近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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  • Bruce Springsteenの新譜が売れまくってるらしい
  • ブレンダン・オブライエンプロデュースのボスのニューアルバム”Magic”が世界中ですごいチャートアクションを見せているらしい。今私も聞いてるが、確かにかっこいい。ただ1曲目のRadio Nowhereのフックが強すぎて、後の曲が地味に聞こえてしまうのが難点か。アルバムの全てを味わうには時間がかかりそう。



  • 図書出版社の戦記が光人社NF文庫で再販されている
  • 図書出版社の戦記ものといえば支那戦線が中心で、執筆者は前線の将校下士官だった人が多く、古本屋では大体1000円~1500円くらいで売られている。その図書出版社の本が最近、光人社NF文庫から出ている。『大本営報道部』、『長沙作戦』、『通信隊戦記』などに続き今月は『華中作戦』が出版された。まだ10冊はあるはずだから、これからもどんどん出版されることを期待する。
      


  • 3歳クラシック2着馬に外れは少ない?
  • 今年の菊花賞を制したのはダービーでウオッカの2着だったアサクサキングス。ダービーで2着した馬はダンスインザダークのような本命サイドやライスシャワーのような穴馬を問わず、成績を残す馬が多い。それでは強い馬が勝つと言われる菊花賞の2着馬はというと、これも近年はなかなか好成績だ。皐月賞2着はやや落ちる感じがするが、やはりクラシックの2着馬というのはそれなりに力があるといえるだろう。これが3着になると、3強とか言われていた年を除くとやや落ちる。皐月賞、ダービーと3着、3着だったメイショウジェニエなんかも結局オープンで勝てなかった。

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あまりに寒いので炬燵の布団を出しました(机は年中出しっぱなし)。
菊花賞はドラゴンズ馬券で決まりました。アサクサキングスは3着以内には来ると思ってましたが、まさか勝つとは。ホワイトマズルって面白い種牡馬ですね。アサクサは名前の割には結構良血だから、種牡馬なれるんじゃないですか?ダンシングブレーブの血はつないで欲しい。四位ジョッキーは、同一年のダービーと菊花賞を別の馬で制したわけですが、これは史上初の快挙だとか。4角でよれたのでひやひやしましたが、そういえばイシノサンデーも斜行してたなあ。これで三冠ジョッキーだけど、現役だと豊以外いたっけ?アンカツさん(田原風)は皐月賞勝ってないよね?ノリはダービー取ってないし。検量室の入り口でポーンと四位を叩いてたのは池添?藤田?本人は明らかに審議を気にしてる感じでしたね。家で見てると取れそうな気がするんだよなあ。特に贔屓の馬や騎手が勝ったときは。


今日買ってきたのでまだきちっとは読んでないですが、文春新書からの新刊です。内容は昭和38年6月20日に東京の「なだ万」で行われた座談会の再録です。司会は半藤一利氏。『日本のいちばん長い日』はこの座談会が切欠でうまれたそうです。出席者は
会田雄次
荒尾興功
有馬頼義
池田純久
池部良
今村均
入江相政
上山春平
江上波夫
大岡昇平
扇谷正造
岡部冬彦
岡本季正
楠政子
酒巻和男
迫水久恒
佐藤尚武
志賀義雄
篠田英之介
鈴木一
館野守男
徳川夢声
富岡定俊
南部伸清
松本俊一
村上兵衛
吉武信
ルイス・ブッシュ

これに吉田茂と町村金五が誌上参加という形で加わりました。各証言者の略歴もちゃんとついています。後ろには極々最近に行われたらしい半藤氏と松本健一教授の対談も収録されています。割とお奨め。
兵器発明家にして飛行家日野熊蔵の伝記。幕末、相良藩では保守派と洋学派の間で争いがあり、慶応元年九月二十六日には、守旧派が洋学派の主だった者を上意討ちにする事件(丑歳騒動)が起こった。このとき日野家では物頭二百石取りの当主佐一だけでなく長男とその妻、さらにその三歳の娘の四名が斬られた。生き残った佐一の妻は縁者から養子を取り、家名をつないだ。熊蔵はその子供であるが、父は熊蔵がまだ母の腹にいるうちに疫病で病死した。
熊本には佐々友房の済々黌という有力な学校があったが、熊蔵は済々黌ではなく私学の熊本英学校に進んだ。熊本英学校は徳富猪一郎の大江義塾を前身とする学校で、済々黌とはいわば国権派と民権派で険悪な間柄であった。大江義塾は宮崎寅蔵も学んだ学校である。熊蔵が後年、支那革命に関係するのも偶然ではあるまい。熊蔵の在学中、短い間であったが、内村鑑三も英学校で教授をしている。

