近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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黒崎貞明という人も多事多端な星の下に生まれた人だ。既に士官候補生のときに革新運動にのめりこみ、そのせいで隊付をするとき、受け入れ側の歩43の中隊長が皆彼を嫌がった。しかし近衛聯隊から転任してきた野田又雄が「俺の中隊で預かろう」と引き受けてくれ、少尉任官の詮衡会議も、聯隊長辻権作の勇断によって何とかこれをパスすることができた(このコンビ安彦良和ファンならニヤリとするところだ)。こうして何とか任官できたが、二・二六事件で、関東軍憲兵司令官であった東條英機に一網打尽にされ、下獄。不起訴となるが、その後もノモンハンにガダルカナル、そして最後は津野田・牛島の東條暗殺計画と、派手といえば派手な軍人生活であった。

野田又雄は、十月事件で検束された人の中で唯一の非幕僚である。鉄血章やらなんやらの問題で、青年将校たちが次々と離反していく中、彼が橋本欣五郎の側に残った理由はよく判らない。年齢的に云えば、彼は大岸頼好と同期であるから、まあぎりぎりではある。橋本一派と菅波三郎たち若手の間の出来事については、渦中にいた末松太平の『私の昭和史』に詳しい。しかし末松大尉にしても大蔵栄一大尉にしても、橋本らとは袂を別ったが、野田への好意には変わるところがないように見える。大蔵大尉は『二・二六事件への挽歌』のなかで、”快男児 野田又雄”という一節を設け、其の人柄を懐かしんでいる。大蔵によれば、野田はこのころからジョンジュルジャップと付き合いがあったそうだ。昭和12年、満洲国軍附となる。事件の余波を受けた人事といっていいだろうと思う。ノモンハン事件で受傷し、翌年死ぬ。『虹色のトロツキー』という漫画に、この頃の彼が出てくる。
 


気になるといえば、田中弥大尉も気になる。橋本四天王※の一人でありながら、二・二六事件で起訴され、拳銃自決。その経歴といい最期といい、もう少し研究されても良いと思うんだけどなあ。末松大尉の本を読む限り、田中は橋本の郎党ではありながらも、性質的に橋本やとやや合わないところがあったのではないかと思う。嫌疑は叛乱幇助。陸士33期のトップであった。
 ※橋本の手記の写しを受け取った4名を指して、私が今勝手に命名。
  長勇、小原重孝、田中弥、天野勇


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以前も触れましたが、これ中々良い本です。宮城事件だけではなく、水戸の航空通信師団の反乱にも詳しく触れています。私の知る限りでは一番詳しいんではないかな。この本読んでて色々と勉強になりましたが、個人的にホーっと思ったのが、佐藤好弘大尉のその後について。佐藤大尉は戦後、同期生の村上稔夫大尉の家に半年ほど居候し、その後北海道の薬局に入り婿したという。これを読んでアッと思った人は、村上兵衛マニヤだ。結構なことです。『馬のある風景』の矢藤大尉というのは、佐藤好弘大尉だったんだなあ。そう考えると感慨深い。



もう一つ。黒崎貞明の『恋闕』にこういう一節がある。

”十三日、松浦少佐が大岸頼好、菅波三郎、末松太平の三人を連れてきた。
いずれも二・二六事件の先輩同志である。
聞けば、陸軍省の嘱託だといって門をくぐったそうだ。
この時期に旧同志の”揃い踏み”とはいささかできすぎた演出であった。
(中略)
このとき、松浦少佐は、いきなり私の拳銃を取って飛び出した。
何をするのだろうと呆気にとられていると、しばらくしてから悄然として帰ってきた。
「俺は二・二六事件でも死に損なった。あの失敗が支那事変を拡大し、そしてこの大戦となり、今、日本は無条件降伏を迎えようとしている。
われわれが倒そうとした軍閥がいま、このような形で倒れようとは思ってもみなかった。
俺は貴様ほど利口ではない。ただ死に場所を見つけたいと思った。俺が梅津総長と刺し違えれば、何か別の途が開けるかも知れないと思って、総長室に行って見たが、総長は宮中に行ったあとだった。俺はまた死に損なった」といってボロボロ涙を流している。”

迂闊といえば迂闊だが、これを読んだとき、私は特に何も思わなかった。ところが終戦秘史に、この松浦少佐のフルネームが載っており、それが松浦邁だという。松浦邁と聞いてアッと思う人は、これまた相当なマニヤだw そう。「現下青年将校の往くべき道」の執筆者である(現代史資料国家主義運動1に全文掲載)。まだ見習士官のときに書かれた同文書は、菅波たち先輩を大いに驚かせた。しかしその後、改造法案を巡る東京(西田)と和歌山(大岸)の確執に首を突っ込んで、西田を怒らせ、以降表舞台に名前が出ることは無いと思う。その人がここで出てきたわけだから感慨深い。また一つ勉強になりました。

改めて松浦少佐の経歴を調べると、長らく病気を患い、昭和19年に依願退役している。終戦時は在郷軍人会の仕事をしていたようだ。しかし梅津という人はもっと暗殺対象になっていいはずの人だと思うが、真面目に彼を殺そうとした話は寡聞にして知らない(松浦少佐が不真面目というのじゃないが、もっと計画立ててという意味)。あるいは阿南の抑止力が働いていたのだろうか。

追記
末松大尉の『私の昭和史』繰ったら松浦少佐に関してちゃんと載ってた。

”彼はしかし二・二六事件にも連累しなかった。終戦のころは戦地で得た病気がもとで現役を退き東京にいたが、いよいよ日本の敗戦が決定的となたっとき「僕は五・一五でも二・二六でもなにもしなかった。こんどこそ僕の番です」といって、倒れんとする大廈を支える一木たらんとして、懸命に奔走を続けたのだった。”

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著者の篠原氏には小川又次田村怡与造の本がある。
副題は「旅団長に見る失敗と成功の研究」
さらに帯には
「できる男」「できない男」日露戦争戦略と戦術、勝利と敗北の構図。実戦で力を発揮するには何が必要なのか。またどうしたら成果をあげられるのか。三人の指揮官に見る指揮統率の要諦。勝敗の分岐点に学ぶ。
もういい加減安っぽいビジネス書みたいな売り文句は止めて欲しいんだが。これを読んで興味を持って買う人が居るのか?

