近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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本を読んでいて面白い部分を見つけると、極力付箋を貼るようにしてます。でもしばらくすると、そのエピソードがどの本に載っていたか思い出せなくなり、折角の付箋もあまり役に立ちません。書くというのは大事ですね。そういえば学生時代も私は書いて覚えていました。ましてこのように人目に触れるものを書くとなると、気を使うので、より自分の頭にも入ります。これからは読んだら書く、をできるだけ実践していきたいです。

『四王天延孝回顧録』 みすず書房 昭和39年7月25日
四王天延孝は前橋藩士の西村家に生まれ、四王天家の養嗣子となった。祖父は前橋藩家老四王天清とのことであるから、分家か何かだろう。四王天家の祖先は明智光秀の部将四王天但馬守といわれる。陸士11期の工兵将校。陸士、陸大の成績は平凡だが、日露戦争では鴨緑江渡河の際に功をたてた。反ユダヤ主義者として有名だが、伝書鳩を陸軍に持ち帰ったりと、工兵将校としても色々な仕事をしている。この回想録は戦後に書かれたが昭和11年で終わっている。面白かった部分をピックアップしておく。

福島安正はものすごい甘党の上下戸。ラム酒の入ったプディングでも酔うし、アルコールランプの匂いでも酔うらしい。

ザバイカルの第五師団、内線作戦で3兵団を各個撃破。戦術家の鈴木壮六師団長、令名を挙ぐ。

軍務局長畑英太郎は練達の事務家。いつもは盲版式だが、時々「うっ」と捺印の手が止まる。その書類は必ず問題があった。

関東大震災時、陸軍省経理局の白戸課長、朝鮮人と間違われて殴打される。深谷の警察署に保護された朝鮮人83名の身柄について、旧部下に指示を与える。のぼせ上がった町民、警察署に押し寄せるも、これを渡さず。

陸海軍の航空研究機関の合同に努力するも、上層部の感情的な反対でぽしゃる。

将官演習旅行では軍司令官を仰せ付けられる。参謀長は井染禄郎。上原参謀総長に大いに褒められる。

国際共産党の本を出版。現役将官が実名で出すのは良くないと言われペンネーム「藤原信孝」とした。四王天家は鎌足から十六世、児玉七党の一を祖としているため。

上原元帥より、ユダヤ問題から手を引くよう勧告を受ける。これを拒否した四王天、その後間もなく予備役となる。

大場弥平と連れ立って、原田熊男を訪問し、国際連盟脱退反対の意見について聞きに行く。要領を得ない返答に、はっきり答えるよう勧告すると、原田色を失い、椅子にめり込んで無言になってしまったので、丁寧に辞去した。小心の人との印象。

昭和10年4月2日、軍人会館で催された林陸相主催の在郷将官招待会で、参謀本部の坂西一良大佐、酒を飲んで登壇し、”閣下方は起きているのか眠っているのか、生きているのか死んでいるのか、恐らく眠っているのであろう”と激越な調子で怒鳴った。将官が黙っているわけがない。”何を無礼を申すか、降りて来い”とか”イヤ、何を言うかもう少し言わしてみろ”という意見もあったが、驚いた主人の陸軍省の人間が坂西を拉致して去った。聞けば在郷軍人会幹部の某将官が、この会合を利用して謡曲の会か講習のパンフレットを配布したことに坂西が憤慨して、このような言動を為したということだ。しかし理由の如何に関わらず、このような不軍紀行為は許すべからざるものであるから、大佐は停職処分となった。


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1911(明治四四)年
一月八日 日 晴
 午后四時頃より、約により少将田中義一来訪。将来の国事に就き意見を交換し、且つ之れが為め偏狭なる郷関等を眼中に置かず、有為の人士と協力するの必要なりと云ふことに双方の意見一致し、先ず手始として海軍の財部少将(次官)と打解談を為す為め、余其機会を作ることに談じ合ふて対酌数時、九時頃辞し去る。
<注釈>
郷党閥を越えて協力しようと田中義一と約定を交わした宇都宮。実際、田中は長州派の寵児であったが、長閥意識は割合薄かった。手始めに、薩摩出身で山本権兵衛の婿、財部と田中の会談を宇都宮がセッティングすることに。



一月二十九日 日 晴
午后五時、我部の部員歩兵大尉香椎浩平の結婚披露の宴に列す(五円の勝男武士を送る)(第四課長武藤信義、昨日歩兵大佐に昇進に付き、亦た同様五円の鰹節を贈る)。香椎は福岡人にして誠実愛すべきの士なり。
<注釈>
香椎は磊落な性格の好人物であった。後に二・二六事件の当事者の一人。



二月六日 月 晴
 夕食後、海軍次官少将財部を訪ひ、不日余が宅に田中義一と三人会合打解談を試ことを申入れしに、彼れも快諾す。
<注釈>
先頃田中と交わした約束を財部にも伝えて、快諾を得る。薩摩系に親しい人の多い宇都宮は、この薩摩の海軍軍人ともある程度親交があった模様。



二月七日 火 晴
 第一部長松石安治、清国旅行の処、帰途罹病(昏睡状態に陥りたり)、去る五日帰京の由に付き、其家に往訪。
<注釈>
満洲四平で暖房器具の不具合からガス中毒に。以後、宇都宮は松石の容態に一喜一憂することとなる。



二月十八日 土 晴
 出勤掛、松石安治を赤十字病院に見舞ふ。尚ほ昏睡の状態に在り。
 此夜海軍次官海軍少将財部彪、歩兵第二旅団長陸軍少将田中義一を招き会食、談話を交換す。
<注釈>
以前の約束どおり、田中宇都宮財部の三者会談成る。
松石以前昏睡状態。宇都宮は数日おきにこれを見舞う。



二月二十七日 月 晴
 病気在宅(実は在宅、師団長会議に対する取調を為す)。
<注釈>
さぼって宿題?



