近衛読書中隊

挙措において簡素 言語において細心 熱狂において慎重 絶望において堅忍  

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第109師団は2個旅団から成っていたわけだが、そのうち第1混成旅団は父島に位置した。硫黄島に配置されたのは混成第2旅団。初代旅団長の大須賀応少将は北海道出身の陸士27期、兵科は砲兵であった。硫黄島の将校の中では珍しく陸大も卒業している(39期)。父島要塞司令官から新編の混成旅団長となった。堀大佐、砲兵隊長の街道大佐と親しく、堀江少佐は二度旅団司令部を訪れたが、二度ともその三人がお茶を飲んでいたという。

厚地大佐は摺鉢山の地区隊長として戦った。鹿児島出身の負けじ魂の強い人だったそうだ。

硫黄島唯一の歩兵聯隊、鹿児島第145聯隊を率いていたのは、やはり鹿児島出身の池田増雄大佐であった。大佐は陸士27期、もちろん無天であった。

戦車第26聯隊長の西竹一中佐もこれまた偶然にも本籍鹿児島であった。外交官であった父が授かった男爵を襲爵。ロサンゼルス五輪の馬術競技において金メダルを獲得したスターであった。非常なプレーボーイでアメリカにも知人は多かった。




機動力の使えない硫黄島で死ぬことを残念がって、堀江少佐には何とか転属させてもらえないかというようなことを言っていたらしい。しかしその後一旦東京に帰り、戦車をかき集めると再び硫黄島に戻り、そして死んだ。伝説を残して。


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父親たちの星条旗』公開に寄せて

第109師団は昭和19年5月に父島要塞守備隊を基幹に編成された師団で、2個旅団から成り、それぞれの旅団は6個の独立歩兵大隊から成っていた。歩兵大隊の大隊長は60前後のロートルが多かったらしい。小笠原兵団とはこの第109師団に、歩兵第145聯隊や戦車第26聯隊などの諸部隊がくっついたものをいう。ちなみに支那事変初期に存在した第109師団とは別物である。

師団長栗林忠道は長野県出身で長野中学から陸士に進んだ。陸士は26期、兵科は騎兵、卒業席次は125番と平凡であったが、その後陸大に進み(35期)、これを次席で卒業して恩賜の軍刀を賜った。ちなみに首席は陸軍開闢以来の秀才といわれた藤室良輔。その後米国、カナダに勤務して所謂知米派となる。海外駐在時代はしきりに子供たちに絵手紙を送っていた。第23軍参謀長として、大東亜戦争の緒戦において香港を攻略。その後近衛の留守師団長となったが、部下(幹部候補生らしい)が火事を出した(宮城か?)ために、東部軍司令部附に左遷され、間もなく第109師団長に補された。同期のトップから比べればやや遅れたが、それでも栄転には違いない。しかし本人はこの人事に非常に不満であった。貧乏籤との思いが強かったのか。確かに彼が辞めさせられた僅か3ヶ月後には、近衛第2師団の留守師団は近衛第3師団に改編された。そのままなら東京で近衛師団長だったはずだ。

堀江芳孝少佐によれば、栗林中将は非常な陸大至上主義者であり、無天や専科を雑魚扱いしていたそうだ。ちなみにこの観察をなしている堀江少佐は陸大を卒業している(陸大については拙サイトを参考にして頂きたい)。兵団司令部は堀江少佐を除けば皆無天であった。そのため兵団長と参謀たちの関係はあまり良好とは言えなかったようだ。