旅団長という職は、師団の数も知れていた日露戦争の頃は、まだ重要な役職だった。時代が下り、数十の軍司令部と数百の師団が編成されるようになって、完全に閑職化したが。日露戦争自体が話題に上ることは非常に多いが、出てくる人物はいつも馬鹿の一つ覚え。そういう中、こういう本は嬉しい。

で、できる男というのは花の梅沢旅団の梅沢道治と岡崎山の岡崎生三、「できない男」というのは東条英機の親父殿を指す。梅沢将軍は、まあかなりの有名人だろう。「平時の講評はこれを取り消す」は有名な手紙だ。岡崎将軍を取り上げてくれたのは嬉しい。饅頭山を奪取した猛将なんだが、知名度が低すぎる。第二師団の勇戦はこの人ともう一方の旅団長だった松永正敏に負うところが大きいと云われる。できれば松永将軍にも触れて欲しかったな。英教さんは、まあ陸大1期の恩賜であり、また息子が息子だけに、知名度はある。ただ結局机上の人であったようだ。戦術家として期待されながら、その期待を裏切った旅団長は、彼のほかに須永武義、山口圭蔵が挙げられるが(これは石光真清の本に載っていた)、運不運もあるし、決め付けるのは気の毒な気もする。

ところで下の写真、向かって左の腕組みしている青年将校は誰だか分かるだろうか?


ヒントは、この写真は梅沢旅団の司令部の写真だということ。分からん人は、鼻の下に長い八の字髭をイマジネーションで付け加えて欲しい。するとどうだろう。あら不思議w いやー爽やかですなあ。ちなみに右端の人物も大将にまでなっている。




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村上もとかの漫画で『龍』というのがあるが、この漫画、今年で完結したらしい。らしいというのは、私自身はとっくの昔にこの漫画から脱落しているせいなのだが、ネットで見る限り、かなり綺麗に風呂敷を包んだみたい。足掛け十五年というから凄いものだ。漫画の中での時間の流れもまあ二十年くらいではないか?いずれ漫画喫茶ででもゆっくり読みたいものだ。Wikiには、主人公龍には映画人のモデルがいると書いてあるが、私の記憶の範囲では、確実に尚旭東こと小日向白朗(シャオパイロン)も入ってると思う。

2.26事件、北一輝を美化しすぎちゃうんかと当時は思った。不勉強でした。上海編、ジェスフィールド76号とかワクワクしたなあ。ああ晴気慶胤の本が欲しい。有名人総浚いという感じだったねえ。石原とかも出てた。

しかし持続力のある人はやっぱり立派なものを残すね。余は最近まったくだめじゃ。漫画読む持続力すら無い。

「後に続くものを信ず」という言葉は、大戦中、特にその前半に於いて、尤もマスコミを賑わせたフレーズの一つだろう。何せ長谷川一夫主演の映画までつくられたのだから。しかしこの言葉は、これだけ有名にも拘らず、紙では残っていない。それどころか、その出典すら曖昧である。上官の西山遼少佐によれば、ガダルカナル島での最後の別れに際して、中尉が言った言葉の中に

私も私の部下も後に続くものを信じます
死してなお必勝を信じます

という意味の言葉があったという。一方、海軍報道班員だった山形氏は、谷萩那華雄から、若林中尉の日記であるという冊子を示された。それはガ島へのネズミ輸送を行っていた潜水艦の下士官が持ち帰ったものであった。同氏は谷萩に勧められ、この戦場日記を『後に続くものを信ず』という題名で出版した。山形氏によれば、その日記の裏表紙に「私は後に続くものを信ず」と書いてあったという。しかしその日記もまた、その後どうなったかは判らない。とにかくこのフレーズは、時代にマッチし、独り歩きした。そしてその反動で、戦後は忘れ去られた。全く馬鹿げた話だ。

さて反対に戦後、ジャーナリズムに乗ったフレーズとしては、大田少将が打った訣別電「沖縄県民斯く戦えり~」が挙げられるだろう。この電報一つで大田少将はスターダムにのし上がった(上げられた)。性質の悪い表現をしてるとは、自分でも分かってるが、別に大田少将をどうこういうわけではない。マスコミの下らなさを指摘したいだけだ。訣別電に上下などあるわけが無い。ましてそこで散った人の命おや。

話の矛先を変えるが、訣別電というのはどれも悲しい。サイパン、グアム、硫黄島、ペリリューのサクラ連送。電文ではないが、私が印象深いのは、拉孟守備隊の真鍋大尉が、聯隊長に宛てた手紙。
「小雀がチューチュー鳴いて親雀の帰りを待っております。私共はどんなことがあっても聯隊の名を汚すようなことは致しません」
既に守備隊長金光少佐を失い、玉砕を前にして書かれたその手紙は、脱出を命ぜられた木下中尉によって届けられた。しかし聯隊長松井秀治少将にはどうすることもできなかった。松井少将自身、後にラングーン防衛司令官として、遁走した緬甸方面軍司令部の後始末に非常に苦しむ。戦後、訪ねてきた文春の記者?を前に松井将軍は、今でも雀の声を聞くと思い出す。インパール作戦をもっと早く切り上げておけば、死なせずにすんだものをと、涙に咽んだ。



