近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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http://blog.livedoor.jp/sheherazade/archives/51123002.html
歴史ものに限らずですが、登場人物の多い本を読むときは、その名前が覚えられないとしんどいですよね。特に(ナポレオニックに限らず)外国もので、文中での呼称が統一されていないとき(名前であったり官位官爵であったり)は困ります。ナポリ王、エックミュール公、この辺はまだ良いですけど、

ヌシャテル公は思った

とか云われても「誰やねん」という感じです。

ヌシャテル公は鼻くそをほじりながら思った

とか書いてくれたら、「ああ、あいつか」となりますが。逆にデュマの『三銃士』に出てくるバッキンガム公爵などは爵位で覚えている方ですね。っていうか彼の名前知らないですわ。初めて『戦争と平和』を読んだときも随分苦労しました。何度も何度も最初に付いてる人物紹介を見直しました。

コレンクールの『ロシア大遠征軍潰走の記』を大分前から読んでるんですが、中々進みません。ウジェーヌタソも全然でてこないしなあ。これと森下修一編『国共内戦史』だけは、ちょっと読んでは置き、ちょっと読んでは置きしてます。

しかし考えたらこの手の話は、日本の方が複雑ですよね。右府とか内府とか太閤とか。甲斐守殿が甲州殿になったり、征夷大将軍が公方やら大樹やらになったりと。日本の歴史が好きな海外の好事家は大変でしょうね。
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1916(大正5)年

九月四日 月 晴
 午前八時より騎兵第四連隊(長、中佐三好一)初度巡視(成績は不良の方にて、新連隊長の下に改善しつゝあれども、未だ著しき成果を収むる能はず、一般に弛緩、敬礼、練兵(徒歩)共に不良にして、乗馬も不良にして見劣すること甚しく、馬術も第七に劣ること遠きが如し。殊に二十名前后の花柳病者ありて、其十八、九人は入営后の発病者なりとは驚入るの外なきが、更に驚くべきは将校(師団、司令部共)等が之を平気に口にして、中隊長等が其責任を自覚しあらざるの事実に在り。

大阪の第4師団長に転任した宇都宮。初めて隷下騎兵聯隊を巡視をした。旭川の初巡視時も大いに不満を持ったが、大阪の緩み方は旭川どころではなかった。特に、土地柄もあるだろうが、騎兵の技量の差は歴然であった。

九月六日 水 晴
(病院は大阪としては矢張比較的緊りて見ゆ。唯だ入院患者中神経衰弱患者の多きはまだしも、曾て見たことは勿論聞たことも無きヒステリー患者と称するもの十人前后も入院しあるには、地方の風尚思ひやられて情け無く感ぜらる。真に大奮闘を要するは此風尚に向てなりとの信念益々加はる)。

ジョージ・パットンならぶん殴ってるところだろう。

十月八日 日 晴
 本日、寺内内閣任命せらる。
 総理寺内正毅(大蔵、外務兼任、外務は現駐露大使本野一郎なりと云ふ)、内務後藤新平、陸海軍は留任にて、陸軍は大島健一海軍は加藤友三郎、逓信田健二郎、文部岡田良平、農商務仲小路廉、司法松室致。
 大正以来の隠謀毒手、終に此までは成功せしが、今后果して善政能く逆取し順守し得るや否や。山県等官僚の徒、口を開けば忠君と言ひ、常に忠義の仮面を被て敢て不臣の行為を為す、奸悪悪むべきなり。

辞任に際し大隈重信は加藤高明を後任に推薦した。しかし元老や西園寺の介入で寺内に大命が下った。陸相大島健一、次官山田隆一(長州)は留任した。新聞はこの内閣を「人材払底内閣」と呼んだ。

十月十七日 火 晴
 今朝鼠賊玄関の外套(マントウ)を持去る。

クライムシティ・OSAKA

十二月一日 金 晴
 午前八時より歩第八連隊初年兵入営の状況を視る(北海道に比し、一、見送人非常に多く二千人以上もありたらんか。二、壮丁の体格劣り九分九厘まで顔色蒼白。三、壮丁の服装上等なること甚しく、十の八、九までは絹布の羽織袴にて一見富豪の子息の如くなるには驚入たり、蓋し中には借物もあるなるべく、土地習俗の反映と謂ふべき乎。四、壮丁に軍服を新調着用しあるは誠に喜ぶべし、但し其数は尚僅少なるを免れず。五、婦人の見送人亦た少からず)。

