近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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田村×所
予想した通りひどい試合になった。許されざるマッチメイク。素人でも許容範囲を超えた二人の体格差には気付いたと思う。田村もやりにくかっただろう。せめて旧リングスルールかKOKルールでやってクルクルして欲しかった。二人のいいところは全然出てないし、Uやリングスに思い入れの無い人から見たら( ゚д゚)ハァ?ってな感じじゃないか。ゴン格や格通がどう書くか注目しておこう。

船木×桜庭
船木は好きなんだけど、どうしても乗り切れない。ヒクソン戦まではアミューザ系の掲示板で盛り上がってたんだけどなあ。

秋山×三崎
三崎には魂を見せてもらった。郷野はあの格好目立つなあw
秋山はどうすりゃいいのかねえ。強いのは間違いないし、三崎とだって5回やれば勝ち越すだろうけど、背負う業が深すぎて・・・
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昨日、大丸梅田店で開かれていた古本市に初めて行ってきました。妙に戦争関係の品揃えがよくて困りました(財布が)。郷土戦記や部隊史がかなり充実してましたが、今はとりあえずスルーして人物関係に絞って買いました。

『小林友一追悼録』
『レイテ戦の名将 片岡董』
『追悼 陸軍少将谷川一男』
『町尻量基追悼録』
『日本軍事史雑話』松下芳男
『私と満州国』武藤富男
『暗号を盗んだ男たち』檜山良昭
『砂漠のキツネ』パウル・カレル

他にもちょっと欲しいなと思った本はたくさんありました。盲点でした。来年以降も要チェックや!

それから阪急百貨店で堂島ロールを1時間並んで買いましたが、あれなら堂島のモンシュシュまでてくてく歩いていったほうが早かったなあ。階段でじっと立っているのはしんどかったです。
コメント欄で薦めていただいた『凩の時』を入手し、読み始めました。まず分厚い。『世界史としての日露戦争』ほどではないが。しかし、まだ数十ページしか読んでませんが、これは間違いなく面白いですね。その上確かに著者が宇都宮太郎日記を読んでいる節を感じます。大江志乃夫氏と宇都宮徳馬氏は色々似通ったところがありますが、仲良かったのでしょうか?

更に正月用に、『陸海軍人物史論』も落手。元は大正5年に出た本。鵜崎鷺城の本と似たような匂いがするが、何か面白いエピソードでも拾えれば。

それから、大岡昇平の『ながい旅』が角川文庫より再販されています。来年の映画にあわせたものでしょうが、未読の方はこの機会に是非お手にとってみてください。


      
1913(大正2)年

九月五日 金 晴
午后十時、将に入寝せんとするの際、小村欣一宅より、政務局長阿部守太郎、伊集院を迎へて帰宅、将に門に入らんとして刺客に刺されたる旨電話あり。直に見舞ひしに重体、甚だ気遣わし。

41歳の若さで局長となった阿部とは、陸海外の少壮官僚の集まりなどでよく顔を合わせ親しかった。犯人は岩田愛之助に指嗾された二人の若者。所謂南京事件に対する対応が弱腰であると看做されたことが原因であった。南京事件とは北軍の前軍司令官張勲の軍勢が巻き起こしたアトロシティを指す。張勲軍の軍紀の悪さは半端ではなく、被害者の大半は中国人であったが、日本人も数名が殺害された。

十月九日 木 晴
青柳勝敏(李烈鈞等と事を与にし、敗れて林虎を伴ひ帰朝せるなり、当時の情況を詳報す)来宅す。

青柳は以前から宇都宮の元を何度も訪れ熱心に蒙古行きを希望していた予備役の騎兵大尉。妻は林大八の妹。前年、希望が叶って蒙古に渡っていたが、いつの間にか李烈鈞の幕僚となっていた。第二革命が破れると、李烈鈞は命からがら日本へ亡命したが、林虎は江西の奥地に取り残された。そこでまず山中峯太郎が偽の林虎となって北軍の目をくらまして日本に帰り、その後本物の林虎も何とか日本にたどり着いた。どうも青柳はその間、林虎と行動を共にしていたようだ。

十月十四日 火 曇
此夜、井戸川大佐を宅に招き、晩餐を与にしつゝ時局を談じ、高島子爵をして中心人物たらしむる為め之を擁立し、機を見て政友会に入り之を掌握し、終に大政の局に当らしむるの必要を告げ、之れが為め鹿児島内部、殊に山本伯一派との円満なる疎通を得させ度、之が為めには此数年来感情疎隔しある伊瀬知中将と子爵との交情を復旧、伊をして大に斡旋せしむるの必要を告げ、余も其内往訪すべきも、先づ井をして伊瀬知を訪問、瀬踏を為さしめんと相談せしに、井は之を快諾、二、三日中に伊を鎌倉に往訪することと為る。

高島鞆之助について、宇都宮は以前彼を参謀総長にしようと色々画策していたが、今度は首相にしようとしている。しかし、一体高島の何が宇都宮をそこまで引き付けるのかさっぱり分からない。機を見て政友会入りさせて、そこから首相にしようという考え(ちなみに後年、宇都宮のライバル田中義一がこのルートで首相となった)だが、そのためには同じ薩摩の山本権兵衛一派とも仲良くしておかなければならない。しかし現在、山本と親しい伊瀬知陸軍中将と高島は疎遠となっている。そこでまず井戸川辰三を伊瀬知の元に送り、伊瀬知と高島の仲の修復から始めようというのが話し合いの内容。

十一月三十日 日 晴
早朝、青柳勝敏来訪。孫逸仙等に鈴木宗言宅に密会せんことを申入れしに付き、来訪せば面会を辞せざるも、他に密会に行くことは好まざる旨返答す。

孫逸仙とは即ち孫文。

これにて1913年は終了。
1913(大正二)年

一月七日 月 晴
約に依り、午前八時桂総理大臣を三田の自邸に訪ふ。首相は満蒙問題解決(其程度は低く、安奉線、旅大を、出来れば九十九年、已むを得ざれば五十年延期を得て満足せんとするの意を漏せし故(中略))に意あること、其外対露軍事、就中我輸送力増加の事等を談じ、九時三十分辞して参謀本部に出勤。

西園寺公望から桂太郎陸軍大将に首相が変わった。それに伴い陸軍省首脳も
陸軍大臣 上原勇作 → 木越安綱
陸軍次官 岡市之助 → 岡市之助
軍務局長 田中義一 → 柴勝三郎
となった。一方参謀本部は部長以上に変動無しであった。
参謀総長 長谷川好道
参謀次長 大島健一
総務部長 山梨半造
第一部長 由比光衛
第二部長 宇都宮太郎
第三部長 武内 徹
第四部長 重見熊雄
桂は言うまでも無く長州人であったが、山県とはやや一線を画していた。満蒙に対する桂の経綸を聞いた宇都宮は、その欧米列強の目を気にした消極的な態度に物足りなさを覚えたが、あまり強くは追い込まなかった。宇都宮は十七日から約二ヶ月の支那朝鮮視察旅行に出るが、彼が帰国したときには既に桂内閣は倒れ、山本権兵衛海軍大将が首相となっていた。所謂大正政変である。

三月十五日 土 晴
夫れより木挽町万安に於ける歩中尉篠塚義男と軍医監鶴田禎次郎長女との婚礼開に臨席す。(中略)此縁談には夫婦にて多少斡旋する所ありしなり。

去年、長州人の娘と縁談があると言ってきて、宇都宮に渋い顔をさせた篠塚が結婚した。ところが相手が変わっている。なんと相手の父鶴田軍医監は佐賀人。宇都宮夫妻恐るべし!