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チモール島戡定作戦の後、若林中隊はアタンプアに駐屯した。若林東一中尉は、宣撫工作の一環として土地の領主であるラジャ・アチェに接近した。間もなくアチェは若林を非常に気に入る。アチェには二人の娘があった。上の娘はサイダといい、「原節子を少しばかり黒くしたような女性」であった。アチェは若林に、このサイダを嫁に貰って欲しいと懇請する。
「ワカバヤシ サイダ ハ キミガスキダ アイシテイル アナタサエ ヨカッタラ ケッコン シテクレナイカ コノアチエニハ モチロン イゾン ハ ナイ」
この申し出に若林は悩むが、もはや次の戦場へ立たねばならぬ身であるとして、謝絶した。中隊がセイロンへ旅立つ日、アチェとサイダはクーパンの港までやってきて、若林を見送った。

これは『栄光よ永遠に』のなかでも触れられている話である。兵隊から陸士に進み首席で卒業した立志伝中の人物であり、香港攻略の立役者。一方で女がらみの逸話も非常に多い人。しかし、いくらそんな若林中尉といえ、戦争で訪れた土地で王族に見初められ、娘を貰ってくれと望まれるなど、まるで梶原一騎の書くストーリーのようなことが有り得るだろうか。私はこの話に関しては結構眉唾であった。ところが、十全会編『後に続くものを信ず』によれば、二人は結婚式まで挙げているのだそうだ。結婚式は、仲人に中隊の大野准尉、部下50余人出席の下、整然と行われた。式は始めから延々とイスラム式で進んだため、押され気味と感じた大野准尉が、ここからは日本式で行うと高砂を謡って大見得を切り、結局朝まで続いたという。大野准尉は若林の命令で、ブーゲンビルに残ったため、命ながらえた。同書には、中尉とサイダが並んで写った写真まで載っている。以下は中尉が別れに際してつくった詩。

スラバヤの別離
九月二十七日 忘れ得ぬ日なり   其の日は晴れて暑かりき
大日丸は岸壁に着き         新興丸は岸壁を出ず
大日丸にてアチエは着けり      サイダも其の一族も
新興丸にわれ乗船す         「ソロモン」に戦ひに征くなり
アチエ一族と縁を結びて       サイダとチモールに語れるは
一朝の夢と化して空し   われ   偽れるか 決して さにあらず
単なる○○の対象として  われ   イスラムとなりたるにあらず
この新興民族の息吹きを       我が逞しき力もて 更に強め
血は水よりも濃き 大東亜を     結成せんと 誓ひしなり
今 軍令の 厳として横たわり    締約 たちまち破れて 海
船倉を訪へば アチエありき     サイダはインコを肩にして
あどけなき顔して 我れを喜べり   わがスマトラに行けざるを云へば
蒼白となりて 又 言はず       愛らしき弟妹も 又 声をのむ
言いたきことも 云へず        周囲に 兵あればなり
全身の力もて アチエとサイダ    サイダの母の手を握りて
後も向かず われは去れり      船は魔物の如くありき
船出して今なにをか思ふ        思ひても又施すすべなし
戦の庭に立つ男の子          又何を思ふの用ある
唯なすべきことあらば         ”忘れる”ことならむ





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暖房器具と共に加湿器も必要な時期になりましたね。加湿器と言っても色々あり、何を買おうか迷っておられる人もいらっしゃるかと思います。そこで最近私が購入した加湿器、象印のスチーム式EE-LE40について、レポしてみたいと思います。

購入までの背景
我が家には加湿器と名の付くものが二台ありました。尤も一台は30年近く前の日立製加湿器で、今更これを使うわけにはいきません。しかし水を入れればちゃんと動きます。やはり昔の製品はしっかりしてますね。もう一台はナショナルのハイブリッド式で、3年くらい前、私が学生で、ワンルームで下宿していたときに購入したものです。しかしこれを使うには物理的、心理的にいくつかの障害がありました。まず一つ、というかこれが総てのような気もするが、コンセントがどっかいった!と、これは私の不注意以外何者でもないのですが、その外にも、
・フィルターを買わなければならない・・・約2000円
・メンテナンスが面倒・・・フィルターを定期的に洗剤で漬け洗いしなければならないが、それでいて、毎年買い替えが必要。
・加湿能力に疑問がある・・・元々うちの部屋がそれほど乾燥していなかったせいもあるとは思いますが、加湿してるのかしてないのか判らないようでは、ありがたみが無い。
と、こういった理由から、勿体無いが、新しいのを購入することに決定しました。

選択基準
まず加湿器には大きくいってスチーム式、気化式、ハイブリッド式のそれぞれがありますが、今回私は、スチームかハイブリッドかで悩みました。前回でハイブリッドには懲りたはずなのですが、やはりその低消費電力と静音性には惹かれるものがあります。しかし最後は、あの冷たい空気がヒューヒュー出るだけのハイブリッドを思い出し、加湿器はやはり加湿してナンボだろうということで、スチーム式に決定しました。加湿方式が決まれば、後はそう難しい決断ではありませんでした。
・電気代を喰うのだからなるべく安いのが良い
・しかし一シーズンで壊れる安かろう悪かろうでは困る
・当然高い加湿能力がなければいけない
・メンテナンスの簡単さも重要
という感じで、青と白のポリタンクと最後まで迷いましたが、一々塩を入れるのはちょっとなあということで、これに決定しました。



使用感
まだ三日しか使っていないので、電気代云々に関しては、書けません。まあ消費電力400Wということですので、ハイブリッドや気化式から較べれば、電気代は間違いなく掛かります。
また月に一回はクエン酸を入れて洗わなければいけないそうです。クエン酸というのはどこに売ってるのでしょう?探して買わなければ。尤も放り込んで、クエン酸洗浄というボタンを押下するだけで、手入れは楽そうです。
見ての通りポットのような外見ですので、持ち運びは楽です。重さは水を入れたら3kgは超えるでしょうか。水は入れるのも捨てるのも、直接です。その点、取り外しのきくタンク式とは違い、差し込みプラグの部分を濡らさないように注意が必要です。入れるときは横着せずヤカンを使ってください。またコンセントはマグネットですので、運ぶときは外しておくのが良いでしょう。水を捨てるときは、蓋を取り外しますが、当然中の水は熱されていますので、スイッチオフした直後に開けるのは危険です。暫く置いて冷ましてください。
運転モードは連続とタイマーモードがあり、連続モードでも強弱があります。連続といってもずっと運転しているわけではありません。ついたり消えたりします。タイマーは2時間のオフタイマーと6時間のオンタイマーボタンが付いており、時間は固定です。またオフ、オンタイマーは両方同時に設定可能です。よって2時間後にオフし、6時間後にオンするということも可能でしょう(私はまだ使ってないので)。
加湿能力は充分あります。この点は問題無いでしょう。

