近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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AcerのモニタにGatewayGT4012j使いの俺が来ましたよ。
Acer、Gatewayを買収へ
AcerのGateway買収で変わるPC業界の勢力図
Gatewayの栄光と挫折、その軌跡を振り返る
ここんところで一番びっくりしたニュースだ。
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ベルティエ「オージュローから報告書?」

 


  オージュロー「本棚を得た!」


 


  オージュロー「本を並べた!」


ベルティエ「一杯になった本棚を得た・・・」

ナポレオンー獅子の時代ー(C)長谷川哲也 少年画報社

本棚を買おうと思いまして。
木にするかスチールにするか迷ったんですが、今回はスチールラックにしました。
ルミナスライトテンションラック【TE90-7T】+【ST9030】横幅90センチで棚板6枚+アッディショナル1枚。


組み立ては簡単です。しかし途中、1人ではしんどい部分があります。また棚は一段ごとにゆっくり落ち着いてはめ込みましょう。慌ててやって、全部上下逆につけて一からやり直しになった人が、極めて身近にいます。4本のポールだけではやや心許ないですが、左のように天井につっかえ棒することで補います。width90は相当でかいです。おかげで左にあるクローゼットの扉を完全には開くことができなくなりました(あほ)。普通は76くらいで良いんではないでしょうか。棚一段の荷重は150kgまでOKとありますが、勿論本なのでそんな重さはないし、第一限界まで積むことなど怖くてできません。それでも1段30kgくらいはあるでしょうか。木の棚のようにだんだんグラグラくることは無いでしょうが、ある日突然バキンと折れるのが怖いですね。まあ、結論を言えば、値段を考えれば十分かなと。


  

本日、十三の第七藝術劇場にて「TOKKO」を見て参りました。
こういうニュースが流れてたのをご覧になった方も多いと思いますが、中身の日米比は9対1くらいで圧倒的に日本の話です。動く関大尉など、珍しい映像も使われており、非常にすばらしい出来上がりとなってます。
4人の元特攻隊員のうちの1人、浜園重義さんが、出撃時の別れの酒を徳利ごと飲み干したという話が印象に残りました。
上映館も少なく、なかなか難しいとは思いますが、チャンスがあれば、是非見ていただきたい。

上映劇場リスト
雷こえー
弱点だらけの僕ですが、雷は特に駄目。家の中にいても怖い。PCが落ちただけじゃなくて、ガス給湯器もリセットされてしまってた。

佐賀北勝ちましたね。満塁でスクイズには萎えたけど。佐賀勢ってときどきすごい快進撃するなあ。佐賀学園の若林隆信のものごっついホームランは印象深いです。それから佐賀商の兵動のホームランも何故かすごい憶えてる。どっちもカープに行ってパッとしませんでしたが。

今年見てて耳についた応援テーマその①残酷な天使のテーゼ
大垣が使ってたと思うんですが。最近多いんでしょうか?前橋商がタッチを解禁したという記事も読みました。OBのあだち氏は遅いよとつっこんだそうですが。
その②YMOのライディーン
これも昔の曲ですが、昔はやってなかったと思うんですが。CMの影響かな。

1937年の本日8月19日、村中孝次氏、磯部浅一氏、北一輝氏、西田税氏が処刑されました。歯医者に行った夫人を心配して十数輌もの電車をやり過ごして待つ村中兄が好きです。

ってんなこと書いてたらハゲタカ始まった。なんじゃこりゃ?再放送するの全然知らなかった。
今大会は投手のクオリティがかなり高いね。
熊代(今治西)、佐藤由(仙台育英)、佐藤祥(文星芸大付)、久保、馬場(佐賀西)、森田(大垣日大)、永井(新潟名訓)、中井(宇治山田)。
唐川(成田)も見たかったなあ。
近田(報徳学園)、本田(京都外大西)は1年のときが良すぎただけに、ちょっと物足りなく感じる。近田は2年だから、まだ来年があるけど・・・・
同じ2年でも米田(甲府商)、有馬(日南学園)は来年がすごい楽しみ。
垣ヶ原は良い投手だけど、T京は正直あんまりなんだよなあ。ガキの頃は好きだったんだけど。芝草とか吉岡、池葉、三沢とか。吉岡×大越の決勝戦とか凄い興奮したなあ。この世代は多士済々。春は山田喜久男の東邦が、元木氏や種田の上宮を破って優勝したんだよね。秋田経法大付には1年生エースの中川がいて、佐野日大のエースが麦倉。二人とも阪神に入った。個人的なお気に入りは上宮の内藤二塁手だった。僕の内野手好きは、実はPLの立浪に始まる。