四月十五日 火 雨
陸軍大臣官制改正に付き次長より、総長は陛下に対し奉り「臣は該改正には反対に御座候へ共、陛下の御思召に任せ奉る云々」と謂が如き意味にて御答申さんとの様に聞取りし故、国家の重臣の御答としては少しく如何かと思ひ、総理大臣、陸軍大臣と協議し、既に宣言したる後の今日に於ては、時局の収拾上陸軍と国民との関係上、余は、
    一、陸軍大臣の官制は、軍事上の見地よりしては現役大中将を
     以てする現制度を尤も適当なりと思考す。
    二、然れども事情之を変更するの止を得ざるものありとすれば、
     同官の職域に必要の変更を加ふることを希望す。
と云ふ意味の意見を陳せり。

二個師団増設とのバーターで山本権兵衛が持出したのがこの陸(海)軍省官制改正。具体的にいえば、陸海軍大臣及び次官に任用されるものは現役の将官のみとしていたところの”現役”の二文字を削ろうというものであった。陸軍省も参謀本部もこれに強く反対した。宇都宮も陸相は現役将軍であることに越したことは無いと考えてはいたが、現在の陸軍に対する国民感情の悪さを考慮すると、拒否を貫くのは難しい。それならこの改正を受け入れた上で、陸相の権限の一部を参謀総長に移管して埋め合わせるべきだと考えていた。

四月十九日 土 晴
過日来陸軍大臣官制改正に長谷川総長、大島次長等反対の意見を陳し、大臣は為めに辞職を声明し本日茅ヶ崎に転地せりと云ふ。爾後の発展誠に懸念すべきなり。長谷川等の背後に黒幕あるや否や尚不明なり。勿論削除の純軍事上見地より好ましからざることは言ふまでも無きことなれども、総理大臣宣言後、陸軍大臣承認後の今日、時局の模様等に連想する時は、其結果に付ては大に考慮せざる可らざるものあるべし。

山本内閣の陸相は桂内閣以来の木越安綱であった。木越は桂から非常に重用されていたが、必ずしも長州閥の人間ではなかった。士官生徒の1期生で、日清戦争では桂をよく補佐した。日露戦争では最年少の師団長として、黒溝台で大きな功を挙げた。木越の情勢判断は宇都宮と同じであった。しかし長谷川総長などは狂ったように反対するし、直属の部下たちも全員反対であった。主務課長である軍事課長の宇垣一成大佐は稟議書の作成をボイコットした。そのため木越は自ら書記に命じて書類を作成し、参謀本部の同意を得ずに内閣に提出した。今に残る稟議書の連帯欄は空白、主務課長欄に一旦押された判子は黒く塗りつぶされている。その代わり「本案に不同意」と書かれた付箋がべたべたと貼られている。それらには軍務局の5つの課の課長の判子が押してある。木越はこの改正を通すと陸相を辞任。閲歴からも大将になって然るべき人物であったが、そのまま待命のち休職、そして後備役に入れられた。    陸軍大臣 木越安綱

四月二十日 日 曇
早朝、渡辺鉄太郎、海軍大佐秋山真之、川島浪速、伊東佑俊等来訪。就中秋山は尤も長座し色々の時事談あり、将来有用の人物に付き、多少肝胆を披きて相語る。

秋山真之は海軍軍人にしては珍しく支那に深い関心を抱く人物であり、宇都宮もその人物を気に入っている。以後よく彼は宇都宮を訪ねてくるようになる。

四月二十四日 木 曇
次長より部長一同を会し、総長は御前に咫尺し官制改革に不同意の旨奏上せしに、陛下は山本総理より詳はしく聴たり、総理の申す通に致置けとの意味の勅諚ありしに、就ては総長は直に辞表を上りて御反省を奉希(彼等の言)か、或は勅諚ありし此上は陸軍大臣の提案には同意し、其成立に就ては総長も責任を分ち然る後徐に辞表を上るか如何とのことに、最早御反省(彼等の言を借用す)の余地は無きものと信ず
(西園寺内閣の打破以来長閥に対する民怨は絶頂に達し、延て陸軍に及び、陸軍は長閥と共に天下の怨府と為り居れり。然るに彼等今尚其閥族の余命を無理に維持せんとて、官制問題なる好題目を借りて再び内閣、少くも陸軍大臣を動かさんとす。真に私の為めに国を誤り軍を誤るものと謂ふべきなり。軍紀地に落ち洪嘆に禁へず。彼等が対西園寺内閣隠謀の結果、陸軍も怨府と為り、官制改革も万已を得ざるに至り、山本の宣言と為りしものにて、改制の主因を作りしものは彼等隠謀者なり。然るに今亦だ純朴なる一部の軍人を引入れ、彼等長閥者流及之に付随せるもの等は、此問題を以て内閣に突撃せんとするものなり。併し事情已を得ずして大体の上より御裁可に相成り勅諚までありしものを御反省などとは、彼等は己れの立場を好くし内閣、殊に大臣を苦めんとするの陰謀と謂ふべきなり。公然総理大臣や陸軍大臣を悪罵し乱臣賊子を以て之を呼ぶに至る。而かも堂々たる部長や総長や責任ある将官の言動なり、軍紀果して何処にありや)。
因て、総長は責を陛下に帰し己を潔するが如き仕打は我長官としては為さしむ可らずと思考し、第二案、即ち勅諚ありし此上は理屈を抜き陸軍大臣の提案に同意し、唯だ大臣の職域に必要の変更を加ふべく、其細件は進で審議せん位のことを付加して陸軍大臣への回答を為し、総長の進退は徐ろに決せられ可然との意見を述べたり。由比、武内等も大抵同意なりしが如し。

長谷川総長が改正反対の上奏をしたところ、逆に天皇陛下に、山本の言うことを聞けと諭されてしまった。この上は辞任するだなんだとパフォーマンス(実際に辞任する気などさらさら無い)を繰り広げる上司に対し、宇都宮の内なる怒りが爆発している。彼に言わせればそもそも山本権兵衛がこのたびのような官制改正を持出したのも長州閥の専制が原因であり、民心が陸軍から離れたのも同様である。にも拘らずそれらを棚に上げ、尚も自分たちの勢力の保持だけを考えて、天皇陛下の任命した総理大臣や陸軍大臣を乱臣賊子などと罵る。天皇陛下に対する態度もどこかあてつけがましい。一体軍紀は何処にあるのか、と。彼はバッサリと、大島次長が示した二案のうち後者を進言、由比第一部長、武内第三部長もこれに同意であったという。
※取り消し線は本文通り。

五月八日 木 晴
長州の岡市之助、次官を免ぜられ、兵庫の本郷房太郎其後任と為る。兎に角一進歩也。

岡を京都人とする本もあるが実際は長州人である。宇都宮は当初、岡の後任に山口勝を望んでいたが、木越の推薦で円満な人柄の本郷房太郎となった。山口は砲兵課長時代から部内に聞こえた実力者で、その態度の大きいことから”陸軍の大隈伯”というあだ名もあったという。二・二六事件に連座した山口一太郎大尉の父親である。

六月三日 火 曇
軍事課長等任免の件に付き柴軍務局長に注意せしむる為め、少将山口勝を教育総監部に訪ひ意見を交換し、山口本日柴を訪ふことに取極め帰衙す。

官制改正に最も強硬に反対していた宇垣一成軍事課長の処分に関して、山口と共に柴に掛け合っている。怪文書まで撒き散らした宇垣は、八月三十一日付けで歩兵第六連隊長に左遷されるが、これが宇都宮らの意見通りなのかは分からない。後に上原や武藤等と宇垣一派が激しく対立することを思えば、中々興味深い。更に言えば宇垣自身、復活した軍部内閣現役武官制によって組閣を阻まれるのだから、皮肉といえばこれ以上の皮肉は無い。

六月二十四日 火 雨
本日午前、葉山に於て楠瀬中将陸軍大臣に親任式あり。同志苦心の結果事実に現はれ、為邦家為陸軍、祝着の至なり。

木越の後任について宇都宮らは、伊瀬知中将を通じて山本に働きかけていたが、その希望通り楠瀬幸彦中将が陸軍大臣に任命された。楠瀬は上原と同期の砲兵将校で、土佐出身であった。長州の息のかかった人物の任用を防げたことで、宇都宮もほっとしている。このとき次官も寺内に近い本郷から、予てより希望の山口勝に代えるという話があったが、それは余りにも露骨過ぎると楠瀬の判断で見送られた。


