近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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ノロウィルスの”ノロ”って、てっきりこいつのことだと思ってたんですが、違うのね。

キャプションより・・・・ノロとは鹿の一種で非常に早く走るが、名前だけはノロという。このノロが野火で逃げまわり、写真のように迷子になった子供が、乳を飲ませてくれと寄ってくる(昭和九年調査時の筆者)・・・筆者とは島貫重節(当時騎兵少尉)
まあとにかく手洗い、うがい!
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チケット売り場のお姉ちゃんに、見上げますよと忠告された前から二列目。確かに予告とか見てる間は、こりゃえらい席買っちゃったなと思ってたが、本編が始まるとそんなことも忘れた。ネット上の評判に違わぬすばらしい作品でした。
渡辺謙さんも伊原剛志さんもすばらしかった。伊原さんは実物に較べたらごついなと思ってましたが、No Problemでした。まあ正直最後の出撃から死までの謙さんにはデジャブを感じましたが。渡辺伊原コンビといえばテレビ版壬生義士伝と同じですが、このコンビ良いですねえ。
NAEは登場シーンが少なくて良かった。
破甲爆雷を水筒みたいに掛けて、遠足に出掛けたシドウ君も個人的にはツボった。
市丸少将は空気でしたな。
しかし寝水がミミズに聞こえた。藤田副官はカツゼツが悪すぎ。そらミミズは重要な栄養源だがな。愛国婦人会のおばちゃんを見習いなさい。キレキレやん。ただもんじゃないぜ。
よく聞き取れなかったが、清水君は後方勤務要員養成所って言ってなかったか?それじゃ憲兵じゃなくて中野学校じゃねえか。
一瞬噴進砲が出たような気がするが、気のせいか?
できればロスオリンピックの回想も入れて欲しかったな。
五体満足の健兵がああも簡単に自決するものか?
栗林閣下の周りに参謀が全然いないな。
と、こんな感じです。


帰り、メリケンの祭日には一日早いですが、阪急の商品券があったので、五感でケーキ買いました。

西男爵がサムに自慢した写真はこれだろうか?

ダグラス・フェアバンクスとは本当に友達だったらしい。



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12月17日の朝日新聞朝刊、社会面に面白い記事が出ていた。以下はasahi.comからの転載。

映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。

 溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。

 東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。

 完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。

 また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。

 64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。

後略

http://www.asahi.com/international/update/1217/001.html




そんなこと今更言われなくても分かってるアルヨ!と言いたくなる話だが、とりあえず本人が書いたものであり、また中共が公表を許したものであるというのは大きい。戦後、溥儀はありとあらゆる物語にされた。悲劇の主人公であったり無気力な傀儡であったり、その描かれ方はまちまちだ。しかしそれらの物語にも共通項がある。それは悪逆無道な関東軍将校の描写である。特にその象徴的存在として使われる吉岡安直の描かれ方は気の毒なばかりだ。其の原因は溥儀の東京裁判での証言とこの回想録に拠る。勿論日本軍の威光を笠に満洲人に対して酷い態度をとった人間は軍民問わず多い。はっきり言って多数派だろう。吉岡にしても威圧的な態度をとったり謀略をめぐらせたりしているかもしれない。しかしこと彼と溥儀の関係だけは、そんな単純に割り切れるものではない。吉岡と溥儀の出会いは、まだ吉岡が少佐で支那駐屯軍参謀として天津にいたときに始まる。満洲事変の後、溥儀が満洲国執政となると、吉岡はその側近に選ばれ、以降ソ連軍に捕らえられるまで、溥儀の側をほぼ離れなかった。其の間に吉岡は中佐から中将にまで進級していた。現役の軍人が一つところにこんなにも長くいる例はあまりない。敢えて言うなら青木宣純坂西利八郎がそれにあたるだろうか。陸軍省の方でも吉岡を他の職に転任させようという動きはあったし、吉岡自身も部隊長への転出を望んでいた。しかし皇帝が、「吉岡を離したくない」と、それを許さなかったのである。吉岡未亡人の話によると、彼が病気などで休むと、皇帝は自ら見舞いの電話をかけてきたそうだ。電話に出た女中は大変恐縮したという。それはそうだろう。