欠点
この機種の欠点は音です。起動時は勿論ですが、湯が沸いた後もシューシューと結構な音がします。リビングで使う分には問題ないでしょうが、寝室で使うなら、最低限弱モードにする必要があると思います。それでも音が気になる人にはつらいかも。実際うちの母などは、タイマーが切れるまで寝れなかったと言っております。尤も母は相当神経が過敏な部類に入る人ですが。ですので寝室で使うなら、寝る前にきっちり加湿していて、寝るときにおはようタイマーオンするというのも、一つの手かとおもいます。え?睡眠時間6時間も取れるかって?ご尤も。

結論
結局何を重視するかですね。静音性を求めるなら、あまりお奨めはできないです。しかし約8千円という値段とその外の機能を考えれば、決して悪い買い物ではないと思います。以上、参考になれば幸いです。
『皇国の守護者』四巻、帰りがけに購入。
何か生まれて初めてウルトラジャンプ買っちゃうかも・・・
ってかバスタードって流れ流れて、これでやってるのか、今は。

ついでに昨日加湿器が届いた。象印のスチーム式。
近いうちにレポるつもり。
尤もお袋が使ってるので、聞き取り調査になるが。

それにしても今週は疲れた。
ROM出しは、いっつも最後バタバタする。
でもどうせまたすぐ障害処理票あげられるんだろうなorz
引き続き、秋山好古大将伝記刊行会編纂『秋山好古』より。

(タイトルは講演活動に精を出す弟に送った訓戒)

兄弟愛
長兄の則久は俊才の呼び声高かったが、上京して脳を病んだ。次兄は養子に出ていた為、家督は三男の好古が継いだ。則久は人に接するのを好まず、また入浴と理髪も嫌った。入浴の方はお熊婆さんが宥めすかして入れたが、理髪の方は好古が自分で近所の理髪店に連れて行った。途中煎り豆の袋を買うと、一緒に齧りながら順番を待った。
或るとき、理髪師が家に来たことがあった。則久は俄かに裏口から逃げ出し、夜になっても行方が判らなかった。遂に警察に捜索願いを出すと、夜半過ぎ、保護したとの連絡があり、好古が直々に、人力車を雇って、迎えにいった。二人は車に相乗りして帰ってきたが、好古は帽子も履物も則久に与え、裸足であった。
好古が遅れて食事を取る時など、則久は好古の食膳の前に来て、美味そうなものをつまんで食うことがある。風呂嫌いで爪は伸び垢で黒くなっていたが、好古は嫌な顔一つせず、「どうかな」と言うばかりで、好きにさせた。則久は61歳で亡くなったが、好古は最後までその面倒を見た。

兄弟愛(2)
真之が、母貞子が東京は寒いだろうと送ってきた綿入りの足袋を履いていると、好古は「贅沢」といって脱がしてしまった。
真之のあまりの身汚さに兄の道一が縮緬の帯をくれた。真之がそれを締めているのを見た好古は、「そんなものを締めるな」と叱りつけた。真之はその後、その帯を締めることは無かった。
或る雪の朝、真之が切れた下駄の緒を直していると、好古に「跣で行け」と怒鳴られた。
真之が英国出張を命ぜられたとき。出立の前日、好古が帰宅すると、真之は自室で出張の準備をしていた。しかし好古はいつもどおりで、特に何を話すわけでもなかった。翌朝、いつものように好古は出勤した。出掛けに交わした会話、
好古「淳、行って来い」
真之「うん」
これが兄弟の訣別の言葉であった。後でそれを聞いた母は、「いくら男とはいえ、弟が初めて洋行するというのだから、もう少し言い方もあるだろうに」と嘆いたという。
真之は来客が来ても床の間を譲らない人間だったが、好古が来たときだけは、自ら末席に付いた。そして海軍中将となり、妻子7人の大家族を持つに至っても最後まで、好古の戸籍に付属し、分家することはなかった。
真之が危篤となったとき、好古は検閲のため白河にいた。好古は「東京を出るときから今日あることを予期して、別れをすませてきた」として「行かぬ、宜しく頼む」という電報を打たせた。真之逝去の悲電が入っても帰ろうとしない好古に困った副官は、人事局長の白川義則に頼んだ。白川は「検閲は一時高級属員に代理せしめて帰京するように。これは大臣の命である」との電報を打ち、漸く好古を帰京させることが出来た。

結納
次女が結婚するとき、媒酌人が結納について相談に来た。
三輪田「結納ですが、百貨店の目録で如何でしょう」
好古「それで結構じゃが、出来れば俺に一つ頼みがあるんじゃが」
三輪田「それはどういうことでしょう」
好古「うん、外でもないが、あの角樽というのがあるじゃろう?俺はあれが欲しいんじゃがの、酒を一杯詰めてね」
三輪田「あれですか、お安いことと思いますが、一応先方にも申し入れた上で・・・」
好古「外の物はどうでも好いが、あれだけは是非欲しいの」
先方でも快く承諾したので、媒酌人が三越に注文すると、流石の三越にも角樽の出来合い品はない。そこで特別注文で造らせた上、酒を詰めて秋山家の送らせた。

買い物
長女が結婚するとき、真之が多美子夫人を助けて、柄や模様の見立てをした。それを聞いた好古は、「そのくらいのことなら俺でも出来る」と言い、実際次女の結婚のときには、自ら呉服屋に出向いて選定した。夫人は好古の目の高いのに驚いたが、後で届いた請求書が高いのにも驚いた。好古は価格に頓着せず、気に入ったものを注文していたのである。こうして好古の買い物は一回で落第となった。