1912(明治四五/大正元)年

十一月二十五日 月 晴
午后、樺山資英宅にて内務次官床次竹二郎と会見、増師問題に付き論争。彼れは怒気を帯びて去る。

樺山も床次も薩摩人である。二個師団増設問題について三人で対応を練っている。

十一月二十六日 火 晴
余は予ねて大臣等と相談しある最小限案を主張し、彼等は、西園寺首相は如何にするも之を来年度の予算に上すことは絶対に不同意にて、来々年度より上すこととすべく、其為めには如何なる約束をも為すべしとて、其約束法に付き種々提案あり。(中略)大臣は矢張条虫案を固執し、最早妥協の余地無きものと観念しあるものゝ如く、余は、大臣は其閣僚との意思益々疎通を欠き、所謂官僚系長州系に少しく偏傾しあるにあらざるやを感ぜしめたるにより、此感想を直言し、大臣は政友会等非長閥派を味方として長閥を敵とするは得策にあらざると同様、過度に長閥に傾き其他を敵とするの不得策なるべきを陳じ、夜更けて帰宅す。

宇都宮の姿勢はかなり妥協的となっている。最小限案というのは小額でもよいから来年度予算に計上し、残りは再来年以降とする案。しかし床次の伝える西園寺首相の考えは、来年度予算に計上するは絶対不可。全ては再来年度というもの。この情報を持って上原陸相の下へいったところ、上原は依然原案に固執している。宇都宮は、最近の上原が周りを長州系の官僚に囲まれ、閣僚との疎通を欠いていることを憂慮し、そのことについて率直に諫言した。

十一月二十八日 木 曇
午前、陸軍大臣を訪ひ進言す。尚ほ私見を書して内呈す。(中略)結局余及床次より大臣に、条件を付け一年間延期することにて妥協するの得策なることを勧告するに決せしが、余が帰りたる后、此勧告は高島子を累すことに変更せられ、余も同意す。

宇都宮の呈した私見というのは、「今衝突して辞めるのは不利益である」というもの。いまや彼は完全に妥協論者となり、床次らと共に何とか上原を説得すべく苦心している。この際ということで薩摩の長老高島子爵にも協力を仰いでいる。

十一月二十九日 金 晴
過日来山県等の容喙を速きし結果、本日も岡次官は状況報告、意見受領に小田原に往きたり。(中略)夜十時過なりしも田中を其邸に訪ひ、談論午前一時に及ぶ。彼れは首相に妥協の誠意無きを以て一意突進の外無きを主張せり。転じて大臣を訪ひしに、矢張明日は突進すべき決意(これには裏面ありと余は信じ居りたり)を物語らる。

小田原というのは山県有朋の別荘を指す。岡次官が態々報告に赴いている。長州派にとって上原が強硬路線を取り自爆したところで、自分たちの腹は全く痛まない。それどころか願ったり叶ったりである。軍務局長の田中義一も本心はともかく強硬路線で大臣を煽る。宇都宮にはこの状況が歯がゆくて仕方ない。何とか上原の考えを変えたいがうまくいかない。

十一月三十日 土 晴
早朝、大臣を其褥に訪ひ、誠意西園寺と妥協、内閣を維持し、仮令一年延期しても増師案を成立せしむるの邦家の為め有利なるべきを最后の進言として進言す

午前三時過ぎに出た上原の官邸に早朝再び訪れ、最後の諫言を行った。上原陸相は彼等の悲願であった。このようなことでご破算にはしたくないのだ!しかし上原の態度は変わらない。

十二月二日 月 晴
午前十時三十分、上原陸相辞表を捧呈す。政局は是れより一転、天下再び彼等官僚、即長閥の有たるに終はるを免れざらん乎、噫。

世に有名な上原勇作陸相の帷幄上奏、単独辞職である。この三日後西園寺内閣は総辞職した。宇都宮があれほど喜んだ上原陸相は1年も持たなかった。少しずつ要路に同志を置くというのもすべてパーである。

十二月六日 金 晴
山県等は無論寺内と通牒之を推すに一決しありしも、大山公、平生に似ず異議あり(後略)

西園寺の後継首班について、山県らはかねてよりの計画通り寺内朝鮮総督を推したが、珍しく大山巌がこれに反対し、紛糾した。

十二月七日 土 晴
本日、長派の者より寺内宛の秘電一覧。彼等の内閣乗取の為めの陰謀の跡顕然、実に驚愕且つは慨嘆の至りなり。不臣不忠、彼等は真に忠臣顔を状へる偽善的賊臣とも謂うふべきなり。

何かの拍子で寺内たちの電報を手に入れた宇都宮。横車を押して西園寺内閣を倒し、寺内を首相とする陰謀を見て取り赫怒している。上原はまさにその陰謀の駒に使われたわけだ。宇都宮はそれがよく分かっていただけに、悔しさも百倍であろう。

十二月十八日 水 晴
余が参謀本部第二部長として着任以前より第四課長にして引続き久しく余が部下に誠意幇助し呉れたる歩兵大佐武藤信義、隊付希望により、成るべくは東京に置度、多少世話する所ありし甲斐ありて、本日近衛歩兵第四連隊長に補せられ発表す。

武藤はあらゆる意味で宇都宮の正統な後継者といえるだろう。近衛歩兵第四連隊は宇都宮の原隊でもある。


これで1912年分のレビューは終了。

1912(明治四五/大正元)年

八月三日 土 晴
午后、志波今朝一来宅(小倉市長候補を思立ち、余をして奥元帥に説せしめんとのことなれども、此際と云ひ又た元帥と余との関係と云ひ、無効なるのみならず却て有害なるべきことの理を詳説して還へす)。

志波は佐賀県人で陸士は宇都宮の一期後輩になる。小倉市長になりたいと考え、小倉出身で陸軍の大御所である奥保鞏元帥に宇都宮から口添えをして貰いたいと依頼してきたが、宇都宮は自分では逆効果だと断っている。奥とは折り合いが悪かったのか?

八月五日 月 曇
帰途、大臣秘書官歩中佐井戸川辰三を其官舎に訪ひ、妻女に祝詞を述ぶ。井戸川は大臣の同県にて余等多年の同志なり。漸次大臣の身辺に同志の腹心を配置し大臣の位置を擁護するの目的にて、其第一着手として先づ井戸川を入れしなり。此次は機を見て長州人竹島音次郎の転出を機とし、陸軍省の高級副官に現砲兵課長奈良大佐を入れんとす。

徐々に上原の周りを同志で固めるという計画。第一弾として上原と同郷の井戸川を秘書官にした。更に機を見て高級副官に奈良武次を据えようと考えている様子。実際奈良はこの後高級副官になる。奈良は栃木県出身、誠実な人柄で後に東宮武官長/侍従武官長として長く昭和天皇に仕えた。

八月十八日 日 晴
薄暮、歩中尉篠塚義男来宅、長閥某の女を娶るの可否に付相談あり。相談にも及ざる次第なるべきに相談するは、其意あるの証なれども、本人の為め不利益なるべきを告示す。

兼ねてより可愛がっている篠塚が、長州人の娘との縁談を持ちかけられ、相談に来た。成績優秀眉目秀麗の青年将校であるから、周りもほっておかないのだろう。宇都宮としては即座に断らないのが不満。自分のところに相談に来るということは、篠塚としても気があるのだろうと推測しながらも、長州の閨閥に入ることの不利益を説いている。

九月七日 土 微雨
大蔵大臣秘書官安倍午生面会を申込み来り、二師団案撤回に付き熱心に懇談し、五時頃より夜九時に至る。

遂に日記上にもこの問題が現れた。安倍は蔵相山本達雄の甥にあたるそうだ。そういえばこの人物、以前に寺内寿一の人となりについて宇都宮に聞きに来たことがあった。

九月十四日 土 晴夜に入り雨
本日は在宅謹慎の積りなりしも、新聞の号外にて昨夜乃木大将夫妻殉死の事を知り其邸に往弔す。(中略)大将の性格高きは今更の事にあらねども、実に斯くまでとは存ぜざりし。我眼識恥かしき次第なり。

長州閥を憎悪する宇都宮も、藩閥から超然としていた乃木希典に対してはそこそこ畏敬の気持ちを抱いていたようだが、殉死の報を聞き、乃木の偉大さを再認識している。

九月十八日 水 晴
大蔵大臣秘書官安倍午生来宅、晩餐を共にし例の二師団増設案に付き議論を上下す。新説なし。其大臣の為めに上原大臣の譲歩を工夫せんとするものなれども、此方にても一々説破之を却く。