初年兵入営の様子を視察し、旭川と較べてその贅沢さに土地柄を感じている。

十二月三十一日 日 晴
 徳馬、鶴彦教育の為め、松田幼年学校長(元武、同郷人)先般来心配の結果、同少佐、学校の生徒監歩中尉番行善(岡山の人)、歩三七連隊付歩兵中尉土橋勇逸(同郷人)の両人を伴ひ本日午前来訪。寿満子、徳馬、鶴彦も面会、土橋中尉は算術、番中尉は読書、作文等を受持教育し呉るることとなり大に仕合なり。

この家庭教師の事は土橋の回想録にも出てくる。


以上で大正5年分終了と共に第2巻も終了です。第3巻は来月には購入して、春にはレビューするつもりです。
1916(大正五)年

一月十二日 水 雪
本日の新聞に、枢密顧問官陸軍中将子爵高島鞆之助、京都にて脳充血にて頓に薨去の旨電報見ゆ。驚入りたる次第なり。中将は陸軍大臣たりしこともあり、二十七、八年の役には南進軍司令官として渡台し、余は大尉にてその参謀として従軍せり。此縁故より爾来其知を受けたりしが、中将は晩年轗軻不遇、遂に志を得ずして今長逝す。無念想うべきなり、気の毒の至に禁へず、十日薨去、行年七十有三。

宇都宮がずーっと拘ってきた高島子爵が亡くなった。宇都宮との縁は、日清戦争時の台湾征討以来であった。

一月十九日 水 微雪晴
旧知予備騎兵大尉青柳勝敏来訪す。同人は数年前より職を辞し支那の事業に奔走し、第一次革命の末頃には特別資金より金一千円を与へ多少為さしむる所あり。第二次革命の時には李烈釣等を佐けて宇都宮三千雄共に袁世凱の兵と戦ひしが、敗れて亡命者と共に帰朝、彼等の若輩を集めて大森に学校を興し、私に軍事教育を為す等大に画策する所ありしが、最近蒙古に入り巴布札布等と謀る所あり、其遂行に要する資金調達の為め来りしものゝ如し。

青柳はこの後、当初の希望通り蒙古に赴き、巴布札布の第二次満蒙独立運動に身を投じる。青柳勝敏は秋田出身の陸士12期。

四月九日 日 晴
 此夜は、約により午前六時より上原大将の私宅を訪ひ、晩餐を与にし種々の談話を交換し、最后には余の身上に及び、内山の後任として侍従武官長となりては如何との談も出たり。余は不適任なるべきを答へたるも、絶対に拒絶もせず、進退の余地を残して十時半頃辞し帰宿す。

師団長会議により上京し、参謀総長上原勇作と会談。上原は宇都宮の次の職として、内山小二郎の後任として侍従武官長はどうかと聞いてきた。一応は断ったが、何が何でも絶対嫌というわけではないと含みは持たせた。しかし結局、8月、大阪の師団長に転任となる。

六月二十三日 金 晴
 此夜、徳馬の先生を頼度、歩兵第二十七連隊の中尉小泉恭次を招き相談せしに、予ねて中佐中村稲彦、歩大尉大場弥平、副官飯盛正成等より下相談も為しありしこととて同人も快諾、奮ふて之に当らんと答へたり。
 小泉中尉は旧米沢藩士の子にして、幼年学校、士官学校を経て昨年十二月大学校を卒業帰隊せる温厚篤実の人なり。

長男の宇都宮徳馬を陸軍幼年学校に入れるため、優秀な部下将校に家庭教師を頼むことにした。選ばれたのは陸大を卒業して帰ってきたばかりの小泉中尉。彼は戦後、やはり宇都宮が愛した旧部下篠塚義男と同じく、これといって罪は無かったが自決した。

工藤美代子『昭和維新の朝 二・二六事件と軍師斎藤瀏』日本経済新聞社
二週前くらいに購入し、一週前には読み終わっていたのですが、感想が遅くなりました。斎藤瀏とその娘の斎藤史の著述を中心に構成されていますが、所々挿入される著者の歴史観がやや気になるという人は居るでしょう。全体としては、毒にも薬にもならないという感じです。無理矢理新機軸を打ち出そうとして、結果として人の心をぐちゃぐちゃにするような人もいますので、これは褒め言葉ですよ。でも理想はやはり斎藤親子の残した本を直接読むことです。これを期に再販とかになれば嬉しいのですが。