はあ~しかし長かった夏休みも明日で終わりだ。何にも出来んかったなあ。情けない。
何とか間に合いました。
ホテルにこもりっきりだったパール判事と、日本を見て周ったレーリンク判事。二人の友情、良いですね。今まであまり注目されてこなかったイギリスのパトリック判事。
あんまり期待してなかったんですが、なかなか良かった。でも高い受信料とってんだから、これぐらいのレベルは保ってもらわんと。
やはりパール判事は傑物。しかしその崇高なる思想は、日本での彼の支持者たちには、びっくりするぐらい伝わってないね。
ちなみにレーリンク判事が、死刑が妥当としたのは嶋田繁太郎、岡敬純の海軍コンビに佐藤賢了。逆に無罪としたのは広田弘毅、木戸幸一、重光葵、東郷茂徳の文官4氏に畑俊六。畑の無罪に関してレーリンクは、政府の政策を実行しただけの軍人を罰することはできないとしている。
お盆恒例の下鴨神社の古本まつりに行って来ました。途中少し曇りましたが、それでも十分暑かった。寝不足の上に、昼飯もとらずに4時間近くうろうろしたんで、くらくらきました。でもその場から宅急便で送れるシステムは有難いですね。明日配達してくれるそうです。それにしてもやはり、今の時期の京都はすごい人でし。清水寺のあたり、バスが進まないでやんの。そういや今は夜間の特別拝観か。




8月15日

今ついたよ~
引き続き、澤地久枝『自決 こころの法廷』NHK出版
及び、須山幸雄『二・二六事件 青春群像』芙蓉書房

前のエントリは平日の晩にチャッチャと書いたので、やはり足らずが多く気になる。親泊の37期は熊幼に重要人物が集中している。菅波、大蔵栄一、香田清貞、朝山小二郎・・・皆熊幼である。そのうち菅波は熊幼を優等(2番)で卒業している。しかし陸士に進んでからは、思想問題に没頭して成績を下げている。2期上の大岸頼好も広幼を4番で卒業しながら、陸士で菅波と同じ100番台まで落ちている。点取り虫に徹していれば、軍官僚としての栄達は約束されていたであろうが、人より抜きん出た知性と感受性が彼らを維新活動へと導いた。親泊もまた陸大には進んでいない。受験は少なくとも2度している。そのとき上京して菅波の家に泊まっているので、再審までは進んでいるようだ。どこまで本気だったのかは不明。

ちなみにこの期のトップは井本熊男で、彼は陸士の予科、本科でもトップをキープして恩賜の銀時計を貰った。彼は後に大本営参謀として、撤退命令を持って自らガダルカナル島に飛び、撤退作戦を指導するという困難な任務を果たす。二人は直接顔を合わせる事はなかったが、電話では喋っている。そのとき親泊は次のようなことを言っている。
「おい井本か、第三十八師団の将兵は最後の一人まで最善を尽くしてよく戦ったぞ。これ丈は認めてくれ。帰ったら同期生諸君によろしく、他に何も云うことはない」
まだ撤退命令を知らない彼は、ガ島で果てる気持ちであった。

若かりし日の親泊は、道を歩くと、すれ違う女子学生がいっせいに振り返るような美男子であった。ひよわく運動が苦手であったが、その”少年”ぶりから特別扱いされていたという。小山公利によれば、長距離走で親泊が青くなって列外に出ても先輩は黙認するが、他の生徒が同じように出ると、「こら、貴様は親泊と違う」とどやされ列に戻されたという。一方文才は此頃からずば抜けたものがあり、国語教官のお気に入りであった。菅波も軍服姿には定評があり、西田税の家で、菅波と海軍の藤井斉に初めて会った末松太平は、海軍はスマート陸軍は野暮ったいという先入観から、藤井を菅波だと思ったという。結婚に際しては、親泊が菅波に直接、妹をくれと言ったそうだ。

予科士を卒業して羅南の騎兵27聯隊に配属となった親泊は、そこで西田税と出会う。彼はすっかり西田に傾倒し、隣の歩兵聯隊に居た大蔵らのもとにやってきては西田の講義の受け売りをした。菅波にも手紙で、「羅南にすばらしい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」と書いている。菅波が西田の名前を聞いたのはこれが最初であった。後に彼は親泊によって西田に引き合わされ、最も深い同志となる。

