近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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先の小園安名大佐のエントリで名前だけ触れた佐藤裕雄大佐について、書く気があるうちに書いておくことにする。やはり佐藤大佐のエピソードで有名なのは終戦時の話だろう(世間一般はそもそもこの人の存在自体知らないという突っ込みはこの際断固無視する)。当時軍事課高級課員であった高山信武は『参謀本部作戦課』の中で次のように書いている。

” 大本営中堅幕僚の間では、以上のような継戦思想が圧倒的多数を占めたが、一部には慎重論者、和平受諾論者もないではなかった。
 「継戦の気持はわからないではないが、いったい世界の列強を相手にし、しかも原爆をも使用された現在、戦局の見通しをどう考えるのだ。徒らに戦禍を拡大し、再起の力を失うだけではないか。本土上陸に際し、敵に一大打撃を与える事があるいは可能かもしれないが、米英軍のみならず、ソ連も北部日本に侵攻してくるであろう。遅れれば遅れる程、態勢はわれにとって、不利になるであろうことは眼にみえている。まして、陛下のご意向は明白である。陛下のご聖断が下った以上、大御心に従うのが、われわれ軍人の本分ではないか」
 「太平洋の孤島や、大陸の奥地で玉砕したわが陸海軍の各部隊、および一部民間人の犠牲者に対しては、まことに同情に堪えない。しかし、敵は不法にも原爆を行使して、わが本土に対し無差別爆撃を加えている。敵が本土上陸を企図するならば、恐らくは徹底した砲爆撃により、わが交通、通信等の機能を完全に破壊したうえ、陸兵を揚陸せしめるであろう。これ以上戦争を続行することは、徒らに禍害を累加するのみだ。行ぎがかりに捉われてはならぬ。南方あるいは大陸各地の戦死者の霊も、恐らく妻子親族の住む日本本土を、これ以上破壊されることを好まないであろう。今こそ冷静に和平を考えるべきだ。それこそ大本営の最高の責務ではないか
 右のような、冷静な和平論は、激昂した大多数の継戦論の前には極めて微力であり、卑怯者のそしりをうけるに過ぎなかった。”

上記意見を述べた人物こそが、当時戦備課長の要職にあった佐藤大佐であった。

佐藤裕雄は仙台幼年学校から陸士(35期)へ進み、野砲兵科トップとして恩賜の銀時計を戴いた。その後砲工学校高等科も優等で卒業し、員外学生として東京帝大で電気学を修めた。陸大は出ていないが、それを補って余りある学歴である。中央幼年学校時代の次のようなエピソードが残っている。ある日曜日の外出時に雨が降った。佐藤は同じ山形の二人とともに傘を差して帰って、営倉に入れられたという(将校生徒は傘などさしてはいけないのだ!)。一体どうして傘など差したのかというと、日曜下宿に来合わせていた同郷の先輩で陸大教官をしていた石原とかいう人が、「雨が降ったら傘を差して帰れ」とけしかけたからだそうだ。

そんな彼も若いころは革新運動に関与していた。立場的には所謂清軍派(まあ橋欣一派)に分類され、小桜会の名簿にも名前がある。十月事件の後、どちらが情報を漏らしたかで、橋本、大川一派と西田税が対立したことがあった。結局橋本と西田の直接対決で白黒つけることになったが、約束の日、西田は偕行社に現れなかった。そこで末松太平中尉が呼びに行かされたが、そのとき一緒に西田宅まで付いてきたのが佐藤と天野勇中尉であった。佐藤にとって西田は中幼時代の指導生徒であった。そういう関係からも佐藤はくどいほど出席を勧めたが、結局西田は腰を上げなかった。その後はそれほど目立った動きもないようなので、だんだんに技術軍人としての本分に立ち返ったと見るべきだろうか。

大東亜戦争では、南方軍参謀としてパレンバン油田の占領に活躍した。そして昭和18年3月、物動を担当する陸軍省戦備課長に補された。部下課員には塚本清彦少佐もいた。細川護貞の昭和19年6月10日の日記に次の記述がある。

”要するに塚本少佐は佐藤戦備課長等と共に、八月に決戦あることを予期し準備中なるを以て、今東条が変わることは好もしからず、従って東条はそのままとし乍ら、東条の自由にならぬ内閣を作らん意図なりと。”

要するにこのころの佐藤大佐、塚本少佐の考えは一撃和平論であろう。戦争末期には全軍に蔓延したこの考えも、この頃ではまだ少数派であった。戦備課長として、日本の真の国力を把握していた佐藤ならではであろう。同じく細川日記6月18日。

”二時、佐藤大佐、松田氏と共に来る。話は極めて婉曲なりしも、先づ塚本少佐がサイパンへ転任を命ぜられたること(東条内閣打倒を計画せりとの疑いを以て、懲罰の意味を以てサイパンに転任せしめられたりと高村氏談)・・・・”