ところがソ連軍に囚われ、東京裁判の証人に仕立て上げられると、ころっと手のひらを返し、吉岡を初めとした事情を知る人間が出廷できないことを良いことに、或ること無いこと証言した。ソ連に連行された吉岡は昭和24年に病死。誰がどう考えてもおかしい内容であっても、反論できるものがいないというもどかしい状況で、このまま歴史となるかと思われたが、何のことは無い、本人がとっくの昔に自白してるわけだ。これで吉岡中将の最低限の名誉は回復されるのではないかと思う。

それにしてもである。中共が内容に手を入れたり、削除したりするのは、それは彼等の自由である。溥儀の苦しい立場も理解できる。しかしこれだけ言わされた感、書かされた感があるものを、無批判に受け入れありがたがる人々は、ホントに幸せな人たちだ。つくづくうらやましい。

追記
ソ連軍進攻の際、日本軍への支援を命じることは、中共の視点では勿論悪であるが、朝日新聞的にはどうなのか興味あるなあ。今日の朝刊でドイツの戦争被害(強制移住)問題について特集していただけに、余計に。まあ普通に考えれば、悪なんだろうなあ。下手な抵抗をしたから余計に被害が増えたとでも言うかな?ここまでくると左右以前に人間性の問題だな。

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いや、まあ本人が出す言うてはるんで。タイトルはやっぱり『チャイニーズデモクラシー』みたいだ。アルバムを完璧にするためにUSツアーの一部がキャンセルされることが同時に発表されたが、こちらの方は確実
http://www.nme.com/news/guns-n-roses/25496

"Rather than delay the album yet again, all involved have decided to remove these shows from GNR's schedule."

まだ遅れるだろ、コレ。

しかしえらいタイトル選んだもんだよなあ。中国の民主化はまだ当分ないと思うが。『ノースコリアンニュークリアー』とかにしとけばよかったのに。
教育基本法改正案が可決された。しかし皮袋を新しくしても中に注ぐ酒が古いままではあまり意味はなかろう。教師がどう変わるかが大事だ。まあ変わらなくても良い人も沢山いるだろうが。しかし幸いというか何というか、私などは小中高と通して見ても、それほど狂った教師には巡り合わなかったように思う。のであまり日教組とか言われても実感が無いというのが正直なところ。尤も、いるにはいたが”本業”が忙しくて我々生徒に接する機会があまり無く、気付かなかっただけかもしれないが。

ところで常岡滝雄の『大東亜戦争の敗因と日本の将来』を読んでたら、日教組を日狂蛆と書いてあった。中々手の込んだ当て字だ。昔はよく使われたのかも知れないが、私なんかには新鮮で面白く、ついこのエントリを書く気になった。しかし逆方向に行き過ぎて日本狂いの蛆になっても困るわけで。物事程よいバランスが大事。

さて、常岡滝雄は陸士33期で杉本五郎と同期であった。二人は、常岡が工兵のため原隊は違うが、共に第五師団に勤務していた。郷党が派閥に及ぼす影響は周知のことだが、勤務地がそれに及ぼす影響も無視できない。今ほど通信手段が発達していなかった当時としては、これは当然のことだ。第五師団の青年将校たちというのは、その後二・二六事件を起こした東京などの人々とは犬猿の仲であった。杉本大尉などは、相沢中佐処刑の報を聞いて祝盃をあげたというし(末松太平『私の昭和史』)、「二・二六事件の様なものに、我が第五師団からただの一人でも参加するやうな心を持った者を出したら、五師団の恥だ。皇軍の恥である」というようなことも云っていたらしい。杉本や常岡等の蹶起将校への反感というのは、結局北一輝への反感に拠るところが大きいようだ。彼等は、北を結局は社会主義者であると見てこれを嫌い、若い将校たちがこれに騙されたことを嘆き、北・西田を極刑に処すべしと叫んだ。