陸士を34番で卒業し、歩兵第2連隊では連隊旗手に任じられた。歩兵は陸士の主兵であるが、熊蔵限っては歩兵将校であるということは、その後の人生においてマイナスであった。

熊蔵は25歳のときには既に日野式拳銃を発明して、陸軍技術審査部員となっている。彼はこの日野式拳銃や日野式擲弾を孫文らの革命運動に提供している。友人の上塚周平はこのころの日野について「彼は一個の機械師にあらず。又以て一個理想の人、発明は彼の宇内に於ける人として単に真理に忠なる一端を実現せるもののみ。彼の頭脳に画する処は発明よりも大なる画策あり。其の一端は常に舌端に迸り以て推知すべし。只才気余りに多く、為に万能を欲するの弊あり」と評している。野津道貫は日露戦争で第四軍司令官を務めたが、彼は渡満する前、熊蔵の家を訪れたという。そこで何が話し合われたかは分かっていない。

明治四十年、熊蔵は結婚した。相手は恒吉忠道大佐の娘であった。余談だが恒吉の前妻は正岡子規の妹の律であった。二人は二年ほどで離別しているので、熊蔵の妻の母は後妻であろう。

明治四十二年に臨時軍用気球研究委員に任ぜられ、飛行機の研究に入る。翌年には徳川好敏大尉と二人で欧州に派遣された。徳川大尉はフランスで、熊蔵はドイツで飛行術を習得した。徳川好敏は御三卿の一、清水徳川家の嫡男であった。しかし父の篤守が伯爵の爵位を返上していたため、このとき家は無爵であった。父の爵位返上については、明治三十年お茶の水で水商売の女が殺害された事件との関係などが取り沙汰されているが、徳川一門はこの件に関しては口を閉ざしている。いずれにせよ、徳川好敏が飛行将校を志したのには、家門の恥をすすぎたいという思いがあったようだ。二人はそれぞれグラーデ式、アンリファルマン式の飛行機を手土産に帰国した。

明治四十三年十二月十四日、熊蔵のグラーデ式は滑走中に高さ10メートル、距離60メートルを飛んだが、この日は公式の飛行実施日ではなかったので『滑走中の余勢であやまって離陸した』ことにされた。十九日、今度は徳川大尉のファルマン機が最高70メートル、距離3000メートルを飛んだ。同日午後、日野も高さ45メートルで1000メートルを飛んだが、日本最初の飛行という栄誉は、徳川大尉のものとなった。ただでさえ徳川家の御曹司で眉目秀麗な青年将校である。こうなっては熊蔵は彼の陰に隠れるしかない。

熊蔵には、仕事に熱中する余り、来訪した皇族の出迎えにすら出ないようなところがあった。また飛行機の研究に私財をつぎ込み、多額の借財をつくって訴訟を起こされていた。そういった点が陸軍上層の忌憚に触れ、少佐昇進と同時に福岡の歩兵連隊に飛ばされた。


また子供が殺された。ニュースは絶え間なく、陰惨な事件を伝える。下手人が親とか近しい人間の場合は、大体捕まっているようだが、赤の他人系の犯罪はどうか。この未解決事件のリストを見てると、何か全然捕まってないような気すらしてくる。
光市の事件の論告求刑が終わった。
犯罪の被害者やその遺族というのは確かに、拉致被害者の人々なんかと同じく、社会からほぼ放置されてきた(加害者もサカキバラのような例外を除けば放置されてるが)。政権与党は勿論、リベラルもこの点は同罪だろう。今のリベラルは、自分たちの既得権を守ることしか頭にない。自民党の道路族なんかと何が違うのか。既存リベラルへの失望は、若者の貧困問題を訴える赤木智弘さんなども書いておられる。今やこの国を二つに分けるのは、右左ではなく、南北(持つものと持たざるもの)か。
ネット上では本村氏を支持する人も居れば叩く人もいるが、どっちも好き嫌いの感情論からは一歩も出ていない。本村氏は賢明だからそういうことはしないが、仮に彼がどちらかに偏した政治的発言でもすれば、この支持不支持の勢力図は一変するだろう。しかしこんなご時勢に、死刑廃止を訴えるなら、アカぬけした案(by山下奉文)ぐらい示すべきでは?被害者遺族を叩くなど筋違いも甚だしい。