東条内閣をそのままにしておくことを望んでいた塚本が、倒閣運動をやったという疑惑で転任させられた。この塚本少佐のサイパン転任は、東条の”陰湿な人事”の代表例として語られることが多い。少佐とかつ子夫人との間の車問答も有名。塚本はパラオから軍司令官小畑英良と共に海軍機でグアムに入り、そこで玉砕した。しかし彼が戦死したときには既に東京の東条は桂冠していた。おかげを持ってか?佐藤は戦備課長の職に留まった。もちろん彼の才能が余人に変え難いというのもあったが。戦争末期、近衛が特使としてソ連に行くという話が出たとき、陸軍側の随員として同期の松谷誠と共に名前が挙がっていることからみて、相変わらず終戦派からは一定の信頼を得ていたようだ。松谷ほどはっきりと終戦工作にコミットしていたわけではないと思うが(松谷についてはまた別エントリで書くつもり)。

そして終戦。冒頭の話に繋がるわけだが、継戦派であり、One of The クーデター首謀者sの井田(岩田)正孝は、『雄誥』で次のように書いている。8月12日のことである。
” 十三・〇〇、荒尾課長、竹下、稲葉両中佐の三名は、若松陸軍次官に会って、兵力使用計画の大綱を説明し、次官の承認を要請した。人事局長、兵務局長も呼び出されて説明続行中に、後から入室してきた佐藤戦備課長が計画に反対を表明したため、次官は一応賛否を保留し、俄かに白々しい雰囲気を呈したが、折しも大臣が戻られたので、次官は今までの経過を報告するため大臣室に入った。
 その頃、予め竹下中佐から連絡を受けた面々が逐次次官室に集合し来り、直接大臣に意見具申する方がよいと衆議一決、全員大臣室に入ったので、改めて竹下中佐から計画大綱を説明して、大臣決裁をお願ひすることになった。しかし事は極めて重大であるから、閣議に出席する直前の大臣としては、十分検討する時間もなく、決裁を保留せざるを得なかった。しかし実行部隊の東部軍と近衛師団に対して予告を与へることについては、準備に時間を要するので、最終的に大臣の承認を取りつけた。大臣は次官に所要の指示を与へ終ると、急遽閣議の席へと向はれた。かくて、東部軍と近衛師団に対して、正式の極秘準備命令が下達されたのである。
 この席に居合はせた者は、次官、人事局長、兵務局長、軍事課長、戦備課長、軍務課の山田大佐、竹下、椎崎両中佐、畑中少佐、軍事課の稲葉、井田、島貫各中佐、飯尾少佐、参本二課の原中佐、次官秘書官広瀬中佐等であったが、畑中少佐が突如大声で戦備課長を指差しながら、「軍内部にパドリオ通謀者が居る」と叫び、これを受けて竹下中佐が「そのやうな者には即刻人事的措置を加へて頂きたい」と発言した。これに対して大臣は、非常の折柄、相互不信は禁物であるとたしなめられた。”

ところがである。この後梅津参謀総長の反対で兵力使用の前提条件が崩れた。意気消沈する竹下中佐の下へ、黒崎貞明と共にやってきた佐藤は、一度や二度の失敗で諦めるのは早すぎると激励したという。14日の午前8時のことであった。どういうつもりでこういうことを言ったのか、その真意は分からないが、それを傍らで聞いていた畑中健二は日付変わった深夜、近衛師団長森赳将軍を殺害している。その後阿南陸相が自決し、それを見届けた井田は陸軍省に戻ってこれまでの顛末を若松次官以下に報告した。そのときも佐藤は、井田の手を握り「井田君、俺を誘ってくれたら、一緒に行ったのに、なぜ誘ってくれなかったのか」と言ったという。行くというのは陸相官邸なのか近衛師団なのか分からないが、井田はパドリオ扱いした人からそのようなことを言われ、複雑な忘れがたい印象を受けたという。

佐藤が少数の終戦派の筆頭なら、荒尾興功こそがもう一方の旗頭であろう。荒尾の心底というのも分かりにくく、それ自体昭和史の謎といえるが、二人は仙台幼年学校以来の同期であった。最後非常に長くなるが荒尾の手記を引用して、この散漫なるエントリの締めにしたいと思う。