まだ今回のお召しを受けるかどうか迷っていたとき、岡野史彦が史に説得の電話を掛けてきた。前年の夏である。
「陛下はその後も勉強しておられるご様子です。例の事件のことを」

「あの歌は、どこでどういう気持ちで作られたのですか」
「いつもの歌作りと同じに、平常心で詠ったつもりでございます」
「お父上は瀏さん、でしたね・・・・・・」

陛下というのは今上陛下を指しますが、恐らく勉強ということなら、先帝陛下もされていたと思います。


ところで最後に、この本にも出てきますが、「秩父宮万歳」を叫んだ将校について。安藤輝三大尉であるというのが通説ですが、保阪正康氏が秩父宮と昭和天皇で、「いや実は栗原安秀中尉だ」という処刑に立ち会った某少佐の証言を引き出していますね。私は正直どちらでも良いと思うのですが、ただ
「安藤がそんな宮様に迷惑のかかるようなことを言うはずがない」
  ↓
「いや実は栗原でした」
みたいな流れが凄く嫌ですね。森田大尉の安藤大尉を思う気持ちも分かりますが、私は安藤大尉が言ったとしてもおかしいとは思いませんし、又それが大尉の遺徳を傷つけるとも思いません。安藤大尉は憤死したのですよ。


   
1915(大正4)年

五月二十七日 木 曇
友人斎藤力三郎(第十八師団長)病死の趣に付き、弔電並に香典を電送す。尋で松石安治(ヨビ中将)亦た病死の旨新聞に見ゆ、弔電を送る(番地不慥に付き、香典は帰宅取調の上送らんとす)。

松石遂に死す。

神頭は今や現職務に於ては技量頂上に達したるが如し。此点に於ては山田大佐、野島大佐も略同様にして、此上目醒ましき進境は期す可らず。独り井上は今一、二段は進歩すべしと思はる。神頭、野島、山田、何れも老熟したる好聯隊長なり。井上は未だ熟せず、併し三年位修養せば前三者以上に進むの望みありと謂ふ意なり。

隷下の4人の連隊長の評価。

八月二日 月 晴
此夜は、大村少将、野島連隊長、斎藤大隊長、松井参謀、松原旅団副官、演習場主管古川中尉を集め会食す。

斎藤は斎藤瀏のこと。栗原勇(栗原安秀の父)もこの頃第7師団にいたはず。

十二月十七日 金 雪
夜半十二時やや過ぎ、上原大将より左の電報着す。
   今日親任セラル
愈々参謀総長に親補せられたるを謂ふ。是れより幾分改善の方向に向はせ得べきか、前途の光明を祈る。

上原はこれで陸軍三長官をすべて歴任することとなった。以後7年以上にわたって総長を務め、若手から雷親爺と恐れられることとなる。
1914(大正3)年

二月十八日 水 曇
本日食堂に於て、毎日の例に依り彼等長閥の面々、内閣及陸軍大臣を熱罵し、海軍の収賄問題、十六日騒擾に対する衛戍総督の応急準備、陸軍大臣の議会に於ける答弁の辞尻(軍隊内には云々に付、師団長等憤慨すべし云々)(其の実扇動せんとするの自白)、軍隊の不平(彼等の扇動、多分其日の応急準備を命ぜられたる近歩第三連隊長児島等と共謀)、大臣の軍機漏洩(彼等二、三ヶ月後には云々を以て斯く称すれば、大臣も失言には相違なきも、之を公然騒ぎ立つれば軍機漏洩を裏書きする道理にして、之を打消に力むるこそ真の愛国者の行為なるべきに、政権争奪長閥復興に眼暗らみたる彼等は、軍機漏洩に裏書するの(大臣は不用意なる一時の失言なるに、彼等は熟慮の上之を為すなり。軽労倉と重営倉との差は慥かにこれにあり)処置を敢てす、真に悪むべきなり。併まさかに世間には公表せざるなるべし)。余は、山梨が大臣を罵倒するに馬鹿の一語を以てするに至り忍耐も最早断へ果てたるも、修養の効聊か現はれ、怒る代に一笑して、談も此に至れば極端に達せりと独語せしに、彼等も幾らか反省する所ありしにや、今まで口を極めたる陸軍大臣等の誹謗談は有耶無耶と為れり。朋党の利己主義より、軍人の身分をも打忘れ此状態を見る、実に慨嘆の至なり。陸軍の長閥一派、海軍の薩閥一派国軍を破壊するや実に大なり、噫。