で、本題。トム・クルーズの映画”Valkyrie”の続報。

上の写真、向かって左立っている背広がゲルデラー(Carl Goerdeler)、座っている軍服は左からメルツ・フォン・クヴィルンハイム(Albrecht Riter Merz von Quirnheim)にオルブリヒト(Friedrich Olbricht)。中央アイパッチがシュタウフェンベルク(Claus Schenk Graf von Stauffenberg)でその右がルードヴィッヒ・ベック(Ludwig Beck)。右端座っているのがヴィッツレーヴェン(Erwin von Witzleben)で、立っている軍服がトレスコウ(Henning von Tresckow)だそうだ。デイリーメール
ゲルデラーはこの中では唯一の文民。キャストはKEVIN McNally。予備軍副司令官兼兵務局長オルブリヒト歩兵大将はBILL Nighy。予備軍参謀クヴィルンハイム大佐はChristian Berkel(ドイツ人)。元陸軍参謀総長ベックはTERENCE Stamp。ヴィッツレーヴェン元帥はDAVID Schofield。トレスコウ少将はKENNETH Branagh。大分出揃ってきたね。後はヘフテンか。彼の最期は恐らく映画のクライマックスだろう。

下の写真は鎮圧に当たるレーマー?



撮影はどうやらベンドラーブロックを使用して行われるようだ。ドイツ政府もトムへの方針を変更したらしい。下のリンク先でメイキングが見れる。
http://www.aintitcool.com/node/34317
光市の事件の公判や名古屋の女性会社員殺害事件などが重なり、死刑を巡る議論が紙上でもネット上でも活気を帯びています。幸いなことに今のところ、日本では死刑存続派が多数のようです。しかし、光市の事件の弁護団へのトンチンカンな攻撃を見てると、10年後果たしてどうなっているかなと、不安になります。昔の人も言うように無能な味方は有能な敵より遥かに厄介です。慰安婦問題のように自爆を重ねて※1、逆転されるようなことが起こらないとも限りません。この辺の層はかぶっている※2ように思いますし。
そこで、万が一死刑が廃止された場合、それに代わる刑として何が良いか、考えてみます。
1)終身刑
2)重労働
3)肉刑
3)は今のご時勢では無理でしょうし、2)も先の大戦の戦犯法廷では当たり前にあった刑でしたが、現在ではやや前時代的です。となると結局1)となりますか。

死刑廃止と終身刑導入の利点としては、
a.裁判官や刑務官の心理的負担が減る
特に前者によって、これまで死刑判決を受けていた連中は勿論、本来死刑でもおかしくないところを、ヘタレ裁判官のおかげで無期や30年の刑になっていた輩にも最高刑が科せられる可能性が出てきます。

b.自首が増える?
死刑が無くなる事によってあるいは出てくる犯罪者もいるかも知れません。

c.冤罪の場合、最低限取り返しのつかないことにはならない

欠点としては、
a.自首が減る?
利点と矛盾しますが、この前の名古屋の事件で1人が自首したことには、死刑の存在も関係しています。この男、自首したことによって罪が一等減じられる可能性が高いです。しかし報道による限り、自首した男の人間の屑度合は、他の二人と全然差が無さそうです。果たして死刑制度が無かったとして、この男は自首したでしょうか。

b.事件単体の凶悪化
事件の総数が増えるかどうかはともかく(減りはしないでしょうが)、死刑の廃止は確実に一部の人間の、凶悪事件への心理的ハードルを下げるでしょう。強盗が強盗殺人に、強姦殺人にと事件単体が凶悪化するケースが出てくると思います。勿論パラレルワールドでもない限り証明のしようは無いですが。逆に死刑がなくなったことによって、犯罪が抑止される例はあるでしょうか?私は(自分も含めて)日本人のモラルをあんまり信用出来ないんです。

利点のaは結構良い点だと思うのですが、欠点のbはもしそうなった場合、取り返しがつかないですから、難しいですね。

※1.最近の歴史問題に関する私の立場は、敢えて言うならサンケイとか作る会的立場にはI SAY NOです。じゃあしかし、逆転されて良かったのかというと、そこも難しいところで。ただ一応旧軍に関する本を読み漁ってる(だけだけど)身としては、軍は無関係と無邪気に言い切ることは出来ないです。
※2.ネットを見てるだけですが、慰安婦や沖縄問題に熱心な人には死刑廃止に熱心な人が多いような気がします。で、ミャンマーの民主化には熱心だけど、北朝鮮の拉致被害者には無関心。イラク戦争には反対。あくまで印象であって統計取ってるわけじゃないですが。そして上を全て逆にひっくり返したらネトウヨの出来上がりと。まあ今やネット上だけでなく、普通に雑誌上にも居ますがね。一番の笑いどころは矢張り、大東亜戦争は自衛戦争とか言いながら、イラク戦争に賛同するあたりでせうか。
カチンの森の虐殺事件が、ポーランドのアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)監督により映画化されたそうだ(朝日新聞平成19年10月14日”ひと”欄より)。カチンの森ではウン千からウン万のポーランド将兵が、ソ連に殺害された。しかし長い間それはドイツの仕業とされ、ポーランドの歴史教科書にもそう書かれてきた。監督の父も軍人で、カチンで殺されたそうだ。以下紙面より