「佐藤と私は、仙幼校以来の親友であり、彼は東大を、私は陸大を卒業したが、外国(ソ連・ポーランド)においても、南方総軍においても、はたまた、陸軍省においても、勤務を共にし、憂国の情においては、共通する感情がありました。
 互に相許し、生涯信頼を裏切ったことのない仲です。私は昭和十七年四月、南方総軍の作戦主任参謀から、大本営船舶課長に赴任して参りました。その職責上、先ず『主として船舶輸送の見地より戦力の推移』を観察するの必要を感じ、船舶課高級参謀三吉義隆(仙幼23期)、船舶課参謀嬉野通軌、海軍軍令部作戦課参謀一名、及び当時召集中の慶応義塾大学武村忠雄助教授の合同作業で、同年初夏の候一応の研究を終りました。右研究の結論として『船舶輸送を以て作戦を行いつつ、近代戦に必要なる戦略物資を輸送し得る限界は、昭和十九年晩秋の候』との判断に到達した次第です。私は嬉野参謀を伴い、時の参謀総長杉山元帥に『目下の戦況は、花々しく見えますが、昭和十九年末頃までに、光栄ある戦争の終結を求めて頂き度い』旨意見を開陳しました。当時の戦争指導班にも、強くこれを要望しましたが、昭和十七年頃では私としては船舶の建造、護衛の強化、自衛装備(電波兵器、音波兵器を含む)の強化、木造船の徴用および運用等に力を入れる外なかったのです。船舶関係のことは、爾来各方面の支持と協カとを得ましたが、・・・・・
 佐藤は、南方総軍の第三課参謀から昭和十八年三月陸軍省戦備課長に抜擢され、陸軍の大台所を預る重責に任じました。私は昭和二十年四月、図らずも、陸軍省軍事課長に任ぜられ、佐藤と共に、阿南大臣を補佐する立揚となったわけです。日本の戦争遂行に関する物的戦力の認識は、阿南陸軍大臣も、佐藤も、私も、同一であったと確信します。かくして昭和二十年初夏の頃までは、次期本土決戦に国の総力を結集して余す所なく、力を振り絞って、敵に一大打撃を与えて、光栄ある戦争終結を求める為、私と佐藤は、陸軍次官を長として戦力の増強、就中航空装備の充実に、真剣な努力を重ねたものでした。このことは阿南大臣のお考にも一致しておりました。ソ連を通ずる和平工作の件は、箱根に疎開しているソ連大使館への出入り情報を憲兵から承知し、密に、之を推察していましたが・・・・・。戦況非なるその頃は、和平は禁句であり、またソ連を通ずる和平工作も、閣議外では、極秘であり陸軍次官にすら漏らされていませんでした。
 六月、私は大臣に随行して、長野、新潟地区を視察した際、大臣は『ソ連は信用出来るのか』の切り出しでお話があった。私は『ソ連の近世の外交は、力の背景が前提となっている。彼は、今、日本が熟柿となる時機を待っているのでなかろうか。仮令日ソ不可侵条約が有効期間中でも、連合軍の日本上陸の進発の時機か、上陸成功の報に接せば、ソ連の満州侵略は必至である。ベルリン進撃の現況から察すると、早まることはあっても遅れることは無いと思う』と所懐を述べて、ソ連との外交を手掛けられた松岡(前)外務大臣との会談をお奨めした。この視察の直後、松岡さんの秘書と相計って、陸軍大臣と松岡さんの市ヶ谷会談を実現した次第です。
 阿南大臣は、政治家として、何とか終戦に持って行かねばならぬと考えておられたと思う。然し大臣就任後、終始烈々たる気味で、戦機を捕え、敵に一大打撃を与えて、名誉ある講和、少くとも国体を護持せんとする強い信念であったことは「阿南伝」にも記載せられている。これは多くの人々が認めている阿南大臣の心情である。この大臣を補佐する佐藤課長と、私との立場を、世上俗に、和平派と、抗戦派と称するものがある。八月十日午前、阿南大臣が陸軍省、参謀本部の幕僚たちを集めて訓示した。この後、陸軍次官の前で、興奮して議論する若い幕僚に対し、佐藤が『和平のことも冷静に考えねばならん』と諭したことが、簡単に和平派と目されたのではあるまいか。八月十三日夜、佐藤は私の室に来て『お上のポツダム宣言受諾に関する御決意は、固く変わらない旨の確な情報』を伝えてきた。
 その頃和平派と抗戦派とか称し、互いに殺気立っていた。和平を選ぶも、抗戦を説くのも、皆、国を思う所以であり、共に自己の生命を賭けていたからである。佐藤は、大臣や私が継戦を主張するものは、私心や、面子でなく、大命を奉じて、国家百年の運命を開かんとする考えくらい、百も承知していた。従ってこの避け得ざる『最終決定は上御一人にある』ことは、両人の間では、生死一如の如き強い共通の信頼感があったわけで、厳しく且つ誤解、風説の飛びかう中で、俗称和平派の大物課長が、抗戦派の若手の主脳と、何のためらいも、何のこだわりもなく話合えた次第である。結論的に申せば、事態の認識は、阿南大臣も、佐藤も、私も同じであった。
 阿南大臣は、国体護持のため、大命を奉じて本土決戦に、日本の運命を開かんとし、死中に活を求むる所以と信じておられた。若し八月十二日の連合国の回答が、国体護持を認めたならば、事態は、和平に一変したであろう。然し八月十四日の御前会議で『国体の護持に確信あり』との御言葉が、最終決定を告げたものであります。
 尚佐藤は、終戦後の軽佻浮薄の世情に対し、ポツダム宣言受諾の責任もありとし、少しでもこれを救わんものと、昭和二十三年の終戦記念日に、カトリック教に入門し、物心両面に亘り、多大の奉仕を傾けました。昭和四十三年、ローマ法王庁より、大聖グレゴリオ勲章を贈られ、また彼の葬儀の際、彼の力で入門し、信仰の世界に入られた多くの人々が参会せられました」(『山紫に水清き 仙台陸軍幼年学校史』)