陸大至上主義者といえば、栗林と同期の花谷正を思い出す。彼もまた無天を非常に馬鹿にしていた。馬鹿にするだけならいいが、花谷は更にぶん殴った。下は兵卒から上は大佐に至るまでであるから恐れ入る。残念なことに昨今いじめを原因とした自殺が続いているが、第55師団でも兵器部長を筆頭に何人かの自殺者が出ている。いずれも花谷の虐待が遠因である。死なないまでも頭がおかしくなって後送された軍医もいる。しかしもちろん従順に殴られる人間ばかりではなかった。昭和20年2月、歩兵第121聯隊長であった長澤貫一大佐は第55歩兵団長に任命され、後ろ髪を惹かれる思いで、部下と離れ師団司令部に出頭した。長澤は花谷より1期先輩の25期であり、幼年学校も大阪で、花谷の先輩にあたった。しかし無天のため、出世は花谷より遅れていた。花谷はいつもの調子で、
「なんだ貴様は蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか」
「平時なら、貴様のような低脳は閣下になるような人間じゃないぞ」
とやった。ところが長澤はこれを聞いて黙っては居なかった。
「私はいかにも無天だ。しかし歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何をいうか。貴様は大阪幼年学校では、おれの後輩じゃないか」
これを聞いた花谷はビール瓶を手に長澤に殴りかかったが、長澤はこれをかわして軍刀に手をかけた。副官は慌てて割って入り、竹薮の中に筵を敷いて二人を座らせ、論戦で対決させた。二人は睨み合っていたが、少しして花谷がいった。
「おれが悪かった。あやまる」
この話は高木俊朗の『戦死』よりの引用だが、この長澤将軍の態度というのは、いじめに対する一つの戦術ではないだろうか。いじめる人間というのは大概弱い。ところでこの第55師団にしても、インパール作戦を強行した第15軍にしても、その作戦も陰惨だが、司令部の空気もまた陰惨であった。これはもちろん長の性質によるところも大きいが、参謀長の無能無気力無責任のせいでもある。実際第55師団も、河村弁治大佐から俊秀でなる小尾哲三大佐に参謀長が替わって、大分ましになったそうだ。自分に矛先が向かってくるのを恐れておべんちゃらばかりだった河村と違って、小尾は花谷に向かって
「閣下、なぐってはいけませんぞ。師団長がおこったら部下がいじけますぞ」
と遠慮なく直諫したという。

さて話を小笠原兵団に戻すと、兵団の初代参謀長は堀静一大佐であった。大佐は陸大専科を出ており、歩兵科であり歩兵聯隊長も務めているが、その前は鉄道関係に居たらしい。長い髭をたくわえた温厚な人物で、よく人の話を聞いてメモを取るような真面目な人であった。栗林中将とも最初は親しかったらしい。しかし何が原因かは分からないが、栗林中将は堀大佐を非常に嫌うようになった。ある日の朝礼などでは、中将は大佐に向かって、ひげでは戦争はできないと凄い勢いで面罵したという。その場に居た堀江少佐は居たたまれず、そっと場を離れた。50も過ぎてひげがどうのとは、堀大佐も確かにうんざりしただろう。逆に言うとそれほどまでに栗林中将の大佐に対する感情は悪化していたのだろう。西川参謀、吉田参謀も陸大専科を出ていたが、やはり中将に軽んじられることに不満を抱いていたようだ。しかし西川参謀などは、戦術論に関しても臆することなく意見を述べていたようだ。

つづく。。。

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クリント・イーストウッドの硫黄島二部作の第一弾『父親たちの星条旗』も公開となり、硫黄島に関する世間の関心も僅かがらですが、上がっているようです。また雑誌SAPIOでの栗林忠道師団長の最期に関する異説も、結構反響があるようです。そこで、重複を恐れずに、硫黄島にいた人々について書いてみます。

小笠原兵団戦闘序列
第109師団長栗林忠道(26) 昭19・5・27~北地区
後任     立花芳夫(25) 昭20・3・23~
参謀長堀 静一(29) 昭19・5・27~19・12・30
後任  高石 正(30) 昭19・12・30~
参謀(作戦)中根兼次(35) 
同 (情報)西川猛雄(36)
同 (築城)吉田紋三(43)
同 (後方)山内保武(47)
同 (輸送)堀江芳孝(48)父島
高級副官小元久米治在東京
司令部附大須賀 応(27) 昭19・12・16~