現代では嘘の代名詞となった大本営発表であるが、陸軍報道部員という仕事は、やはり親泊には相当つらいものであったようだ。心許したかつての部下の岡治男大尉には
「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。心の中では申し訳ないと詫びつづけている。ほんとうに辛い職務だ」とうつむき語ったという。

彼の死について菅波は熊本幼年学校第二十二期同期生月報に次の手記を寄せている。
(前略)
『親泊様、御一家一同御自害、相果てられました』― 昭和二十年九月三日の早朝、小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。
 かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものなってみると、哀痛、万感交々この胸に迫る。取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。空襲を免れた古い街並の一角、シーンと静まる親泊の家、一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。
 『あそこ、か』。玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。
 凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち技き、十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
 件の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニングの二号であった。
 通夜、翌日納棺、荼昆に付す。いよいよ出棺の間際、『お別れを』と係の者が蓋を開けると、大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、『ワーッ』と一斉に声をあげて泣き出した。無理もない。きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、まのあたりにして、ああ。(中略)。
 終戦の日から、ミズリー艦上の降服調印の日までの間に、一度だけ朝省が拙宅に来た。『千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで』と語った。『上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない』とも。
 また別の日、妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、『うちに行こう、一緒に行こう』と言って泣き出した。虫が知らせたのかと、あとで思った。(後略)

天皇とその周辺のふがいなさを強く批判する親泊の発言について、菅波は茶園義男教授への手紙の中にも書いている。
終戦の間際 天皇、皇太后全く意気地なし。みずから戦を宣しながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。 ―朝省最後の言葉
菅波自身この親泊の意見にある程度同意であることは、それに続く彼の言葉からも明白だ。まあ、こういう天皇批判を、機関説として揶揄する向きがあるが、私はその点には全く同意しない。精神性を無視した唯物論は問題にならない。
8月11日の朝日新聞の朝刊に蓑豊サザビーズ北米本社副社長のインタビューが載ってた。
(前略)
―例えばどんなところが
まず館長がだめだね。
―ご自身も館長でしたよ。
だから言いたいんだ。館長は美術館を経営する責任者なのに、名誉職になっていて、たいてい大学の先生を辞めて来る。週に2,3日だけ来て、館長室で論文を書いている人、いるよね。(後略)
―学芸員からもっと館長に、ということですか。
それが、学芸員もね、20代後半で「先生、先生」と持ち上げられて、勘違いする人が増えてきたよね。(中略)
税金で美術館が成り立っているのを忘れ、独りよがりな展覧会を企画し、観客を遠ざけている学芸員もいる。(後略)
―今の米国から、日本はどのように見えますか。
まずいよ。日本語なんてニューヨークでだれも勉強していない。中国やインドの話ばかりでね。アジアでの存在感を急速に失っている。もう、経済ではなくて、文化立国を目指し、急いで文化省をつくろうよ。それも東京ではなくて関西に。京都か奈良だね。世界に誇る文化の宝庫なんだから。

 蓑さんが初代館長だった金沢21世紀美術館は、04年の開館から2年間で300万人以上の入館者を迎えた。(中略)
 96年から館長を務めた大阪市立美術館では、00年のフェルメール展約60万人という最高の動員を記録した。(以上紙面より)



フェルメール展行きましたよ。絵心全くないのに、西村由紀江さんが宣伝してたのに釣られてね。其の時買った本は今でも手元にある(左)。
自分から行った展覧会というと、記憶にあるのはこれと大丸梅田でやってたロバート・キャパ展だけですね。確かすげー並んだけど、やっぱ大ヒットしてたんだねえ。まあ僕みたいなのまで釣られるくらいだからなあ。



今日まで仕事でした。明日から連休。石にかじりついても8連休するぞ。呼び出しには絶対応じない。

第三帝国熱が下がらない。このまま煉獄に落ちるのか・・・・とりあえず今、『権力のネメシス』読んでますが、以後は最近使ってない図書館でも活用するかな。
澤地久枝著『自決 こころの法廷』NHK出版

本書の主人公は、沖縄出身の軍人の中で最も知名度のあると思われる人物。陸軍大佐親泊朝省(おやどまり ちょうせい)。熊本幼年学校から陸士(37期)に進み、騎兵科の恩賜で卒した。この頃の陸士はまだ兵科別で恩賜を出していたが、親泊は全体でも8番目と優秀な成績である。父は教育者であり、その家柄は、沖縄の名門であった。将来を嘱望される青年将校であった親泊は、騎兵第27聯隊で聯隊旗手をつとめ、満洲事変での活躍は、ちょっとした軍国美談となった。