三月二十一日 火 晴
 出勤掛、松石安治を見舞ふ。依然として昏睡状態に在り。真に憂ふべきなり。

四月十九日 水 晴
 井口中将来衙、松石病気を心配して小熊なる気遣治療を勧む。余も之に同意す。百方手段尽きたればなり。

五月三日 水 晴
 出勤掛、松石を見舞ふ。素人目には幾分快方の様なれども、平井院長は保証せず。
<注釈>
何時までたっても意識を快復しない松石に、陸大校長の井口省吾も心配し、ついに非科学的な治療に頼る心境に。井口もまた宇都宮や松石と並ぶ反長州の軍人。



五月十七日 水 曇後微雨
御思召を奉じて英人ハンナ・リデル嬢の苦心経営に係る癩病人収容回春病院を見舞ふ。牧軍医正、今井獣医正同行す。三宅院長の案内にて巡視す。収容患者五十一人、悲惨の極、如何にも気の毒の至なり。中には十四歳の小童患者、其母と共に収容せられ、母は重体なるあり、妙齢の処女もあれば頽齢の老人もあり、多くは親戚故旧に棄てられ孤独無告の中に死期を待ちつつあるの状、不憫とも気の毒とも言はん様無し。仁政の端は此辺より始めざる可らず、徒に法治等と称へて冷やかなる施政の結果は大逆無道の罪人を出す、輔弼者の責任や大なり。真に王道を行はば天下何物か感孚せざらん、噫。懐中にありたる金子の全部二十五円、殿下の御下賜金としては小額に過るとは考へしも、一人一人に菓子にても買ひ与へ呉れられよと申し、殿下よりの御菓子料として残し置きたり。
<注釈>
特命検閲の途中、我が国におけるハンセン病治療の魁、ハンナ・リデルの回春病院を訪ね、その悲惨さに強く心を打たれる。思わず手持ちの金銭を寄付する。



六月二十四日 土 晴
 本日福島中将宛松石の処分の軽挙なる可らざること、万止を得ざる場合にも其後任は尤も慎重に考へ余にも腹案あることを申送る。
<注釈>
快復しない松石の第一部長更迭が話題に上るようになった。検閲で東京を離れたままの宇都宮は、手紙で、松石の処分は慎重にするように福島安正次長に頼んでいる。



七月十五日 土 晴
 退出掛松石の病気を其自宅に見舞ふ。彼先ず発言、余が面を記憶するものの如く種々の応答を為せしに、大抵は間違無く体力も余程回復、此分にては快復疑無きものの如く慶賀の至なり。
<注釈>
久々に松石を見舞う。脳をやられた松石であるが、宇都宮の顔は判別できたらしい。僅かな快復を喜ぶ宇都宮。



八月八日 火 晴
 上原氏へ政局に関する長文の書状を出す。
 少将田中義一と役所に会見、政局に関し意見を交換し、陸軍大臣の後任は両人の意見上原に一致す。
<注釈>
桂内閣が退陣となり、寺内陸相も桂と進退を共にすることとなった。後任陸相は上原勇作が最適ということで、田中義一と意見が一致した。



八月二十五日 金 晴
 田中義一電話して曰く、二、三日前までは大臣後任は上原と確信せしに、昨今少しく変態を生ぜり、二、三日前までは石本の行先を研究せしに、今は中止せられ、ドーモ石本にはあらざるか云々。余は他用に託して陸軍省人事局長山田を見て之を叩きしに、彼曰く、寺内大将昨日小田原山県元帥を訪問の結果、大臣後任は愈々石本次官の昇任に確定せり唯今内聞せり云々。是に因て見れば、彼等長閥者は石本推薦に一致せしこと最早疑ふべきの余地無し。此上は政友会の態度なれども、これは余り当にせざるを至当とす。即ち此度は目的を遂げざりしものと覚悟後図を画すること肝要なり。尤も表面は更に一層の冷静を装ふこと必要にして、余も再び一伴食部長として無声雌伏の旧態に復べく、徐に後図を画せんとす、誠に是非も無き次第なり。併し石本にせよ誰にせよ、藩閥者流の天下は確に一転機の運に向へり。奮ふべし奮ふべし大いに奮ふべし。以上の要旨を上原中将を始め井戸川、町田、小山、樺山等の同志に通ず。
<注釈>
後任陸相は上原という意見で一致していたはずの田中から、どうも後任は石本新六になりそうであるとの電話を受ける。人事局長で長州の山田隆一にそれとなく尋ねたところ、山縣有朋と寺内正毅との会談で、長らく寺内の次官を務めた石本の昇任が決まったとのこと。上原を推していた田中も、敢えてこれに逆らうような動きは無し。宇都宮も時利あらず、”一伴食部長”として雌伏すると決め、同志の井戸川辰三、町田経宇らにもそのように伝えた。石本は上原と同じ工兵科であり、同じようにフランスに派遣された人物であったが、精励ぶりが寺内に気に入られ、長く次官を務めた。しかしそのハードワークが祟ったのか、現職のまま病死する。息には二・二六事件で判士を務めた石本寅三らがいる。



九月二十二日 金 雨
 去二月以来病気にて転地中なりし福島中将昨夕帰宅の由に付き、出勤掛往訪せしに、元気も余程快復しあり、公務上の報告、人事(松石後任には由比を第一、山梨第二として薦む。其外柴、星野等も参考に供せしに、由比には尤も同感を表せらる。大沢少将の往先心配を頼みしに、輜重兵監に為すことには出来れば同意の趣にて、余先ず浅田教育総監の意を質すことになり、本日午後往訪之を尋ねしに、浅田氏は現兵監の往先無き等を理由として拒否の意を洩せり)。
<注釈>
松石の更迭は避けられない状況となり、後任について福島と意見交換。宇都宮の第一候補は高知の由比光衛、第二候補は田中と同期で田村怡与造の婿山梨半造、更に宇都宮の同期、柴勝三郎、新潟出身の星野金吾を挙げたが、福島も由比が最適と、意見が一致した。
また第三部長大沢界雄の転任先として、輜重兵監はどうかと、教育総監の浅田信興に打診したが、浅田は婉曲にこれを拒否した。結局大沢は由良要塞司令官という閑職に転任し、間もなく予備に入れられる。



