やましいことがあれば、たとい相手が賎民でもひるんでしまう。
しかし正しいと確信できれば、相手が千万人であろうと、ぶつかってゆく。これが本当の勇気だ』

ちなみに「浩然の気を養う」という言葉も、このやりとりから生まれたんですねえ。軍人の書いた本を読んでいると、浩然の気を養うといって芸者と遊ぶ様が良く出てきます。勿論本来の使い方ではおまへん。
棚橋信元『神がかり参謀ー神々は生きているー』
最初に断っておきますが棚橋信元と棚橋茂雄は同一人物です。

参謀本部部員時代以来、神がかりといえば、アイツだ、神様のことならアイツの所へ行け、というわけであった。私自身は、あたりまえのつもりでやっていたが、他から見ると、少々イカレタへんな野郎に見えたらしい。最近も、陸士時代の同期生から「貴公はソ満の国境築城をつくる時『神様の命令だ!この線にトウチカを作れ』と、手をひろげて、指示したそうじゃないか?」と、質問されてアキレた。(自序より)


棚橋の父は特務曹長であった。術科がまったく駄目で「こんにゃく特サ」などというありがたくないあだ名を頂戴していたが、非常に頭が良く、書記として重宝されていた。しかし大正元年に予備役となる。元来体が弱かったこともあったが、妻が大隊長婦人のところに「にほいがけ」行き、大隊長の心証を害したことも原因の一つであった。棚橋の母は熱心な天理教信者で、家のものは何から何まで寄進する人であった。日露戦争中、父は俸給を家に送っていたが、帰ってきたら貯金は一銭もなかったという。紋付を作ると、いつの間にかそれを天理教の先生が着ている。子供のお年玉まで取り上げる、で、棚橋も随分母親に歯向かって喧嘩をしたが、父は半ば諦めてお供えに協力していた。天理教というと私は芹沢光治良の『人間の運命』くらいしか知らないが、昔の天理教というのは確かにこういうところがあったらしい。

大正10年、大垣中学の2年から、父の勧めで幼年学校に進んだ。幼年学校3年のとき、延期してきた二人の生徒が同窓となった。一人はこのブログで散々取り上げている宇都宮太郎の長男の徳馬。無精髭を伸ばし、両手をポケットに突っ込んで、右肩を上げ背伸びしながら歩いていた。誰も彼を名前では呼ばず、徳馬をなまって「トンマ」と呼んでいた。彼はその後左傾化して退学処分を受ける。もう一人は鶴見少将の息子で、体はどこも悪くないのだが、逆立ちの練習ばかりして勉強を全然しないので、落第したという。彼は陸士に進んでからも逆立ちばかりしており、遂には逆立ちで階段を上り下りしたり、生徒舎の天辺で逆立ちができるようになった。

陸士に進み席を並べた高橋という男は、軟文学の愛好者で、変な小説を持ち込み、こっそりそれを読んでさっぱり勉強しない。区隊長から指導するように依頼された棚橋が注意すると「俺は趣味を完成してから勉強する」と答えて、好きな通りにやり通した。彼は自他共に認めるオカマのオーソリティーで、都城の歩兵連隊での隊附時代に、特務曹長のオカマをホッタという評判が高かった。いつも同期や下級生の美少年の尻を品定めし「アイツはいいとか悪いとか・・・アイツはやられているとかいないとか」と説明し、逆に棚橋に悪い教育を施そうとしてたようだ。後年、彼と逆立ち名人が揃って幼年学校の生徒監になったので、「貴様達が生徒監とは、恐れ入ったよ」と冷やかすと、「俺たちは悪事の裏の裏まで知っていいるから、抜け穴ふさぎがうまく、却って立派な教育ができる」と盛んにほらをふいていた。

中尉のとき、哲理姓名学の先生に出会い、すぐに自ら改名に及ぶとともに、月俸の半分を差し出して弟子入りした。後に中隊長に着任すると、早々に中隊の幹部全員を改名させた。彼によれば改名した名前を熱心に使っていた人々は重傷を負っても命は助かったが、「こんな古くさい名前はいやです」といって使用しなかった曹長は戦死したという。