再び安倍の訪問を受けた。この時点での宇都宮は勿論増師推進派。

通常書評というのは、其の本を通読した後に書かれると思います。私もそうしてきました。しかし今回は違います(威張ってる訳ではない)。読みながら書きます。というのもこの本はリリース後間も無く購入していたのですが、今の今までほったらかしにしていました。厚い本なので最後まで読んでから書くとなると、また随分後のことになってしまいます。もうすぐ第3巻も出るので、何とか年内には終わらせて格好をつけたいとの思いでこうするのです。元より途中で飽きてしまった場合悲惨なことになりますが、書評熱が一番高まるのは読んでいるとき又は読了直後であるのも事実。さてどうなることやら。
ちなみに第1巻の感想は下記URL。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-152.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-153.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-155.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-157.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-158.html


1912(明治四五/大正元)年

一月九日 火 晴
在南京古川氏(中佐)の紹介にて三井分物産の森恪なる人来衙、革命軍に資金を供して利権の獲得の要を論ず。論ずる所大体同意なり。余も余の意見の一部を告ぐ。

森恪は後に田中義一内閣の書記官長となる人物。三井時代から既に頭角を現しており、この頃の彼に長沙で世話になった南部(宇都宮と同郷)も”風格あり才気煥発、将来ある人物と思った”そうだ。

一月二十七日 土 晴
袁等の黒幕には英タイムズ記者モリソン潜み居るやに思はる。

モリソンはかつて柴五郎と共に北京で篭城した有名記者。この男が袁世凱に知恵をつけているのではないかと疑っている。宇都宮は孫文らが袁世凱に誑かされ、結局袁が清朝に取って代わるだけになることを恐れている。

一月二十八日 日 晴
段祺瑞以下四十六名、連名にて高級将校より共和退位の已む可らざる上奏を為す。中に張勲の姓名まで見ゆ。甚だ不思議なり。

宇都宮の危惧したとおり、清朝はこれで崩壊した。皇帝退位を望む軍人リストに勤皇派であるはずの張勲まで載っていることを訝しんでいる。張勲は後に復辟騒動を起こす。

二月四日 日 晴
出勤掛、赤十字病院に松井を尋ねしに、経過良好。

第二部長たる宇都宮はこの頃実に忙しく多くの人間を使っているが、腹心と頼む松井石根は、盲腸炎で入院中であった。

二月七日 水 晴
金子新太郎は二千円を与えて余が派遣したること、一時行衛不明の風説ありしも、昨今に至り黎等も其戦死を認むるに至り余も満足なること、余の手よりも遺族扶助の為め若干を贈らんとて用意しあること、(中略)尚ほ彼等をして他日適当の時機に及んで武漢適当の地に墓碑にても建設せしめ両国の国交に資し度旨、柴五郎に返書す。

金子は予備の陸軍大尉で、熱心に渡清を望んでいたので、宇都宮がスポンサーとなっていた。その金子が武漢で戦死したことが確認された。宇都宮は彼らしく、その遺族によく心を配っている。
http://www.asahi.com/international/history/chapter04/01.html

三月二日 土 美晴
岩本千綱を役所に招き、雲南、貴州、広西、広東の一部、東京等を打て一団と為し、我に有利なる一国を造り度き希望を含め、旅費として金一千円を彼の準備金より支出す。

岩本は旧知の人物だが品行が悪く、中尉ぐらいで軍を辞めて馬賊に身を投じていた。人間的には信用できないが、自分と同じ考え(中国南部の独立)を持っているので、取りあえず金を与えることにした。

三月二十五日 月 曇
根津一来訪(同文会より派遣せる四川派遣員六ヶ月分四〇〇余円の補助を請ひしも、本部も年度末にて逼迫に付き断る)。

根津は宇都宮の1期先輩でこの頃は陸軍を辞めて東亜同文書院長であった。とにかく宇都宮も金が無いのである。

三月二十九日 金 雨
午后六時より、参謀総長長谷川大将、上京中の師団長等を華族会館に招待し列席す。此際田中義一、上原就任の件、最早九分迄は大丈夫と信ずる旨内談す。

以前も田中は同じようなことを言っていたが、今度こそは大丈夫か・・・

三月十日 土 曇
相模屋上原中将より、愈々申入れありし故要談あり来れとの事に、午前中に事務を終り午食時中将を訪ふ。今朝、在小田原山県元帥より中将へ面談し度に付き来訪せよとの申出にて、たぶん陸相後任の件なるべく、中将は明三十一日往訪を約したり。

石本陸相が重篤となり、遂に山県上原を陸相にすることに同意した模様。

四月五日 金 晴
本日午前、大臣親任式あり。上原中将愈々陸軍大臣に就任す。川上大将の死後十余年、長閥の勢力日に強大を極め、専恣横暴圧迫に圧迫を加へられ来りしに、今日初めて同志にして親友なる中将の就職を見るに至りしは愉快至極なり。

川上操六が生きていたら貴様等にこんなやりたい放題させなかったのに。ムキー!」といったところか。例によって大山巌は完全無視、スルー。

四月七日 日 晴
昨日の電話に依り上原新大臣を往訪せしに、次長後任問題にて、寺内は長岡を推し、長谷川之を斥け、岡は明石は如何と言ひしに、長谷川は之をも欲せざるが如く、岡自身に来れと言ひし由にて、岡は笑ふて答えざりしが、結局山県の意向を聴くことを長谷川に勧め、長谷川は既に小田原に行けりと云ふ云々、就ては如何とのこと故、過日も申せし如く、井口、岡等を推薦す。

福島安正参謀次長の後任問題。寺内正毅長岡外史を推すが、参謀総長の長谷川好道はこれを却下。陸軍次官の岡市之助が、それでは明石元二郎はどうかというと、これも却下。では誰がいいのか問うと長谷川は岡自身が良いという。しかし岡にその気は無い。結局またしても山県の採決を待つことになる。上記の人物のうち明石を除く全員が長州人である。上原は一応宇都宮に誰が良いかと尋ね、宇都宮は井口省吾か岡が良いと答えているが、もちろんその意見が重視されることはない。

四月十一日 木 晴
井戸川を以て上原中将より、次長の後任は長谷川より第一に長岡を申出し、これは体能く賛成せず、次に大島を持出したり。未だ印は押さずとの事なるも、大島に既定のことは昨日田中義一より内報あり。(中略)大島は終始山県の家令的関係ありと云ふの外、腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家にして百科全書の評ある人物なり。其帝国参謀次長として不足なることは一般の定評あるもの、心細きの至りなり。之を川上、児玉の当時に思合すれば、参謀本部の今昔実に慨嘆の至りなり。(中略)況んや総務部長の後任に、旅順にて遺憾無く其の無気力と無能とを暴露せる長州人大庭二郎を据へんとするに於いておや。

山県の決定した次長は大島健一であった。大島は岐阜の人で後の駐独大使大島浩の父親である。昔から山県の家令的存在として知られており、知識の該博さには定評があった。しかし宇都宮に言わせると”腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家”であった。このような人物がかつては川上や児玉源太郎が就いていた職に就くとはと嘆いている。
更に大島の後任の参本総務部長候補に長州の大庭二郎が上がっていると聞き、旅順で遺憾なく無能っぷりを暴露した奴が何で総務部長になれるんだと、その人物をぼろくそにこき下ろしている。しかし結局大島の後任となったのは大庭ではなく山梨半造であった。この男も後年醜事件を起こす人物だが・・・

四月二十日 土 晴
歩中佐寺西秀武、漢口にて諜報勤務に服務中、黎元洪より金二十五万円を受取り、漢陽等にて革命軍の為めに戦死若くは尽力せし邦人に其十余万円を分配し、残余は返還せしも、大に世の疑惑を起こせしかば、調査の結果、本人には一点不正の処置はあらざれども、現役軍人には不穏当として所罰することとなり、重謹慎三十日に処す。