混成第1旅団長立花芳夫(25) 昭19・5・27~父島
独立歩兵第303大隊長安東九州男父島
独立歩兵第304大隊長中北 実父島
独立歩兵第305大隊長工藤文雄父島
独立歩兵第306大隊長吉岡直彦父島
独立歩兵第307大隊長加藤武宗父島
独立歩兵第308大隊長的場末男(45)父島
旅団工兵隊長山本将八父島

混成第2旅団長大須賀 応(27) 昭19・5・27~19・12・16
後任       千田貞季(26) 昭19・12・16~南地区
旅団司令部附厚地兼彦(23) 昭19・5・27~摺鉢山
         堀 静一(29) 昭19・12・30~
独立歩兵第309大隊長粟津勝太郎(54)南地区
独立歩兵第310大隊長岩谷為三郎南地区
独立歩兵第311大隊長芦田元一(53) 昭19・7・20~19・12・13
後任            辰巳祭夫 昭19・12・13~西地区
独立歩兵第312大隊長長田謙次郎摺鉢山
独立歩兵第314大隊長伯田義信(53)東地区
旅団砲兵隊長前田一雄
旅団工兵隊長武蔵野菊蔵南地区
旅団通信隊長小園二三夫
旅団野戦病院長野口 巖東地区

混成第1聯隊長政木 均(25)父島

歩兵第145聯隊長池田増雄(27)北地区

戦車第26聯隊長西 竹一(36)東地区

独立機関銃第1大隊長川南 洗西地区
独立機関銃第2大隊長川崎時雄南地区
独立速射砲第8大隊長清水 一
独立速射砲第9大隊長小久保蔵之助
独立速射砲第10大隊長松下久彦摺鉢山
独立速射砲第11大隊長野手保次
独立速射砲第12大隊長早内政雄
中迫撃第2大隊長中尾猶助西地区
中迫撃第3大隊長小林孝一郎東地区
独立臼砲第20大隊長水足光男西地区

重砲兵第9聯隊長大坪四郎(36)父島

独立混成第12聯隊長坂田善市(25)南鳥島
独立混成第17聯隊長飯田雄亮(28)父島
独立混成第17聯隊第3大隊長下間嘉市北地区

独立歩兵第274大隊長黒沢 繁母島
独立歩兵第275大隊長竹中直二兄島
独立歩兵第276大隊長岩谷 好母島

船舶工兵第17聯隊長相川順一郎(42)父島
以上約1万6千。()内の数字は陸士の期。

海軍は第27航空戦隊司令官市丸利之助少将以下約5千。

つづく。。。

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・・・・いや、ちょっといってみたかっただけ。

> 日本中央競馬会(JRA)は19日、凱旋門賞(1日・ロンャン競馬場)で
>3着だったディープインパクトの理化学検査で、
>禁止薬物(イプラトロピウム)が検出されたと発表した。
>フランスの競馬統括機関であるフランスギャロから報告を受けた。

しかし、そもそもJRAはこの手の検査ちゃんとしてるのかな?
NPBだって今年辺りからじゃない?言い出したの。
薬物といえばステートジャガー。ステートジャガーといえば田原成貴。田原といえばや・・あれ?でもステートジャガーに関しては少なくとも田原騎手はシロだよな。ステートジャガーのときは、兵庫県警がかなり長い間、中村調教師らを取り調べたと思うけど、今回は対象がJRAの寵児。果たしてどうなる?

何となくだけど、日本はスポーツ界全体的に甘いんじゃない?薬物に対して。んなもん使わねえだろうという前提に立ってるのかも知れないけど。ちゃんとしないと真面目な人がバカを見るよ。
魔界学園
原作・菊地秀行 漫画・細馬信一

初めて読んだ回は、奇妙なぐらいよく覚えています。
鳥羽獄魔と鉄人黒金が帝高で対決する話。
「学連総代の名において制裁を加える」とか、
なんだこりゃぁーと、ジャンプしか知らなかった私は
その世界観に衝撃を受けましたね。
これからどうなるんだろうと思いながらも、
その雑誌(チャンピオン)が何曜日に発売されるかすら知らなかった。