服の趣味
夫人は云う。「秋山はあれで中々着物の趣味があったらしいのですよ。気に入ったものを着せるとニコニコしていますが、粗末なものを着せると矢張り機嫌が良くなかったようです。その癖少しも御構いが無いですから、着物だけには弱らされました。ひどく襟垢の付いた着物で、久松様の御邸に平気で出掛けるのですから、油断ができないのです」
松山での校長時代を知る人はいう。「松山できちんと和服を着られていたのは、女中さんが気を付けていたからです。加井夫人が「之を着なさい」と言えば「うむ」、「あれを着なさい」と言えば「うむ」で、要するに他から着せられていたので、放っておけば寝衣のまま何所へでも行くという無頓着さでした」

趣味
好古は浄瑠璃が好きであった。興が乗るとしなをつくて真似をしたりした。又相撲も好きで、特に常陸山のファンであった。常陸山が黒瀬川に初顔合わせで負けたときなど、家に帰ってきても「黒瀬は憎いほど強い奴じゃ」と云うので、家族は笑ったという。
陸軍特別大演習で福岡に来たとき。竹内副官を連れて食後の散歩をしていた好古は、突然活動写真の前で立ち止まった。
好古「竹内入ろうか」
竹内副官は怪訝な顔で「何処へでありますか?」
好古「活動によ」
竹内は驚いて「イヤ、お止めになった方がよろしう御座いましょう」
好古「でも、沢山人が入っとるじゃないか。入ろう、入ろう」

筆不精
白川義則が陸軍次官に就任したとき、教育総監をしていた好古は、人事に関する希望を葉書に墨で大書して送ってきて、白川を驚かせた。
白川「人事は秘密を要しますから、葉書ではなく親展書でお願いします」
好古「それじゃ、電話で言おうか」
白川「電話では後に書類が残りませんので、やはり書き物で頂きたいので・・・」


全国の騎兵将校から記念品として、銀の大花瓶が送られた。
好古「この花瓶は百圓もするかな」
武川大佐「いいえ、その数倍も致しました」
好古「そうか、それは大変な物を貰ったが、そんな高い物何故呉れた!!」
武川「ハッ」
大佐はまるで怒られたようであった。


住宅に関心の無い好古は一生借家で過ごした。その家も随分古い家で、雨が漏ることもあったが、一回も家主に修繕を要求したことはなかった。家主の未亡人曰く、
「秋山さんであればこそ、我慢して、あんなぼろ家に入って下さるのです」

禁酒
好古「清岡、お前ともう一度戦争に行きたいの」
清岡「余り強い酒さえお召し上がりにならなければ、是非御伴したいものです」
好古「此次は酒は飲まぬよ」
清岡「その御言葉だけは信用出来ません」

単身赴任
北予中学校長時代、古い友人が帰松した機会に訪ねて来た。丁度食事時となったので、友人が食事はどうするかと聞くと、何処からか貰った菓子折りを出して、「ここにええ物がある」とカステラの食い残しを食った。友人はそれを見て驚くと共に、単身赴任生活の不自由さに同情したという。




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鼻垂れ
子供の頃の好古は非常に弱い子供であった。母親の貞子は「この子は一人前の人間になれるだろうか」といつも心配していた。秋山家に50年仕えた女中のお熊婆さんは「いつも鼻汁を垂らしてよく泣く坊さん御座いました」と述懐している。いつも鼻を垂らしているので仲間からは「信公の鼻垂れ」だの「鼻信」だの呼ばれた。

兄を救う
好古の少年期はまだ男色の蛮風が残っており、御若手連という連中が横行していた。好古の次兄寛二郎は有名な美少年であったが、或る日御若手連に養成舎の一室に連れ込まれたことがあった。それを聞いた好古は兄の一大事とばかりに、多くの年長者を恐れずに養成舎に到り、兄を救い出した。

寝床
若い頃の好古は宴会などで如何に遅くなっても外泊しなかった。そして冬の寒い晩などは、隣室に寝ている村上正(騎兵将校)を「オイ正、起きい」と起こし、自分は温まった村上の寝床にもぐり込み、自分の冷たい床に村上を寝かせた。

虱退治
日清戦争では出征から8ヶ月間一度も入浴しなかったばかりでなく、顔もめったに洗わなかった。従って天気の良い日は、常に日向ぼっこしながら虱退治をしていた。それを見た兵隊は「そらまた大隊長の虱退治が始まった」と笑ったものだが、好古は「俺には特別虱が多いのじゃよ」と笑って応えた。

目録
中国から帰任した好古を迎えた家人は、荷物の中に目録は沢山あるが実物が一つも見当たらないので不審に思い「品物はどうされました」と尋ねたところ、好古は「皆やってきた。折角じゃから目録だけは貰うてきたんじゃ」

副官
中屋副官が病気で一時旅団司令部を離れて、療養していたことがあった。快癒した中屋がようやく司令部に追いつくと、好古は「馬鹿ッ!困ったぞ!困ったぞ!待ちかねとった。戦争で病気する奴があるか!」中屋はその言葉に部下に対する言い知れぬ信頼と慈愛を感じ、涙を禁じえなかった。


乃木大将が旅団司令部を訪れた。「酒を一升ほど買ってもらおうかな」という大将に、中屋副官が「いえ、酒は買わんでも、司令部に御座います」と応えた。大将は「うむ、そうか、それならわしが美味いものを御馳走しよう」と、伝令にスッポンを持参せしめ、「炊事場は何処かえ」と自身でスッポンを料理し、「よしよしこれで出来た。秋山もまだ戦地では、スッポンを食べたことはなかろう」と、自ら皿に盛って出した。