十月八日 日 晴
 在宅。歩少佐松井石根来訪(其縁談に付き)、余が懐抱の一部を告げ、余が為めに尽さんことを求めしに、彼も承諾之を約す。余は腹心として彼を使用せんと欲するなり。
<注釈>
以前世話した縁談こそうまくいかなかったが、その後も宇都宮は松井の面倒を見ている。遂には同志となるよう求め、松井もこれを承諾している。



十月十日 火 曇
 過般来次長と内議中なりし第一部長後任に由比を、否らざれば山梨或は柴を、大学校長に松川を、否らざれば星野、柴の内を推すことを重ねて内相談し、次長の決心は決したりと認む。併し前途幾多の難関あり、安心は素より未だし。彼等は両方共に大場、大井を推し、大島より之を唱導せしめつつあり。斯の如くなれば、既に長州の寵児あり、準長の大島あり、之に一長を加へば参謀本部の部長は五人中の三人は長州にて、本部は純然たる長州の物たらんとす。大学校長に長州人の用ゆ可らざるは試験問題の漏洩、人選の詮考等の私曲甚しく、其前例あるを以て、初めては大学校丈なりとも彼等の毒手より神聖に為し置き度微意なり。
<注釈>
長州派は第一部長、陸大校長の職に大庭二郎、大井成元を据えようと、参本総務部長で長く山縣の副官であった大島健一を使って、運動していた。宇都宮は松石の後任には以前話した通り由比を、井口の後任には松川敏胤を据えるように、改めて福島の決心を求めている。陸大の校長を長州派にすればえこ贔屓をする、すでにその前例があると、宇都宮は書いている。恐らくその前例とは寺内正毅と、その跡を継いだ藤井茂太だろう。藤井は兵庫だが、そういう噂がある。



十月十八日 水 晴
 過般来私に苦心せし松石第一部長の後任に、吾人側の由比光衛確定、一安心す。長系の意を迎ふるに急なる大島等は、長の大庭、大井を推したるなり。事此に至るの已むを得ざりし、松石の為めには気の毒なり。
 此夜時局に付き警保局長古賀廉造と其案内にて木挽町緑屋に会飲。亦た「私見」を内示し時局を談じ、同時に極めて隠密に叛徒を助くるに付き、殊に職掌柄武器輸出等に便宜を与へんことを内談せしに彼も快諾す。
<注釈>
・結局第一部長には宇都宮の第一候補であった由比が就任することとなった。しかし陸大の校長には大井がなる。この翌年のことである。
・警保局長古賀廉造と会談し、支那革命軍への武器の供与を黙認するよう依頼して、承諾を受けている。



十月二十五日 水 晴
 松石少将病捗々しからず。時局急なる為め、少将由比光衛第一部長に任ぜられ松石は待命と為る、誠に気の毒の次第なり。由比は近衛歩兵第四聯隊以来の親友にして、此度は余も推薦者の一人なり。
<注釈>
松石、遂に待命となる。由比は松石ほどの才気の閃きは無いが、戦場に於いては飽くまで豪胆な人物であった。



十一月二十九日 水 晴
 陸軍大学校卒業式に付き陛下御臨幸参列す。第一は旧連隊の歩中尉梅津美治郎にて、六人の優等者中第五も同じく歩中尉篠塚義男なりしは心中独り嬉しく覚へたり。
<注釈>
旧部下から二人が陸大恩賜賞を貰った。目を掛けていた篠塚は陸軍に入ってから初めて首席を逃したが、この期は陸大有数の激戦の期であった。首席には最後の参謀総長梅津美治郎、次席は永田鉄山、それに加賀の当主前田利為、藤岡万蔵、篠塚と続き、6位は小畑敏四郎であった。



以上で、『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記 1』のレビューは終わる。読んでくださった皆さん、ご苦労様でした。

ところで最後に、宇都宮は陸軍三太郎と称された中の一人であった。ところがこの三太郎、もう一人は仙波太郎で確定なのだが、最後の一人が本によって違う。明治44年発刊の鵜崎鷺城著『薩の海軍長の陸軍』によれば宇都宮と仙波、林太郎を合わせて陸軍の三太郎としている。しかし戦後出た本ではこれが桂太郎になっている。字面が似てるのでどちらかが誤植の可能性が高いが、これがまた微妙すぎる対比で、どっちが正か判別できない。確かに桂は、仙波、宇都宮と並べるには大物過ぎる。一方の林は、士官生徒の6期生であり、軍事課長などの要職も経験しており、こちらが正しいような気もするが、彼は旅団長を最後に中将進級と同時に待命となっている。仙波、宇都宮と並べて三太郎と呼ぶにはこちらはやや小物のような気もする。まあ、宇都宮が陸軍を代表する逸材であることには変わりは無いが。


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結構長い間探してた(といっても血眼になるほどではないが)ピゴットの『絶たれた絆』を手に入れました。朝、起き際に何となく閃くものがあり、トイレに行くより先に日本の古本屋で検索して発見。こういう勘だけは効くんだよなあ。
以上閑話。

1910(明治四三年)
二月二十八日 月 晴
 満洲長春にて実業に従事せる辺見勇彦(元と高島中将の書生たりしことあり、三十七、八年役には馬賊を率いて功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)。

<注釈>
辺見は日露戦争の裏側で活動した馬賊の一人で中国名は江崙波。父は西郷隆盛軍きっての猛将辺見十郎太。最初は高島鞆之助の書生、次に上原勇作の書生を務めたが、軍人になる気がさっぱりなかったため、大陸に渡った。