ところで杉本五郎といえば勿論『大義』であるが、私が惹きつけられるのは、「天皇は天照大御神と同一身にましまし宇宙最高の唯一神」といった部分よりも、彼が支那事変の陣中で書いた第十七章だ。彼がどういう心境でこれを書いたのか興味深い。以下太字は摘要。旧字は無視した。
大義明白なる戦争発起も、之に従ふ上下、大義不明分ならば、各々自己を執ってその保存に懸命の努力を終始せん。(八十八字略)万端悉く、皇軍の面目(十八字略)現皇軍が皇化第一線の使徒たること(十五字略)
いきなり検閲だらけだが、言いたいことは伝わる。
皇国の戦争は聖戦なり、神戦なり、大慈悲心行なり。即ち皇軍は、神将、神兵ならざるべからず。此の精神だに徹骨徹髄透徹しあらば、忌むべき皇軍汚辱の自己功名保存の利己的戦争とならざるなり。
彼をして改めてこのようなことを書かしめた北支の戦場の様相思うべし。
世界興亡の足跡を仔細に検討せよ。其の滅亡の最大原因は常に飽くなき利己心、停止を知らざる自己保存ならずや。(四十五字略)国を廃頽に導くものは共産輩に非ず、人民戦線に非ず、乃至社会主義にも非ず。此等の主義は日本精神練磨の大砥石なり。
二・二六で処刑された将校の中には、幕僚ファッショを予言したものもいた。北は”当分戦争してはいけません、特に支那とはね”と言い遺した。
亡国は底なき自己保存、飽くなき利己心にあるのみ。戦争は一身乃至世界の修養なり、利己心滅却にあり、自己保存崩壊にあり。我執無きものにして始めて尊皇絶対、外に向かって御稜威を布伝し得るのみ。軍よ、(十六字略)より脱却せよ。戦は先ず心に向かって開始せよ。一身の維新を計りて、真の日本軍人に蘇生せよ。かくして始めて、軍は、皇軍、将は神将、兵は神兵、戦は聖戦なり。
杉本は昭和12年9月14日、山西省で戦死し、中佐に任ぜられた。皇軍は北支を併呑し、上海を落とし、南京へ雪崩れ込んだ。中佐の手帳にあった絶筆は
汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、尊皇精神ある處常に我在り


余談だが、常岡氏のあとがきによれば、彼は戦後間もなく山岡壮八に徳川家康を書いてくれと頼みに行ったそうだ。そのときは色好い返事を得られなかったが、数年後、新聞小説として徳川家康が始まった。山岡によれば、既に常岡に頼まれたときには、家康を書くつもりで準備をしていたそうだ。山岡は最初それを西日本新聞に持ち込んだが、福岡人の最も嫌う家康を連載したら新聞が売れなくなるということで、之を断ったらしい。それにしても福岡人が家康嫌いというのは何故だろう?


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ラスト侍は映画館で見た。多分4回は見たと思う。一つの映画を見た回数としては私の中では最多タイだろう。DVDも持ってるが、これは一回も見てない。何というか映画も音楽も結局めぐりあい宇宙ですね。そのときの環境、心境次第で、同じものでも全く受け取り方が変わる。しかし吹き替えに強い違和感を感じるのは、やはり字幕で見過ぎたせいかな?

ところでケン・ワタナベはこの度栗林中将を演じているわけだが、私としては、前から彼に演じて欲しい帝國軍人がいる。本間雅晴だ。謙さんには凛然とした武人らしい武人もいいが、本間のような弱さの見える役も合うと思う。彼ぐらい物語映えするプロフィールの持ち主はちょっといないのではないか。顔を見なければ日本人とは分からないとまで云われた英語力、バターンのデスマーチと、ハリウッドで取り上げてもおかしくない要素が揃ってる。クライマックスはもちろんマニラ法廷における夫人の証言シーンだ。
妻がマニラに来た事は非常な手柄であつた。妻に接触するものを通じて本間並本間の家庭が明になつた。証人台に立つて「今尚本間雅晴の妻たるを誇りとする、娘も亦本間の様な人に嫁せしめたい」との証言は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かつた。キング少将の副官も、検事のリムも感動したそうだ。

本間の遺言

本間の母は文字が書けなかった。しかし本間が軍人となり離れて暮らすようになってから、文字を習い、仮名文字の手紙も書けるようになった。遺書の母への部分が、子供に話すような平易な文章なのはそのためだ。

まあハリウッドなどと贅沢は言わんよ。角田房子女史の阿南、本間、今村の三部作、NHKでやってくれ。高い受信料払ってんだ。一つくらいわがまま聞いてくれてもいいだろ。絶対当たるって。
これまで