「女にもいるとは思わなかった」
「はん?」
「紳士の条件というのを知ってるか」
「いやなんだい?」

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 熱狂において慎重
 絶望において堅忍

 ヴィリエ・ド・リラダン
 『サンチマンタリスム』

この言葉は私の座右の銘と化しました。
大学入ったとき、図書館で探しましたよ、リラダン。
難しくて読めませんでしたけど。

同じ作者コンビの「魔界都市ハンター」が、文庫版になったのが数年前。
以来ずっと待ってるんですがねえ、秋田書店さん。お願いしますよ。
これまで

また話が逆戻りしてしまうが、北一輝、大川周明と並ぶ重要人物である満川亀太郎の本を紹介する。この『三国干渉以後』は、昭和10年に下中弥三郎の平凡社から出版された自伝めいた書である。昭和10年に出たということを念頭に置いて読むと、中々感慨深い。論創社から再販されている。戸部先生の『ピースフィーラー』といい論創社GJ



満川は大阪に生まれ、京都で育った。小学生のときに再び大阪府豊能郡池田町(今の池田市)に引越し、更に池田から南に一里半の北豊島村に移った。この北豊島村というのは今の阪急宝塚線の石橋駅のある付近であり、当時は池田より見れば草深きド田舎であったそうだ。私事で恐縮だが、私は大学の関係でちょうどこの辺りに住んでいた。満川もまたあの辺りで育ったのかと思うと、なお一層の親近感が湧く。高等小学校に上がると、教師をしていた兄にくっついて京都に戻った。この頃、北清事変において発生した馬蹄銀事件を聞き、軍人から泥棒が出たと深いショックを受ける。星亨が殺されると、校長は生徒を集めて、星の罪悪を並べ立て、伊庭想太郎を賞揚した。渡良瀬の鉱毒事件に胸を痛め、近衛篤麿の国民同盟会就任に、日露開戦近しと、心を躍らせた。

余談だが、北清事変に出動した第五師団長の山口素臣が死んだとき、それがどうしたことか山縣有朋の訃報として伝わった。それを聞いた小村寿太郎は「それはどうもおかしいな。山縣大将とは今朝お目にかかって話をしたところだが」とつぶやいた。間もなく誤伝が明らかになると、小村外相は「ウム、死んだのはアレか」と言っただけで、弔問の使者さえ出さなかったという。

小学校を卒業した満川は、中学校には進まず、日本銀行京都出張所に就職した。入行当時の総裁は山本達雄、副総裁は高橋是清であった。間もなく京都出張所の所長が替わり、大阪支店より井上準之助が赴任してきた。日露戦争の最中、広瀬武夫の詩に感銘を受けた満川は、日銀を辞め、中学に進むことを決意した。ところがそこで入った中学が、私立吉田中学校というとんでもないインチキ学校で、一日も出席しないものに卒業証書を売ったなどの悪行がばれて、文部省から閉鎖を命じられてしまう。卒業を間近に控えた五年生は、生徒大会を開き、陳情団を東京に送ることを決定した。イの一番に最も悲壮なる演説をした満川は5人の陳情団の筆頭に挙げられ、2名の教師に付き添われ上京した。「国家の柱石たらんことを望めばなり」とか「社稷は常に俊傑によりて維持せらる」といった大人ぶった陳情書を文部省(大臣牧野伸顕)に提出したところ、「君等は学業をおろそかにして何をしに来たのか。陳情など学校当局がやることだ」といって相手にしてくれない。それでも、具体的な方法を案出してくれない限り、手ぶらでは帰れないとごねていると、西園寺公望の秘書官であった中川小十郎が、まとめて面倒を見ようと言ってきてくれた。それが清和中学校、後の立命館である。

中学を卒業した満川は、上京し早稲田に入学した。東京に着いて直ぐに読んだのが、幸徳秋水の平民新聞だった。また彼は、宮崎寅蔵らの革命評論も愛読した。早稲田に入ったものの、大隈のことはどうしても尊敬する気になれなかった。日本に革命を起こさなければならないと考え、部屋の壁に「革命者善也」と赤書して人を驚かせた。また学内の図書館に入り浸り、北輝次郎の発禁書「国体論及び純正社会主義」を借り出し、五日間で読了した。