陸大受験の前に同期生が集まって勉強会をしたが、同期のトップだった竹嶌継夫だけは出てこなかった。合否発表後、東幼出身者だけが当時の生徒監の家に集まったが、その席で棚橋(合格)は竹嶌(不合格)と言い争いになり、「表に出ろ」と腕をまくったところで一同に仲裁された。棚橋は同じく合格した豊橋教導学校の区隊長桃井義一に、「貴様、豊橋に帰ったらあいつを説得してくれ。このままではとんでもない人間になってしまう」と頼んだ。桃井も引き受けて帰ったが、翌1月、陸大で顔を合わせると、「あいつは鼻息が荒くて、俺の言うことなどてんで聞きやしない。折角貴様に頼まれたのに目的を果たせず申し訳ない」と謝られた。この一月後の二・二六事件で竹嶌は刑死した。棚橋は陸大を4番で卒業し恩賜の軍刀を頂いた。

類は友を呼ぶというのか、棚橋の中隊には、体が「ブルブルッ」と震えるとなんでも分かるという深尾という少尉がいた。「戦争に役に立つか」と聞くと、随分役に立ったというので、早速彼は少尉の師匠にあたる山本という先生に弟子入りし、その神占について学んだ。支那事変で第三師団にも動員が下令されたとき、二人はビールを飲んで話し合っていた。早速神占を頼むと、
  1. 部隊は応急動員となる
  2. 上海附近に敵前上陸する
  3. 敵前上陸は完全に成功する
  4. 戦地では風邪をひくくらいでたいしたことはない
  5. 三ヶ月で内地へ転勤となる
聯隊に帰ると本動員だという。「あれ、神様はうそをついたかな」と思っていると、師団参謀長がやってきて第二大隊だけ応急動員となると伝えた。彼の中隊は先遣隊として呉淞に上陸し、上海の激戦を戦い抜き、棚橋自身は途中聯隊副官に転任し、11月に参謀本部附となって帰国する。以下100ページに渡り、前線に出てこないにも関わらず無謀な突撃命令ばかり出す師団参謀に苦しめられながらの苦闘の様が描かれている。勿論途中、霊感の強い一等兵の神占によって敵の十五榴の位置を割り出し、これを破壊したというような話も出てくるが、そういうのを差し引いても中々貴重な記録だと思う。

参謀本部に着任した棚橋は、戦訓の講演で師団参謀に悪態をつきまくったため、彼を参本からほうり出してやると息巻く人もいた。昭和14年1月、服部卓四郎と共に視察で徳安へ向かったとき、パイロットが三度にわたって間違えて敵の飛行場に着陸しようとする椿事があったが、いつもは寝ている棚橋が、このときに限って起きて地図を見ていたので、パイロットをどやしつけてことなきを得た。

昭和13年の夏に、「日米はいずれ戦争になり、日本は負ける」との天啓を受けた棚橋は、居ても立っても居られなくなり、合気道の師匠の植芝盛平に訴えた。植芝に「しっかりやってください」と激励された棚橋は、対米工作を開始する。この工作は、途中棚橋の訪独(山下軍事視察団)を挟んで開戦まで続いた。工作の内容は、日米合資の貿易会社をつくり、日本は約20億ドルの物資を米国から輸入、また米国が希望する日本占領地下の物資を輸出するというもの。これによって日米間の感情を融和し、一方で蒋介石に回す物資を日本が買ってしまうことで、蒋の抗戦意識をくじき、これと和平するという算段。民間でこれに協力して金を出したのは西川末吉という人物であった。西川はかつて、田中義一に政治資金を貸したことで有名な神戸の高利貸し乾新兵衛の側近だった。他、この工作に関わったのは

民間側
 交渉の全責任者(米国との交渉主任)
  西川末吉(昭和二十年死亡)
 日本政府との交渉主任
  大川周明(昭和三十二年死亡)
 西川の米国派遣交渉員
  小島儀太郎(死亡)
 西川秘書
  水口浩太郎(一時米国へ派遣)
  満所信太郎(小島実弟)
 西川の金融関係支援者
  広瀬安太郎(野村信託専務)
  岸本 勇(野村信託監査役)
 陸軍大臣板垣大将との連絡者
  瀬川弥右ェ門(貴族院議員)
 西川に協力した主な民間人
  八田嘉明(元鉄道大臣)
  宮田光雄(貴族院議員、元警視総監)
  実川時次郎(政治浪人)
参謀本部
 主として工作に任じた者(上司諒解)
  棚橋茂雄大尉
 私の直属上官である歴代の第三課長
  綾部橘樹大佐(後中将)
  那須義雄大佐(後兵務局長)
  美山要蔵大佐
 第八課長(謀略課)
  臼井茂樹大佐(後飛行隊長として、ビルマで戦死)
 総務部長(第二部長を兼ね、第八課長の直属上官)
  神田正種中将
 参謀総長
  閑院元帥宮
  杉山 元大将
 米国駐在大使館附武官
  山内正文中将
 米国駐在大使館附武官補佐官
  山本林吾中佐
陸軍省側
 兵務課長(後局長、陸軍大臣の密名を受けていた)
  田中隆吉大佐
米国側支援者
 ロスアンゼルス・タイムズ社長
  ハリー・チャンドラー