三月十四日 月 晴
 此夜、内務省地方局長床次竹次郎を訪ひ、時局発展且つ高島子爵救済の儀に付き相談する所あり。

<注釈>
負債を抱えて苦しんでいる高島鞆之助救済について床次と相談している。床次は薩摩出身故。後に政界入り。昭和の政界をかき回す台風の目となる。



四月七日 木 晴
 部下部員歩兵少佐井上一次、機密書取扱に付不注意の科軽謹慎三日に処す(小功名心利己主義の人にして、大学校にて講演せる講義を印刷し、山県元帥や其外へ配布せんとせしなり。警告する所ありしも注意を欠き物議を生じ、穏便に為し能はざる事情あり処分)。但し次長は同人を米国公使館付と為すことに付ても不同意を唱へられたるに付き、熟考すべきを約す(余は一の考案あり、尚熟考中なり)。

<注釈>
井上一次は石川出身で、シンガポールやフィリピンに差遣されるなど、英米情報畑を歩む、宇都宮にとっては直系の後輩になる。それが、山縣有朋に阿るために、部内秘を勝手に持ち出し、処分を受けた。決まっていた米国駐在の件もこれで中止とすべきと、次長の福島安正は主張したが、宇都宮は留保した。結局宇都宮の配慮で、井上は無事米国公使館附武官となる。



六月十八日 土 曇
 本日は去る明治十八年士官学校を卒業少尉に任官せし第七期生の第二十五回の誕生日に付き、幹事村岡方にて午后より誕生会を開き、会する者、島川、柴、井上、石栗、高瀬、宇都宮に主人村岡を加へて七人。同期生は入校の時は七十人なりしが、目下現職に在るものは僅に巻末に録せる二十六人なり。例に依り中隊長馬場少将(ヨビ)に祝辞を送り歓飲して散ず。
 此夜小山秋作来宅、之に南洋拓殖の必要を語る。

<注釈>
・士官生徒の7期からは宇都宮のほかに島川文八郎が大将となった。硬骨漢で知られる柴勝三郎は中将どまり。井上仁郎、村岡恒利も中将、高瀬清次郎は少将であった。

・小山秋作は何期かは忘れたが、日露戦争では裏方として活動した軍人で、大佐くらいで予備に入ったはず。南洋起業という国策会社を起こすのだが、まさにその相談だろう。宇都宮も英国に駐在していただけに、東南アジアに目が向いている。



七月三日 日 雨
 親友橋口勇馬、女婿宮内歩兵大尉夫妻来訪。寿満子と四人にて晩餐を与にす。

<注釈>
橋口勇馬は日露戦争では馬賊を率いて後方攪乱にあたった人で、花大人や前述辺見と同じく薩摩人。父は寺田屋事件で斬死した橋口伝蔵(つまり樺山資紀は叔父となる)。ところで彼が連れてきた婿の宮内であるが、宇都宮は歩兵と書き、この本の編集者もそのまま訂正していないが、これは間違い。この人は宮内英熊といって騎兵科で、後に近衛騎兵聯隊長なども務めた人物。日露戦争では永沼挺進隊に参謀格として加わり大活躍した。
 



八月五日 金 晴驟雨
 早朝深堀未亡人来訪(篠塚へ縁談に付き)。

八月六日 土 曇
 篠塚母来り一応中止の旨にて写真を返へす。

<注釈>
目を掛けている旧部下篠塚義男についての縁談話。結局彼は長谷川直敏中将の娘と結婚しているが、これが宇都宮の斡旋かどうかは知らない。しかし長谷川と篠塚は11歳しか違わないので、篠塚はひどく晩婚だったのか、あるいは再婚か。



九月十一日 日 晴
 夕刻、野戦砲兵監中将大迫尚道来訪。帯病満洲に帰任せし伊地知第十一師団長の進退の儀に付凝議の結果、関東都督より中将の内地転任を上申せしむるを尤も穏当と為し、此手続を取る様細々なる依頼状を余より都督府参謀長星野少将へ送ることと為り、起草研究の上一応親友上原中将に示して発送のことに決して夕食を共にし、大迫氏携へ去る。

<注釈>
病気のまま満洲に帰任した伊地知幸介の処遇に関して、大迫兄弟の弟尚道と相談している。上官の関東都督(大島義昌)から中央に、内地帰任を申請してもらうよう、都督府参謀長の星野金吾少将に手紙を書くことに決したようだ。”親友上原中将”というのは宇都宮と伊地知のどちらに掛かっているのか?年齢からいえば伊地知だろうが。


九月十七日 土 曇
 退出掛、陸軍大将土屋光春を其大久保の新寓に訪ふ。大将は日清役には大佐にて川上中将の下に陸軍参謀たり、余は大尉にて其下に参謀たり、戦役後も大佐は第二局長にして余は引続き其下に大尉局員たりしなり。余が日清戦役後対露の目的を以て従来の七師団を倍加して十四師団の七軍団に拡張すべき意見を呈出し、財政の関係上近衛の二師団は一師団となり結局十三師団案として成立せしは此土屋大佐の局長時代にて、川上中将の力は勿論なれども、大佐の好意も与て其進達成立に多大の効果ありしなり。今の伊地知中将が当時の中佐にて、土屋局長の下に今の課長の如き位置にありたり。先づ之に謀り其力に依りて順次進達せられたるなり。当時第一局長たりし少将寺内正毅、陸軍次官たりし少将児玉源太郎等は初は之に反対せしは今に一奇なり。彼等は此兵力を以て当時過大と為せしなり。殊に参謀本部中にても東条英教の如きは、僅かに一師団増加を以て足れりと称したり。畢竟是等は当時対露の観念未だ皆無若くは不十分なりし結果なるべし。

<注釈>
土屋光春は岡崎出身で、川上操六にその才を認められ起用された人。日清戦争後、師団の倍増を唱えた宇都宮を後押して、何とか13師団まで持っていった。このとき陸軍省の寺内正毅や児玉源太郎は増師に反対し、参謀本部に於いても東條英教などは一個師団増で十分と言っていた。第2局員であった伊地知は、宇都宮と同じく増師を主張していた。土屋はこの八月に大将親任と同時に後備となった。宇都宮の訪問も恐らくはその慰労であろうが、もう少し大将として用いるべき人物であったのではないか。思い出話を記した宇都宮にもまた、そういう残念な気持ちがあったのではなかろうか?