人物註
塚本清彦:43期。戦死して中佐進級。
山田成利:38期。兵備課長(終戦時)。
竹下正彦:42期。軍務課内務班長(同上)。父は竹下平作中将。姉は阿南夫人。戦後自衛隊に入り陸将。
井田正孝:45期。軍務局課員(同上)。男爵井田磐楠の養嗣子。戦後は生家の岩田に復姓。電通映画社常務。著書あり。
椎崎二郎:45期。軍務局課員(同上)。畑中と共に自決。
原四郎:44期。大本営参謀(同上)。戦後自衛隊に入り空将補。著書あり。
稲葉正夫:42期。軍事課予算班長(同上)。戦後防衛庁戦史編纂官。編著書あり。
島貫重節:45期。軍事課編成班長(同上)。戦後自衛隊に入り陸将。著書あり。三人の兄と弟も陸軍軍人。
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国会議事録検索システムという便利なものがある。
これでキーワードを”小園”として検索してみた。⇒結果
小園安名大佐遺族への軍人恩給支給までの道のりが読める。
併せて小野田少尉の話も出ている。
サーバも軽くて使いやすいね。



ルーズベルトからの親電握りつぶしに関して、新史料発見と産経が報じている。記事はこちらにある。しかし正直どこら辺が新発見なのは分かりかねる。この話自体は昔から言われてたはずだが。まあこういう記事が出るということは、これを元にした本が出るんだろう。以上は余談。



これらも古本まつりの戦利品

『あゝ厚木航空隊』相良俊輔
『夏の空』相良俊輔
いずれも終戦直後の厚木航空隊の叛乱を描いた作品。内容もかぶっている部分が多いが、敢えて言えば前者は司令小園安名大佐の占める割合が大きいが、後者は小園が倒れた後も志を変えずに蹶起したガンルーム士官が占める割合が大きい。

台南空といえば、笹井醇一、坂井三郎、西澤広義、太田敏夫らを擁した日本最強部隊であるが、小園はその台南空の副長兼飛行長として大東亜戦争を迎えた。その後台南空が内地に帰還し二五一空となると、小園はその司令に補された。彼は早速愛弟子の遠藤幸男を呼び寄せ、また斜銃を案出した。試験的に斜銃が取り付けられた陸偵は、遠藤中尉、工藤重敏上飛曹らの操縦によって対B-17に威力を発揮し、制式化されて夜間戦闘機月光となった。後に遠藤はこの月光で、B-29撃墜王と呼ばれるようになる。しかし中央部は小園を、兵術思想を乱す輩として嫌った。横鎮附に左遷されラバウルから内地に帰還した小園の方でも、このようなデレスケデンな統帥では戦争に勝てないと、粛軍を考えていた。しかし既に理解者の山本五十六は無く、尊敬する小林省三郎中将もいない。そこで同郷の先輩である有馬正文少将に、自分を航空本部に入れてくれるように頼んだ。有馬も色々奔走したが、航本側の小園アレルギーが強く、彼の航本入りは失敗に終わった。その代わりに、首都防衛に任じる三〇二空司令に補された。ラバウルで負傷し、内地で療養していた遠藤も、腹に弾丸を入れたまま、厚木に馳せ参じた。赤松貞明もやって来た。赤松は雷電でP-51を撃墜したり、単機零戦で75機のP-51に殴りこみをかけて、1機を撃墜するなど様々な逸話を持つ剛勇であった。

ご多分にもれず?小園は古賀清志、中村義雄といった元革新将校と繋がりがあった。古賀たちのラインから大岸頼好、菅波三郎といった陸軍の元将校らも小園の元に顔を出していた。また戦備課長の佐藤裕雄大佐なども訪ねて来ていたらしい。ポツダム宣言の受諾を小園に知らせてきたのも、大岸頼好と明石寛二少佐であった。それを聞いた小園は早速横鎮司令長官戸塚道太郎中将のところに押しかけ徹底抗戦を説いたが、全く相手にされない。昨日までお前はおれの右腕だなど言っていたのに、その手のひらを返した態度に激怒した小園は、「今後、独自で行動します」と言い放ち、さっさと司令長官室を出た。第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将も、厚木までやってきて説得に当たったが、小園の意思を挫くことはできなかった。このとき小園が「この詔勅は陛下のお悩みの詔勅である」といったのを、寺岡が誤って、小園は陛下は御脳が悪いと言っていると報告したため、報告を受けた米内海相は激怒したという。頑強な小園に対し、戸塚は兵力の使用を主張したが、これは寺岡の反対にあった。