工作は当然ながら各方面から反対を受けた。特に軍事課長であった岩畔豪雄は徹底的に反対して、妨害してきたという。欧米課の本流にいた杉田一次は戦後、この工作はFBIの謀略ではなかったかと書いている。

第三軍参謀時代、たまたま野戦築城隊に師匠の甥の山本兵長がいるのを見付け、彼を当番兵にして官舎に住まわせ、戦況を占っては関東軍や大本営に申し送っていた。その後、第十四方面軍参謀としてレイテに派遣される直前に病気となり、レイテ行きは中止となる。病が癒えると第二十三軍参謀として田中久一将軍に仕えた。棚橋によれば、田中は至誠の将軍で人格は高潔、軍紀に厳しく戦犯に問われるいわれはなかったが、桂林作戦でやられた張発奎の私怨により処刑されたという。

終戦の直後、大本営で、ビルマから帰ってきたばかりの岩畔と偶々顔を合わせた棚橋は、

「岩畔さん!どうです!私の判断が的中し、私が勝ったでしょう。今だから申しますが、私の信仰する神様が、この敗戦を、霊感で、私に直接御示し下さったから、あの工作に、あんなに、熱中したのですよ!」
と、申したところ
「ほんとに、君が勝ったなあ・・・・・。」

と岩畔は嘆声を発した。

戦後、棚橋は少し商売をやったがすぐに失敗したため、神道の布教を始め、昭和28年「独立せよ」の神示を受けて平和教を開教。昭和34年にこの本を書いたという次第。


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秋山真之が大本教の信者であるという噂は、生前からあった。彼の伝記作者は、彼が大本信者であることは否定しているが、関わりがあったことは認めている。それによれば要するに秋山将軍は宗教研究家であり、その観点から大本に接近したという。伝記作者も、大本と関わりがあるということは、威望を傷つける過失であると考えており、何とかその辺を落としどころにしたいようだ。真之と親しかった山本英輔は次のように話している。

「宗教とか心霊とかいった方面に対する興味は、秋山将軍の先天的の性格の中にあったのかも知れない。海軍大学時代も生徒の中で催眠術の心得のある者があったので将軍も催眠術に興味を持たれ熱心に研究していられたようだった。
だが、将軍は宗教に入り切るには、余りに理性があり過ぎる。宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分という所で入りきれずに悩んでいたのではないかと思う。」


宗教に熱心な軍人は以外に多い。石原莞爾が熱心な法華経信者で宮沢賢治と同宗であったことはあまりに有名だ。まもなく映画が公開される岡田資中将も熱烈な法華経信者で、巣鴨でも最後まで同囚の人々を勧誘してまわっていた。教誨師の花山信勝(西本願寺)とはもうひとつ折り合いが悪かったという(田島隆純師とは良かった)。熱心な法華経信者で、静岡の町を太鼓を叩いて歩き回り予備役に入れられた大隊長もいたそうだ(後述する棚橋信元『神がかり参謀』より)。

キリスト教はというと、反ユダヤで有名な四王天延孝中将は中尉時代に入信している。彼の通っていた教会には安部磯雄や片山潜も顔を出していた。彼は後年、大日本回教協会の会長を務めたが、勿論本式のムスリムではない。馮玉祥の顧問を長く務めた松室孝良少将も回教通で大日本回教教会の総務部長であったが、信者ではないだろう。戦後になって改宗した人は多い。以前触れた佐藤裕雄大佐もそうだし、支那派遣軍総司令官も務めた西尾寿造も戦後カトリックに改宗したらしい。岡田によれば西部軍司令官で種種の事件の責任で収監されていた横山勇中将もキリストにすがり、来世は蝶々になりたいと言って獄死した。今村均大将は聖書の研究に熱心な人だが信者ではない。