引き続き満川『三国干渉以後』によって、老壮会の活動を見ていく。
第一回の会合は大正7年10月9日午後6時清風亭で開かれた。このときはまだ名前も何も決まっていなかった。来会者は海軍中将上泉徳彌、陸軍中将佐藤鋼次郎、大日本主幹川島清治郎、東邦協会幹事川久保健、参謀本部編修長瀬鳳輔、善隣書院長で上泉の義兄宮島大八、前順天時報社長亀井陸良、旧自由党の大井憲太郎、徳富蘆花の義兄原田良八、支那通の中西正樹等の先輩格に、島中雄三、大宮欽治、日高瓊々彦、小室敬二郎の中堅組並びに三五会同人よりは大川周明、宮川一貫、岡悌治、何盛三、山田丑太郎、平賀磯次郎ら総員27名。まず世話人の満川が立って挨拶した。曰く「一切の年齢、職業、階級を縦断する『縦の交際』」で「根本に憂国的精神の存在する以上は、そが仮令所謂危険思想なるも、秩序紊乱なるも、何を発言しても差し支へな」く、「維新志士の精神に立ち返りてこの会を進めて行きたきものなり、云々」と。議事ではまず会名を決めようということになり、満川が夜光会、佐藤鋼次郎が老壮会、大井憲太郎が大正義会を提唱した。満川の夜光会には、今後日本はますます暗黒となるからその時の光とならんという意が込められていた。結局決定は次回に持ち越しとなり、更に小むつかしい会則などは一切作らぬことに決定した。次に小室より会は何か根本に決定するところが無ければならないとの発言があり、佐藤、川島、上泉、何、日高らの応酬があり、岡は熱烈なる普通選挙論を唱えた。大井の「この会は実行機関にせねばならぬ」という猛烈論に、島中が「決議による実行を強制せらるるやうでは、断然退会の外なし」と反駁し、満川は「会としては飽くまで研究本位でやりたし」と述べた。その後各自懇談に移り、午後11時散会した。

第二回の会合は10月22日に持たれ、夜光会では文学青年の集まりのようで優しすぎるし、大正義会は自由党の壮士のようで恐ろしすぎるというので、佐藤中将の老壮会(老人も青年もという意)に決定した。この会合の題目は「現下世界を風靡し、我皇室中心主義上、将た亦講和上至大の関係ある所謂民主的大勢を如何に取扱うべきか」であった。島中がリンカーンの言を引いて民主主義何ら憂うるに足らずと解説すると、大川がこれに駁して我が国には独特の国家観無かるべからずと論じた。

以後、大正7年内だけで第五回まで会合は持たれ、唐継尭顧問の大作理三郎やロシア通の中山逸三、インド研究家衣斐吉、松林亮、東京高師教授中島信虎、文学博士大類伸、前東京市参事山田忠正、帝大法科生の平貞蔵、泰東日報社長阿部真言、支那通の小村俊三郎、長谷川光太郎、そして中野正剛等が参加した。第三回の題目は「我国政治組織改革の根本精神如何」、第四回は「独逸の敗退に伴ふ英米勢力の増大」、第五回は「普通選挙問題」であった。第五回の会合では、岡、平賀が普通選挙論を述べ、川島、何が反対論を述べた。

ベルサイユの講和会議が始まると、民間有志からも中野正剛らが渡欧した。また佐藤鋼次郎が提唱して国民外交会という会が組織され、満川も勧められるままに参加した。満川はこの会の席上で、北一輝から送られてきた対支時局観の謄写刷りを配った。これを卓見として最も共鳴したのは政友会の松田源治であった。講和会議を取材し危機感を抱いた中野は「日章旗影薄し」と叫んで急遽帰国した。

この頃満川は、旧知の福田徳三博士を訪ね、老壮会に加わってくれるよう要請したが、福田は学会以外には一切関係しないと拒絶した。しかし間もなく福田は、吉野作造と共に黎明会を創立した。会の趣旨は「強権によるドイツのミリタリズムは滅んだ、今や新しき人類文化の黎明期に入らんとするに当たり、この黎明会を興す」というものであった。満川は、老壮会を夜光会と名付けようとした自分と、福田の思想にはよほど距離があることを思い知った。会には両博士のほかに、高橋誠一郎、左右田喜一郎、新渡戸稲造、麻生久、森戸辰男らが名を連ねた。