映画「カチン」はソ連とナチスドイツに翻弄されたポーランドの悲劇を描いた。戦後も89年までの共産主義時代はソ連の主張で、ナチスの仕業だと信じなければならなかった。教科書も公文書も「カチンのうそ」に塗り固められた。


「事実を伝えられるのは私の世代までかも。父母も評価してくれるだろう」


ナチスドイツ占領下時代に開かれた日本美術展に感銘。芸術の世界に向かうきっかけとなった。スケッチの腕は個展を開くほどだ。人間の無残さを描いた今作品でも、絵コンテの美しさは際立つ。



問題はこれが日本で何館で公開されるかだ。頼むぜホント。
南部麒次郎中将の自叙伝である。筆者が最終的に筆をおいたのは昭和17年、出版は28年。出身地は佐賀。陸士は2期。兵科は砲兵。2期の砲兵は卒業者19名だが、南部の卒業席次は11番。ちなみに一つ上の10番が鈴木孝雄で、砲兵科首席は小野寺重太郎。二人とも南部の親友で、関宿の鈴木の実家を小野寺と二人で尋ねたとき、たまたま鈴木の兄の貫太郎も里帰りしており、一緒にご飯を食べたそうだ。

彼の主な発明考案は三八式歩(騎)兵銃、三年式機関銃、十一年式軽機関銃、南部式自動拳銃、南部式空包機関銃、九四式将校用拳銃、九六式軽機関銃etc

南部中将に関しては、兵頭氏が面白い考察をしておられますが、私はこの自伝を読んだだけでは、こんなこと全然読み取れませんでした。ただ人の良さそうなおっさんだなあとか、親父さんも出来た人だなあとかぐらいです。

小銃製造所時代、雷管突破の原因について島川文八郎と言い争いになり、実験結果を示して、彼をへこましたことがあるそうな。

欧州の軍需工場視察の報告で、技術者を倍加し、将来民間工場に兵器を製作せしめることが目下の急務であると述べたところ、軍事課長の津野大佐
「南部大佐の話は外国に行かなくても話せることだから、他の事に就いて報告してください」
と言われたそうだ。頭にきた南部は、
「今回欧州に出張して一番感じたことを話した次第で我が国でもこれさえ実行するば他の百の報告をし、そして実行しないことよりも勝っていると思ふ。津野課長の言云はれるように内地にいてもこれを知るなら、何故実行せられぬのか」
と反駁したが、津野大佐は何も応えず、そのまま別の話に以降したという。

まあ端的に言えば、比較的幸せな技術軍人人生だったのではないでしょうか。恵まれなかった日野熊蔵などと較べれば。


正直文章的にはも一つで、所々「ん?」と感じます。基本的には石原に関するエピソードの羅列で、失礼を承知で言えば、私がホームページでやってる人国記の超々グレードアップ版という感じです。しかしその参考文献の量が半端じゃないです。従ってどんな人でも、「へ~」というエピソードがあると思います。石原好きの人は、まあこの一冊(二冊)で満足してしまうのもいいですが、出来れば巻末の文献一覧を辿っていって欲しいです。素人が歴史勉強するには、このやり方が一番だと思います。

それではちょっと面白かった小ネタを摘出してみます。

小学校時代、校長ですら頭を突き出せる窓の格子に、頭が引っかかるくらい巨頭だったため、ついたあだ名が”西洋かぼちゃ”。左下は莞爾と弟の二郎であるが、これを見る限りデカ頭は血統のようだ。右下は成長した二人だが、見ての通りやたら似ている。莞爾だと思って二郎に話しかける人やその逆がいたというのも、肯ける。

  

幼年学校時代、月6円50銭の学費のうち5円は鶴岡尚武会から、残りは鶴岡の素封家の富樫家から借りていた。同期の南部襄吉の父南部次郎は、郷里の育英資金から10円を借り、学費と小遣いとして7円50銭を送り、残りを自分のものしていた。石原も、父が学費の一部を煙草銭か何かに使っているらしいとこぼしていたという。二人の小遣いは同期中最低の1円であった。南部次郎は盛岡藩主の連枝、所謂アジア主義の外交官で、莞爾の中国観にかなりの影響を与えた。次郎も莞爾を高く買い、息子に対し「お前は一生あの人に見捨てられない様にしろ」と言っていた。