九月二十六日 月 雨
 午后三時三十分、清浦子爵等の斡旋にて出来上りし同郷の先輩司法大臣伯爵大木喬任銅像除幕式に参列す。同郷の人の外は会するもの寥々。これが長州人の仕事ならば猫も杓子も駆付け可きに、人情の軽薄是非も無き次第なり。

<注釈>
佐賀の大先輩である大木喬任の銅像除幕式。参列者が少ないことを愚痴っている。長州人の銅像なら猫も杓子も駆けつけるであろうにと。時代は下る。大正11年、長州の山縣と佐賀の大隈という超大物が前後して亡くなったが、参列者は大隈の方が遥かに多かったという。



十月二十五日 火 小雨
 新嘉坡松本より「小山トモ相談確定、五千円送ラレ度シ」との電報昨夜到達、乃ち南方経略事業の準備に一歩を踏始めたるなり、慶すべし。唯だ準備せしは二千円にして三千円の不足なり。福島次長に相談せしも二千以上は出来ず、去て辻村経理局長に談ぜしに、同情を以て心配し呉れしもこれ亦た確実なる算なし。因て初の決心の如く渋谷地所抵当にて明治商業より借出し得る余地尚ほ存するを以て、後は後として此際此三千円は同銀行より借出し送金以て急場の需要を充すに決心す。

<注釈>
南方経略のため、シンガポールに着いた小山から金が足りないとの電信。参謀本部でも陸軍省でもこれ以上出せないとのことなので、宇都宮は渋谷の地所(2800坪)を抵当に、自分で金を借りることにした。宇都宮の月給は262円。それにしても、社会保険庁の連中に聞かせたい話だ。


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少し前にマスコミが騒いだ赤ちゃんポスト。設置した熊本の慈恵病院蓮田太二理事長は、以前当ブログでも紹介した蓮田善明の次男だそうです。ま、それだけなんですが。↓参照
http://kumanichi.com/iryou/kiji/yurikago/148.html

蓮田についてのエントリは↓
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-88.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-89.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-91.html
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-93.html

今週は色んなニュースがありました。ウオッカの宝塚記念出走とか、田村潔司の婚約発表とかw(これはまじでびっくりした)。しかし私的な最大のニュースは、念願の戦闘序列検索サイトをリリースしたことです。→陸軍デービー
もともと私は陸軍の人事や官制を扱うサイトをやっておりました(右プロフ欄参照)。勿論普通のhtmlのサイトです。これだと、歴代○○といった時間軸を縦に取った情報は現しやすいのですが、横のつながりはもう一つしんどい。特に頻繁に変わる支那事変以降の戦闘序列を現すのにはどうにも不足でした。そこでデータベースで行こうと考えたわけです。そうなるとサーバを借りないといけない。ValueDomainでドメインを取るのがコスト的にも一番良い。となれば開発環境は自然にWAMP(Windows + Apache + MySQL + PHP)と決まりました。まあ決まったのは良いんですが、私はSQLは少しは分かりますが、PHPはずぶの素人。とっかかりは結構熱心に勉強してたんですが、selectで取ってきた内容を表示する段階でつまずき、暫く休憩。そうこうするうちに仕事が忙しくなり、家でまでコーディングなんてやってられっかということで、軽く3ヶ月放置。で、先週から再び取り掛かり、やっと一応の完成を見たというわけです。勿論デバッグもしてますよ、30分は。というわけでさわるたびに不具合が・・・出来たと宣伝しておいて何ですが、こいつデータベーステーブルに非常に依存したつくりになっているのですが、その肝心のテーブルがまだ7割くらいの完成度でして。頻繁に時々嘘を表示しますが、そこんところは自己責任でこの休みで鋭意作業します。一応半年に一回のやる気モードになってますので。まあ、ぼちぼち使ってやってください。何かお気づきの点があれば、ここでもどこでも書いてください。


1909(明治四二)年
五月二十二日 土 晴
 篠塚中尉来訪。義兄負債の抵当に供せし其家邸の竟に人手に委せざる可からざるの悲報を報ず。

<注釈>
篠塚義男は歩一の将校の中で最も頻繁に宇都宮家を訪れている人物である。かつては自邸の庭に実った柿を持ってきたこともあったが、今度その邸を借金の抵当に取られることとなってしまったらしい。彼は熊幼、中幼、陸士をすべて首席で卒業したホープで、宇都宮も相当な期待を寄せていた。宇都宮は日露戦争当時、駐英武官として明石工作を助けて活躍したが、篠塚も第一次世界大戦に於いて、オーストリア大使館附武官として、情報収集で手腕を発揮した。大山柏は篠塚について、”名諜報で名声を博した”と書いている。四王天延孝も”ウィーンで色々な問題について卓越な意見を聞かされたから、それは書物に書いて広く人に読ませたらどうかと慫慂したら、書物を書きこれを印刷に附することは容易だが、その代わりこれは普及性が強いから万一誤りが混入すると、多くの人を誤まらせる害も少なくない。だから余程慎重に研究してからでないと印刷して発表するなどはすべきものでないと謙遜された”と書いている。終戦時、”軍事参議官として開戦に賛成した責任”をとって自決した。
ちなみに東條に対する数多の非難の中に、同期で自分より成績の良かった篠塚を嫉妬からクビにしたというものがある。これは東條の大将進級時の特殊事情から発生した噂ではないかと思う。この当時、大将に抜擢人事はやらないというのが暗黙の了解であった。しかし東條は首相に任命されたため、特例として大将に進級した。このとき、学校の成績などにより、停年名簿で東條より右翼にいた篠塚は追い抜かれた。追い抜かれた篠塚は予備役になるでもなく、現役に留まった。この異常事態から先のような噂が出たのではないか。しかし戦争末期に何人か出たへんちくりんな大将を見る限り、篠塚を大将にしても良かったのではないかと思わないでもない。