入浴
日露戦争中、好古は、副官や従卒が如何に勧めても「戦場に湯に入りに来たんじゃない」といって如何しても湯に入ろうとしなかった。好古が日露戦争中に入浴したのは、上陸後約十日目くらいの曲家店に於いてと、母長逝の知らせを受けた二牛所口に於いて、そして平和克復後の遼陽に於いての三回だけであった。そのため暇があれば、背を柱に擦り付けていた。奉天で福島安正と再会したときの挨拶。「やあ暫く。虱はまだわくかね」「うむ。まだわくよ」と応えた福島に、「そんならええが、人間虱がわかなくなると、もう駄目だよ」

蝿入りビール
極めつけがこれである。尋ねてきた外国武官と、卓を囲んでビールを飲みながら会談をしていたとき。ビールのコップには常に蝿がたかるので、皆それを払いながら飲んでいたが、好古のみは蝿を追おうともせず、蝿が浮いているビールをそのまま飲み、指で一つ一つ蝿を口から取り出しては捨てた。外国武官は皆、愕然として目を見張り、驚嘆して帰った。

会話
好古は出征中、およそ寒暖晴雨に対するグチを一言も漏らさなかった。中屋副官が「今朝は寒う御座います」と言えば「うむ、寒い」と応える。「今日は暑くなりました」と言えば「うむ、暑い」。「雨が降って困ります」と言えば「困る」。およそこんな感じであった。

居眠り
万国平和会議に陸軍代表として行った時。ブラジル全権が機雷沈設可否について大演説を為し、満場がこれに聞き入っているとき、好古は例によって誰憚ることなく鼾をかき始めた。都築全権がしきりに睨むが、もとよりそんなことで起きるはずは無い。三時間余り続いた演説がようやく終わり、皆が立ち上がると、その音で目覚めた好古は、「大議論でしたなあ」と立ち上りながら大欠伸。都築全権がやや怒気を含んで「貴方は眠っていたじゃないですか」というと「いや、要領だけは判りましたよ」

騎兵の襲撃
ホテルのサロンで安楽椅子を揺らして遊んでいた好古は、勢い余ってひっくり返り、足で卓を跳ね上げた。その物音に一同驚いて立ち上がり、英国のオットレー氏が「エクスプロージョン オブ マイン」と冗談を言ったところ、好古はゆっくりと立ち上がり応えた。「ノン ラタック ド キャバルリ」一同その諧謔にドッとわいた。

ホテルの部屋
海軍代表の島村速雄が風呂上りに好古の部屋を訪ねたところ、「君は何処で風呂にはいったんじゃ」と聞かれた。島村が「自室の風呂じゃよ」と応えると、「そうか、俺の部屋には風呂が無いんじゃ」という。「いや、そんな筈はない」「確かに無い」と押し問答の結果、二人で部屋を探すと、隣に立派なバスルームが付いていた。大笑いした後、島村が「では、君はまだ風呂にはいったことないのか」と尋ねると、「うむ、まだはいらんよ」とのこと。「そら汚いなあ」とあきれる島村に「なあに、風呂へはいらんでも死にやせんよ。俺は満洲出征中は風呂など滅多に入らなかったのじゃ」

手土産
第13師団長時代、好古の乗る列車が大雪で立ち往生したことがあった。列車内では菓子類で飢えを凌いでいた。将軍立ち往生を聞いた在郷軍人が次々と見舞いに来たが、何れも酒徳利持参で、飯を持ってきた者は一人もいなかった。

刺身
群馬県に出張したとき、宿屋の夕食に出た刺身が舌を刺すような味がした。副官が好古の部屋へ行き、不注意を陳謝すると、好古は既に刺身を平らげた後だった。好古は笑いながら「田舎に来て贅沢言うな。土地の人間は味の変わった刺身を当たり前と思っているのじゃ。勢いの良い刺身などこの辺の土地の者は食べたことないのじゃ。その辺によく気をつけるものじゃ」

校長
北予校長時代、好古は教師の欠勤による休講を非常に嫌い、そんなときは自ら補欠教授となり、連続二時間でも喜んで授業をした。

最期
好古危篤の報を聞いて、同期の本郷房太郎が駆けつけ、「秋山、本郷が判るか。馬から落ちるな」と言うと、好古は目を開き微笑み、「本郷か、少し起こしてくれ」と言った。皆、起こせば良くないことは判っていたが、本人が望むので、本郷と次男の二郎が抱きかかえて起こした。暫くして再び寝かすと、そのまま永き眠りに入った。

続く
新城と猪口を見てると、何となく五味川純平の大ベストセラー『人間の條件』の梶と鳴戸を思い出した。もちろん職業軍人たることを志した新城や猪口と、召集兵の梶たちの間には大きな相違があるが。そういえば以前、『虹色のトロツキー』を読んだときも、最後のノモンハン戦は五味川っぽいなと感じたのを思い出した。実際、戦場まで尋ねてくる恋人や、その恋人の元に帰ろうとして行き倒れる主人公というプロットは『人間の條件』の影響じゃないかと思うが。

そういえば河野司氏は、有馬頼義の「強盗、強姦」発言(?)に抗議するとき、三島由紀夫と共に、五味川にも相談をしている。私はこれをの『私の二・二六事件』で知って、ちょっと驚いた。三島と五味川といえば、思想的にはほぼ逆の人物だろう。その二人が共に、「無視しろ」という助言をしたというのも面白いが(五味川の方がより強烈だったそうだ)、五味川、三島の両方と付き合える司氏もすごいなあと思ったものだ。高一の夏休みに『戦争と人間』は読んだ。これは終戦までをみっちり描いた超長編だけに、当然二・二六事件も触れられているはずだが、今は全く記憶にない。

  
イヤー、イカンナア。
何を今更と言われるかも知れんが、嵌ってしまったようだ。
今日の昼、飯を買いにセブンに行った時に、偶然、壱巻を手に取ったんだが、どういうわけか、今既に参巻まで持ってるよ、オレ。
  