間もなく、食べるために民声新聞に原稿を書くようになった。民声新聞社は星亨が創刊した新聞であり、かつては横川省三や国木田独歩が編集長を務めていた。満川はこの仕事を通じて小栗孝三郎や床次竹二郎と知り合った。

大逆事件が起こると、満川は記者としてその判決が下されるのを傍聴した。彼はこのような事件が起こったことの責任は、官僚閥族にもあるとして、金権に阿附する政治を憎んだ。このことを床次にぶつけると、彼もまた桂さんの責任は大であると述べたという。

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自費出版ライブラリ
先日初めて利用しましたが、中々よかったですよ。戦記関係も結構ありますし、また利用しようかなと思っています。

どしょづけ!
日本史板で続いていた幕臣の子孫の方によるスレが遂にブログに移行。土方歳三とかも登場するその筋の好事家には必見の内容です。

近衛師団参謀終戦秘史
これも自費出版ということになるんでしょうか?よく分かりませんが。古賀秀正少佐、石原貞吉少佐に焦点を当てた力作です。値段だけの価値はあるかと思います。私はギリギリ間に合って初版をゲットしましたが、この度増刷決定だそうです。この機会に是非。ちなみに、何のトラブルも無くきちんと配送されてきましたのでご心配なく。

秋の古本まつり
11月1日~5日知恩寺で開かれます。丁度三連休にかかっているので、好都合ですね。晴れて欲しい。ところで知恩院と知恩寺ってどういう関係?と思って調べてみましたが、教科書にも載る知恩院は浄土宗の総本山。対して知恩寺はその浄土宗の大本山。山下画伯風に言うと元帥と中将くらいの関係?まあともかく知恩院といえば、映画『ラストサムライ』のロケにも使われた所ですし、この機会に是非そちらも訪れてみたいと思います。
ちなみに京都にはこんな所もあった。「で、でも、もう閉館してしまったんだな」


山下画伯で思い出した『壬生義士伝』
映画版も良いですけど、私はドラマの方が好きです。渡辺謙でも京都でもなく、何で山下画伯で思い出したかというのは、見た人は分かるでしょうが最後の方の場面。あそこと大野次郎右衛門(内藤剛志)の最期は何回見ても泣いてしまう。私もまた親不孝を重ねております。
SAPIOという雑誌に、大野芳氏が栗林中将についての文を寄せておられた。ざっと立ち読みしただけだが、おやっと思うことがあった。大野氏の『オリンポスの使徒』や、氏がSAPIOの文中でしきりに引用していた堀江芳孝氏の『闘魂硫黄島』については、私も以前このブログ上で書いたことがある。

闘魂硫黄島
NHKスペシャル硫黄島・異聞

その中でも、降伏を持ち出した栗林忠道将軍が、中根兼次参謀に殺されたという話は紹介した。しかし私は、噂の根源である某下士官が、大野氏の取材に対し証言を断ったという点から、この話はどうも嘘臭いと判断していた。ところがSAPIOを読むと、この小田曹長は、実際は大野氏に対してある程度喋っているようだ。それによると小田氏は、水晶(発振機?)を取りに戻ったところで、中根参謀が「待て」と叫び栗林将軍の首を刎ねるのを見てしまったという。氏の態度からして、軽々しい気持ちで、あるいは戦後の反軍的風潮に乗って出鱈目を述べたというわけでは無さそうだ。これはひょっとするとひょっとするのかなあ・・・勿論、斬った人と斬られた人が、それぞれ中根参謀と栗林将軍であるという確証は無いわけだが。

ちなみに小林よしのり氏の漫画では、ユダヤ人問題に関連して、松岡洋右や東条英機樋口季一郎、犬塚惟重、安江仙弘らが取り上げられていたが、私的にはあんまり面白い話でもなかった。樋口中将に関しては、自伝を読むのが一番良い。中々達者な文章で面白い。芙蓉書房から再販されているようだ。又安江大佐に関しては、ご子息が本を出しておられる。