中央幼年学校卒業直前、剣術の時間に助教から「真剣勝負」を挑まれた。莞爾は、相手の急所を握って気絶させ、石原は品性下劣と評される一因となった。

士官候補生時代、南部は、小国日本ではどうやっても西洋に勝てないと、軍人に絶望し、植木屋になりたいと莞爾に相談した。莞爾は、陸軍を改正しドイツにでも何でも勝つ陸軍にするために軍人になった、貴様もそれだけの気宇を持たないか!と励ました。しかしその莞爾も後年、中耳炎で入院し、体に自信を無くして、「写真屋になりたい」と漏らしたことがある。このとき入院を嫌がる莞爾に困った父は、今村均に依頼し、今村は駄々をこねる莞爾を無理やり入院させた。

陸大入試の再審で、「機関銃の最も有効な使用法はどうあるべきか」という課題を与えられ、飛行機に装備して、”酔っ払いが歩きながら小便をするように”、”バラバラバラ”と敵の大縦隊に浴びせると答えたことは有名。

下の写真は、メッケルの胸像の前で撮られた陸大卒業記念。前列中央が石原。確信は無いが前列右から二人目が樋口季一郎じゃないか。石原の左隣は何となく、眉目秀麗・弁舌さわやかということで石原を抑えて首席になった鈴木率道のような気がするが自信は無い。後列左から二人目の恰幅のいい人は阿南惟幾か?



武藤章は真宗であったが、ベルリンで里見岸雄の講演会を聞いてから、熱心に日蓮を研究するようになった。石原はこれに大変喜び、日本の妻に手紙で、実家の尾野実信大将邸に住む武藤夫人を訪ねるよう依頼している。石原は、武藤は「中々立派な人なる故、此一族を教化することは極めて有効」と考えたのである。

宮沢賢治は石原と同じ国柱会の信行員であった。賢治は『妙法蓮華教』1000部の頒布を遺言したが、頒布先の名簿には石原の名前もあった。賢治の弟清六から石原に送られた本は、第59号であった。

下巻に続く?
クリスとデイブ、なぜ差がついたか...慢心、環境の違い

イヤイヤイヤイヤ、冗談ですよ。クリスも大好きでしたよ。Sweet75も結構好きだし。
それにしても「慢心 環境」でググッた結果、クソワロタ。
フーファイってもう6枚目になるんですねえ。
彼らには常に一味足りない感じを抱いていた私的には、今作が一番です。
それでも星4つって感じですが。

この連休は祭りという地区が多かったのではないでしょうか。
私は四天王寺の古本祭りに行くかどうか迷ったんですが、結局止めました。
先立つものも無いし。来月頭の百万遍の方に行くつもりです。

  


寒くなったり暑くなったり、体調に気をつけなければいけない季節ですね。ところで、親が使っていた5年物の15inがへたってきたので、自分が使っていた17inを親に渡し、自分用に新しいモニタを買うことにしました。色々迷ったんですが、物は試しということで、一番安い22inワイドのBenQ/FP222Wを購入しました。ちなみにグラボはGeforce8500GTです。1週間使った感想を述べます。
視野角が狭いというのは、その通りです。下からのぞいたらよくわかります。まあそんな使い方しなければ良いのですが。画質調整では鋭さを3以上(私は5にしてる)にすることが肝かと。画質そのものは、正直よくわからんです。悲しいことに人間の体って、その環境に慣れちゃうんですね。昔、仕事のモニタがシャープからサムソンに替わった(替えられて)ときは、その歴然たる画質の差に驚いたもんですが、今やその三流パネルの画質に目がすっかり馴染んでしまって、良し悪しの判断ができんのですよ。快適さはというと、広くはなりましたが、これ一つでモニタ2個分かと言われれば、それは無いですね。私は上の写真のように古い15inとで、デュアルモニタにしています。まあお仕事なんかで、広い作業スペースが欲しいという方は、素直に17×2か、余裕があるなら19×2のデュアルにすることを、お勧めします。これはあくまでも、家庭用という感じですね。ちなみにPS3とかを繋ぎたいなら、FP222WHの方でなければいけません。
最後に一つ悲しかったこと。15inのSonyの純正モニタ、DVIのケーブルしか無いんで、A/D変換コネクタを買って、BenQをDVIに、SonyをD-Subに繋ごうとしたんですが、何故か変換コネクタをかませると、Sonyのモニタは、認識はするけど、画面は黒いまま。結局逆にして繋いでます。まあ、この程度のモニタに、アナログもデジタルも無いか(泣)

   
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