宇都宮としては何とか寺西を助けたく、自らの進退伺まで用意したが、結局彼は罰せられた。

五月八日 水 晴
藤井玄瀛来衙、法主の回答なるものを告げて曰く、
 一、年利五分を六分以上とすること
 二、五年を三年とすること
 三、今年分の利息は差引き然るべきや
 四、多賀若くは松井にて署名出来るや
第四は即座に否定し他は交渉せんとは答へしが、此種の事業に斯る営業者的の考にては到底不適当なることを信じ、岩崎に相談し、適当の名義人を用い彼の準備金より支出、岩崎をして事業に於て此借款に応ぜしむるの適当なるを思ひ(後略)

東翁牛特王の6千円の借款について真宗本願寺派に依頼したところ上記の四条件が返ってきた。多賀宗之や松井石根を保証人にするような話は即座に断っている。他の三条件は一応承ったが、この種の捨石的投資を要する国家事業に、営利を求める態度は不適当であるとして、本願寺からの投資は諦め、今迄どおり三菱の岩崎久弥に頼むこととした。岩崎と宇都宮の関係は陸相も参謀総長も知らないもので、両者の連絡には松井石根が当たっていた。この際上司にあなたの名前を明かさなければならないといわれた岩崎は、上原と福島にだけならよいと承諾した。

五月二十五日 土 晴
午后、上原大臣来宅、対談一時間にして去る。
在職大臣の余が宅に来りしは、今日の上原大臣を初めてとす。

(笑)

五月三十一日 金 晴
午后五時より星ヶ岡茶寮に於ける星桜会に出席す。斎藤海軍大臣、上原陸軍大臣、乃木大将以下会する者二十五、六名。今までに無き盛会なりき。是は主として前幹事高橋静虎退き人気一変せいと、上原大臣新に就任、陸海両軍の感情一層融和したるに因るものにして、甚だ慶すべきなり。

はいはい、また上原自慢ですか。



経歴
林弥三吉は石川県出身の陸士8期卒業(優等)。同期同郷の林銑十郎大将は陸相、首相になったが、あちらの林は銑(鉄)だがこちらの林は鋼(鉄)だという評価もあった。参本欧米課長や陸軍省軍事課長といった要職を歴任。宇垣一成の腹心として終生その交友は変わらなかった。警察予備隊の初代総監、初代統幕議長の林敬三は息子である。

信条
軍人は政治に干与してはならない。またその行動は大命によらねばならない。政治に干与する場合は丸腰にならねばならない。といった考えの持ち主であり、またそういった内容の著述もある。

組閣参謀
宇垣に大命が下ると、林はその組閣参謀となった。他に集まった陸海軍人は和田亀治、原口初太郎、上原平太郎(以上陸)、山路一善(海)といった何れも予備役の将軍たちであった。また憲兵情報では松井石根も宇垣支持であり、憲兵司令官の中島今朝吾と電話で喧嘩をしたそうだ。この年の暮れの南京攻略時の二人の確執を思うと興味深い。宇垣に対しては石原莞爾、片倉衷ら中堅幕僚の強力な反対があり、湯浅内府に宇垣についての陸軍の心象を尋ねられて「もういい時分だと思われます」などと暢気に答えた陸相の寺内寿一もなすところなしであった。次官の梅津美治郎は公私に渡って宇垣とは縁が有り、内心では石原片倉の越規行為に腹を立てていた節もあるが、表向きは何もしなかった。

梅津氏は昭和十二年余の組閣妨害の張本責任者として追究せられありと。気毒の至りなり。大義に戻り私情を無視し権勢に阿附したりし当然の帰結なりとも謂い得る!
(『宇垣一成日記』昭和二十二年九月十八日)


声明文
宇垣が大命拝辞のため参内した其の日、林はマスコミを集めて声明文を発表した。これは宇垣にも相談無しの行動であった。渡邊行男『宇垣一成』に載っているのは原文かどうか分からないが、他に見当たらないのでこれを引用する。

私は頼まれて宇垣閣下のお手伝いに上った者であります。私はこの重大時局は、宇垣閣下に非ずんば断じて救い得ぬという信念をもっております。

これより、昨二十八日、河合操大将〔枢密顧問官〕とお会いしたときの事情をお話し致します。まず宇垣閣下の御挨拶として、
「軍の現状および世論は御覧のとおりで、権力の地位にある者数名が中心となり、当局を強要して軍の総意なりと言いふらし、それが大勢なりというごとく装うています。軍は陛下の軍であるが、過般来の行動は、陛下の軍の総意なりや、問わずして明らかであります。三長官の陸相後任選定のごときも、形式的のやり方だけあって、著しく誠意に欠けています。
現役将官個人のうちには、この際進んで難局に当るを辞せずとの意気を有する人もいるが、その進出が梗塞されており、もはや残されたところは、変通の手段を有するのみであります。世上伝えられる優諚を奏請するごときは考えたこともありません。自分の大命拝辞後の軍の成行きおよび君国の前途は、痛心にたえざるものがあります。私はいまは、ファッショか、日本固有の憲政かの分岐点に立っていると信じます。
軍を今日のごとく政治団体的状態に至らしめたことは、私もまた微力その一部の責を負うべきであるが、聖明に対してただ恐懼に堪えません。いまや御採納になるかどうかは拝察の限りではありませんが、最後の軍に対する手段として、陸軍大将の官を辞する決意を固めました。
もし私の所見に同意ならば、一臂の力を垂れられるの余地なきや、お伺いいたしたい。多年の愛顧を蒙り、軍の長老であられる閣下に対して、軍と訣別する前において、愚見を申し述べて御諒承を得たいと存じます」
と申し上げました。

河合大将はこのとき泣かれて言われました。
「辞表がなおお手許を離れていないならば、この際切に思い止まられんことを望みます。自分の見るところでは、決して軍の総意で閣下を排斥しているのではないと信ずる。しかしながら三長官の決議とあるが故に私は今まで躊躇していたわけである。この時局は宇垣閣下に非ずんば断じて救い得ないと思うから、最後の御努力を祈る次第である」

そこで私〔林中将〕は三長官の決議について十分御検討をお願いしておきました。

次に林中将は自己の所信を述べた。

首相は文官であります。文官たる首相が軍の統制に何の関係がありましょうか。軍の統制は軍の首脳がしっかりしていればよいのであります。故に宇垣閣下が首相となられても、軍の統制になんらの影響なしと信じます。然るに、その統制を保ち得ぬとは何たるブザマでありますか。そもそも組閣行為は純然たる政治行為である、これに向って軍をひっさげて反対するとは違勅ではありませんか。軍の発表では、軍の総意とあるが、陸相は果して陛下の御裁可を経て発表されたものであるか。まさか陛下はこんな政治進出をお許しにはなりますまい。

陸軍は「内容が穏当を欠く」としてこの文を新聞掲載禁止とした。林は同じ趣旨の文をビラにして撒いたため、陸軍内部では林逮捕を求める声が上がった。中島今朝吾は部下憲兵を置いてきぼりにして独走する癖が有り、このときも即座に林の逮捕を東京憲兵隊長の坂本俊馬に命じた。しかし坂本の下にいた上砂直七中佐や林秀澄少佐はこれに面従腹背の態度を取った。


お奨め



アンガウル島で俘虜となった船坂軍曹については以前に書いた。ついでなので、船坂氏に相対したクレンショー氏についても書いておく。

いきなり余談から入るが、駐日米国大使館のHPを見てたら1969年から72年の代理大使の名前がデビッド・オズボーンとなっている。船坂氏によればこの人もアンガウルにいて当時の船坂軍曹を見ているそうだ。

ペリリューで船坂氏と会ったとき、クレンショー氏は伍長であった。人殺しの嫌いな彼は、通訳になれば人を殺さずに済むと考え、海兵隊入隊と同時に日本語教習所に入り勉強していた。捕虜の監督官を任されたのもそのためだ。家が貧しかったため大学を諦めトラックの運転手をしていたが、非常に明晰な頭脳と実直な人柄の持ち主で、除隊するときには中尉になっていた。彼に助けられた日本人は船坂氏一人ではない。かれが日本にやってきたときには、彼によくしてもらった何人かの日本人が訪ねてきている。

船坂氏が一生懸命クレンショー氏を探していたように、クレンショー氏もグンソーフクダ(当時船坂氏が名乗っていた名前)を心配していた。ネイヴィタイムに載った船坂氏の手紙をクレンショー氏の戦友が見つけ、米国大使館の仲介で電話連絡が取れた後、二人は太平洋を挟んで毎週のように手紙のやり取りをした。クレンショー氏が船坂氏に出した最初の手紙は日本語と英語とローマ字のちゃんぽんであったが、結びの言葉が船坂氏の心を決定的に打った。

Watakushi no inochi no hon no peeji wa anata ga hirakimashita. ARIGATO GOZAIMASU!
(わたくしの命の本の頁は貴方がひらきました。ありがとうございます!)