それにしてもつくづく、戦場の実相を知るというのは難しいと思った。

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以下は毎日新聞コラム「記者の目」より転載

◇軍命に背いた決断を本に--師団長の文掲載し警鐘

 第二次世界大戦で「最悪の戦い」と呼ばれたインパール作戦(1944年)に従軍し、生還した旧日本陸軍「烈」部隊中隊長、中野誠司さん=香川県三木町=がこの夏、89歳で亡くなった。戦後「鯨・烈山砲戦友会」会長として戦病死した部下らの慰霊に努めた中野さん。私は高松支局勤務だった今年4月、戦友会が編さんした本「鎮魂」の取材で知り合い、その追悼の念の深さと、戦争への怒りの強さに打たれた。また一人、戦争の実相を伝える語り部を失った今、もっと話を聞きたかったと痛切に感じている。

 中野さんは36(昭和11)年に徴兵され、翌年に士官候補生になり、その後は中国戦線を転戦した。「鯨」は日中戦争の部隊、その後インパール作戦のために編成した部隊が「烈」だ。いずれも山砲(砲兵)部隊は四国出身者が中心だった。中野さんは中尉として弾薬補給を担当する中隊を指揮した。食糧や弾丸の補給が無いままビルマ(ミャンマー)の高地からインドに突入し、参加兵10万人のうち7万人以上が戦病死したとされる無謀な戦いだった。

 中野さんの中隊で小隊長だった同戦友会元事務局長の香川弘文さん(84)=同県多度津町=は「他人を助けられる状況ではなく、中野さんも病気や飢えで動けなくなった部下を見捨てざるを得ないことがあったようだ。だがその時のことは60年以上の付き合いで一言も口にされなかった」。中野さんは自宅で毎日、直接の部下247柱の位牌(いはい)「中野隊所属陣没将兵之霊」に手を合わせていたという。

 「鎮魂」は中野さんの思いが結実した本だ。A4判約220ページ。ビルマ戦線の「烈」山砲部隊戦病死者1276人の名簿に加え、兄を亡くした遺族の手記などを載せた。手記には、兄の最期を戦友に問うと「むごくて話せません。ご了解下さい」という手紙が届いたとの逸話が記されている。

 しかし、何より強く印象に残るのは、部下を全滅から救うため死刑覚悟で独断で部隊を撤退させた烈師団長、佐藤幸徳中将の話だ。44年4月、インド北東部での戦闘は雨期に入って食糧や弾丸の補給も無く、ビルマ方面軍に何度も撤退を打診したが拒絶され、同6月に独断で退却。その際、同方面軍参謀長に激烈な軍部批判の電報を打った。

 「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇(ちゅうちょ)したりとて、軍規を楯(たて)にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」

 防衛庁防衛研究所によると、旧陸軍は佐藤中将を軍法違反に問おうとしたが、惨状の責任が上層部に及ぶことを恐れて中将を予備役に編入、事実を隠匿した。

 「鎮魂」の裏表紙に、戦友会の綱領「われらは戦争の実相と平和の意義を次代に継承する それが苛烈(かれつ)な戦場から生き残った者の使命だから」が大書してある。軍の無責任な作戦で20代の命を無駄にし、自分が生き残るために同僚や部下を見捨てざるを得なかった。そんな無念が戦後60年を過ぎても彼らを突き動かしたのだろう。64年生まれで戦争を知らない私の胸にも、迫るものがある。「戦死者を弔うために靖国神社にお参りに行く団体」としか考えていなかった戦友会への認識を改めた。

 香川さんは「師団長の文書を載せることが中野さんの願いだった。『この本を出さんと死ねん』と話していた」と教えてくれた。中野さんは猛暑の8月6日、ビルマでの戦病死者を追悼する香川県内のパゴダ(仏塔)に、自宅に祭っていた位牌と「鎮魂」を自ら奉納に行き、その3日後に亡くなった。位牌は長年の線香の煙で黒光りし、中野さんの執念を伝えるようだ。