今、帰宅して壱巻読んでるが、これはけしからんね。実にけしからん。面白すぎるじゃん。けしからんよ。調べたらもうすぐ四巻出るとか。
「父島ノ皆サン、サヨウナラ」
というのは硫黄島の一通信手が最後に送った電文だが、それではその「父島ノ皆サン」は何をしていたかというと、これが米軍捕虜を殺害してその肉を喰ってたんだな。所謂父島人肉食事件。勿論喰ったのは極々限られた一部であったが、其の中に旅団長や根拠地隊司令官が含まれていたから、事件は極めて特異性を持つこととなった。

父島には第109師団隷下の第1混成旅団がいた。旅団長立花芳夫は愛媛出身の陸士25期。陸大は出ていない。広島聯隊区司令官から現職に就いた。一方父島で輸送業務にあたっていた堀江参謀には、栗林中将より、作戦指導に関する権限が与えられていた。硫黄島が玉砕すると、混成第1旅団は第109師団に改編され、立花少将は中将に進級と同時に師団長に補された。このとき堀江参謀は大本営に「事情あり、適任の師団長を派遣せられたし」と電報を打った。更に返電が無いと見ると、「参謀長でもよいから派遣せられたし」と打電した。大本営ではこれを受け、柴山兼四郎次官が、「堀江がそんなに困っているのなら何とかできないか」といったが、結局制空権の無い島に送り込む手段が無いということで、沙汰止みになった。堀江がこのような異例の要請電を打ったのは、旅団長以下の振る舞いに起因する。

そもそも父島は、物資が限りなくゼロに近いレイテやニューギニアに較べれば、少なくとも上級幹部が食べるものくらいはきちんとあった。その父島で、分別のついた大人たちが、何を好き好んで人肉に手を出したのか?秦郁彦氏は、その原動力となったのは陸軍の立花少将、的場末男大隊長、海軍の森国造中将、吉井静雄大佐の4人としている。立花少将は、酒瓶に目盛りをつけて、兵隊が盗み飲みしないようにする程の酒好きであったそうだ。的場少佐に至っては、酒好きというより酒乱であったようだ。武芸計十数段、六尺ゆたかな偉丈夫で、やたらと部下を殴るので、皆から恐れられていた。性格が凶暴化した原因は、歩兵第56聯隊の大隊長として、マレー戦線で活躍したにも拘らず、軍医学校の戦術教官というような閑職にまわされたことに由来するのではないかと推測される。ただマレーでの指揮は、むやみに突撃して部下に多くの死傷者を出す暴虎馮河の勇といった感があったようだ。尤も、左遷に近い人事を受けた理由は、その指揮っぷりではなく、酒乱の方にあったのではないかと思われる。というのも少佐は、シンガポール陥落を祝した軍民幹部出席の映写会に、一杯機嫌で乱入し、フィルムを引きちぎるという狂態を演じているのである。このとき同期の朝枝繁春参謀が止めに入った。朝枝もまたどちらかといえば乱暴な人物であったが、的場はその制止を振り切ってなお暴れたというから凄い。この旅団長と大隊長は、酒を通じてかどうかは知らないが、非常にうまが合ったようで、そのうち人肉を喰うぞというような話になったらしい。

最初は海軍が処刑した捕虜を喰ったが、そのうち喰うために処刑するようになった。またその処刑も、一思いに殺すのではなく、木に針金で縛り付けて行われるなど、残虐なやり方であった。旅団長命令で、嫌々捕虜を斬った召集の60歳代の中佐は、後に絞首刑となった。

一方海軍の森中将は、米内光政の参謀を務めていたことがあり、非常に米内を尊敬していた。しかし「人間の肝は日清日露の戦役では薬用として食べられ、征露丸と呼んでいた」というような怪しげな知識を振り回していたという。そのせいか、海軍は陸軍に対して、「今度捕虜を処刑したら肝臓を持ってきてもらいたい」というようなことを頼んでいる。

堀江少佐は、ホール中尉という捕虜を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていた。しかしそのホール中尉も遂には連行され、喰われた。だが堀江少佐は『闘魂硫黄島』の中では、立花少将を頭の鋭い実行家、的場少佐をマレーの勇者、森少将を自らケーキを作り振舞うなど気さくな人物という風にしか書いていない。

戦後、遂にこの事件を嗅ぎつけた米軍は、果たして怒り狂った。森中将だけは死刑を免れたが、立花、的場、吉井を含む5人が絞首刑となった。ちなみに、ここで処刑を逃れた森中将もマカッサルの裁判に於いて刑死している。岩川隆『孤島のつちとなるとも』によれば、立花少将、的場少佐は、処刑の前日まで、踏む、蹴る、殴る、壁に叩きつける、気絶したら水を浴びせかけるといった凄まじい虐待を受け続けた。二人は這うように処刑台を上がったのではないか。ただ父島の通信隊司令であった吉井大佐は、「無差別空襲をするパイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のために食した。命令はすべて自分が出した。部下に責任は無い」という態度を崩さなかった。そのせいか、海軍で極刑となったのは彼一人である。私も無差別空襲が戦争犯罪であるという点は賛成だ。どう言い繕ってもあれは完全無欠の戦争犯罪。中には極刑に値する人物も居るだろう。しかしそれを無裁判で殺し、ましてやその肉を喫食しては、元も子も無いではないか。



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京都へ行ってきました。
目的は知恩寺の古本祭りですが、少し時間があったので一条戻り橋で降りて晴明神社へ。

一条戻り橋ではその昔、源頼光四天王のひとり渡辺綱が鬼の腕を斬りおとしたという伝説があります。綱はその腕の処置を安倍晴明に相談したそうです。何の変哲も無い橋ですが外にも色々あるみたいです。利休が晒されたとか・・・