クレンショー直筆

クレンショー氏は戦後努力して大きな会社の副社長にまでなっていた。来日した彼は船坂氏と二人で、TBSの「おはようにっぽん」に出演した。司会は小林桂樹と小野清子であった。彼はいつ準備したのかカフスボタンの裏に、平和について、神について、天皇制についての日本語の単語をびっしりと書きつけ、時折目を伏せてそれを見ながら、司会者の質問に日本語で答えた。旅行で日光を訪れると東照宮を見上げて

「フナサカサン、私、今から”ケッコー”使います」

と言って皆を笑わせた。「日光見ぬうち、結構言うな」の諺を彼は知っていたのだ。

船坂氏の子息がアメリカに仕事で行ったとき、クレンショー氏はダラスからロサンゼルスの空港まで迎えに行った。貿易会社を設立するとその会社名を「タイセイドー・インターナショナル」とした(検索したが残念ながら見付からず)。船坂氏の元には多いときで年間二十名からの、全く見ず知らずの人からの訪問があったという。何れもアメリカでクレンショー氏に出会い、二人の間にあった物語を聞かされた人であった。氏は日本人を見かけると日本語で話しかけ、親切に世話をした。



<宇垣の知遇を得る>
香月が陸軍省が示した宇垣内閣の陸相候補の一人であったことは既に書いたが、実は宇垣陣営の意中の人も香月であった。宇垣の腹心である林弥三吉は宇垣に次のような手紙を送っている。

小生の考にては香月中将を以て唯一の候補者と存居り候。同中将とは「現役軍人政治に干与すへからす」との意見に於て預てより一致致居り、過般の拙著に対しても絶賛し居り候。特に現提出予算の厖大極まるものなることに就ても全然同感に有之候。・・・若し杉山又は板垣の如きものを出せば純然たる軍人フアツシヨの世となり・・・・(昭和12年1月24日)

林は大楠公の研究者として知られた人物だが、軍人の政治不干与にも一家言あり、昭和11年には『文武権の限界と其の運用』という本を出している。文中の”拙著”というのはそれを指しているのだろう。彼が宇垣大命拝辞の当日に、重大声明を読み上げ陸軍を痛烈に攻撃したことは既に書いた。当の香月は当時演習で千葉にいた。後に彼は宇垣に対し、自分は一切(陸相就任の)打診を受けていないと申し開きをしている(渡邊行男の本にも載っている話だが、原典が思い出せない)。今井田清徳(宇垣の組閣参謀)が千葉まで会いに行ったという話もあるので、鵜呑みにも出来ないんだが。第一軍司令官を解任され帰国した香月は、宇垣に挨拶に行っている。二人の閲歴を見ると、同じ職場にいたことは殆ど無いが、そこそこの知り合いではあったようだ。


<宇垣の幕下に入る>
予備役となった香月は本格的に宇垣陣営の人になった。彼の役目は東京に於ける宇垣の情報係といったところか。宇垣を擁立する動きは、あの流産以降も続いていた。いやむしろ香月のような新たな宇垣ファンが増えていた。かつて六郷橋で宇垣の車を止めた中島今朝吾も、泣いて自己の不明を詫びたという(泣いたというのは田中隆吉が書いていることなので事実かどうかは知らない)。真崎甚三郎ですらも「此時世を救うものは宇垣閣下以外になし」と言っている。さて平沼内閣の後継争いは阿部信行(かつての宇垣の次官)を推す陸軍の勝利となったが、このときも吉田茂を中心に林中将や山路一善海軍中将らが、宇垣擁立運動を激しく展開していた。恐らく香月もこれに加わっていたはずで、阿部に決まった後には宇垣に対し、次のような手紙を出している。

軍部之飽なき反抗工作と無気力なる元老之糊塗策に禍ひせられて、遂にまた今回之如き情なき落着と相成り候事は現情国家之為誠に寒心に不堪る処に御座候。・・・・小生また御指示に従つて最善之努力を尽し犬馬之労に可報候。(昭和14年8月29日)

その阿部内閣が倒れると再び宇垣陣営は、次期首班を目指して工作を開始した。香月はまず侍従長の百武三郎海軍大将を訪ね、宇垣に対する好感触を得ている。そして次のような手紙を書いた。

先には御下命により百武閣下に情報を持参種々御話を承り候処、此方面は殆んど御懸念を要せざる段之良況に有之様に被察申候。・・・・是非共今回は全日本の第一流之猛者を傘下に集められ、前人未到之強力猛勇之内閣を御準備被下度・・・(昭和15年1月6日)

更に陸軍大臣畑俊六を訪ね、協力を求めている。畑の兄はかつて宇垣が自分の後継者にと考えていた人物だけに、宇垣陣営では、宇垣内閣の陸相には畑を据えるつもりであったようだ。しかし畑は陸軍の反宇垣感情の強さを訴え、

自分とし(て)は心外に思うが何とも致し方なし。(昭和15年1月10日)

と言うのみであった。このとき陸軍の意中の人は近衛文麿であったが、武藤章の政治参謀であった矢次一夫だけは、杉山元を首班とし武藤を現役のまま書記官長とする軍部内閣を夢見て策動しており、武藤を困らせていた。結局このときは米内に大命が下った。香月は

さて今回も遂に御期待に遠かり残念此事に御座候。・・・・遠からさる裡に陸海軍政党等之間に三ツ巴の騒動を引起す事は必然かと愚考罷在候。此上て遂に遂に閣下の前に叩頭し来る日も決して遠からさる事と確信罷在候。・・・(昭和15年1月15日)

との手紙を送っている。また昭和16年11月21日には東條への大命降下の内情や開戦準備について相当詳しい情報を送っている。中々良い情報源を持っていたようだ。


<終戦工作>
香月は引き続き宇垣幕下として近衛らの終戦工作にも関わっている。細川日記にはちらほら彼の名前で出てくる。

車中公は「昨夜荒木、小畑、吉田等に会ったが、香月は駄目だと云っていた。酒井は頭が断然よいし、香月の上だ。而し酒井は柳川が亡くなったから、宇垣に行くだろうと皆見ていた」と。柳川中将は吉浜にて狭心症にて急逝された由。(昭和20年1月24日)

公というのは近衛のことである。酒井は酒井鎬次。『戦うクレマンソー内閣』を日本語訳したりと学究肌の軍人で、近衛らの信頼も厚かった。日本最初の機械化兵団独立混成第一旅団の初代旅団長であったが、そのとき関東軍参謀長であった東條英機と作戦を巡って諍いになった。柳川平助と親しかったのは間違いないが、荒木や小畑らとはそれほどでもなかったのか。話は恐らくは陸相候補の事だと思う。更に酒井の提出した内閣案について細川が富田健治と話し合っているときにも香月の名前は出てくる。

従来此戦争に従事したる軍部にては収拾の力なきを以て、是に代る軍部たる真崎・小畑、宇垣・香月、石原の三派の中の何れか、又は三者の連合を以て事に処せざるを得ず。然るに石原は天才なれど一面信じ難く、宇垣、香月は酒井氏が推薦するも、或は事に臨んで断乎実行するや否や、一点疑問を存す。又真崎は人物に於て信用なし。然らば狭量のそしりありと雖も小畑を陸相となし、香月、石原を夫々適所に起用しては如何。(昭和20年3月2日)

いつのまにか、宇垣陣営において”真崎に対する小畑”のような立場にまでなっていることが分かる。しかし近衛陣営はやはり小畑に対する評価が高い。そして細川の鑑識眼は中々面白い。