 高松市の山中に、戦友会会員が建てた烈師団長を悼む碑がある。多くの会員が「師団長が軍命に背いて撤退を命令してくれたから私たちは生還できた」と話す。碑の前に立ち、中野さんに問いかけてみた。「戦友が動けなくなった中、どんな思いで撤退したのですか」「師団長の文書を載せた真意は」。多少の遠慮もあって心の底の思いを聞けないままだったことを、今更のように後悔した。

 記者としてできるのは、体験者から取材し、記事として残すことだけだ。それも一日も早く。そうしなければ、貴重な事実が歴史の闇に埋もれてしまう。中野さんの死に接し、その思いを新たにした。

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20061006ddm004070075000c.html

以上引用終わり。以下雑談。
佐藤幸徳という人は、僅かに引用された日記などを読む限り、異常に自負心が強く、完全に自己を正当化して何ら疑わない(信念が強いとも言える)、ある種の軍人の典型例と言える。こういう人は方向を間違えるとやばいが、この場合は、この強さが良い方に出たと言えるだろう。ディマプールに突っ込んでいたらと言う人もいるが、それは南海支隊にポートモレスビーに突っ込んでいたらと言うのと同じで、結局更に酷いことになっていた可能性大である。
それにしても当時の緬甸方面軍に集まった面子は凄い。佐藤に牟田口廉也田中新一花谷正桜井徳太郎片倉衷、そして辻政信。これは河辺正三では完全に力不足。抑えきれるわけがない。

 

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セコンドに勝村選手いたねえ。
所は・・・まあしょうがないよね。

宇野ちゃんはやっぱり良い選手だね。
しかし結婚したのは知らなかったな。

マヌーフは、やはりオランダ人www
アイブルVsダン・ヘンダーソン思い出した。
秋山選手のセンスは確かに凄いが、どうも自分は認めきれない。アローナ辺りとやって欲しい。

桜庭の喋り、一瞬やばいのかと思ったけど
よく考えたら前からあんな感じだったな。

リトアニアの総統にはもっとがんがん行って欲しかった。
キムミンスにはクソワロタ。俺は結構好きよ。

TBSはホントに救いようが無いクソ局。
CMもパチンコばっかりだし。
こんなんに頼らんといかん総合界がつらい。

そいうえばKISSされたヒース・ヒーリングさんは何処行ったの?
四天王寺の古本祭りに行ってまいりました。




クライマーズ・ハイ見ながら、戦果を報告します。




松井忠雄『内蒙三国志』
これは何度か図書館で借りたことのある本ですし、現代史資料の日中戦争篇にもこの本の半分くらいの内容は収録されています。しかし何と言っても綏遠事件の内幕について最も詳しい本の一つで、見つけ次第確保と決めてたので、迷わずゲット。

犬養 健『揚子江は今も流れている』
これは有名な本でしょうが、私は恥ずかしながらこのたび初めて読みます。著者は五・一五で遭難した犬養毅の三男。松本重治なんかと立場や思想は似てるんでしょうが、この人の場合、実際に梅工作に関わってます。今読んでる本が終わったら、ゆっくり読みます。ちなみに今読んでいるのは、棚橋信元『神がかり参謀』。これは面白い本なので、また稿を改めて書きます。