一方、黎明会と同じく神田青年会館で集会を持つ団体で、文化学会という会があった。発起人は島中雄三、岡悌治らで、満川も勧められるままこれに入会した。会員には外に下中弥三郎、安部磯雄、宮路嘉六、鷲尾正五郎、石田友治、北沢新次郎、杉森孝次郎、何盛三といった人々がいた。

年が明けた1月19日の第六回の席上には、売文社の高畠素之、北原龍雄が姿を現した。これは社会主義者の窮状に同情的な満川の依頼を受けた岡が、密かに交渉した結果であった。席上北原は「社会主義とは何ぞや」と題し、高畠は「社会主義者の観たる世界の大勢」と題して講演した。講演が終わると佐藤中将、中島教授、何盛三、小室敬二郎、川島清治郎らから、軍事問題や人口問題について質問があり、高畠、北原より一々答弁があった。散会して帰宅した満川の下には早速2名の刑事が現れ、会について根掘り葉掘り聞いた。老壮会の中には社会主義者を国賊の如く見ていた人もいたが、実際に会ってみた高畠は上州男児の面目躍如たる男であり、北原は気骨稜稜たる土佐ッポであった。(---余談ではあるが、高畠は井上日召と中学の同窓である。しかし支那革命に参加していた日召はまだこの頃中国にいた。---)一方高畠の方も、頑迷固陋な国家主義者の集まりと思っていた老壮会が、以外に話せることを知り、雑誌『新社会』に「福田徳三博士を介して黎明会に入会を申し込んだところが、色彩過激の故を以て拒絶せられた。然るに老壮会では欣然之を迎えて其説を聴取した。余は吉野博士等のダラダラした民本主義などよりは、錦旗を奉じて社会主義に驀進するをも辞せざらんとする佐藤中将、宮島大八氏等の国家主義にヨリ多くの共鳴を感ずるものである」と書いた。

社会主義者まで包含した老壮会は、第九回からは婦人も迎えた。権藤成卿の妹たる権藤誠子や吉田清子、柳葉清子ら『女性』同人が来会し、婦人問題についての議論がなされた。また大杉栄の先夫人堀保子もしばしば来会した。

大正8年4月売文社は解散し、高畠は堺利彦、山川均と袂を分かった。高畠、北原、遠藤無水、尾崎士郎、茂木久平は以後、国家社会主義の旗幟を立てて活動する。大衆社である。7月の第十五回老壮会に出席した遠藤は、「我国の社会主義者は志士系と侠客系との二種類に分かれるが、何れにしてもこの切迫せる困難より国家を救うには国家社会主義に由る外はない」と語った。

こうして老壮会は大きくなり、左右に翼を広げていった。島中雄三曰く「余は最初老壮会が出来たとき、期待に反することが多かったので、老壮会は不肖の子でないかと案じていたが、二三ケ月欠席の後出席してみると実に以外にも立派に成長していた。こんな愉快なことはない」と。