8月18日、小園はマラリヤを発症して倒れる。乗り込んできた寺岡中将らの協議によって21日、無理やり麻酔注射を打たれ軍病院に運び去られた。このとき小園はマラリヤ熱から発狂していたとも、いや発狂説は少しでも彼の罪を軽くするためのカムフラージュだとも言われている。司令が倒れ、副長、飛行長も抗戦意思を捨てた。しかし岩戸中尉以下のガンルーム士官たちは、初志を曲げようとはしなかった。副長らの必死の制止を振り切り、21機の零戦、6機の彗星、銀河、九九艦爆、彩雲、零式練習機各1機が厚木を飛び立った。彼らは陸軍の児玉基地、狭山基地に着陸したが、改田中尉の機は東京湾に突っ込んで自爆した。彼らの脱出を止められなかった山田飛行長は、妻とともに毒を呷って死んだ。山田は小園からの信頼も厚く、その後継者と目されていた人物であった。夫妻の飲んだ毒薬は、戸塚中将から、小園を殺すようにと渡されたものであった。

陸軍航空隊の方も、児玉基地の宇木少佐などは好意的に岩戸中尉らを迎えてくれたが、大勢は決していた。帰順を決めた岩戸中尉は、説得に来た三航艦の高橋参謀長に対し、自分の命と引き換えに60名の同志の恩赦を求めた。高橋大佐は、簡単な取調べがあるだけだと請合ったが、結局全員が東京警備隊と巣鴨刑務所に軟禁された。伊藤中尉ら狭山組は大津刑務所へ移送されたが、ここには小園司令も収監されていた。今月1日に逝去され、27日に偲ぶ会が催される元武蔵野市長の後藤喜八郎氏は、狭山組の一人で、自爆した改田中尉の親友であった。岩戸中尉は8年、他の16名は皆5年の禁固刑、狭山の伊藤中尉以下8名は皆4年、小園司令は無期禁固の判決であった。こうして厚木空の叛乱は収束したが、彼らの戦いはこれで終わりではなかった。

  



『北千島占守島五十年』池田誠編
占守島では1945年8月18日から20日にかけて我が軍とソ連軍の間に激しい戦闘があった。ソ連側の調査によれば、日本軍全体の死傷者は1018名、ソ連軍全体の死傷者は1567名であるという。編者は戦車第11聯隊長池田末男大佐の遺児。戦車11聯隊でも聯隊長以下96名が戦死した。この本は1995年に行われた占守島への慰霊の旅をまとめたもの。
ところで占守島といえば、去年ドキュメンタリー番組が放送され、当ブログでも紹介した。しかし池田氏の文章を読むと、氏ら遺族の一部の人々は、あの番組に出ていた武蔵氏ら戦友会の人々に対し、相当な不信感を抱いているようだ。氏も書いておられるとおり、遺族と(生き残った)戦友の関係というのは元よりセンシティブだ。しかしこの場合はもうちょっと色々あるようだ。ただしこの文章が書かれてから10年がたち、現在の彼等の関係がどうなっているかは窺い知ることが出来ない。池田氏が、本当に占守島にいたのかとまで疑っている武蔵氏も、相変わらず慰霊そのものは熱心に行っているようだし、他人があまり詮索することでもあるまいとは思う。ただ一つだけ。池田氏は、武蔵氏の慰霊文を読むときの格好や仕草を、オウム真理教とまで書いている。本を見る限り、武蔵氏の格好はこのときも去年も一緒だと思う。私もテレビを見て、一種独特なものを感じたが、オウムは言いすぎではないかと。いずれにせよ、北で起こった数々の悲劇が、南の悲劇より軽んじられて良い筈はない。
『終戦秘録 九州8月15日』上野文雄 白川書院
『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』小林弘忠 毎日新聞社

これも古本まつりで買った。『九州8月15日』は、菊水作戦から終戦後の復員あたりまでの九州を舞台にしたドキュメンタリー。著者は西日本新聞の記者。
九州では昭和20年、常軌を逸した事件が次々起こった。まずは衆議院議員吉田敬太郎が不敬罪などで逮捕された。新聞記者を相手に軍批判をやったときに、「皇族を担ぎ出そうという動きがあるが、高松宮様を除いてはつまらん方ばかりですな」とやったのがまずかったようだ。裁判は5分で終わり、懲役3年が宣告された。しかしこれはまだ序の口であった。

次に起こったのが九大の生体解剖事件、通称相川事件である。言いだしっぺは某軍医と方面軍航空参謀の佐藤吉直大佐。某軍医が九大のI第一外科部長のところに話を持ち込み、5月12日、Iの執刀で生体解剖が行われた。某が術後に肝臓を持ち出したため、戦後この事件は人肉食の嫌疑までかけられたが、結局その点は無罪となっている。持ち出した某は、空襲のときに負った怪我が原因で終戦前に病死した。

第三の事件が6月20日の捕虜殺害事件である。前日の19日に福岡は爆撃を受けた。その報復として8名の米軍捕虜が斬殺された。法務部長の伊藤章信少将、佐藤参謀、和光勇精法務大尉などが立会い、数名の尉官が腕を振るった。前日に母を空襲で殺されたT主計大尉は志願して3名を斬った。

第四の事件は8月10日の油山での捕虜殺害事件、通称油山事件である。このときも方面軍参謀副長友森清晴大佐、射手園少佐らの見守る中で8名が殺害された。今回も斬殺ではあったが、途中で空手による処刑が試された。勿論彼等は竜造寺徹心でも愚地独歩でもないので、空手では絶命させることが出来ず、結局斬っている。が、このことがより一層、事件に陰惨なイメージを与えることとなった。