以上で香月については終わります。無名の軍人とはいえ探せば結構いろいろなエピソードがあるものですね。これからもうちはこういうニッチ産業で行きますw





<香月中将軍司令官更迭事情異聞>
矢次一夫は『昭和動乱私史』の中で香月についていくつかのエピソードを記している。
一、香月は天津に赴任する前宇垣を挨拶をしに訪ねた。そのとき宇垣は不拡大方針を強く説き、香月も同感と答えたが、後に「状勢貴意に副い兼ねるやも知れず、ご容赦を乞う」という電報が送られてきたという。これは宇垣の直話だそうだが、宇垣の日記には香月が訪ねてきた記述は無い。

二、これは当時軍務課長であった柴山兼四郎の直話だそうだが、柴山が北支に出張し、不拡大方針を堅持するよう香月に伝えたところ、貴様軍務課長の分際で統帥権干犯の言をなすは許せぬ。始末書を書けと怒られたという。柴山は、書けというなら書きますと言って始末書を書いた。香月は彼が書き終わるのを待ち、不拡大というなら何故三個師団動員したのかと一喝。これには柴山も一言も無く、すぐにやめるように電報を打ちますといって部屋を出ると、下から上がってきた池田純久が、柴山さん、ここから打ったら(和知ら強硬派参謀に)すぐに洩れて大騒ぎになりますよという。已む無く柴山は大連に飛び、そこから打ったが、これを受けた東京では、電信係の某少尉が握りつぶしてしまい、陸軍省には届かなかったという。握りつぶしたというのは、後年当人が矢次に手紙をくれたのでわかったとか。

そして更に矢次は次のように書いている。

ところで奇怪なことは、香月軍司令官が満鉄から機密費五万円を貰ったという秘話があり、これが中央に洩れて、香月は後に予備に編入されたというのだ。これはまことに驚くべきことで、この頃の五万円は、今の五、六千万円にあたるだろう。この話を私に秘語してくれたのは池田中佐である。私は事実としても、香月が五万円を満鉄から貰ったのは、恐らく事変の機密費に使ったもので、一人占めしたわけではあるまいと思っていたら、池田の後任となった堀毛一磨中佐によると、私宅新築の事実があるというから、呆れた話であり、軽率のそしりは免れ得まい。

池田というのは既述の池田純久のことである。家云々の話は、東條の豪邸新築のような例もあるため、軽々しい決め付けは良くないと思う。私としては裏付けの取れないこの話を鵜呑みにはできない。まあとにかくこうして香月の名は戦史上からも完全に消えるわけだが、物語はまだ続く。


<補足:中島今朝吾の考察>
中島は香月の更迭について次のような考察を巡らせている。

 香月が金銭に清廉なことは予は今尚之を信じておるが、然し彼は世間に疎いので世の中の複雑なる関係を余り単純に看過した処に其の失策があると見るの外無し。
 興中公司からの慰問金十万と聞き、さてはと考えさせられる。次に石原の言というのも又聞きにしたが、其者が香月は金に清い人だというた時石原曰く、否や中々そうではりませんよ、人は見かけにもよらぬものだからと云うたとのこと、是に於いて其程度まで読める処がある。

石原嫌いの中島は、香月が石原にはめられたと推理している。中島自身後に美術品を京都の偕行社に送ったとかの廉でやがて予備役に編入されるのだから皮肉なものだ。中島も決して私するつもりでやったわけではなかったが、不用意という以外に無い。もっともこの中島の件も、真犯人は別にいるとの説がある。


<余談:鈴木率道の更迭>
ついでなので、もう一人金銭絡みで更迭された有名軍人を挙げておく。第二航空軍司令官だった鈴木率道が突然更迭されたのは昭和18年5月であった。鈴木は石原を抑えて陸大を首席で卒業したような人物で、作戦畑一筋、偏狭な難しい人物だったが、航空軍司令官としての評価は高かった。彼の更迭事情に関して、荒木貞夫は次のように語っている。

太平洋戦争中航空機の物資が非常に不足したので、そういうものを集めろといわれ、周到な男だから計画的にたくさん集めた。そこで表向きはどうか知らないが、三井かどこかあの辺が、こんなこともやった、あんなこともやったと素っ破抜いたらしい。三井は自分の手でやれば儲かるが軍でやったからいじめたのだ。

荒木は鈴木について、下村定によく似ているが、頭が特殊であった。だから敵も多く、(小畑以外は)誰も使えないと評している。

以上三人に共通するのは、鼻っ柱が強く、自分で考えて行動するタイプで、メインストリームからはやや外れたところにいたところだろう。特に鈴木と時の首相東條英機の仲の悪さは語り草となっている。であるからして、私としてもどうしてもこれらの人事の裏に、きな臭いものを感じてしまう。はっきりいって、彼らがやった事くらいなら、それ以上にあくどいことをしていた輩は相当いると思う。



<第一軍司令官を更迭さる>
北支那方面軍参謀長岡部直三郎の日記には、腰の定まらない参謀本部と積極果敢に進出したがる隷下軍の間に挟まって苦心している様がよく出ている。特に第一軍と方面軍司令部の間はしっくりいっていなかった。(ここで北支那方面軍にチェックを入れ、日付を1937年の9月以降にして”GO”してみてください。戦闘序列が見れます)

第一軍は方面軍が第一軍司令官の権限を犯し、細部に干渉し過ぎると悪感を抱きあり(十一月八日)

第一軍は兵団使用について方面軍が口を出してくることを非常に嫌った。岡部はこれに対し、心得違いも甚だしい、困ったものだと嘆いている。そして、司令部に呼びつけて啓蒙しても良いのだが、香月軍司令官の性格上、容易に己の意思を翻さざるべく、自分との間で論争になって事態が余計に悪化する可能性があるので、暫く放置すると決定している。

第一軍は十二月上旬第百八師団を観城附近に進むべく、発令せりという。第一軍の事情はさることながら、確かに方面軍命令違反なり。(十一月二十五日)

これに関して岡部は悩んだ末、第一軍の新企図は、一時的前進にして、目的を達せば、原位置に復帰するものにして、必ずしも命令違反なりとやかましくいう必要なきものとの結論に達し、黙認することとした。

匪賊討伐のために第一軍から兵力を差し出すよう命令したところ、

第一軍は、折返し討伐用兵力の差出しに応ずる気配なし。・・・・花谷参謀が第一軍第一課に於いて感知せし処によれば、根源は軍司令官にあるが如し(二月十四日)

さすがにこれは黙認できない。しかし参謀長以下にはなるべく汚点をつけたくないとの配慮から、参謀長を呼びつけて謝罪をさせることにした。
しかし、

第一軍参謀長飯田少将と会談。約二時間半会談せるも飯田少将は、自己の非を認めず。(三月二十二日)

以下、長々と飯田祥二郎の主張とそれに対する岡部自身の反駁が綴られている。頑固に非を認めない飯田に手を焼いた岡部は、彼を方面軍司令官の寺内寿一大将の前に連れて行った。しかし飯田は寺内の前でも一向に態度を変えない。連れて行った岡部の方が、軍司令官の怒りが爆発するのを恐れて、寺内に退出を願う始末であった。(ちなみに飯田は長州出身の飯田俊助中将の息で寺内とは同郷になる)

そうこうしているうちに

香月中将高血圧のため眼底充血の結果、神経高ぶるを以て更迭を申出であり。(五月二十一日)

前線を視察に行った寺内に対し、香月より上記の申し出があった。渡りに船ということで、五月三十日を以て香月は参謀本部附となり、後任は梅津美治郎となった。

しかし彼の更迭事情には別の話もある。




香月清司中将について語ってみる。香月中将の名前が歴史上大きくクローズアップされるのは、次の二回だと思う。

<宇垣内閣の陸相候補に>
昭和12年1月、宇垣一成に組閣の大命が下ると、陸軍の一部幕僚はこれに対し猛烈な反対運動を展開した。彼らに押された時の陸軍大臣寺内寿一は、自ら宇垣の元に赴き、
「陸軍三長官協議の結果、第一候補杉山元、第二候補中村孝太郎、第三候補香月清司にそれぞれ打診しましたが、いずれにも断られました。陸軍としてはもう他に推挙すべき人がいません」
と語った。ちなみに杉山は三長官の一である教育総監、中村は杉山の下の教育総監部本部長、香月は近衛師団長であった。宇垣は旧部下の朝鮮軍司令官小磯国昭に電話をするなど、なおも抵抗を続けたが、宮中のバックアップも得られず、1月29日、涙を飲んで大命を拝辞した。このとき宇垣の腹心の林弥三吉中将が、陸軍を激しく攻撃する声明文を発表している。
さて香月であるが、かりそめとはいえ、陸相候補に名前が挙がるのは、凡百の中将ではなかった証左だろう。