親泊は割合早くに結婚をした。妻には軍人の兄が二人いた。上が菅波一郎(後に少将)、下が同期生で菅波三郎といった。三郎と親泊は熊幼以来の親友であった。親泊は、幼年学校の休みには、沖縄の実家より宮崎の菅波家によく滞在したという。熊本の45聯隊で旗手もつとめた菅波三郎は、荒木貞夫らの計らいで東京の歩3に転任した。この菅波をかつて西田税に引き会わせたのは親泊であったという。西田も親泊と同じく朝鮮羅南の聯隊に居た。このような環境から、親泊も当然革新運動に関心を持っていたと思われる。昭和10年、陸大受験の為に上京して来た彼は、前年同様、菅波の家に泊まった。それに対し菅波は「俺の家に出入りを禁止す。君は勉強せよ」と申し渡し、親泊を革新運動から遠ざけた。結局親泊は、その後の二・二六事件で拘束されることもなく、陸大本科にこそ入れなかったものの、専科を卒業して、比較的順調な軍人人生を歩む。大東亜戦争が始まるまでは。

第38師団参謀として、大東亜戦争を迎えた親泊は、ガダルカナルで地獄の死闘に巻き込まれる。撤退後、彼はマラリヤや栄養失調で入退院を繰り返した。髪はすべて抜け落ち、上下の歯がすべて無くなっていたという。回復して陸士教官となった彼は、その地獄の一端を率直の一部の生徒に語っている(村上兵衛『桜と剣』)。当番兵の佐治氏は、著者に対して次のように語っている。
「師団長との会食のとき、参謀殿が使った飯盒を洗うのが当番の仕事です。『佐治』と呼んでわたされた飯盒をあけると、底に米と芋をおじやにしたものが二匙くらいと、乾パンが二つか三つ入っている。これが、わたしが生きのこったみなもとです。八十五歳になって、今日はじめて話すことです」
 この人は絶句し、嗚咽した。


陸士教官となった親泊は、積極的に筆をとり、文章を書き始めた。その活動が認められたのか、19年には大本営陸軍報道部員となった。彼はこのころ同期生に対して次のような不満を漏らしている。
戦争の経験のない者が戦争の指導をしているのは、戦場の実相がよく認識出来ず無理があり、危険えある。中央部にも其の種の人が多くて困ったものだ。殊に戦場に行く事を懲罰と心得る者があるに至っては、武士道も地におちた。
彼が書くのは戦場の凄絶な実相であり、米軍の残虐さであった。彼は女性向け雑誌にも積極的に書いた。
★「大陸作戦の成功 - 女性のための戦局情報」(婦人画報)
★「あだを討つ精神」(主婦之友)
★「粘りづよく」(婦人倶楽部)

戦局が押し詰まり、ポツダム宣言が出ても、親泊は絶対継戦を叫ぶ最強硬派の一人であった。ガダルカナルで共に戦った黒崎貞明による。
「あくまで抗戦。本土決戦を実行して、講和のチャンスを獲得するのみだ」
「ソ連が参戦した今でもですか」
「まだまだ、関東軍と朝鮮軍は持ちこたえられる。俺は悲観していないよ」

彼の心の奥底をうかがうのは難しい。故郷沖縄が米軍に蹂躙されたことを挙げる人もいるが、本当のところは分からない。第32軍への転出を希望して、阿南陸相に止められたこともあったというが。

終戦に際して、親泊は一つ重要なことをしている。8月11日、新聞に下村宏(海南)情報局総裁の談話が載った。これは下村によれば、終戦へ向けての事前工作というもので、戦局の困難さを告げ、”最後の一線を守るため政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても国体の護持のためにあらゆる困難を克服して行くことを期待する”という”含蓄深き言葉”で締めくくられたものであった。ところがその横に、次のような陸相布告が載っていた。
全軍将兵に告ぐ。「ソ」連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり。事茲に至る、又何をか言はん。断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令、草を喰み土を囓り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず。是れ即ち七生報国「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に、時宗の「莫煩悩」「驀直進前」以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし。
総裁談話と全く相反する布告に、読んだ人は混乱した。しかしこれは同盟通信の長谷川才次の機転によって海外には伝わらなかった。この文章自体は、稲葉正夫中佐が起草したものであったが、陸相、次官、軍務局長らに無断で新聞に載せたのは、親泊であったという。それを聞いた阿南は、「とにかく陸相布告も載せてやってください」と言うのみで、特に親泊を罰するようなこともなかった。