次の、そして最後の捕虜殺害は8月15日である。終戦の玉音放送を受けて、方面軍司令部では残った捕虜の扱いが議論になった。友森大佐などは、自分はあまりこれまでの事件に関係が無いという思いがあったのか「どうせ隠したって判るよ」という立場であったが、参謀副長福島久作少将、佐藤大佐、情報参謀薬丸勝哉中佐、伊藤少将、和光大尉らは隠蔽を主張。結局残った14,5名の捕虜を油山に連れ出し、殺害した。このときは弓が実験的に使われたが、中らなかったらしい。また、佐藤大佐は処刑現場に報道部勤務の女を連れてきていた。

終戦を受けた方面軍司令部では、着任日の浅い安倍邦夫作戦参謀が徹底抗戦を叫んでいた。また報道部長の町田敬二大佐も、軍司令官横山勇を総理に抱く九州政府構想を持って動いていた。町田は報道部長であるため、彼の周りには火野葦平らもくっついていたが、結局横山中将が乗ってこなかったため、何事も起こらなかった。町田は後に自伝を書いているので、この話はそちらに譲る。

それでも収まらない若い召集の将校たちがいた。彼等が頼みにしたのが、菊池部隊(第212師団)の桜井徳太郎であった。桜井は数少ない少将での師団長で、支那やビルマで鳴らした猛将であった。しかし彼は終戦直後に東京に飛び、自らの目で詔勅を確認して、既に継戦意欲を失っていた。周りの人々の必死の説得で若い人々も解散したが、リーダー格の二人だけは、そっと仲間から離れ、油山で自決した。このときは立たなかった桜井は、16年後に奇妙なクーデーターに関与することとなる。

戦後、上記の捕虜殺害事件が明るみに出て、軍司令官以下が逮捕された。横山中将は、当初は自らの命令で軍律会議抜きでの処刑をやらせたと述べていたが、再審では、「自分は命令していない。伊藤と佐藤が決めたと思う」と証言を翻した。大岡昇平は、岡田資の伝記『ながい旅』の中で、この横山の態度を引き合いに出している。横山も支那の第11軍司令官時代は非常に評判の良い将軍だったのだが。一審で9名の絞首刑判決が出たが、幸いなことに後にいずれも減刑された。しかし横山中将は獄中で病死した。他に生体解剖のI医師が自決している。ちなみに和光大尉は上海でのドゥーリットル隊のパイロット処刑も主導している。この事件の裁判では、軍司令官であった沢田茂が、責任は総て自分にあるという断固たる態度をとった。裁判中、通訳をしていた朝鮮人が沢田中将の傍に寄ってきて、「そのような証言は、東洋人には理解できるが、白人に対しては有害無益であるから取り消しなさい」と忠告したが、沢田は「その必要はない」といって聞かなかった。しかし判決は全体的に軽く、1人の刑死者も出さなかった。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/bcaircrew.html


『逃亡』は、油山事件で命令により捕虜を斬ったある見習士官の逃亡の記録。東京帝大を卒業した病院長の息子として生まれたSは、鹿児島高商を卒業した後入隊し、久留米の予備士官学校、中野学校を経て、西部軍司令部附となる。8月10日、命令によって、油山で捕虜1名を殺害。戦後、家族に別れを告げ、逃亡。多治見市の大きな陶器製造所の門を叩く。焼き物経験の無い男の採用に、社長は当初乗り気では無かったが、丁度雑用係が居なかったことから、雑役夫として雇われる。松田という偽名を使い、真面目にこつこつ働く男は、段々やり手の社長からも、雑事一切を取り仕切る矍鑠とした社長の母親からも、信頼されるようになる。そして遂には雑役を卒業し、焼き物職人となる。勿論最初は怒られ通しであったが、持ち前のもの覚えのよさで、ぐんぐん腕を上げ、仲間の職人からも一目置かれる存在となる。そして事務主任に抜擢され、労使関係の調整も任される。

しかしその間も、残された家族には、GHQを後ろ盾にした官憲の、人権などどこ吹く風の取り調べが加えられていた。警察の執拗な取調べに、33歳の姉は体調を崩し、遂には病死してしまう。それでも取り調べの手は緩まない。盗聴器まで使った非人道的な捜査に、しかし残された母や妹が屈することは無かった。そもそも彼女たちは本当にSの居場所など知らなかった。しかし東京にいた元上官のYだけは、Sから連絡を受けて居場所を知っていた。家族に加えられる警察の余りに過酷な取調べに、思い余ったYは、遂に聞き込みに来た刑事に独断でSの居場所を告げる。