『別冊丸 秘録人物・太平洋戦争』
私この手の本はあまり読まないんですが、巻頭特集の田中新一秘蔵の写真というのが綺麗だったので思わず買っちゃいました。

中所 豊『日本軍閥秘史 裁かれる日まで』
これは失敗。田中隆吉と岩淵辰雄の本を掛け合わせたようなパチモン臭漂う題名に嫌な予感はしていたんだが。著者は新聞記者。要するに戦後雨後の筍の如く出た軍担当記者による暴露モノ(有名なところでは『旋風二十年』)の一つなんだろうけど、酷い内容。記者の書く暴露モノというのは、下世話な内容も多く、文章もうまいので、確かに面白いんだけど、結局彼らの人物判定基準というのは、自分と仲が良かったかどうかだけ。良かった人間は持ち上げるが、悪かった人間はクソミソ。この本は特にそれが酷い。明らかに事実と違う点も散見するが、いまどきこんな本読む物好きは、私以外いないだろうから、いちいち指摘はしない。ちなみに著者によると陸軍の二大良心は石原莞爾辻政信らしいwwwまあそれでも多少は目新しい情報もあるんだけど(菅波一郎の停職理由が女問題とか)、外が酷すぎるので信用して良いのかどうか。しかし異常にアメリカやGHQを持ち上げるなと思って奥付を見たら、中華民国三十七年三月初版、版元は中華国際新聞社。アゴアシ付きかよ。

十全会『軍神若林中隊長追悼録 後に続くものを信ず』
これは迷った。ナイロンがついていて中が確認できなかったので。しかしまあまあの当りのようだ。観測通り、若林の陣中日記が収録されていた。


私は基本的にはネットで買います、古書は特に。しかし実際に見てまわるのも良いですよね。思わぬ発見がある。散財もしてしまいますが。特に古い本には弱い。”この人、こんな本出してたのか”とついつい買ってしまう。今回も桜井徳太郎が中佐の時に書いた本とか、買おうか迷いました(結局止めましたが)。


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四天王寺べんてんさん青空大古本祭

期間2006/10/06~2006/10/10

場所四天王寺境内一帯

内容 特別企画特設コーナー 団塊の世代 青春譜/絵本・児童書コーナー・超弩級100円均一コーナー、スタンプラリー、親子で楽しむ手作りおもちゃ教室



今日知った。というか知ってしまった。
今月も月の三分の一も過ぎないうちに小遣い使い果たしてしまうのか・・・
来月も月の初めに百万遍で古本祭があるのに・・・
どうすんのよ、オレって、行かないという選択肢は無いらしいので?あとはどれくらい自制心を保てるかだな。
とにかく明日から昼飯は300円以内ということで。



しかし虎も竜も負けないね。
最近調子良いなと思ってたら、3割超えてるし>濱ちゃん
何とか3割20本達成して欲しい。
鳥谷は逆に調子崩してるなあ。なんとか持ち直して295くらいは打って欲しい。
健太郎の打率にはワラタ。帳尻が過ぎる。○山の後継者はこいつで決定だな。
投手陣に関しては、先発が7回投げるようになったのは良いことだ。来年は最初からこれぐらい引っ張って欲しい。ここ2年のJFKの登板数は異常。

メジャーでは斎藤隆がすばらしい活躍でLADのプレーオフ進出に貢献しましたね。横浜時代凄い球投げる割には、勝てない投手でしたが、メジャーではあの(肝心なところで真ん中に来てた)スライダーがビシビシ決まってますね。個人的には前から結構好きだった投手なので、頑張って欲しい。
後やはりデトロイトも。なんつっても虎ですからね。

明日からまた仕事なのに・・・

仕掛けがやや早かったですかね?
岡部さんがしきりに「まだまだ」みたいなこと言っておられましたが。
エルコンドルを破ったモンジュー産駒ハリケーンランとの一騎打ちなら因縁だなあと思ってましたが。
しかし元々三歳馬が強いレースですし、まして勝ったレイルリンクはロンシャンで重賞3連勝中でしょう。
二連覇した馬もアレッジドくらいですし、馬券的にはおいしい思いした人結構いるのでは?
日本人としては残念ですけど、SS産駒は好きではないので、ショックは無いですなあ。
ちなみに凱旋門賞馬で好きなのは、血統も込みでパントルセレブル。
ただ、キングジョージにしても凱旋門にしても、これから挑戦する馬は、必ず一叩きして欲しい。

最後に、バプテマスシロッコは最下位に沈んだ模様。
「私だけが、死ぬわけが無い・・・貴様の心も一緒に連れていく。ディープインパクト!」
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