上原陸相を増師問題で失い、今また同志の楠瀬陸相をシーメンス事件で失う(勿論楠瀬が直接関わっているのではない)。長州系の陸軍軍人にとっては、日頃眼の敵にしている薩摩系海軍の一大不祥事だけに、楽しくてしょうがないのだろう。十六日騒擾というのはよく分からない。此の頃政府弾劾デモが起こっていたが、それではなさそう。或いは兵隊の間で何かあったのだろうか。衛戍総督とは東京衛戍総督のこと。近衛歩兵第三連隊長児島惣次郎は岡山出身だが、長州閥にべったりと評判のあった人物。
楠瀬大臣の失言、軍機漏洩問題というのは2月14日の議会での答弁のことだと思われる。楠瀬は江木議員に二個師団増設の根拠は何かと聞かれ、「大正五年度になりますれば、シベリア方面の輸送力・・・仮想の敵の満洲方面の集中力が殖える・・・我作戦の大体は、有らん限りの兵力を集めまして接戦をしようと云ふ考でありますから・・・二個師団を増設して、是をば朝鮮に常駐させて置けば、それで兵力均衡上、作戦上の手段を設け得られるのであります」と答えた。そのあまりにも正直な答弁に山本権兵衛首相も慌てて本郷房太郎陸軍次官を呼び、質問した江木議員も「そんなことを尋ねたのではない」と質問を打ち切った。宇都宮は、楠瀬のは確かに失言だが、それの揚げ足を取って喜ぶということは、楠瀬の発言を裏書する行為であり、つい口を滑らせた楠瀬よりよっぽど悪質であると怒っている。それにしても山梨半造、調子良すぎ。それに対しブチ切れそうになりながらも、冷静に皮肉る宇都宮。何か絵が浮かぶ。
ちなみに明治24年に、逆に議員であった予備役中将小沢武雄が、国防の不備を衝く演説を行い、免官(陸軍中将を剥奪)になるという事件があったが、その騒ぎに比べれば、楠瀬は特に何の処罰も受けなかった。しかし山本内閣が潰れると、彼もそのまま待命となり、やがて予備役となる。

四月十八日 土 晴
山梨宛庶務課長の電報に依り、岡新陸相の次官は参謀次長大島健一中将にして、参謀次長は寺内伯の下に朝鮮の憲兵司令官たる明石元二郎中将たることを知る。帝国陸軍に進化せんとせし我陸軍は、茲に再び長閥を中心とせる長州陸軍の旧態に復旧せり、更に一倍の大勇気を要す。或曰く、失敗、失敗、大失敗、世は復び官僚一味の世となれり。敗軍、敗軍、総敗軍、帝国陸軍は今や復び長閥陸軍の古体に復せり。言に一理あり、之を反正するもの誰ぞ。

大隈新内閣の陸軍大臣は長州の岡市之助となり、次官には大島健一が参謀本部から横滑りした。宇都宮にとっては勿論面白くない人事であるが、手の施しようがない。

五月十一日 月 晴
大隈総理侍立、陛下には玉音朗かに「第七師団長に補す」と宣ひ、辞令書は総理大臣より手渡せられ、今日染みじみ師団長の職の重に感ず。

4年半の長きに渡って務めた参謀本部第二部長から、中将に進級の上旭川の第七師団長に転任となった。

六月十四日 日 晴
午前八時より昨日に引き続き砲兵連隊を検閲す。成績甚だ不良。

宇都宮から見た第7師団は問題の多い師団であった。彼はこれを徹底的に鍛えなおすことを心に誓う。

九月十二日 土 曇
福島関東都督名誉進級後備に編入の趣、新聞電報に見えし故、上原中将に問合せ、且つ防止尽力の電報を発せしに、事実との返電至る。一部系統のものヽ人事上の専私、実に残念の至なり。

関東都督(関東軍司令官の前身)の福島安正が、大将に進級と同時に後備役となるという報道を見て、東京で教育総監をしている上原勇作に何とかならないかと電報を打ったところ、もう決定済みでどうにもならないとの返電があった。福島は必ずしも反長州という人物ではなかったが、情報将校として宇都宮にとっては良き先輩であった。