昭和24年7月19日、事務室にいたSの元に3人の男がやってきた。一人は元上官のYであった。いつの間にか社長もやってきて、「S君ちょっと」と彼を本名で呼ぶ。残りの二人は警視庁の刑事であった。「ごめんなさい」深く頭を垂れるSに対しYが、「ご家族のご苦労を見かねてね。君に何も言わずにこうした措置をとってしまった。お詫びする」。社長が言葉を継ぐ。「S君、私もうすうす君が戦犯というのには気付いていた。気持ちをしっかり持ちなさい。大丈夫だからね」。社長一家、従業員一同に暖かく見送られ、多治見を後にしたSは巣鴨に収監される。そして横浜に於ける彼の裁判は、長らく続いた連合軍による戦犯裁判の棹尾を飾ることとなる。

200ページちょっとの薄い本ではあるが、あっという間に読んでしまった。著者の姿勢に好感が持てる。2006年の3月に出版された本なので、まだまだ簡単に手に入るし、図書館でも開架に置かれているはずだ。
敢えて言おう、必読書であると!



しかし、警察の職務熱心はどう捉えれば良いのだろう。はっきり言って私は、吐き気がするが。


高木勉著、サブタイトルは雪中行軍隊長・福島大尉の生涯。
先日の百万遍の古本まつりで購入した一冊なのだが、思った以上に面白かったので、軽く紹介しておく。


八甲田山雪中行軍といえば有名なのは『八甲田山死の彷徨』である。これは高倉健、北大路欣也で映画化もされた。しかしこれは虚実を取り混ぜた小説である。著者はこのベストセラーの虚伝を正すという姿勢である。例えば著者は、第5聯隊の雪中行軍隊を一貫して山口隊と呼ぶ。新田本を読んだ方なら分かると思うが、彼の本では5聯隊側の指揮官は神成(作中では神田)大尉であり、山口(同山田)少佐はくっついて来たおまけ且つ指揮系統を乱す存在のように描かれている。しかし著者は5聯隊側の指揮官は大隊長山口少佐であり、神成大尉はその部下の一中隊長に過ぎないとしている。常識的にはこちらの方が筋は通っている。また新田本では神成、福島(同徳島)両大尉は出発前に会っているが、実際はお互いに面識が無く、又両聯隊ともお互い相手の聯隊が雪中行軍を行うことすら知らなかったとしている。というのも31聯隊の雪中行軍は福島大尉が以前から綿密に計画を立てていた大行軍であるが、5聯隊側の行軍は、2,3日前に決定された、1泊2日の小行軍であったからだ、という。最も大きな点としては、福島隊に随行していた東奥日報の東海記者が、山頂付近で5聯隊の遭難者を発見し、遺体は無理なので小銃だけ持ち帰ったという話。これは東海記者が実際に記事にしたもので、新田本でも大きく取り上げられているが、著者はこの話は丸々記者の作文であり、福島隊は山口隊の遭難者は一切見ていないと断じている。


福島泰蔵は群馬県の商家に生まれた。教導団を経ての陸士入学であったため、同級生と較べれた年をとっていた。陸士は2期で同期には鈴木孝雄らがいた。任官した福島は高崎の町で同僚の永田十寸穂少尉と同じ下宿で暮らし始めた。永田は名前を”マスオ”と読む。彼にはやはり一風変わった名前の弟がおり、その弟も後に陸軍軍人となる。ちなみに父親も志解理(シゲリ)という変わった名前で、これは医家の家柄に由来するのかもしれない。福島は非常に勉強熱心な読書家であった。また普通の歩兵将校にはない地図作成という特技もあった。そのため中尉のとき、陸地測量部に転属となった。しかし僅か1年で、新設された歩兵第31聯隊の中隊長に赴任する。これは師団長の立見尚文が、陸士出の気鋭の将校を欲しがったことに因る。弘前でも彼は持ち前の勉強熱心さで、岩木山雪中踏破演習などの行軍演習を次々成功させ、師団長の知遇を得ている。八甲田山もこれらの演習の延長線上にあり、総ては対露戦の為であった。八甲田山雪中行軍は特に、福島大尉が聯隊長、旅団長を飛び越え、師団長から直接指導を受けていたと著者はしている。

さて見事に八甲田山を制覇した福島隊であったが、第5聯隊の悲劇のおかげで、その功績はあまり世間に広まることは無かった。福島自身はまもなく旅団副官に転任となった。ちなみにその前に、参謀本部が戦史室に彼を迎えようとしたことがあったが、それは立見が拒否したらしい。優秀な大尉を離したくなかったのだろう。旅団副官となった彼は妻を迎えている。