9月3日、親泊家を尋ねた人が、家族4人の遺体を発見した。
同期生、上司の上田昌雄少将への遺書と、”草莽の文”という長文が遺された。



上の写真は若かりし日の親泊(右)と菅波。菅波は戦後、多くは語ろうとしなかったが、特に自決した妹夫妻に関しては、完全に沈黙している。しかし著者は、その沈黙の中にこそ二人の強い繋がりがあるのではないかと推測している。私も同感であるが、残念ながらそれを裏付ける具体的な話は、さしもの著者も発見できなかったようだ。菅波は昭和60年、81歳で亡くなった。墓石には”遊戯三昧 三郎”の文字が刻まれている。これは、彼が生前好んで色紙などに書いた言葉だそうだ。

河内山譲『恩愛の絆断ち難し 富嶽特攻隊長西尾常三郎の生涯』光人社

サブタイトルの示すとおり、西尾常三郎大佐(死して二階級昇進)の伝記。西尾は陸士50期で、以前紹介した新海希典と同期。ちなみに著者の河内山も同期であるが、著者は偵察、二人は重爆であった。豪傑で鳴る田中友道大佐の第60戦隊で鍛えられた西尾は、屈指の重爆乗りとなった(田中の統帥の問題点に関しては一旦措いておく)。田中が転出すると、これまた剛直な小川小二郎大佐が戦隊にやってきた。西尾は小川の指揮下で重慶爆撃に出撃した。
その後、航空士官学校で区隊長となった。熱血の区助として抜群の人気があり、生徒は彼に”ヘス”というあだ名をつけた。航空士官学校幹事として着任した遠藤三郎が、緒戦のマレー航空作戦について、教官、学生、生徒を集めて講話を行ったことがあった。その爽やかな弁舌に皆感銘を受けたが、西尾は「くだらん。自分の手柄話じゃないか」と吐き捨てた。
昭和18年5月、第98戦隊の中隊長に就いた。98戦隊の属する第7飛行団々長はかつての戦隊長田中友道少将であった。カルカッタへ進攻する西尾たち重爆を支援するのは、同期の黒江保彦大尉の戦闘隊であった。
昭和19年3月、浜松陸軍飛行学校附となり、内地に帰還した。同校には、親友の新海が居た。8月、浜松飛行学校は、浜松教導飛行師団に改編された。中央部はかねてからの計画に基づき、四式重による艦船特別攻撃隊とサイパン飛行場攻撃を任務とする九七式重による第2独立飛行隊の編成を内示した。第2独立飛行隊長には新海が就いた。西尾は自ら特攻隊長に名乗りを挙げた。隊は梅津参謀総長によって富嶽隊と名付けられた。丁度同じころ、鉾田でも特攻隊が編成されていた。隊長はやはり腕利きの岩本益臣大尉であった。これは万朶隊と命名された。この2隊が、陸軍最初の特攻隊である。岩本大尉は跳飛爆撃の第一人者であり、特攻作戦の強力な反対者であった。それが皮肉にも陸軍最初の特攻隊長に任ぜられ、結局敵に一矢報いることすら出来ずに、無念の死を遂げる。西尾は岩本と違い、自ら名乗りを挙げた。これより以前、まだ南方に居るとき、日記に体当たり作戦への決意を記している。それでもやはり彼も、大本営の推し進める特攻作戦には強い怒りのようなものを抱いていた節がある。19年10月26日、富嶽隊は浜松飛行場より出発した。出発を前に、航空本部長、師団長らの見つめる中、隊員に訓示を行った西尾は、訓示の最中に涙を流して咽び泣いた。元来彼には感情の起伏の激しいところがあったが、それにしても衆人環視の出陣式で、歴戦の勇者が涙を流して泣くというのは、一種異常な感覚を周りに与えた。新海ら同期生にも見送られた西尾隊は真一文字に飛び去った。それを見送り家に帰った夫人は、「かならず出発後見るのだぞ」と言われて渡された遺書を開いた。そこには墨痕淋漓たる筆致で、西尾の決意が示されていた。