以上で1914年を終わる。東京では千客万来であった宇都宮家も、さすがに旭川ではそうはいかない。しかし隷下の歩兵第十三旅団長は親しい間柄の橋口勇馬であり、歩兵第二十六連隊長はかつての部下で、宇都宮がアメリカ行きに尽力してやったことのある井上一次であった。特に橋口とは家族ぐるみで親しくしている。
浅田信興という人は、当世風にいうとワイドショー向きらしく、当時のジャーナリストにもよく弄られている。尉官時代の彼は借金苦にあえいでおり、馬丁が雇えず妻に馬を洗わせていたとか、借金取りが来た時、押入れに隠れて「留守なり」と怒鳴ったとかいう話が残っている。西南の役では、これ以上借金に苦しめられるなら死んだほうがマシだと、命を捨てて奮戦し武名を挙げた。東京への凱旋時には一人だけ浮かない顔をしていたという。その後月曜会に関係して長岡外史らと共に一時左遷される。教導団の大隊長時代、練兵場で下肥をかついだ農夫と出会い、

おやじそこのけ!大隊止まれ!

という号令をかけ、これが名号令と評判になった。やがて川上操六に見出され清国に差遣される。日清戦争には、北海道の屯田兵参謀長をしていたため参加せず。川上が死ぬと長岡や寺内正毅との腐れ縁を使って長州に近づいた。こういった身の振り方が彼の評判を最悪にする。

小川又次と寺内正毅の最も悪点を搗交ぜたる如き人物なり

とか、地方に出張すると

其地方第一流の旅館にして而かも絶対相宿者なく、且夜具は絹夜具なることを

要求するとか、悪評頻々である。

ゴマすりが功を奏したのか、後に彼は陸軍最高峰たる三長官の一である教育総監となる。そして特命検閲で台湾に赴いた。時の台湾総督は長州の古参佐久間左馬太大将であった。この佐久間、浅田が来る前に下僚を集め、

浅田は近頃生意気だ。宴酣にして庭に引出し、俺があの橋の上から池につきおとすから、とめだて一切まかりならぬ

と宣言し、本当にそのとおりにやったというから、乱暴な話だ。南国とはいえ、宴会の最中に池にぶち込まれ、その後浅田がどういう風に引き下がったのか興味のあるところだ。本来なら血を見てもおかしくない仕打ちだと思うが。

このように珍談奇談の多い彼であるが、軍人の表芸である戦争に関して、彼の能力にけちをつける人間はいないだろう。メッケルは彼を天性の参謀官であると評したらしい。日露戦争では当初近衛の旅団長、後に師団長として全戦役間に活躍した。彼は戦場から妻に

生きて帰れば男爵夫人、死ねば浮気の後家となれ

と書いて送った。面白い言葉ではあるが、乃木将軍などとは全く別の人種であったようだ。
『陸海軍人物史論』ですが、あまりいいまとめが思い浮かばないので、厨二病臭いですがコーエー風にいきます。あまり真面目にとらないで下さいね。突っ込みは大歓迎。役職は日露戦争当時のものです。名前にはってあるリンクをクリックすると写真と経歴が見れます。能力値はあくまで日本軍内の相対値ですのでそこんとこよろしく。ではどうぞ↓


正月用に買った『陸海軍人物史論』を読んでいます。本書における陸海の比率は4:6ぐらいでしょうか。陸軍軍人に関する部分だけ読了しました。鵜崎鷺城の『薩の海軍長の陸軍』や『陸軍の五大閥』とかぶる部分が多い、と言うか同じ人物(たち)を評しているのですから、あんまり違いがあるとそちらの方が困るんですがね。どうやって内容を纏めようか思案中です。とりあえず一番印象に残った話だけ先に書いておきます。

猫将軍
これ、薩摩出身の大寺安純将軍のあだ名なんです(リンク先に写真あり)。本文を口語訳すると大体次のようになります。

彼は、勇猛にして胆略あり、往々にして先輩にも傍若無人な態度をとるため、同じ薩摩の先輩たちも中々彼をうまく使うことができない。従って薩摩人でありながら昇進は遅い。わずかに山地元治(土佐人)だけが思うところあってか彼を帷幄に迎えた。長州の長谷川好道は彼のことをライバル視しており、彼が良い地位につくたびに「また猫にやられた、また猫にやられた」といって悔しがった。長州閥に対し薩摩の陸軍を代表して立つ人物は川上操六を除けば彼の外にはいない。それだけに日清戦争で威海衛攻撃時に敵弾により戦死したことは返す返すも残念だ。