八月十八日 水 曇
 仏国より近頃帰朝歩兵第四十八聯隊長に補せられたる大佐町田経宇、久留米より態々来訪。将来の事共時事を相談して夜十二時を過ぎ町田も一泊す。金谷範三の同志たり得べくを彼に告ぐ。

<注釈>
町田経宇は鹿児島出身で、いわば同志。後に大将。
後記の9/23の日記にあるとおり、宇都宮はこの段階ではまだ金谷範三と面識がない。では何を以て同志足り得るとしたのかというと、彼が送ってきた手紙の内容が良かったのだろう。金谷は後年、宇垣の後援を受けて、宇都宮の後継者である武藤信義と参謀総長の座を争うのだから、皮肉である。



九月十七日 金 雨
 久振にて高島中将を往訪せしに、不遇の上に負債累積如何にも気の毒の境遇に在り。併しさすがに本人は之を辞色には現はさず、強て平然たる所一層気の毒の感を深くす。

<注釈>
宇都宮がかつて、参謀総長にしようと奔走した高島鞆之助であるが、どういうわけか借金まで抱えて不幸な境遇にあるらしい。それにしても宇都宮は中々情に篤い。



九月二十三日 木 晴
 歩兵少佐金谷範三来訪、同人は在欧中屡書を送り呉れし人にて今日初めて面談。

<注釈>
前記の金谷(後の参謀総長)と初めての対面。この頃の宇都宮は、佐賀や鹿児島といった郷党のほかに、自分の職場である参謀本部に仲間を求めている。金谷もまた統帥一本槍の人物である。



十一月七日 日 晴
 演習第二日。南軍は昨日来箒川右岸の陣地を占め、北軍は進で之を攻撃し、戦局を終らずして夜に入り現在地にて夜を徹することとなる。此日第二師団は主力を佐良土方面に用い突撃せしも、無効と審判して原位置に退却せしめしに、第二師団長松永中将服せず互に多少の激語を用ゆるに至りしも終に服従せられたり。中将は余が中尉時代の大隊長にして平生先輩として尊敬せし所なりしに此始末に至りしは遺憾の外なし。併し彼我互いに直に一笑釈然たるを得しは仕合なりき。此夜は佐良土村なる小料理屋角やに投宿。八時半より露営地及第一線巡視、夜十二時帰宿す。

<注釈>
陸軍特別大演習、宇都宮は審判官を務めた。このとき第二師団長松永正敏は、師団砲兵の掩護の元に、橋の上を突進した。宇都宮はその攻撃不成功と判定し、松永に原位置に戻るよう要求した。しかし日露戦争で鳴らした猛将松永は容易に引かない。この様子を固唾をのんで見守っていた歩兵第四聯隊の若い少尉がいた。彼は後に陸軍大将となり、戦後回想録を出したが、このときの宇都宮の様子が余程印象に残ったようで、一章を割いている。以下はその回想録『私記・一軍人六十年の哀歓』より抜粋。
” 私は軍旗を奉じ、旗護兵五人と一団となり、乗馬審判官ふたりのまん中におどりこんだ。馬が驚いてあとずさりし、一頭が前脚をあげたので、一人は落馬しかけた。するとうしろにいたもひとりのべつの審判官が、私を踏みつぶすような気勢で、前に立ちふさがった。見れば少将の階級章をつけ、参謀懸章をつけている。
「松永将軍!攻撃は不成功。すぐ旧位置にお戻りなさい」
「さがらぬ。不公正の審判には服さない」
「おひかえなさい。陛下御統監の審判でござりまするぞ」
 血色の良い丸顔の少将は、こうどなった。
 松永師団長は「うーん」とうなりながら、からだをふるわせ口惜しがっていたが、「陛下の統監」といわれては、もう返す言葉がなく、
「河内(礼蔵)大佐!北岸に戻れ」
 自身も、うしろに戻りはじめた。
 私自身は連隊長といっしょに戻りながら、「こんな狭い橋のうえを密集縦隊で突進するなんて、非実戦きわまる。司令部も川の中を突っ切るべきだ。さげられたってしかたがない。が、猛将軍とうたわれている、日露戦の勇将軍に対し、階級の下の少将が、敢然公正な審判をやり通した、あの人はえらいな」と思うと同時に、なんだか、源平時代の絵巻物を見ているような、詩的な感情を覚えたものだ。”



十一月十二日 金 晴
 午后七時三十分より桂総理大臣官邸にて英国元帥キッチナーを晩餐に招待、参列す。客はキッチナーの外、大使及我大臣並に大将等なり。帰途上京中の上原第七師団長を訪ふ、不在。本日松石を参謀本部より追はんとするの相談を長岡より松石に打掛け、松石より相談あり。次長に絶対に拒絶すべきことを勧め、尚総長へも此決心を為さしむる為め福島中将を同邸に煩はし、両人の決心も固定せりと認む。

十一月十三日 土 晴
 松石と其進退に付き彼来談。次長とも協議。益々総長、次長の前決心を固執せんことを勧め、次長は諾して再総長邸に往訪す。

<注釈>
もうひとつわかりにくい文章だが、長岡外史はこの当時軍務局長であるので、松石更迭案は陸軍省から出たものと考えるのが妥当か。それに対し宇都宮は、断固拒絶するよう本人にも言い、更に次長にも働きかけている。このときの次長は福島安正である。
キッチナーはあのキッチナー。