恩愛の絆は断ち難し
断ち難きは 心弱きに非ず
一たびこれを断たば如何
強き絆は 強き反動を生ず
断々乎 断
今や 全く心静かなり




西尾の戦死とほぼ入れ違いに比島に着任した第5飛行団長の小川小二郎大佐は、特攻に反対であった。飛行団に、特攻機を出すようにという要求を持ってきた猿渡第4飛行師団参謀長に対し、小川はその怒りをぶつけた。
「富嶽隊が四式をもってきたって、体当たりは成功しておらんじゃないか。西尾ほどの腕っこきを乗せてやっても、突入はできなかった。西尾が四式で行って、だめだというのなら、ほかの者が行ったって、だめさ」
「西尾少佐は惜しいことをしました」
「惜しいにも何にも、あれだけの重爆乗りがザラにおるものじゃない」

11月13日、富嶽隊第三次の出撃によって、西尾は戦死した。それにより二階級昇進の措置がとられ、西尾常三郎少佐は大佐となった。しかし隊長を亡くした富嶽隊の苦闘はまだまだ続く。

  



『Valkyrie』続報
以前のエントリでちらっと書いたトム・クルーズ主演のValkyrieのキャストが、更にちょっとだけ判明した。フロム将軍にTom Wilkinson、オルブリヒト将軍にはBill Nighyとのこと。うむ、もう少しドイツ系は使えないものか。
ところでこの映画、日本公開時のタイトルは”ワルキューレ”となるのか”ヴァルキリー”となるのか、どっちだろう?たぶんワルキューレだろうな。そうすると、当然宣伝部長は藤原嘉明だな。そしてレッドカーペットを歩くトムを襲撃!すると何故かドラゴンが前髪を・・・
ま、最近何となく第三帝国にはまってるので、この映画についてはこれからもちょくちょく気にしていくつもりです。
親愛なるピゴットヘ
 何よりもまず、わたくしの人物につき詳細な口供書をいただいたことを心から感謝いたします。それはわたくしの友人からいただいた中で最もすぐれたものでした。この口供書が軍事委員会に大きな影響か及ぼしたことは疑いありません。そしてわたくしの良心を非常に慰めてくれました。わたくしはこれほど深く友情に感激したことはありません。
 あなたをはじめ御家族の方々はどうしていられますか。あなた方がうまく切り抜けて来られたあのおそるべき戦争中、皆さんはお元気で過ごされたことと思います。御子息のフランシス君はどうしておられますか。もう少佐でしょうね。戦争中、御無事であったことを祈ります。わたくしの國も國民も現在、惨憺たる有様です。どんなにひどいか御想像もつきますまい。國民は飢餓に瀕しています。
 わたくしは開戦当初フィリッピンの軍司令官でした。今、そのむくいを受けようとしています。この手紙を御らんになる前に、あなたはわたくしがどうなったかをお聞きになることでしょう。
 わたくしはこんな厳しい苦難に直面しなければならないとは、夢にも思いませんでした。ただただ運命という外、このわたくしの気持ちをいい表わす言葉もありません。わたくしの弁護に立たれた六人のアメリカ将校に深い恩義を感じます。かれらは最も不利な吠況の下で、最善の努力を尽くされました。それはたとえ否定されたとはいえ、かれらは公平な裁判をするために健闘されたのです。
 わたくしの妻は証言するためにマニラに来ました。そしてあなたの御好意を深く感謝しております。もうすぐ日本へ帰るのですが、わたくしから厚くあなたに御礼を申し上げるように、また奥様にくれぐれもよろしくと申しております。
 わたくしは、またいつか再びロンドンを見る日のあることを希望していましたが、それは真昼の夢よりもはかないものとなりました。
 おもえば、アメリカ軍事裁判などでしゃべるために英語を学んだのではなかったのでしたが。ああ!
 もうあなたにも皆様にも、お別れの言葉を申さねばなりません。どうか御健康でいられますよう祈ります。
 わたくしの最悪の災厄に際して示して下さったあなたの友情にたいし、くりかえし御礼申上げます。
  サヨナラ、ミナサン、ゴキゲンヨオ
                   本間雅晴


F・S・G・ピゴット著 長谷川才次訳 『絶たれたきずな』より

ピゴットはイギリスの工兵将校であり、並み居る各国外交官、武官の中でもぶっちぎりの知日派であった。我が陸軍にも知己は多く、その交際範囲は山県有朋、上原勇作といった元老にも及んだ。しかし東條英機にはあまり親しみを感じなかったという。戦後、マッカーサーの個人的復讐の生贄に供された親友本間雅晴のために、マニラの法廷に口供書を提出した。上はそれに対する本間のお礼の手紙。原文は英語。”サヨナラ、ミナサン、ゴキゲンヨオ”のところだけわざわざカタカナにしてるのは、ひょっとしてここだけ原文でも日本語だったのだろうか?当然ピゴットは日本語バリバリである。


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