新たな上司で長州出身の友安治延少将は、漢籍を良くする文人タイプの将軍で、妻が薩摩人という点は乃木と同じであるが、実際彼の妻は乃木の妻静子と遠縁であった。友安の妻は広島で静養中であり、彼は妾宅に寝泊りすることが多かった。また友安自身体が弱く、半年も妻のところで休暇をとったことがあった。妾を伴って官費で秋田まで旅行をしたこともあった。ちなみに山口隊が遭難したとき彼は、浅虫温泉に居た。こういう態度が、仕事熱心な福島大尉には我慢ならなかった。副官の官舎は旅団長の向かいにあったが、旅団長が在宅時は必ず、旅団長官舎に向かって大声で号令をかけたり、詩吟をうなったりするようになった。酔っ払ってわけの分からないことを喚き散らすこともあり、福島の妻は気が気でなかった。ある日などは、釣りを楽しんでいる旅団長のところに馬で乗りつけ、大きな石を抱え上げて、旅団長が釣り糸を垂れている付近に投げ込み、一言の挨拶も無しに立ち去った。これには友安旅団長も肝をつぶし、顔面を蒼白にして口をわななかせていたという。遂に二人の抗争は陸軍省の裁くところとなり、友安少将は後備役に、福島大尉は山形の聯隊の中隊長に転任となった。いくら立見中将が福島贔屓とはいえ、少将と大尉が喧嘩をして少将が後備になるのだから、友安少将のだらしなさはよっぽどのものであったようだ。ちなみに彼は日露戦争では、後備第1旅団長として旅順攻囲に参加している。谷寿夫の機密日露戦史に次の記述がある。
”旅順攻撃における某少将の二〇三高地攻撃を辞退せる件”
この某少将が友安である。彼はあまりの惨状にビビッてしまい、自ら乃木に辞任を申し入れて旅団長を辞めている。

32聯隊でも福島は短い期間に多くの提言や論文を残している。明治37年9月、福島は妻と生まれたばかりの娘を残して出征した。全軍の予備的扱いであった第8師団は遂に黒溝台に投入され、福島は明治38年1月28日、そこで戦死する。黒溝台の戦いは、明石宇都宮ら在欧武官がロシアの冬季作戦を探知して警告を送っていたにも関わらず、また騎兵からも情報が上がっていたにも関わらず、児玉源太郎以下満洲軍参謀がそれを全く無視したため、日本軍の大苦戦となった。しかし実は福島も、戦前に書いた「露国ニ対スル冬季作戦上ノ一慮」という論文の中で、ロシア軍少将の談話を引用しながら、ロシア軍が冬季に作戦行動に出る可能性を訴えているのだ。福島は満洲に上陸した10月に、総司令部に於いて児玉に謁見している。彼を冬季作戦の権威と認めてのものだろうが、そのとき上記のことについて話し合われたかは不明。戦後、秋山好古が総軍参謀であった松川敏胤にこのときの不手際詰問した。二人の後ろで聞いていた永沼秀文によると、松川は諧謔的な口調で
「なあにあの時はお客さんが左翼方面から来るだろうと思っていたのだ」
と答えた。すると秋山は辞色ともに激しく
「お客を待つなら待つで歓待の手段を取っておかねばならないではないか。何にも接待の準備がないところへお客さんに見舞われたから、あの醜状を暴露したのではないか。敵の強大な集団が進んでくる模様はいく回となくわが輩の手許から報告してをり、警告してをつたのに、総司令部でああまた例の騎兵の報告かと軽視して信用しなかったから、遂にあんな不始末になったのだよ」
と厳然と言い放ち、これには松川も一言もなかったという。

TwitterにはGmailを使っています。そのGmailは携帯に転送するように設定してあります。そして私の携帯のメール着メロはジューダスのElectric Eye。ですので皆様がFollowしてくださるたびに、いつでもどこでもロブ様が歌うんです。”ア~イム イレ~クティッド イレクトリック スパ~イ”




でもそんなことより、Googleのウェブ履歴です。改めてみるとえげつないなあ。”こればらすどー”って脅されたら、大概の人間は”ははー”ってなるんちゃいますか。こういうのが新世界の王?
Twitter

さてどんだけ続くか。
googleのアカウントがあれば便利かな。
クライアントはgoogle talkと、火狐使いなのでTwitterFox使ってます。携帯からはMovaTwitterを使えば投稿可能。
参考にしたサイト
Twitter をはじめよう
TwitterまとめWiki
http://muumoo.jp/news/2007/04/09/0twitter.html
導入が完了したらここで適当にFriendsを選んでFollow(PG率高っ!)。


下がMyAccount。友達にしてください。
http://twitter.com/maroon_lance


余談ですが、こういうのがあるのを、TwitterのFriend探し中に知りました。

に、行ってきました。収穫は・・・・正直祭りだから買うけど、単品では買わないなあというようなものばかりでした。
それから本屋で赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国』を立ち読み。仕方ないとはいえ、2本の論文やそれを受けてのブログ上での論争の面白さに較べると薄いなという感じ。赤木さんにレスを返したリベラルの大物たちがあまりにもアホでマヌケなサヨクを演じているため、そのために快哉を叫び赤木さんを支持する強者もいるが、そういう人たちを除けば、皆総じて真面目に彼の叫びを受け止め悩んでいるように思う。それだけ事態は切迫しているんだと思う。私自身何とか立ってはいるものの、足下の氷の薄さには不安を覚えている。だから彼が抱く恐怖感は非常に理解できる。だけど立ち読み。代わりに『ナポレオン 獅子の時代』8巻を購入。ちなみに古本祭りでもコーランクールの回想録買った。
帰り、河原町の阪急の前で号外を貰った。小沢党首辞任。



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