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李登輝前総統が来日された。回を重ねるごとに騒ぎは小さくなっているように思う。まあ、中共が因縁を付けて来るのはまだ分かるが、嬉々としてそのお先棒を担ぐ御注進メディアには呆れる。ターザン山本もびっくりのマッチポンプっぷりだ。ネオコンの先棒を担いでイラク戦争の旗を振った連中と並び、醜悪としか言いようがない。
ところで、李登輝さんの軍歴についてはわからんことが多い。Wikiには千葉の高射砲隊に居たと書いてある。私自身は、名古屋に居たというのを本で読んだ記憶がある。そのとき第10軍に居たと書いてあったが、これはご本人の思い違いか、編者のミスだろう。この当時日本には第10軍という部隊はない。恐らく、これはあまり私も自信がないが、所属していた中部軍が第10部隊という秘匿名を使ってたのではないか。若しくは台湾に司令部を置く第10方面軍とごっちゃにしたのか。
まあとにかく李登輝さんには長生きしていただき、何度でも日本を訪れていただきたい。私は中国本土の分裂を夢見る程馬鹿ではないが、台湾に関しては完全な別の国だろう。少なくとも中共による一党独裁が続く間、統一はない、ない。




ところで話は全然変わるが、最近買った本とCDについて。


最近はやりのキーワード「インテリジェンス」。著者は若手の防衛研究所戦史部教官の小谷賢氏。日本軍の諜報能力は言われているほど悪くないよ、それを全然いかせなかった作戦部が駄目なんだよ、という戦後情報系の元将校たちが主張してきたことに沿った内容。しかしセクショナリズム、今でも全然改善されてないだろ。

買う本(古書込み)の冊数と買うCDの枚数がすっかり逆転してもう何年になるか。最近買ったのはマニックスの新譜とNINの新譜。感受性は20世紀に置いてきました。Your Love Alone Is Not Enough が妙に心に沁みる。21世紀版Little Baby Nothing だね(超適当)。次はの楽しみはVelvet Revolver の新譜。これは21世紀のバンドだぞ(中の人はおもっくそ20世紀だけど)。

1907(明治四十)年
一月二十八日 月 晴
 平山信成長女春子を歩兵大尉松井石根に勧め、今日手紙にて再考の余地あるや否やを尋ねしに、自分は総長の宴会故来れず、弟七夫をして来事情を打明け陳謝せしむ。要は親父の負債一万二千もありて之を兄弟四人にて負担し居る故、当分妻帯出来ず、且つ気の毒なりと云ふにあり。故に此方にては善く熟談も致すべく、其方にては何れにして整理を謀るべしと告げて帰らしむ。

<注釈>
平山信成長女というのは、宇都宮にとって姪にあたる(妻の姉が平山家に嫁していた)。松井石根は陸大を首席で卒業した俊英であり、宇都宮はこれに姪を娶わせようと考えていた。ところが、松井には父の借財があり、妻を娶るような状況ではなかった。そこで、自らは所要のため、弟の七夫(後に陸軍中将)を使者とし、其事情を告げ、婚約を固辞した。この娘は翌年、別の人物と結婚した。松井は後年、佐賀出身の真崎甚三郎と対立したが、もし彼が宇都宮の縁戚となっていたら、二人の関係はどうなっていただろう。



二月二十五日 月 快晴
 早朝安倍午生来る。山本達雄女縁談に付き寺内大将長男寿一(大尉、大学一年生)に付き聞合に来る、先づ中以上と答ふ。

<注釈>
宇都宮はこの当時、陸大幹事をしていた。陸大1年生であった寺内寿一の成績や将来性について聞かれ、中の上と答えている。寺内の卒業席次は恩賜一歩手前の7番。しかしこの縁談も不成立で終わっている。



六月九日 日 晴
 角田政之助、篠塚義男、山脇正隆、上田道太郎、野村素一、阿南惟幾、服部保、竹中経雄、村上修造、伊田常二郎、猪熊敬一郎、三沢郁哉、芦沢敬一郎、是松豊助を連隊に居残らしむること、第二十六連隊の少尉持永虎吉を東京以西の連隊へ移すことを(これは本人より以来し来りし故)、陸軍省人事局草生政恒に以来し遣る。

<注釈>
宇都宮は5月より、歩兵第1聯隊長になっている。さすがに頭号聯隊だけあって、後に名を残した人が多い。



1908(明治四一年)
三月四日 水 雪
 午前八時過、第二大隊長少佐福田栄太郎来り、昨夜第五中隊の兵卒三十二名脱営、行方不明の趣を報告し、尋で週番中隊長の報告も到着せり。直に登営、大体を尋ねし、詳細は未だ分からざるも、中隊長代理中尉猪熊敬一郎の仕向に服せず、大隊長に訴へんとて昨夜九時三十分頃夜間演習の風を装ひ三十二名駆歩にて脱出し、他に五名は衆に後れ別に大隊長宅に至り他は至らず、大隊長は此五名は還へし自分も直に登営、殆んど徹夜にて三十二名の踪跡を尋し不明。尚捜索の方法等を糺し、与倉、向西の洋行を新橋に見送り、十時過帰営せしも踪跡尚不明。併し取敢へず旅団と師団へ略報す。
 
三月六日 金
 本日も取調を継続し事態益々明瞭となる。要するに猪熊中尉の統御に不平の余り之を大隊長に訴へんとせしことは大体に於て事実なり。

三月七日 土 大雨
 脱営者の首謀者は一等卒佐野新太郎(伊豆七島中の新島本村のもの)なること分明す。

三月八日 日 晴
 第五中隊付中尉伊田常三郎来訪。猪熊平生遣口不当の事実を詳述す。

三月十二日 木
 第五中隊脱営事件に付き左の処分を為す。
 中隊長代理中尉  猪熊敬一郎 重謹慎 二十日
 中隊週番特務曹長 中楯理重  同   三日
 大隊長少佐    福田栄太郎 同   五日
 佐野以下の兵卒三十七名は結党並に哨令違犯として本日求刑。此段落と共に余も進退伺いを出し、軽謹慎三日に処せられる。