遠藤三郎中将によれば、河辺正三大将は戦後軍備に反対していたそうだ。そこで一緒に選挙に出ようと誘ったところ、

「宗教家としては軍備に反対ですが、元軍人として表に立って軍備反対はできない」

と断られのだそうだ。多分仏教徒だと思うがよくは分からない。

新興宗教に目を転じると、宮城事件を処理し、その後自決した田中静壹大将は生長の家だそうだ。大岸頼好が戦後けったいな宗教に入信したことは、それに付き合わされた盟友の末松太平の本に詳しい。末松はぼやかしているが、大蔵栄一はそれがちどり会だと書いている。大岸をその道に引き込んだのは、「兵に告ぐ」を書いた、因縁の大久保少佐であった。47期の小林友一は幼年学校時代、二人の先輩に誘われて、現神教会という神道の新興宗派に、同期の林八郎(二・二六事件で刑死)と共に入っていた。二人はまもなく抜けたが、教会の後継問題で、彼を誘ったうちの一人が割腹自決をしている。

さて色々書いたが真打は自分が教祖になった棚橋茂雄だろう。彼については稿を改めて書く。


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第1軍胡宗南第1、第3、第61、第97各師蒋介石系
第2軍黄 杰第2、第6各師蒋介石系
第3軍曽万鐘第7、第12各師朱培徳系
第4軍呉奇偉第59、第90各師張発奎系
第5軍薛 岳第3師張発奎系
第6軍韓復第22、第29、第74各師旧西北系
第7軍馮欽哉第42師旧西北系
第8軍趙承綬騎兵第1、同第2各師山西系
第9軍赫夢齢第47、第57各師玉金系
第10軍徐源泉第15、第62各師、独立第11、第32各旅旧張宗昌系
第11軍馬鴻達第35師、新編第7師旧西北系
第12軍孫桐萱第20、81各師韓復系
第13軍湯恩伯第4、第99各師蒋介石系
第14軍衛立煌第10、第32、第103各師蒋介石系
第15軍劉茂思第64、第65各師劉鎮華系
第16軍李温行第53師蒋介石傍系
第17軍関麟徴第25師蒋介石派
第18軍羅卓英第11師、第14師、第67師蒋介石系
第19軍王靖国第70師山西系
第20軍楊 森第132、第134、第35各師四川軍
第21軍唐式遵四川第1、同第4師、暫編第2師四川軍
第22軍譚道源第18師蒋介石軍
第23軍潘文華   四川軍
第24軍劉文輝第136、第137、第138各師四川軍
第25軍万耀煌第13師旧夏斗寅系
第26軍蕭之楚第44師方振武系
第27軍劉 興    蒋介石傍系
第ニ8軍陶 廣第19師何鍵系
第29軍宋哲元第37、第38、第132、第143各師旧西北系
第30軍孫連仲第27、第30、第31各師李鳴鐘系
第31軍梁冠英  張之江系
第32軍商 震第139、第141、第142各師山西系
第32軍孫 楚第69師山西系
第34軍楊効欧第66、第71各師山西系
第35軍傅作義第72、第73各師山西系
第36軍周渾元第96師蒋介石直系
第37軍毛炳文第8、第24各師賀耀祖系
第38軍孫蔚如第17、第42、第84、第86各師楊虎城系
第39軍劉和鼎第52、第56各師蒋介石系
第40軍澄炳勣第39師西北系
第41軍孫 震第122、第123、第124各師四川軍
第42軍張叩相    
第43軍郭汝棟第26師四川軍
第44軍王纉緒四川第1、同第2各師四川軍
第45軍錫侯第125、第126、第127、第128、第131各師四川軍
第46軍樊甫第28、第43、第79各師  
第51軍   第113、第114師、第118、騎兵第1各師、砲6旅旧東北軍
第53軍万福麟第116、第130各師、騎兵第4師旧東北軍
第57軍繆激流第109、第111、第112、第120各師旧東北軍
第61軍李服庸   
第67軍呉克仁第107、第108、第110、第115、第117、第129各師旧東北軍
新編第1軍宝珊旧新編第7師旧西北系
新編第2軍馬歩芳第100師旧西北系
新編第4軍葉挺、項英 共産軍
騎兵軍何柱国 旧東北軍

『国共内戦史』より
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