確かに山地将軍が第1師団長のとき、大寺は第1師団参謀長となっています。また同い年の西寛二郎や年下の川上操六川村景明と比べても昇進は遅いようです。しかし長谷川は大寺が大尉のときにすでに大佐になっているのに(しかも自分の方が年下)、何をそんなにライバル視していたのかよくわかりませんね。

ちなみに第1師団参謀だった秋山好古が参謀長の大寺にいじめられて、フランスに逃げたという話があります。秋山はフランスに行く前、東京鎮台参謀の職にありました。東京鎮台は間もなく第1師団になるのでこれはいいとしても、大寺はそのとき歩兵第3聯隊長でした。ですので”参謀長だった大寺”にいじめれらたというのは間違いでしょうね。ただ歩兵第3聯隊は東京鎮台の隷下ですので二人が顔を合わすことは多かったと思います。この話は他の本(『陸軍の五大閥』)にも載っていますので、当時こういう噂があったのは間違いないようです。さてフランスから帰ってきた信三郎さんは古巣の騎兵第1大隊(第1師団隷下)の中隊長になります。すると1年もしないうちに大寺が参謀長として第1師団にやってきました。すかさず信三郎さんは騎兵監部へ逃げますが、半年で騎兵第1大隊長に栄転となります。結局二人は同じ師団で日清戦争に臨むこととなりました。信さんもまた山地将軍の引き立てであったようですが、将軍は二人の間柄をどう見ていたのでしょうか?

猫将軍というあだ名がいつからのものなのかは分かりませんが、彼が本物の将軍になるのは日清戦争の最中です。そして少将任官の僅か2ヵ月後には戦死します(これは日清戦争で唯一の将官の戦死)。戦後男爵が贈られました。そういえば三浦観樹も大寺は生きていれば大将になったと書いていましたねえ。
あけましておめでとうございます。皆様旧年中は大変お世話になりました。今年もよろしくお願いします。

さてこの正月で当ブログも丸3年となります。ホームページを含めれば4年半。これはそのまま私が帝国陸軍という組織と人に血道をあげている時間でもあります。熱しやすく冷めやすい私ですが、これだけは死ぬまで続けたいと思っています。

人苦不自足 既得隴復望蜀
(人自ら足れりとせざるを苦しむ。既に隴を得てまた蜀を望む。)

光武帝が公孫述を滅ぼした後に言った言葉ですが、人の欲望の際限の無さを言い当てた名言ですね。このブログは備忘録ですなんて強がってはみても、やはり多くの人に読んでいただければ嬉しいし、コメントをもらえればもっと嬉しい。10人に来てもらったら次は50人、50人の次は100人、100人の次は500人・・・私だけでなく大体の人がそうだと思いますが、しかし現実にはネット社会も格差社会。そして私はここでも実社会同様中途半端な位置にいます。

2008年は私にとって20代ラストイヤー(厳密に言えば違うけど)。少しでもましな30歳になるためにも、まずブログから改善していきたいと思います(文は人なりと言いますが、文章から変えていき、人格に及ぼすという逆ルートもまた有りかと)。そしてこのブログを読んで近代史や帝国陸軍に興味を持ったという人が現れたら嬉しいなあ。

平成20年元旦 maroon_lance


追記
風呂入りながら考えたブログ改善策
「一エントリの長さを短く」
お客がぱっと見て読む気を殺がれない文字密度というのは、ディスプレイと紙では全然違うと思いますので。私自身あまりよくわからないジャンルのブログを開いたとき、文字だらけだと読まずに閉じることが多々あります。
「書き手にとって当たり前のことが、読み手にも当たり前とは限らない」
”○○は有名な話だが”みたいなことを私はよく書きますが、果たしてどの層に有名なのかと。基本事項を疎かにせず、自分で説明するのが面倒なときは最低限参考になるサイトぐらいはリンクする。これぐらいはしようと思います(これまで私は記事を書くとき自分のホームページ以外は殆ど使いませんでしたが、この態度もこれを気に改めます)。
とりあえず考え付いたのはこんなところ。別に誰かを教育したいとか啓蒙したいとかいうのは全然無いんですが、同好の士を増やしたいという気持ちは切実です。

ちなみにこのエントリのタイトルは「先ず隗より始めよ」をもじったもので、原文はこうです。

今王誠欲致士、先従隗始

参考:http://www.mizz.jp/word/word_9.html

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