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仕事帰りにふらっとよった古書店で、『一青年将校』という本を購入した。著者は高橋太郎少尉の実弟高橋治郎氏。政情がどうとかそういうウネウネとした話はあまり無しで、兄弟しか書き得ないプライヴェイトな話が多い。只管に兄を思う心情が胸に詰まる。高橋少尉といえば蹶起将校の中でも下から数えた方が早い若さで、事件前史にもあまり登場しない。その割によく知られているのは、高橋太郎というシンプルな名前や、目のクリっとしたハンサムな顔立ちもあるだろうが、やはり彼が遺した文章によるところが大きいのではと思う。「姉は・・・」で始まる日誌(の一部)はあまりにも有名だが、それ以外にもかなりの分量の文書が残っており、河野司氏編の『二・二六事件』などで読める。「覚悟ができていて簡明で立派である」と評したのは中野雅夫氏らしいが、確かに出色と思う。
それにしても今、我々のような単なる好事家ですらこれらの文章を読めるのは、心ある看守や刑務所長、更には岩畔豪雄少将のおかげであり、またそれらを丹念に蒐集された仏心会の努力の賜物であるわけだが、岩畔少将などはどちらかといえば、蹶起将校とは逆の立場にあった人。それが立場を越えて、多くの遺書を焼失の危機から救ってくれたわけだから、さすがは陸軍部内にその人ありと聞こえた岩畔豪雄だなあと、お世辞の一つも言いたくなる。しかしよく考えてみたらこの人は、第28軍参謀長として、名将桜井省三を補佐し、イラワジ河越えの地獄行をやり、途中マラリヤで一時錯乱状態にまで陥っている。軍務局長就任を予定して呼び戻され、部隊に先行していたが、それにしてもよくあのタイミングで陸軍省に居たものだ。河野氏ではないが、執念の為せる業か?
野中大尉の話ではない。硫黄島である。
もう書くことも無いと思ってたが、映画第二段の公開が迫り、巷に関連本が並ぶようになったので。
しかしどれをとっても吃驚するぐらいナイヨウガナイ。金太郎飴かよ。栗林、西、栗林、西、たまに市丸。あわれなのは高石参謀長や中根参謀。栗林を神聖化するために完全にオミットされてる。語りつくされた栗林や西に代わり、脇役に少しはスポットが当たるかと期待してたオレが馬鹿だった。
保阪氏にしても、十年一日、知米派は非主流でとか。そんなくだらねえことどうでもいいんだけどね。はっきりいって勤務先の国のシンパになるというのは当たり前の話で、むしろ米国に染まらなかった佐藤賢了の方が奇人種で面白いんだがw


先月は随分散財した。師走はほっていても物入りだし、自粛の方向で行きたいが、古本ってのは見敵必殺の世界だしなあ。悩ましいところだ。

秋山真之会編『秋山真之』
兄貴だけでは片手落ちなのでこれも購入。結構エクスペンシブでございました。米国留学中の真之がイギリスの佐藤鐡太郎を訪ねたとき。一緒に街を歩くのに、真之が洋服のポケットに忍ばせた煎り豆をポリポリやるのが、佐藤は恥ずかしくてしょうがなかったそうだ。また真之は兄譲りの医者嫌いで、食い過ぎで腹が膨れると、風呂敷とナイフをもって氷屋に行くのが常であったそうだ。風呂敷は途中で買う桃を包むためのもので、氷屋の店頭で桃をむいて食べ、その後氷を流し込むと、必ず腹が下って、膨れた腹が小さくなるのだとか。たかが食い過ぎくらいで無茶しすぎ。
目つき悪すぎ



森田靖郎『上海モダンの伝説』
晴気慶胤の『謀略の上海』が中々手に入らないので代わりにと購入。で、載ってたのが下の画像。

CAPTIONには李士群(左)と丁黙邨(右)とある。普通に読めば左のでこっぱちが、後に日本軍に毒殺された李士群であり、右が鄭蘋如とのスキャンダルで笑いものになった丁黙邨であるはずだが、左を丁としているサイトもあり、よく判らん。が、どちらにしても犬養健が書くほどの畸形には見えない>丁黙邨 ちなみにトニー・レオンが丁を演じる映画が撮られるそうだ。↓
http://nancix.seesaa.net/category/1890066-1.html
余談だが、晴気慶胤の弟は終戦時自決した晴気誠
蛇足ついでに若き日の汪兆銘。俳優みたいね。


斎藤瀏『二・二六』
やっと手に入れた。著者は済南事変に旅団長として出征した陸軍少将であり、佐々木信綱門下の歌人でもあった。栗原中尉とは家族ぐるみの付き合い。斎藤家が栗原中尉のことを”クリコ”と呼んでいたことは夙に知られる。樋口季一郎をして「女にしてもよいような美青年」と言わしめた栗原だけに、”クリコ”は”栗子”かと思いきやさにあらず。

「栗公らはやりましたか」
「やった」
家族も私も栗原安秀を栗公(クリコ)と呼んでいた。
「行きますか」
「行く」

斎藤少将といえば『獄中の記』も折角買ったのに積読状態となっているので、これを期に読む。佐々木信綱の言葉が泣ける。娘の斎藤史さんも歌人で先年お亡くなりになった。斎藤といえば、茂吉の長男斎藤茂太さんも亡くなってしまった。北杜夫さんにはまだまだ長生きしていただきたい。
しかしね、おじさん・・・

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