<注釈>
記述の通り。中隊長代理猪熊敬一郎の指導が厳しすぎることに不満を爆発させた兵卒たちが、夜間に脱営し、営外居住の大隊長に直訴しようとした事件が発生した。猪熊はこの一件が堪えたのかどうか、病を得て2年後に休職、そのまま予備となり、明治44年に死去している。彼の日露戦争中の日記を元にした『鉄血』という本が死後、出版された。



十月九日 金 晴
 本日師団の名誉射撃施行。昨年以来臥薪嘗胆も言ふに足らざる大熱心を以て部下を督励し、部下亦た能く余が意を体して苦戦奮闘殆ど全力を傾尽して争ひし末なれば、天下分れ目なる今日の勝敗如何と心配も一方ならざりしに、第一より第四(第九、第八、第五、第六中隊)までは尽く我が連隊にて占め、第五に第十五連隊の首位初めて顕はれ、第三、第二連隊の如きは第十九以下と云ふが如き好成績を以て全勝を制したるは実に近年に無き愉快なりき。実に余が連隊の事とし云へば、彼是非難の声のみ多く、某々連隊の如きは事実は兎に角四方より誉めそやし、果ては余の教育方針までも云々する当局者上級者あるに至り、余も心中実に残念に思ひ、何んに致せ講評者の見様にて如何様にも講評出来る事にては到底余に勝を与へざるべきを信じ、彼等の争ふ余地なき事実を数字にて表はす射撃が彼等と真の実力を争ふ最良のものなりとして、去年十二月以来非常の熱心を以て之れが教育に従事せしに、部下の将卒も漸く余が方針を了解し、早朝より人員検査后まで暇さへあれば之に従事し、中隊長の多くは夜も晩くまで居残り、殊に第一位にて名誉旗を得たる第九中隊長高橋辰彦の如き、射撃当日前五、六週間は兵営に詰切り、三十八度の熱ある病気にても帰宅せずして自ら教育を督励し、又た彼の結党脱営者の如き是非共実効を挙げて託するとて非常に奮励し、竟には兵卒側より中隊長に希望して亦た五、六週間は毎週二回宛射撃場付近に露営して他隊の射撃日を其到着以前に使用する等(余も一回此第五中隊とて山原に露営して実際彼等の奮闘を実視せり、中隊長は外山実衛)其他の諸中隊も略同様の熱心や方法を以て奮励せし次第にて、実は単に一名誉旗の争にあらざりしなり。否余及び余が連隊の名誉上死活の争ひたりしなり。事情斯くの如くなりしを以て、非常の相異を以て彼等閥族及び之に迎合ぜる徒輩が誇称せし所謂模範連隊を撃破したる時の愉快は、昨年以来の無念一時に消散して何とも名状出来ざる程なりしなり。

<注釈>
天下分け目とまで称した師団特別射撃は、宇都宮の第1聯隊が1位から4位までを独占するという圧勝に終わった。聯隊長就任以降、何かとその指導方針に文句を付けられ、また前述の脱営事件もあり、溜まりに溜まっていた鬱憤を一気に晴らした格好となった。「某々連隊の如きは事実は兎に角四方より誉めそやし」とあるように、彼への非難は、それ単独ではなく、必ず「某々連隊」への賞賛とセットで為された。この某聯隊というのは、同じ東京に位置する歩兵第3聯隊である。そしてその聯隊長こそ、田中義一であった。宇都宮の喜びがどれほど大きかったかは、想像に難くないだろう。ちなみに第3位に入った第5中隊は脱営事件を起こした中隊であった。宇都宮はこの事件によって処分された人々、特に脱営した兵卒に関しては、後々まで非常な関心を持ち、何かと世話を焼いている。



十二月五日 土 晴
 参謀本部第二部長松石安治より面談し度旨電話あり。本部にて会見せしに、参謀本部にては其後任に余を推薦したるも長派故障を付け行悩の状況等打明け、余も先般来彼等が各種の手段を尽して余の揚足を取り陥擠せんとするの状況を語りたり。彼等は余を排して大井少くも彼等系統のものを入れんとするなり。其与党にて参謀本部を占領せんとて何かと余を傷けて余を排斥せんとするに至りては、其陰険陋劣宛然御殿女中の状態なり。構陥排擠等の文字は歴史中に能く見たる文字なるが、今、面のあたり余が其文字中の人たらんとは実に慨かはしき世の有様なりと云ふべし。

<注釈>
松石安治は、当時陸軍きっての作戦家とうたわれた逸材中の逸材であり、宇都宮と同じく反長州の闘士であった。松石は自分の後任に宇都宮を推した。参謀本部はこの前年に大幅に改編され、第二部は情報部となっていた。情報畑を歩んできた宇都宮は最適任であった。しかし長州派は、この席に大井菊太郎(後に改名して成元)か、そこまではいかなくても自派の息のかかった人物を送り込もうと活動していた。その陰険さはさながら御殿女中の如くであると、宇都宮は怒りを込めて記している。



十二月二十二日 火 晴
 本日の官報にて陸軍武官の大移動発表せられ、余も幾多の邪魔ありしも竟に参謀本部第二部長に補せられたるを知る。但し現官等大佐の儘なり。総長は大将奥保鞏、次長は中将福島安正、総務部長兼第四部長は少将大島健一、第一部長は少将松石安治、第二部長は余にして、第三部長は少将大沢界雄の顔触なり。茲に再び本部に舞戻り感無量。これより大に為すあるを矢ふ。但し当分は沈黙のこと。

<注釈>
結局、宇都宮は無事参本第二部長に就任することができた。松石は作戦の第一部に横滑りし、総務部長には後の駐独大使大島浩の父で長派の大島健一(後に陸相)が、第三部長には輸送の権威である大沢界雄がそれぞれ就いた。


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