<支那駐屯軍司令官に>
昭和12年の7月に北平でおこった日支両軍の衝突は、意外に難しい事態となった。渦中の支那駐屯軍司令官田代皖一郎は7月16日に死去(脳溢血)し、後任に当時教総本部長であった香月が任ぜられた。東京で不拡大方針を与えられた彼が、途中朝鮮の小磯などから強硬論を吹き込まれ、天津に着いたときには一撃論者になっていたというのは、”定説”となっている。当時駐屯軍司令部で、参謀長橋本群と二人だけの不拡大派であった池田純久は、香月をメッキの不拡大主義者と書き、前任の田代が生きていれば、事変はあんなことにはならなかったのにと悔やんでいる。7月26日の広安門事件の後、香月と池田の間で次のような会話が交わされた。

「池田君まだ決心はつかぬか」
「司令官何の決心ですか、不拡大方針は既定の通りですが」
「いや拡大に対する君の決心さ。これだけ軍隊が恥辱を受ければ、世話はないよ。ここらで一ぺん支那軍を叩いて反省を促そう」
「軍司令官閣下、私は決心がつきかねます」
「いいよ。僕が責任を負う。やろう。今迄よく我慢した。さぞ辛かったろう。これからしっかりやってくれ」

こうして北支戡定作戦は発動した。この後北支那方面軍が編成されると、支那駐屯軍は第一軍に改組され、香月はそのまま第一軍司令官となった。

通史的な本に載っている話としては大体こんなところではないだろうか。しかし私的には、ここから先の話の方が面白かったりする。

古本祭りの戦利品より

  

本のデパート大盛堂書店社長で、『血風ペリリュー島』や『サクラサクラ』などの戦記著者で知られる舩坂弘氏ですが、これは氏自身の体験を綴ったものです。

歩兵第59聯隊第1大隊(大隊長後藤丑雄少佐)の擲弾筒分隊長舩坂弘軍曹は、ペリリュー島の南西にあるアンガウル島で、負傷昏倒し俘虜となった。文章で書くとたった一行だが、そこに到るまでの舩坂軍曹の奮戦はすさまじい。ロッキーといえば私にとっては”4”なんだが、この島での軍曹はむしろ”ランボー怒りのアフガン”といった方がよさそうだ。詳細は本書に譲るが、これが最後とばかりに、前哨基地を突破して、敵司令部の天幕群に6個の手榴弾を持って突入したときの軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲貫銃創を負っていた。突入してきたこの異様な風体の日本人兵士に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったという。軍曹は首を撃たれて昏倒した。駆けつけた米軍医は、拳銃と手榴弾を握ったままの指を一本一本解きほぐしながら、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と周りの兵士に語りかけた。勇敢な兵士の評判は島の米軍に広がり、戦後著者は、当時アンガウルにいたマサチューセッツ大教授のテイラー博士から「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体のプライドとして残ることです」という手紙を貰ったという。

米軍の治療で軍曹は命を取り留めた。「殺せ殺せ」とわめく軍曹に、皆不思議そうではあったが親切だった。歩けるようになった軍曹は、ペリリュー島に送られた。そこに居並ぶ米機を見た軍曹は、「よしいつかはあの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓った。収容3日目の夜、歩哨を殺して銃を奪い、それで「ひとあばれしてやる」と決意した軍曹は、夜陰にまぎれて歩哨の背後に忍び寄った。あと5メートルというところで、背後から「ヘーイッ!」といきなりタックルをくらった。軍曹も必死に抵抗したが、後ろ手に縛り上げられてその場から連れ、収容所の柱い縛り付けられた。大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵っている。これは銃殺される、そう思った軍曹は目を瞑った。しかし聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語であった。「神サマニ委セナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコトモ神様ノ手ニユダネラレテイルノデス」そういって男は軍曹をそのままにして、テントを出て行った。

翌日許されて縄を解かれた軍曹は、懲りずに飛行場炎上計画を練り始めた。そのために、炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れた。マッチも溜まったある日、以前自分を捕まえた伍長がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えた。歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。今晩こそがチャンスと決意した軍曹は、その夜秘かにテントを出ると、匍匐前進で第一の有刺鉄線を越えた。喜んで頭を上げると、そこににゅうっと大男が立っていた。あれほど不在を確認したはずなのに!軍曹は拳銃を突きつけられ、テントに戻された。「殺せ」という軍曹に、大男の伍長は怒りに顔を紅潮させこう言った。「お前が歩哨に私の日程をたずねたことが、出先の私に連絡された。お前が何か計画しているとしたら、たぶん今夜あたりであろうと考えていたから、私は仕事の途中だったがお前のために切り上げて帰ってきた」そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けた。「君も私が帰ってこなかったら、即座に射殺されたことだろう。私はそれが心配で大急ぎで帰ってきたが、無事でよかった」さらに軍曹の無謀な行動を戒め、「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説く。「どうしても君は私の言っていることがわからないか」といわれて「わからない」と意地を張っていた軍曹も、その人間味あふれる言葉が心にしみいってくるのを止めることは出来なかった。

軍曹たち捕虜がハワイへ送られるときがやってきた。一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしていたとき、彼の伍長がやってきて言った。「グンソー、死ぬのではないぞ!必ず生きて日本に帰るのだよ!私はグンソーが無事に日本に帰れるように祈っています」そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡した。それには彼の名前が記されていた。
「F.V.CRENSHAW」
しかし軍曹はチラッと見ただけでポケットにしまった。そして次の収容所でMPに取り上げられてしまった。戦後日本に帰った軍曹は、改めてあの時CRENSHAW伍長が示してくれた態度を思い返し、何とか彼に連絡を取りたいと思った。そしてアメリカの方々に手紙を出し始めた。しかし数年の時を経て、彼は尋ね人の名前を"G"RENSHAWと思い違いして記憶していた。そのため捜索は難航した。しかし船坂氏は諦めずに手紙を出し続けた。昭和40年2月、110通目の手紙がネイヴィ・タイムに掲載された。翌41年4月7日、氏の自宅にアメリカ大使館から電話が掛かってきた。そして日本の事務官と名乗る男がこう聞いてきた。「まことに無躾なおたずねですが、船坂さんは戦時中、どちらの方面の島におられましたか?」


二冊は内容的には被ってるところもあるが、二人の戦後の交友については『聖書と刀』の方が詳しい。ただ『英霊の絶叫』はNF文庫から再販されているので、手に入れ易い。

ちなみに『英霊の絶叫』のほうには載っていない話だが、ペリリューに来た二日目に、舩坂軍曹はこっそり抜け出して、日本兵の遺体から集めた小銃弾使って、米軍の火薬庫爆破に成功しているそうだ。クレンショー氏にはとぼけているが。無茶すぎるぜグンソー!以下本文より。

「ペリリュー収容所時代のことで、今以て理解できないことが、二つありマス・・・」
 一つは、ペリリュー島における日本軍最後の拠点大山が占領される直前、突然、米軍の火薬庫が大爆発を起こした。次々に何棟かへ爆発が移った。犯人が判明しないまま迷宮入りになったが、犯人は私であった。アンガウル島からペリリュー島に送られて二晩目、重傷と思われて監視が甘かったので、私は柵を抜け出すことができた。千メートルも潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから小銃弾を六七発集め、火薬を抜いた。それを導火線にしてマッチで点火したのだ。マッチはア島からペ島へ送られる船中と、収容所までのジープの中で一本ずつ手に入れた。
「犯人はグンソーではないだろうか?」
 彼は、首をかしげて、私の顔をのぞきこんで指摘した。私はシラを切って、
「私ではありませんよ・・・金網の中に閉じこめられていて、脱走しようとすれば、必ず貴男に捕まえられたではありませんか・・・・」



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