御所が秋の一般公開ということで行こうか迷ったんですが、何回か行ってるし、今回はパス。で、知恩寺行く前に念願の知恩院へ。と、思わぬところで思わぬ出会いが。

「ここはお國の何百里」by櫻井忠温

帰りには徳川四天王酒井忠次の碑も発見。調べたら墓も知恩院の裏手に在るらしい。


そして知恩院。三門のでかさに感動。映画『ラストサムライ』で使われた石段にも感動。

鐘もでけー



それから知恩寺の古本祭りに赴いたのですが、こちらの方の収穫はほぼ無し。一冊だけ買って坊主は免れたが(!?)
それが昭和11年刊の『秋山好古』 秋山好古大将伝記刊行会 非売品
刊行会代表は前記の櫻井少将。うーん、法然上人のお引き合わせか?
まだ読んでないが、秋山の兄さんの若い頃の写真が

ちなみに司馬遼太郎氏が美男子と描写して以降、秋山の兄さんは美形で通ってますが、当時の日本人はこの人の顔を美形とはとらず、怖い顔と思ってたようです。尾崎義春中将はその手記の中で次のように書いています。

陸軍には宇垣型の醜男が尠くない。日露戦争の勇将、秋山好古大将然り、大東亜戦争末期の首相、小磯国昭然りである。
秋山大将も確かに特徴のある面魂であった。当時の青年将校で、一体大将の娘は、大将に似て居るのだろうか?と余計な心配をする奴もおった。
大将には二人の年頃の娘があったのである。ところが二人共、大将に似ているというのでガッカリした青年将校も尠くなかった。が大将の考えは中々慎重であった。曰く
「娘は教育家にする」と

ちなみに小磯国昭ちゃん。あだ名は河鹿。顔はまずいが歌はうまいということで。

4時ごろに寺を後にし、百万遍からバスに乗りました。お家騒動で話題の一澤帆布と一澤信三郎(!)帆布の前を通り、ほお、あれが有名なかばん屋かなどとやってる間は良かったのですが、その後、いつまでたっても駅に着かない。結局大方1時間かかりました。連休の京都恐るべし。

帰りに映画館により、『父親たちの硫黄島』鑑賞しました。ガラガラでした。SPRと較べる人が多いのは分かりますねえ。どうしてもあの上陸戦はかぶるからなあ。しかしドキドキ感はこちらの方が上でした。私が日本人だからかな。映画館で見てこその映画だと思います。それからコンプトン中尉、大尉に昇進して恰幅がよくなってと思ってたら、最後の海のシーンではコンプトンに戻ってるじゃん!やっぱりBOB最高ですね。エンドロールで実際の写真が使われましたが、主役の3人、特にドク以外は似てますね。日本版(硫黄島からの手紙)であれやっても、ちょっとなあ。渡辺謙と栗林、伊原剛志と西、あんまり似てないですよね。後、中村シドウの役にモデルは居るの?折角実在の人物で話を進めてるのに、架空の人物は出して欲しくなかったなあ。

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堀江少佐によれば、栗林中将は大分グチっぽくなっていたようだ。

「永田さんでも生きておれば、こんなことにはならなかったんだよ」

「鈴木宗作さんも同じことをいわれていましたが」

「なんだ、君は鈴木さんの部下だったのか。頭のいい人だね。教育総監部で一緒だったよ・・・永田さん、今村さん、鈴木さん、あのころは君、教育総監部はそろっていたよ。相沢とか何とかいう狂人が殺しちゃって、国宝を失っちゃったんだ。盲目の馬鹿めらが愛国だヘチマだのといって、見さかいのつかないことをやるからこのざまだ」

「ご郷里が同じなので特に永田鉄山と親しくされたわけですか」

「うーん。偉い人だったよ。世界を見ていたよ。何しろ宇垣さんの一番弟子だからね。俺も東京師団で火災なんかが起きなければこんな所へきやしなかったんだ」

永田鉄山は栗林と同じ長野県出身で栗林と同じ時期に教育総監部にいた。今村鈴木は共に陸大首席卒業の英才だが、二人とも教育総監部には勤務していないはずだが・・・。今村はラバウルの第8方面軍司令官として終戦を迎え、鈴木はレイテの第35軍司令官として戦死した。堀江少佐は、栗林中将と幕僚たちとの不仲の原因に、現状に対する認識の差異を挙げている。

結局堀参謀長と大須賀旅団長は更迭となった。参謀長後任には第93師団参謀長であった高石正大佐(30期)が、旅団長の後任には、栗林と同期の、仙台幼年学校校長千田貞季少将がそれぞれ任命された。いずれも歩兵戦術の大家であったらしいが、栗林の好きな陸大は出ていない(高石大佐は陸大専科卒)。果たして栗林中将との関係はどうであったのか?本当のところは分からない。更に中根兼次中佐が高級参謀に補され、司令部を強化した。中根中佐は豊橋中学出身の陸士35期。歩兵学校で恩賜賞を貰い、陸大専科を卒業した。剣道五段、歩兵の神様といわれる猛者であった。一方で非常な親孝行でも知られ、歌心もあった。最期の訣別電はこの中根中佐の筆によるという説もある。硫黄島への赴任時、次女はまだ9ヶ月に過ぎなかった。

栗林中将はノイローゼになり、実際の指揮は高石参謀長、千田旅団長、市丸少将らがとったという話がある。ノイローゼ云々はともかくとして、栗林は騎兵科であり、千田以下が歩兵戦術の大家であるとするならば、実際の戦闘指導が彼等によって行われていたとしても、不思議な話ではないと思う。また降伏しようとする栗林を中根参謀が殺害したという話もあり、これは実際に見たとする人物が居るが、なんとも言えない。

一方更迭された二人は内地に帰ることなく、司令部附として島に残り、戦死した。大須賀少将は病気をしており、野戦病院内で死を迎えたとの説もある。二人が島に残されたことについて、栗林中将の差し金であるようなことが、SAPIO誌上に書いてあった。勿論彼等の人事に栗林が全く無関係ということは有り得ないが、正式な権限は栗林には無い。最終的な決定は東京である。

硫黄島シリーズは次で最後。明日映画見てくる。

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